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Natural Socery

1974年(昭和49年)8月

中国とネパールにまたがるこの山。

8848mの高さを誇る世界最高峰の山として知られるエベレストだが、その名前はかつてこの地の近く、インドを支配する英国のインド測量局長官を務めたジョージ・エベレストから取られたものだ。

この山へと挑む登山者はまずこの名で呼ぶことはまずない。

中国側から登るならチョモランマ、ネパール側ならサガルマンタ(サガルマータ)と名称が変わり、その都度登山家達はこの山の呼び名を合わせるのが普通だ。

元々、時の超大国であった大英帝国が七度にも渡って遠征隊を結成。この山の頂上へと挑んで行ったが、最新鋭の装備、最高の人材によって構成された精鋭部隊だったにも拘らずその全てがことごとく失敗に終わっている。

53年、3年間にわたって続いた朝鮮戦争の休戦条約が板門店で結ばれ、ソ連では恐怖政治を続けていたヨシフ・スターリンが死去し冷戦に大きな変化が起き始めたこの年。長いこと人類の到達を阻み、多くの人間が命を落としていったこの山はヒラリー夫妻とそのガイドであったテンジン・ノルゲイの3人によって始めて頂上に足を踏み入れることができた。

そして現在ーーー

5年前に植村直己らが日本人初のエベレスト登頂。そして同年の8月に彼が世界初の五大陸最高峰登頂を成し遂げると、登山家達、そうでないものたちの両方が熱狂し、登山ブームが巻き起こっていた。

明治大学登山部の中川もそうして触発された人間の一人だった。

テレビが伝える植村の活躍。そして世界初の快挙を成し遂げた鉄人の見せた爽やかな笑顔。

当時まだ大学受験生だった中川はその光景を見て、不意に湧き上がった衝動に、何がが変わっていた。

71年。その時の日本はというと高度経済成長期の真っ只中にあり、仕事は沢山。田舎からは多勢の学生が集団就職といって東京へと出て行く時代である。

太平洋戦争で連合軍(実際は米国と英国)によって首都東京を初めとした主要都市が焼け野原とかした日本だが、戦後は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を遂げていた。

親からは収入が高い大企業に入るように言われ、目標には私立最高と言われた早稲田大学を選んだ。

そこに入れば、三菱を初めとした様々な大手企業に入社出来るだろうし将来も安定し明るいだろう。

そう考えていた彼の計画はこの映像により見事に崩れ落ち、新しい思考が頭を支配した。

「明治大学に入ります。」

進路希望を問われた際、中川は担任に迷うことなくそう宣言していた。

植村直己の母校である明治大学の登山部に入る。中川のその硬い意思の前には担任、そして両親の説得も何ら意味のない無駄な足掻きに過ぎなかった。

そうして東京に渡った中川はその元々培った学力で入試をパス。晴れて明治大生そして登山部の一員となったのだった。

最初の一年は山にも登れず、予想を遥かに上回る過酷な体力作り、基礎固めに明け暮れた。

町内三周程度ならまだ易しいと言えるほどで、自分の体重ほどはある荷物を担ぎながら長距離移動という過酷な練習。途中でへばったり、ミスをしたりすれば顧問から、手だけでなく蹴りも入れられるスパルタ指導も加わって当初入った部員の多くが辞めて行き、中川も心が折れそうになったことが何度もあった。

だが二年もすると、人は落ち着きどころを見つけ、身体と精神にも慣れが来る。

そうなると、体も人並み離れた体力が身につくようになり、その後に行われた日本アルプスでの登山もなんとかこなせるようになっていた。

こうなると、熱を上げやすい彼の性格も合わさってどっぷりと登山の楽しさにハマってしまった中川は、他の部員も巻き込みつつトレーニングに励み、あの顧問でさえも驚嘆するほどに国内の様々な山に登って行き、色々な種類や環境での経験を積んで行った。

ここまで来ると中川の仲間たちも随分と体力が付き、経験と技術も凄まじい勢いで向上して行く。

3年目、本物のアルプス山脈にある当時欧州最高峰のモンブラン(現在は旧ソ連にあるエルブルース山に変わった)に登り、6月には5800メートルもの高さを誇るアフリカ最高峰キリマンジャロを踏破する。

すでに、顧問からは史上最高の出来だと賞賛され、日本国内の登山家からも一目置かれるようになっていた。

9月には南米最高峰アコンカグア山、今年の5月にはヒマラヤ山脈にある高さ8163メートルのマナスル山を登りきり、経験・体力共に充分だった。

そして中川達は執念とも言える力で資金をなんとか集め抜き、万を辞してーーーサガルマータに挑戦する。

6000メートルまでは大した難所も無く、中川の中では大した事ないじゃないかと油断していたが、それが大きな間違いであったことに気づかされる。

比較的なだらかだった山肌は、急に十何度、いやそれ以上もの角度はあるのではないかと思える勾配に変わっていた。

そもそも、エベレスト(サガルマータ)は氷河が溶け出し山肌を侵食することで、買ったばかりの鉛筆をナイフで削るがごとく頂上部分は鋭くなっていく。その上、同時に酸素も次第に薄くなって行くという悪夢のオマケさえついてくるのだ。

デスゾーン。最後のアタックに移る時に中川は呟いた。

24時間以内に最終キャンプに戻れなければ後は凍死体がエベレストに放置される事を意味する。そういうシビアな領域を人はそう呼ぶ。

だが、そうは分かっていても疲れと、頭への酸素供給不足が重なり次第に意識は遠ざかって行く。

眠ってはならない。ここで立ち止まれば待つのは「死」の一文字だけだ。

台風並みの風速の吹雪が、まるで弾丸のように凍え切った肌に叩き続ける。その悪天候の中で何十キロもの荷物がずっしりと肩にくるのを感じつつ、中川はまるで神に誓いでもするかのように必死で何度も心の中に呟いていた。

その時だった。中川は吹雪で白くなった視界の先に誰かの人影がいるのが見える。

他の登山家か?そう思った時、中川はその人間の格好に驚いた。

ワンピース。こんなーーーマイナス何十度の中吹雪が吹き荒れ、ここまで厚い装備を着込んでいるもののそれでも凍死の危険があるレベルの環境だーーー中で、その姿から少女と推測できる人間が白く美しいワンピースを着て立っているのだ。

酸欠と寒さのあまり幻覚でも見たか?

馬鹿馬鹿しい、どうかしている。この状況で薄手の生地、そして体のあちこちを露出させたワンピース姿で突っ立っている?そんな人間は良くて数分あまりで凍死。そんな馬鹿が一体どこにいるというのだーーー?

心の中で、冷静な声が囁き、中川がそう自嘲混じりの笑みを浮かべたその瞬間、彼女の右腕が電撃的に動くのを捉えた。

何事か叫んだその少女は、右腕を一閃させたその直後、凄まじい風が短く吹いたかと思うと先ほどまでの天候は何処へやら、清々しいまでの晴れ空に変わっていたのだ。

「バカなーーー」

あまりの事態に言葉を失う。

それは他の仲間たちにしても同じようだった。

「何が・・・一体どうなっているんだ?」

空には黒雲どころか雲ひとつない青天が広がる。

「信じられない。まるで・・・『魔法』が起きたみたいだ」

仲間の一人がポツリとつぶやくと、その少女はようやくこちらに気づいたようで、顔をこちらへ向ける。

白人の少女。ヨーロッパ人の顔はあまり日本人の中川には見慣れないものだったが、その顔つきは一目で見てゲルマン系・・・そしてドイツ人のものだとわかった。

先ほど彼女が叫んだ言葉。すぐにはよくわからなかったが、冷静になってみるとあれはドイツ語だと分かった。

あまりに整ったその顔に、綺麗だ・・・と思わず息を呑んだ中川は、我に返って大学の授業で教わったドイツ語を可能な限り思い出して分を作る。

実はこう見えても彼はドイツ語において結構優秀な生徒なのだ。

『君・・・大丈夫かい?』

初対面ながらも、会話する際にはフレンドリーに装え。テレビか何かで知った知識に基づいて行動したものの、初めて実際に使うドイツ語に動揺しつつ、慣れない身振り手振りを用いた会話を試みる様は、彼女には

とても不自然な、とても滑稽なものに見えた。

クスリ、と微笑を浮かべつつも

「心配ありがとう。私は問題ないわ」

と彼女は返していた。

よかった、通じた。という日本語のその言葉は何を言っているかわからなかったものの、仲間に誇らしく言った様と、表情からして安堵したのだと分かった。彼、中川はそれで自信がついたのか、次には

『それにしても・・・その格好は大丈夫なのか?」

とさっさと本題に入って行った。

少女は少し困惑したような顔をうかべて、考え込むように少々の間黙り込むと、微笑を浮かべつつ口を開いた。

『私なら平気。こんな寒さでも大丈夫なように“術”を掛けているの。」

『“術”?それはどういうことなのかな?あ、そうだ。さっきのも君がやったことなのかい?』

すっかり仲良くなったと勘違いした中川は満面の笑みを浮かべつつここぞとばかりに少女に聞いてくる。

それに生理的な嫌悪を抱いた少女は、いよいよ「手段」を行うことに対しての迷いを捨てた。

『好奇心は、九つの命を持った猫すら殺すーーー。その言葉を聞いたことはないかしら?』

少女の声音は先ほどまでのものとは一変し、ひやりとしたものを感じさせる響きを放っていた。

その表情にも暗さ、笑顔は相変わらず維持しているものの、明らかにそこからは殺気が滲み出ている。

『・・・どういうことだい?』

初めて少女が見せる豹変に中川は大きく動揺する。

内臓が下っていく感触を味わいつつ、笑みを張り付かせた顔が一瞬引きつり、言葉に震えが見えたもののなんとかその言葉で通していた。

『可哀想だけどあなた、運が悪かったわね。あなた達は知りすぎた。“猫”は死ぬのよーーー!』

凄惨というべき狂気を放った満面の表情で彼女はそう叫んだ。

そして、いつの間に取り出したのか一本の杖を手に掴み、彼女はそれを中川たちに向けて一閃させる。

次の瞬間。中川たちは何が起こったのも分からぬまま、木偶の坊の如くパタリと地面に倒れこむ。

心臓は既に止まっており、次第に熱を失って行くそれは、力を失ったただの「物質」でしかない。

あとは自然のなすがままにされて行くその体に、少女は一度だけ哀れみの笑みを向けると、次の瞬間には姿を消していた。




道路。通る者は滅多になく、薄暗くなった路地には二人の人間が倒れこんでいた。

まるで眠りについているかのように仰向けになったその体は、ピクリとも動かず、ただ何も映さなくなった瞳を虚空に向けているのみだった。

その側に、“俺”は立っていた。

いや、厳密に言えば足だけでなく両腕の方も地面について“俺”の体重を支えている。

おかしいな?“俺”は異変を感じつつ立ち上がろうとした。だが、何度やってもそれは果たせず、小さい体は尻餅を繰り返す。

立つことができないーーー?

“俺”は、足元(腕元?)にある水溜りに自分の顔を写した時、驚いた。


赤ん坊になっているのだ


だが、そのような超自然的な出来事も何故が現実感が湧かず、さほどの感情はなかったと言える。

それよりも“俺”が興味を持たせたのは、二人の近くに立つ一人の男の姿であった。

黒いジャケットを着込み、同じ色をしたフードで顔を隠すこの男は、手から杖のようなものをこちらに向けながら見下ろしているのだ。

いや、よく見てみると「杖のようなもの」ではなく、本当に「杖」だった。

明らかに異様な雰囲気を漂わすその姿に、“俺”は不意に腹のそこから湧き上がる恐怖に憑かれる。

“俺”の頭の中ではサイレンが鳴り響き、焦燥が手足の動きを早くさせ、二人の体に近寄った。

覗き込んだその顔を見て、“俺”は心臓がドクンと一跳ねりするのを感じる。

「パパ、ママーーー!」

幼いながらも“俺”はロクに回らない舌でそう叫ぶ。

その顔は見間違えようがなかった。

「パパ、ママーーー!」

そして、世界は崩れ落ち、“俺”の意識は覚醒した。




バシッ、後頭部に硬いものが叩きつけられる感触がし、痛みが広がると共に松田は目を覚ました。

どこだここは・・・?一体俺は何をしているーーー?

という前後不覚に陥ったのも一瞬の事。松田は、周囲を見渡してここが教室であること、そして今が授業中であること、そしてーーー右手に世界史の教科書を持った加藤先生が厳めしい表情を浮かべながら仁王立ちしているという事実を確認した。

「おはよう、松田。よく眠れたか?」

隣では友人である荻野がニヤけ顔を向け、周囲の人間達も各々、笑いを噛み殺しているか知らぬふりをしている。

「俺の授業中にぐっすり寝込むとは、いやはや・・・いい度胸だな?」

落ち着きつつも、言葉の端々には嫌味が存分に滲み出ているのが容易に感じ取れた。

これは長くなりそうだ。とこれまでの経験から直感した松田は、「分かりました先生。次からは気を付けます。」と、加藤の言葉を遮ってそう言っていた。

いつもの態度とは違い、松田の殊勝な言葉に虚をつかれた加藤が驚いた表情を浮かべたのも一瞬の事。「ああ、そうしておけ」と返した彼は再び教卓の置かれた壇上へと戻って行った。

「冷戦が終わり、半世紀近く続いた東西の対立はようやく終わり、第三次世界大戦の危機はひとまず解決したと言える。

だが、平和になったかと問われれば、『そんなに現実は甘くない』と答えるだろう。

これまでイデオロギー、つまり資本主義と共産主義、この二つの思想とその背後にいる超大国二カ国の軍事支援などによって押さえつけられていた様々なもの達が、ソ連崩壊後一挙に噴出したのだ。

ユーゴスラビアやソマリア、ルワンダなどのように、宗教・民族などの対立によって世界中に民族紛争が多発するようになっていく。

そしてーーー、2001年。君たちも覚えているだろう“あの”テロ事件だ」

加藤は、教卓の上に置かれたiPadを操作して、煙を吐き出す二つのビルをスクリーン上に浮かび上がらせる。

「アメリカ同時多発テロ。

わずか10数人程度のテロリストによって、天下のアメリカにここまでの混乱と破壊を生み出した自爆テロを成功させると、その日をきっかけにイスラーム原理主義過激派勢力の動きが活発化して、世界中にテロが頻発するようになったと言える。」

スクリーンはあらゆる写真を浮かび上がらせて行く。

ロンドン同時多発テロによって爆発・横転したロンドンバス。

数百人もの人々がいる劇場を占拠され、大勢の人質を取られたモスクワ占拠事件。

自動小銃を両手に抱え、ケニアの首都ナイロビのショッピングモールにテロリストが自動小銃を乱射して襲いかかる画像・・・

「テロが次々と起き、世界中の政府はその阻止に躍起になっている。

それに、近年はアイルランド系民族主義過激派組織「アルスター人民の家」やネオナチ系組織「ゲルマン民族神秘党」という謎のテログループが台頭し、中国や韓国、ヴェトナムを中心にテロ行為を行っている。

いずれ日本にも来るかもしれないから注意が必要だ。」

スクリーンをバックに、加藤はクドクドと説明を続ける。

隣の萩野はというと、授業中にも関わらず、先生に聞こえないほどの音量でこちらに囁きかけてくる。

「おい、大丈夫かよ?」

「何がだ」

「いつも真面目に授業を聞くお前が居眠りをこきやがって。何かあったかと心配してやってんだよ。」

萩野は相変わらず顔をニヤニヤさせたままだ。

「別にお前だってよくするだろうが。今更居眠りの一つくらいどうでもーーー」

「だってよ、お前さっき寝言言ってたぜ?『ママーーー!パパーーー!』ってな。」

萩野が噴き出すようにして言ったその言葉に、松田は羞恥心のあまり耳まで茹で上がる。

「お、俺・・・そんな事言ってたか?」

同様のあまり声には震えが漏れていた。

「ちゃんと聞いたさ。ここにいる全員が聴いてた筈だぜ」

萩野のその言葉に、松田は信じた試しのない神に祈りたくなった。

ああ、神様。出来ることならこの一連の出来事が全て夢ですように。

無論のこと現実は厳しく、松田の願いは叶うはずもなく、苦虫を潰したような渋面を浮かべるのみだった。




『ターゲット確認』

『了解。作戦を開始』

ヨハンは、耳につけたイヤホンで司令部からの命令を受けていた。

端末の画面に浮かび上がる光景。

それは、仲間の一人が操作するRQ24

によって撮影されたものだ。

RQ24“ビックバード”は、RQ16を開発したのと同じハネウェル社が開発した新型UAV、無人偵察機である。

小型で、背中に背負った通信器具のみで操縦出来たRQ16はさながら、ラジコンを軍用偵察機に応用させたものだった。

それは、対地雷・IED用に多用されたものの、小型であることは様々な特殊任務に使い易いということになる。

ということで、国防省のお偉方は超小型の無人偵察機開発を様々な企業に受注。結果開発されたのがこの50センチもないような機体だった。

パソコンや電話がどんどん小型化していく現代において、無人偵察機の小型化もまた困難な事ではなかった。

小さいカメラだが、その精度は抜群だ。

米国のみならず、その同盟国であるイギリスやドイツなど様々な国でも採用されているこの機体を得られたのは単に“コネ”によるものと言える。

遥か遠くから偵察可能なこの機体は、その小ささもあって教室にいるものたちには良く目を凝らさない限り見つけることは困難だ。

RQ24から得られた情報で、ターゲットの居場所は分かっている。

学校の近くにある駐車場には3台のヴォルクスワーゲン『パサート』が停まっていた。

世界で3つ目に巨大だと言われる、ドイツ最大の自動車メーカーであるヴォルクスワーゲン。彼らが70年代より生産を開始したこの車は、現在において同社で二番目に売れている。

v6エンジンを取り付けたこの車は、コストパフォーマンスと汎用性の概念からヨハンたちが好んで使う車であった。

フード付きジャケットの下には屈強な肉体を隠した彼は、機械のような無感情の顔を浮かべつつ端末の画面に番号を素早く押して耳に近づける。

彼の纏った雰囲気は、洗練されたプロのそれだった。

『アントン1より各員へ。各員は、目標建物に突入後、玄関で待機。《Whiskey》のバックアップを行え。

通信終了』

そう端末に吹き込むと、ヨハンは懐から拳銃を取り出しつつ、『パサート』のドアを開いて行った。




「えー、であるからして。IRA(アイルランド共和国軍)より袂を分かったメンバーの一部は、リアルIRAと呼ばれて未だ活動を続けているわけだ。

2009年に英国軍基地で起きた乱射事件も彼らが行ったものであると見られていて・・・」

現代史、それも自分たちには全く関係ない方面の歴史とあって、授業を聞く生徒達のテンションは非常に低い。

なにしろ、個人が自由に選択できる方式の地歴Bと違って、高校一年生で受ける世界史Aはセンターに出ることのない教科。いわば保健体育や家庭科などのような「捨て教科」へと分類される。

第一、理系を選ぶ予定の人間にとっては、初めから世界史は選択すら出来ず、数学や英語などの主要教科などで見られる緊張感はここにはない。

松田にしてもそれは同じだった。文系志望ではあるものの、覚えることが多い世界史Bよりも、小中の頃に基礎が固められた日本史の方が楽であり、リスクは可能な限り減らすべきと考える松田は既に心は決まっていた。

どだい、世界史などはこの春に行われる学年末試験をパスして単位が取れればそれでいい。その程度の認識でしかない。

先ほど居眠りをしてしまったのも、やる気が薄いことに起因するものであると松田自身もそう分かっていた。

しかしーーー。さっきの夢、いやに現実的だったな。

黒板の内容をノートに写しつつ松田は心の中に呟く。

あの光景は知らないものの、デジャブ、既視感のような感覚があった。

あり得ない。松田はかぶりを振ってそれを否定する。

両親が死んだのは交通事故。仮に殺人事件だったならば、間違いなくマスコミが取り上げているはず。地方であっても、しっかりと報道が為される世界。特に、ネットワークが発達した現代なら無論のこと、日本という国はそこまで凶悪事件が少ない国なのだ。

あくまで夢、夢なのだーーー。

そう思考を総括しようとしたその時、教室の窓に学年主任を務める大井の猿顏が顔を覗かせるのが視界に入る。

数学を担当する彼のこと、別段そのこと自体は対して珍しくもなんともないが、大井の表情は沈鬱なもので、何かあったということを意味していた。

大井は窓を小さく叩くと、加藤を呼びつける。

「しばらく、自習してくれ」

その言葉に、今がチャンスとでも言うかのように昼寝を始める者、未提出の課題を開く者など様々な人間が慌ただしく動き始める。

もはや一年間も一緒に付き合っているとこの光景にも見慣れてしまうもので、松田はひっそりとため息をついたが、加藤はほんの一分もしないうちに帰ってきて、彼らの自由時間はあっさり、終わりを告げる。

そして加藤もまた、大井と同じように沈痛な表情を浮かべたまま、松田の名を呼ぶ。

「おい、一体なにやったんだ」

「もしかして、タバコでもやったんじゃねえのか?」

周りの汚いな冷やかしの言葉を無視しつつ、松田は加藤が立つ教卓へと進む。

「君のお爺さんが交通事故で亡くなったそうだ」

耳打ちさせた瞬間、足元から床が崩れたかのように松田のこころは揺さぶられる。

顔も覚えていない両親が事故死してからというもの、松田を代わりに育ててくれたのは祖父だった。妻を乳癌で失い、独りで暮らしていた彼は、苦しいだろうに男手一つでここまで育て上げてくれた。愛情というものを受ける前にいなくなった両親に対し、代わりに愛情を与えてくれた存在。その祖父が亡くなったーーー?

体を支える脚が力を失い、崩れ落ちるのをなんとか堪えつつ、松田は青ざめた顔を加藤に向けた。

「詳しいことは職員室で話そう。」

大井は、松田の感情を思いやりつつも彼の肩を掴んで誘導して行った。

また、親を失った。

松田の足取りはゆっくりと、今にも倒れそうだった。





応接間。職員室にある学校唯一の洋室であるこの部屋は、来客をもてなすためにある。

教育委員会をはじめとした様々な人間が訪れるこの学校の特徴を反映して、部屋は他校のそれと比べて多少豪華だと言えた。

その例の来客は、この少し狭い部屋の片隅にある黒いソファーに、くつろぐようにストッキングを履いた足を組ませて座っている。

尤も、くつろいでいると言ったが、その表情は厳しくその雰囲気は全く見られなかった。

いつも、アイドルや女優などがイベントで一日署長を務める際によく見られる制服をその女性警官は着ている。

とはいえ、愛想の良い笑顔を振りまく様子は微塵も見られないが。

彼女は部屋に松田の姿を認めると、すっくと機敏な動作で立ち上がり、松田の元へ歩み寄る。

「君が、松田雄太君ね?」

存外、予想していたよりも若い声だった。

しかしながら、歳をとっているというイメージはキッチリとした制服に起因するもので、顔をよく見るとその声に違わない若い女性のものだった。

白い肌に整った顔はまるで雑誌を切り抜いたかのように美しく、松田は一瞬呆気に取られる。

しかし、彼女はそんな松田をよそに、胸ポケットから手帳を取り出す。

「初めまして松田君。埼玉県警交通部交通捜査課の新垣華よ。」

手帳に写る写真を一瞥したものの、ああ警察の人か、という以上の感想は出てこない。

「彼女は、交通事故が起きた際にそれを起こした人物・・・つまり加害者を捜すということを専門としている。その方での刑事さんみたいな者だ。」

加藤のその言葉に、松田の虚ろな瞳に光が入る。次の瞬間には彼は、これまで溜まっていた疑問を一気に彼女へとぶつけていた。

「祖父に何があったんですか⁉︎犯人は⁉︎どこで事故にあったんですか⁉︎何時頃⁉︎」

ここが職員室の近くである事も忘れて、新垣という婦警に、まくしたてるように質問詰めをする。

彼の口調には必死の想いが滲み出ていた。

職員室にいる面々は、流石にうるさいと思ってはいたものの、あらかじめ事情を聴いていたため怒鳴るような大人気ない真似はせず、ただ黙って仕事に集中している。

「まあまあ、質問したいことが山ほどあるのは分かるが、職員室に近い。それに、そんなに一度に問い詰められてもなあーーー」

傍らに座る加藤が、松田を宥めようと腰を浮かしかけたが、新垣はそれを右手で遮る。

「あなたの祖父、松田勝一さんは圏央道、首都圏中央連絡道路自動車道の入間インターチェンジ前にあるカーブ部分で事故を起こした。

ちょうど後方を走っていた車のドライバーが、その一部始終を見ていてすぐに110番通報。救急車で搬送されたけど、それから15分後に清川中央病院で死亡が確認。即死だったわ。」

遺族の前だというのに、口調にはまるで感情がまるでこもっていない。

まるで、新聞の記事を他人事として読んでいるかのよう。いや、むしろコンピュータのように無感情だと言った方がいいだろう。

なんなんだ、こいつーーー。

不意に怒りが湧いてきたが、傍らに教師がいる状況、その上相手が警官ではどうしようもない。

だが、その代わりとして、表情にありったけの感情を込めて松田は彼女を睨みつけていた。

ふざけているのかーーー!、と。

新垣は、彼の唐突な怒りに少し驚いた顔を浮かべると、ようやく自分の無礼に気づく。

「感情を逆なでするようなことをしてしまったみたいだから謝るわ。ごめんなさい。」

彼女は案外素直に謝る。

そして、迷いがない凛とした表情を加藤の方へ向ける。

「すみません。後は様々な手続きがあるので彼を署へと連れて行ってよろしいでしょうか?」

「あ、ああ」

曖昧に頷いた加藤の顔を一瞥した新垣の顔は相変わらずのポーカーフェースだったが、その目に一瞬だけ光が入る。

やった。目は獲物を捕まえた肉食動物のそれで、松田はヒヤリとしたものを感じた。

「さあ、松田君。一緒に行きましょうか?」

光は一瞬光っただけで、目はもとの虚無を写すのみだった。

「ちょっと・・・なに勝手に決めてるんです!?」

と松田が抗議の声をあげたものの、

「行きましょう」

という硬く、有無を言わさぬ声音がそれ以上言わせなかった。

機械のような彼女が見せた冷気。

それは、警官という法の番人である人間が見せた顔ーーーというわけではなかった。

彼女の放つそれは、安寧の世界に暮らす人間ではない。戦いのプロのものだった。

「わ、分かったよ・・・」

そう応じつつ、松田は心の中で呟く。

こいつ、一体何者だーーー?




連れられるままに、新垣についていく松田。

校舎玄関までの道のり、彼女は硬い表情を崩すことなくただ黙っているのみだった。

授業中であるこの時間帯のこと、玄関には誰一人としておらず、閑散とした空気を放っている。

全校生徒1000人近い人数を誇るこの学校のこと、玄関は特別広いものの、ここまで人がいないとなるとむしろ静かすぎて違和感を感じさせる。

だが、違和感の源はそれだけではなかった。

新垣が突如、左手で指をならす。

なんだ?、と新垣の行動に訝しむ間も無く松田は、出口付近から大勢の男たちが姿を見せるのを認めた。

4人・・・いや6人はいるだろうか。

黒いコートを着込んだ彼らの顔は、同じく黒いフードで隠されており、まるで中世期のアサシンを思わせる格好だ。

「なんだ・・・?」

松田は、思わず後ずさりを始める。

その様子を見て振り返った新垣は、破顔し先ほどまで浮かべていた硬い表情は笑みへと変わっていた。

いや、顔こそ笑みの形にはなっているものの、その目だけは全く笑ってなどない。

まるで肉食獣が獲物を捕まえた時のような凶暴な光が再び灯る。その目を見た瞬間、松田は声にならない悲鳴をあげながら、半ば本能的に身構える。

「ごめんね松田君。実は私・・・警察官じゃないの」

頭の中に警報が鳴り響く。

逃げろーーー!頭の中で声がそう叫んだが、近づいてくる男たちが胸元より拳銃を取り出したことでそれは不可能となる。

新垣も、腰から杖を取り出して、威嚇するように松田へ突きつける。

「無駄な抵抗は辞めるのが賢明な判断よ?」

彼女は男たちの前へ回り込み、落ち着き払った声音でそういう。

男たちは、新垣と同じように腰から杖を取り出し、右手は拳銃、左手は杖を握った。

何故杖を構えているかは分からないが、男たちが右手に持つものは抑止に充分な働きをしている。

FNブローニングハイパワー。

ベルギーの企業であるFN社で生まれたこの拳銃。

開発当時としては多くの弾を装填できること、そしてこのコストと信頼性から、英国を始めとした世界中の国々で使われているベストセラー。

今では、第三国でも使っているところが多く、拳銃版のAK47と言える代物だ。

銃の知識などまるでない素人の目にも、それは一目で拳銃と分かる。

本物かーーー?

松田は、一瞬だけ楽観的な疑問を抱いた。だが、サイレンサーを取り付けたブローニングハイパワーの銃口から光が走り彼の地面に小さな穴を開けると、その思考は呆気なく崩れる。

サイレンサーをつけたため、ピシュッという甲高い音が聞こえただけで、遠く離れた教室には聞こえないが、新垣たちには良くても、今の松田には慰めにもならない。

「本物よ。疑うまでもなくね。あなたはここで死ぬのよーーー。誰にも知られることなく。」

笑みを一層深くさせた新垣は、驚きと恐怖にに顔を硬直させる松田に歩み寄り、耳元に顔を近づける。

「残念ね、いい男だけど。」

思わず体を引いてしまったのは反射的なものだった。

新垣は残念そうな表情を浮かべた後、合図として首を右へ一瞬傾かせる。

男たちが拳銃を一斉に構えた。

殺られるーーー!

目をつぶって、次に訪れる死に身構える。

だがその瞬間、玄関の方から閃光が発する。

「ーーー!目が!」

強烈な光が起き、あまりにも強烈な刺激に、脊髄は瞼を強制的にと閉じさせる。

だが、松田は何が起こったのか分からず、目を開けた時には男たちは床に倒れていた。

そして次の瞬間にはすっと一人の女性が現れ、いきなり松田の手を掴む。

「何をーーー⁉︎」

そう抗議の声をあげかけたが、その言葉は彼女の言葉に遮られる。

「来なさいーーー!」

新垣と同じくくらいの年の顔つきだったが、その表情と声はなぜか安心を感じさせるものがあった。

彼女の手は力強く、そして離さないという意思が感じ取れたが、しかしそれと共に優しさもある。

松田は、彼女に引っ張られるまま走り出す。





「待ちなさい!」

そう叫ぶと共に新垣たちは、攻撃魔術を迷うことなく使う。

攻撃魔術は、人類が銃を発明するよりもはるか前に生まれた飛び道具である。

連続して使うことができない欠点があるが、銃と違って音は出ない特性があるため“彼ら”はよく重宝していた。

『撃ちますか?』

部下の一人が、ドイツ語でそう問う。

『構うことはない、撃て!』

その言葉を始まりに、部下たちは左手に構えたブローニングハイパワーの引いていく。

最大13発もの装弾数を誇るブローニングハイパワーは、それ故に「パイパワー」の名を頂戴している。

当たったら最後、良くても肉が裂かれて痛みに身を震わせる事に、下手をすればそのまま墓場へ直行。そんな恐ろしい銃弾の群れが、松田たちの周囲へと殺到する。

幸運なことに、銃弾は彼等の周囲にあるコンクリート壁に当たるのみであった。だが・・・そんな奇跡はそれほど続く筈がない。

どうするつもりだ。松田は、自分の手を引く少女に叫ぶようにして問う。

その時、少女の右腕が素早く動き、杖を取り出し、それを地面に向けて

叫んだ。

「煙幕!」

一閃させた杖の先から白煙がもくもくと驚くスピードで出ていき、二人の姿を隠していく。

「scheisse!(畜生!」

というドイツ語の毒付きが聞こえ、新垣らの舌打ちも一緒に聞こえてくると、松田は笑みを浮かべた。

やった。と快哉の声をあげたものの、少女の表情は和らぐことはない。

「時間稼ぎにしかならないわ!急いで!」

少女はそう叫んで松田の手をさらに強く引っ張る。

そうこうしている内に、背後で何事かを叫んだ新垣が煙幕を晴らす。

無駄な足掻きを・・・!、と叫びニタリと新垣は笑う。

松田は、般若のような不気味な笑みをみて溜飲を下げる。

だが、新垣たちにとって不運だったのは、その間に松田たちは駐車場の敷地へと辿りついていたことだった。

駐車場の片隅に止まる一台の白いBMWM5。

松田がその車を視界に入れると、

「乗って!」

と少女は振り返ることなく命令する。

だが、車までの距離はざっと100近くはある。

「遠すぎる。あそこまで行く間にハチの巣だ!」

松田が叫び返す。

「大丈夫!」

M5がまるで唸り声をあげたかと思うと、タイヤから激しく白煙を撒き散らしながら走り出す。

なんて馬力だ。と、松田が感嘆の声をあげる間に、車は松田たちの前に急ブレーキをかけて止まる。

「乗れ!」

車内の男が、必死の形相で叫ぶ。

男の背後では、もう一人の男が手に持ったMP5SDを牽制代わりに乱射している。

「ナイスだわ、岸さん」

ここで初めて笑みを浮かべた少女は、そのうちに右後部座席へと乗り込む。

「早くしろ、死にたいのか⁉︎」

岸と呼ばれたドライバーの男の怒号に、松田はピクリと肩を震わせて慌てて助手席に乗り込む。

その間に、少女は魔術による弾幕をはり新垣らを釘付けにする。

「いきまっせ、皆様方!」

その言葉と共に、岸は勢い良くアクセルを踏み込み、松田はシートベルトを閉めていない体を大きくよろめかす。

変速機を見事な手つきで動かしていき、車はたちまち5秒も満たない間にメーターは時速100キロを表示していた。

こうなると、流石の新垣たちもなす術がない。

どうすることも出来ず、立ち尽くす彼等の姿が、僅かな時間で小さくなって行く。

背後で弾幕を張っていた二人はその様を見て、ふふっ、という微笑がこぼれる。

「やったぜ!」

という声が弾け、微笑は次第に大きくなっていき、それは哄笑へと変わっていった。

生命の危機味わった彼らの笑い声は、しばらく途切れることがなく続いた。





BMWM5は、そのエンジンにしては400馬力程度の力しか出ず、音もそれほどパワフルに思えない。

だが、それは拘束着をつけられ本気の力を発揮できない獣の姿でしかない。

Mモード。その名の通り、「M」と書かれたボタンを押すと、車の音は見事に変わる。

パワーは507馬力に跳ね上がり、最高時速は328キロへと進化を見せる。

4ドア車とは思えないその車は、内情の彼らにとっては非常に魅力的であり、故に、局の正式車両に選ばれている代物である。

尤も、制限速度が60キロ程度になっている公道では、その力は持て余すしかない。

車が走り出しておよそ15分ほど。

安全上の問題で市街地を走るわけにもいかず、車はこの対向車もいない郊外行きの道路を走っている。

90年代のころに敷かれたものの、この道路はその広さの割りに使う人間は少なく、「熊しか利用しない道路」と陰口を叩かれている代物だ。

80年代後期から、90年代初期まで続いたバブル景気。その時期に予算があまりに余ったこの街ーーー当時は合併前で名前も違っていたーーーは、地元の建設会社に票田を持つ議員、「道路族議員」と呼ばれる彼等の手によって作られるようになった。

この清川市の中心部を通る国道などのような、交通の動脈になり得る道路もこの時に作られたが、そもそも

インフラが十分に整っている清川市ではこれ以上の道路は不要。結果、建設会社に仕事を与えるという目的のみで、このような不要とも思える道路が幾つも作られたのだった。

この辺りの住民たちは、そもそもこの近くを通る国道で十分な上、この道路が結ぶ先には民家や商業施設の類がなに一つない。

何のために作った道路なのか分からず、こんな事を続けた結果、財政難に陥り平成の大合併で周辺都市と合併する羽目になったのだと言えたが、少女達にとっては好都合だった。

「・・・一体何者なんです?」

松田の口から出た最初の言葉だった。

「平気で銃はぶっ放す、杖を振ったとたん何処からともなく煙は現れる・・・名前や組織くらい教えてはくれませんか?」

松田は、彼女たちがひと段落ついた時を見計らって、体を少女の方へと振り返る。

ようやく気づいたのではあるが、少女の顔はまるでその辺のアイドル・・・いやそれ以上でも通じる美しい顔立ちをしている。

だが、松田はそんなことに構う精神的な余裕は存在しない。

彼にとっては死活問題なのだから。

少女は笑みを浮かべる。

「私の名前は天海留美。留守の留に美しいと書いて『留美』。隣の彼は『大川さん』で、あなたの隣に座っているのが『岸さん』。私達は『内閣府情報局統合情報部第7課』・・・通称『ヴァルキューレ部隊』と呼ばれる組織の一員よ。」

流れるように次々と繰り出される言葉と、いきなり何のことかわからない話に、松田はポカンとする。

予想通りの反応に天海は、苦笑する。

「内閣府情報局というのはね、2011年に起きた同時多発テロ・・・あなたも覚えているでしょうけど何千人という人々が亡くなったあのテロ事件をきっかけに、軍でも警察のものでもない『国家の』諜報機関として設立された組織よ。

まあ、映画に出てくるCIA(中央情報局)やMI6ことSIS(秘密情報局)のようなものと考えてもらえばわかると思うわ。

私達が所属するのはその中の『第7課』。公式には、他の課より集められた情報を防衛省情報本部や警視庁公安部のような国内にある他の諜報機関や、政府などに伝える伝令のような役割とされている。・・・ネットワークが発展してメールなどで情報が伝えられる現代においては有名無実なものだけど。実際のところはこうして魔術絡みの事件を担当しているわ。」

「魔術・・・?」

「『魔術』って聞くと、ファンタジーやオカルトか何かを真っ先に思い浮かべるでしょうけど、本当は、4世紀中期のブリテン島で既に見つかっていた・・・」

すると、天海は一つの端末を取り出す。

一見するとただのスマートフォン。

市販されているのとそう変わらない。

しかし、通常ならばアップルやギャラクシーなどのロゴが入る背中部分のみ、COIA(Cabinet Office Intelligence Agency)の文字が刻まれている。

近年、便利ということで普及しているスマートフォンだが、そのセキュリティはというとお世辞にもいいとは言えない代物だ。

実際、米国やフランスなどの政府機関では、職員たちに対しスマートフォンの使用を自粛するように呼びかけたり、禁止したりしている。

しかし、スマートフォンの高性能さは捨て難く、小さく持ち運べる上に様々な情報を記憶できるというのは

魅力的であった。

激しい議論の末、導き出されたのが、スマートフォンの独自開発、という結論だった。

国内にある携帯電話メーカーと協力して、試行錯誤を繰り返してようやく、局で運用されるパソコンと同等のセキュリティレベルを持ったスマートフォンが開発された。

その端末は、上層部と開発者の思惑通りに、局員達にとって安全かつ使いやすい装備品となっている。

その端末の画面にはある絵が映し出されている。

白い壁に覆われた城。その外側に、

広がる広大な農地。

牛が畑を耕しているのを描いたのだろうその風景画は、村人の顔立ちからしてヨーロッパのものだと判別できる。

「中世、9世紀のフランク王国で描かれたものよ」と天海が、そう言う。

「画像のこの辺を見てもられるかしら?」

天海が指差した先、農園が延々と続く光景の中で点でしかない部分に、

黒ずくめの集団が居るのがわかる。

「これが、当時における『魔術師』達よ」

と天海は解説する。

「英国、厳密に言えば当時はアングロサクソン人がまだ進出しておらず、ケルト人が暮らしていたスコットランド。

そこでは、キリスト教やユダヤ教などの大陸における宗教が伝わっていなくて、独自の宗教・文化が育っていた。

そのブリタニアで暮らすあるシャーマンが、魔術を発明したとされる記述が、現在のリーズ、そして当時はローマ帝国の支配が及んでいなかったスコットランドで発見されてる。

その後、7世紀初期の中国、11世紀のアンデスーーーインカ帝国初期の頃ねーーーでそれぞれ発見されたわ。

スコットランドとインカ帝国、そして唐で独自に発展し、周辺地域へ普及したことから、魔術は大まかに三つに分けられている。

欧州系とネイティブアメリカン系、そして私達の属する東洋系。

他にも、欧州系と東洋系が混ざり合ったアラビア系も加わえることもあるけど・・・詳しく分類すれば20以上はあるわ。

魔術はこの世界・・・科学技術で成り立っている世界のことだけど、便宜的に『科学世界』とでも呼んでおこうかしら。

その科学世界の水面下で生き続けていたのが、魔術によって成り立つ世界、『魔術世界』よ」

4世紀。ヨーロッパでは、当時の超大国であったローマ帝国が末期を迎える。

313年のミラノ勅令でキリスト教が公認され、324年、4つに分裂していた帝国を再統一。

しかし、帝国の衰退は免れることが出来ず、帝国の財政・経済の破綻や異民族の度重なる侵入もあって、395年、ローマ帝国は東西に分裂する。

これまで続いてきた秩序が崩れて行く欧州の中で、安定していたのがスコットランドに暮らすケルト人であった。

多神教、そしてギリシアやラテン語を基にした独自のオガム文字を用い、音楽や絵画でも大陸とは一線をかしていた。

スコットランドの南、ブリタニアはローマ帝国の支配を受け、かの地に暮らすケルト人はすっかりローマ人化し、クリスチャンとなっていたが、彼らはケルト人の文化を維持・発展させていたのだった。

そんなスコットランドで、ユンラー・マグリコーンは魔術を発見した。

「15世紀以上もの間に渡って科学世界に隠れ続けた魔術世界。

けれども、長い間与太話同然だった魔術世界の存在は、つい40年前に判明した。」

写真は何処かの山を映し出している。

一体どこだろうか、一面雪で真っ白なこの光景に、一人の少女の姿が立っている。それもワンピース姿で。

「これは、1974年にインド・中国間の軍配置状況を偵察しに来た台湾軍の『U-2』が偶然撮影した写真よ。

同じ年、明治大の登山部が全員遭難して死亡というニュースがあった。

でも、その真相は彼女・・・エレナ=ハルシュタインが何らかの儀式を行っていて、それをたまたま見てしまったために殺された。私たちはそう考えているわ。」

「儀式ーーーって?」

「分からない。ただ、この時をきっかけにして彼らの存在が露呈し始めるようになった事は確かね。

『アルスター人民の家』や『ゲルマン民族神秘党』のように、イデオロギーとは無縁の名前をしたテロ組織は、実のところどちらも魔術組織。

それも、過激派もいいところの連中ね。

テロを起こす地域も、東アジアと中東・北アフリカだけなのも彼らは、『東洋系とアラビア系魔術を滅ぼそう』としているからよ。」

「何故?どうしてそんな真似を?」

「背景には歴史的経緯があるからよ。昔からこれらは、東洋と欧州が盛んに接触を行うようになった13世紀、それ以降から対立を続けていて、大規模な戦争が幾つも起きてる。

因縁・・・ってやつね。そう単純な話ではないけど、一言で説明するならそうなるわ。」

要は「犬猿の仲」。その背後には宗教や風習などをはじめとする確執が存在する。

20世紀の米ソを思い浮かべればよく分かることだろう。

彼らは、更に「キリスト教」と「仏教」、東洋文化と西洋文化というもっと大きな溝があるのだが。

「それで・・・どうして俺が狙われることに?」

「彼らーーー『ゲルマン民族神秘党』は、我々東洋系の組織と対立しているって言ったでしょ?

魔術はね、使える人間は限られるの。一種の天性的な才能と言ってもいいでしょうね。」

「あんたも・・・いや、天海さんもそうなのか?」

「ええ、その通り。そのため魔術を使える者は本当に貴重になる。

あなたに魔術の才能があることを知った私たちは、保護して我々の一員に加えようと考えたの。

・・・連中に先を越されてしまったけど。」

天海は皮肉的な笑みを浮かべる。

「連中からすれば、将来の脅威となる者はその前に殺すしかない。

なにしろ、勧誘したって無駄だろう。そう判断を下したのね。

それで、あなたを暗殺しに来たのが、さっきの連中『タクティックトルッペ(戦術部隊)』よ。」

本当にヤバかったんだな・・・。今更肝が冷える思いで松田は天海の顔を見つめる。

「しっかし、連中は暗殺のやり方が杜撰そのものだったな。だから、こうして救出することができた。」

そこでいきなり、ドライバーである岸が声を上げる。

「全くだ。特殊部隊なら口を開かせる前に、ズドン。

6課の連中がやってるやり口なら、標的に顔を見られるどころか、通り過ぎる際に始末しているだろうさ。

大体、このご時世で拳銃による暗殺ねえ・・・。今の警察は殺人事件とあれば地の果てまで追いかける連中だってのに、ご苦労なこった。」

大川も笑い声を上げながらそう返す。

そうだったら俺が死んでるだろうが。だからこそ命拾いした本人がここにいるというのに、そんな話を平気でする二人の無頓着さに松田は呆れた。

ーーー尤も、なんとか逃げおおせることができた今だからこそできる話ではあった。

そう考えると、改めて自分の命がここにあることを確認した。

そして、彼らがいなければ自分は今ここにいなかっただろう。

松田は不意に感謝の気持ちでいっぱいになり、半ば衝動的に感謝の声を挙げようとした。

「大体、今なら心臓麻痺に見せかけるか、交通事故に見せかけてやるのが普通だしな。事故なら警察だって咎めない・・・」

そこで、大川は最悪の可能性に思い当たる。

滅多に車が通らない道路。つまり、今ここを走っているのは自分たちだけで、その姿を見るものはいない。

考えつくことは一つだ。

「マズイ・・・!」

大川と同じ結論に至ったのか、岸はそう呻いてアクセルを思い切り踏み込む。

だが、その直後車の前方で爆発が起こる。

地面を見事に抉るとったその爆発は、松田らを狙ったものだったが、急に加速したM5の挙動について行けず、爆発系の攻撃魔術はM5の車体少し前方に着弾する。

だが、爆発の衝撃は車を大きく動揺させるのに充分で、時速100キロ以上の猛スピードで加速していた車ならなおさらだった。

車は、車体を大きくよろめかせ、そのまま近くの電柱に頭から激突する。

そして、身体中を大きく揺さぶられた松田は、シードベルトでも抑えきれない衝撃により頭を強く打つ。

松田の意識はそのまま混沌の中へ引きづりこまれて行った。





天海が目を覚ました時、まずここがどこであるかを忘れていた。

体を大きく揺さぶられたせいで、平衡感覚が狂ってしまったのであり、頭も相当混乱していたからだった。

ある程度我に還り、ようやく状況を思い出す。

車は、見事なまでに電柱に対し激突。ボンネットは衝撃を受け止めたおかげで原型をとどめないほどにペシャンコになっている。

状況を理解した天海はまず、自分の体のあちこちを撫で回して、怪我がないことを確認する。

人間は、緊急時にアドレナリンが大量に分泌され、怪我があっても痛みを感じることがない。

実際過去の事故などで、骨折していることに全く気づかず、妙な違和感を感じてようやくそのことを知る、そういうことなどよくあるのだ。

とあるバイク事故など、自分の右脚がなくなっていることに気づかずそのまま運転を続けている、という笑い話のような本当の話も存在する位だ。

幸い、シートベルトを付けていたこと、事前に衝撃に備えた体制をとっていたことなどにより、軽傷一つないといえた。

「大丈夫か、天海⁉︎」

左側後部座席、つまり天海の隣に座っていた大川は先に意識を取り戻したらしく、MP5SDを右腕にかかえつつ左手で窓ガラスを叩きながら叫ぶ。

「ええ、私は大丈夫!」

無事であることを声音で伝えつつ、天海は懐より杖を取り出す。

直後、車体にゴンゴンという、ノックのような重低音が連続する。

銃弾が車体に撃ち込まれているのだ。

BMWM5の車体は、様々な任務に対応するために、ある程度の拳銃弾なら防ぐことができる防弾処置を施しているものの、彼らがアサルトライフルや爆発系の攻撃魔術を使ってきた場合はひとたまりもない。

「おいでなすった・・・!」

大川は、そう呻くと同時にMP5SDを両手に抱えさせ、道路を挟んだ向こう側、おそらく銃弾が飛来した先と思われる場所へと撃ち込む。

とはいえ、敵の姿が見えない為乱射とでも言うべき牽制射撃にすぎないが、敵の頭を抑えたり注意を引くには充分だ。

敵の銃弾が飛び交う中身を乗り出すのは映画の世界だけ。現実にはそんな馬鹿はいないし、居たとしてもどの道、長生きしない。

その間に天海は、身を屈めつつ急いで車外へと脱出する。

岸の方を見やると、未だに目を覚まそうとしない松田を引きづり、一番安全な道路脇へと運び込む。

一見ぞんざいとも言える扱いだが、銃弾が次々と飛来する中ではそんな事を気にやる余裕はない。これが最善、かつ最優先事項なのだ。

これほどまでの状況で起きないということは、それほどまでの重傷を負ったか、または・・・死んだか。

最悪の可能性を頭に思い浮かべる。

「そっちは、松田をどうなの⁉︎」

「呼吸がありますし、心臓もしっかり動いています。どうやら外傷は無いようですがどうやら頭を・・・」

頭を強く打って昏倒でもしたか。とにかく、最悪の可能性は否定された。だがこれで、護衛対象である松田を連れて逃げる、という方法はなくなった。後はここに雪隠詰めだ。

胸中に苦々しく呟いた天海は、「分かった。」と応じつつ、手持ちの端末を取り出す。

状況を打開するには救援が必要だ。

電話を使うのは、守秘回線を使うことができるという利点から選んだもの。敵に無線を傍受される心配はない。

番号は・・・天海達と同じく、存在しないことになっている連中のものだ。

「こちら《Wicca》コード107。状況《Alfa》!」

天海の口調は落ち着きつつも、端々には抑えきれない焦燥が滲み出る。

これには電話の相手ーーー当直士官の男ーーーは向こう側で固まったようだった。

口調だけでは無い。何も知らない人間からすれば何がなんだか分からないこの無機質な会話は、当直士官に緊張を与えるには充分過ぎる意味を持つ。

Alfa。それは局員が、作戦行動中に緊急事態が起こった事を表すコードだった。

Ambush(待ち伏せ)のAということは状況は最悪である。

「位置は埼玉県清川市の市道13号線。《ゴルフ》(ゲルマン神秘党)の攻撃を受けている、シックスの投入をお願い。連中のセーフハウスは近くにあるはずよ、急いで!」

最後の方は感情剥き出しであった。

天海の剣幕に、当直士官はどもりながら了承の返答をする。

そして電話を切った天海は、一息ついた後、迫り来る襲撃者達に対して応戦を始める。

シックスの通称で呼ばれる6課。

表向きは、そう呼ばれるものの、その正体はSSF(Special Security Force)

と呼ばれる特殊部隊だった。

完全装備の精鋭部隊が、ヘリでやってくることだろう。

セーフハウスが近くにあるとしても、いきなりの出動に、準備でかなりの時間を食うだろうから良くて5分もかかる。

5分間の間、どうやってもたせるか・・・

現代における戦闘、それもCQB(Close Quarters Battle :近接戦闘)と呼ばれるこの近距離戦闘は、映画やアニメなどとは違い、すぐに決着が着くことが多い。

特に、待ち伏せを受け、何倍もの数を持つ敵と戦うこの状況ならなおさらだ。

「天海!魔力の消耗には気をつけれくれよ!魔力が切れたら、こっちは二人も担ぐの羽目になるからな!」

「分かっているわ!そのためにあなたたちが補助としているんでしょ⁉︎」

そう叫び返しつつ、天海は攻撃魔術を放つ。

魔術というのは、本来選ばれた一握りの人間にしか使えないわけだが、その源となるのが「魔力」というものだった。

ファンタジーもののアニメや小説などで描かれる魔術や魔法は、銃や刀のように弾切れや刃こぼれを起こしたりしない、それこそ「魔法の」兵器とされていることが多い。

だが、この世に無限に使うことのできるものは存在せず、人それぞれに魔力の量が決められているのが現実だ。

それらは、光や炎などを起こすような日常生活に使う分には意識する必要はないが、人間を殺傷するほどの強い魔術となるとその消耗は激しく、そう何度も使うことは出来ない。

更にタチが悪いのは、魔力が切れるとその人間は、まるで糸が切れた人形のように気絶し、そのまま丸一日は意識を失いつつけることだ。

戦場において、それはあまりに致命的な欠陥といえる。

魔術そのものは強力ではあるがその反面、諸刃の剣でもあるわけだ。

それを踏まえたうえで、魔術を使うことが出来る、先ほどの戦術部隊や天海にしても、補助的なものとして拳銃やライフルを装備している。

「しかし・・・たかが一人の魔術師を殺すのにこの人数、一体どういうことなの・・・?あまりにも大袈裟すぎるわ」

「確かに・・・これほどの戦力は幾ら何でもやり過ぎだな」

「連中と私達との魔術師の数における差は相当なものになる。一人を逃したとしても戦力差がひっくり返るものじゃないわ。・・・こっちは出来る限り魔術師は必要だけどね」

その時、天海達の近くで激しい衝撃が起こる。

“連中”の一人が放った爆発系の魔術が着弾したのだ。

幸い爆風と破片は、車体が盾となったことで防がれ、大川たちは無事だった。

「連中、加減ってものを知らねえのか⁉︎」

大川は、車体に体を隠しつつそう呻く。

その叫びに答えるかのように、クルマの周囲に爆発が連続するようになる。

「攻撃が激しくなってる・・・これ以上持たないわ。」

爆発は次第に天海達の隠れるM5へと近づいてきている。

それに、爆発が終われば間違いなく彼らはこちらに向かってくることだろう。この爆発はおそらく事前の準備砲撃といったところか。

砲撃で相手に損害ーーー言葉は優しいが、要は死んだり負傷したりすることだーーーを与え、その間に後ろで援護を受けつつ、移動する。これがセオリーだ。

「じゃあどうする⁉︎この辺りには隠れる場所なんて他にはない、見開いた視界の中だからな!車もイかれちまったし、唯一出来ることといったら後ろの林へ逃げ込むことだが、松田を抱えては無理だ。これ以上どうしようもない、ジリ貧だ!」

攻撃が止み、今度は銃撃がM5の車体に行われるようになる。

援護射撃。

サイレンサーによって抑えられた、甲高い銃声がする中、彼らの足音が近づいてくるのが分かる。

逃げられない。万事休すーーー!

天海は、どうすることも出来ずに項垂れる。

その時だった。

突如、糸に引かれるかのように松だがゆっくりと立ち上がる。

その手には、持っていないはずの杖がにぎられている。

意識を取り戻したのかーーー?

天海が呟いたが、それは違った。

目はまるで黒い球が入っているだけかのように虚ろで、表情を見ると人形かのように感情が失われている。

ーーーそれは、何かに憑依されているかのようだった。

天海が呆気に取られる間、松田の右腕が電撃的に動く。

次の瞬間、彼の前方に白い壁が現れ、彼を狙った銃弾は跳ね返される。

「無声呪文⁉︎」

天海は思わず叫ぶ。

魔術というのは元々、呪文を唱えて行うものであり、高度に訓練された者だけが無声呪文、つまり一々口にせずとも魔術を使えるようになるのだ。

だが、目の前に立つ少年は訓練どころかつい先ほどまで魔術の存在すら知らなかった人間だ。

そんな人間が無声呪文を使えるなどあり得ない。

例えば産まれたばかりの赤ん坊が、いきなり高校数学を理解するようなものだ。

しかし、現に松田はその信じられないことをやってのけている。

松田は、再び右腕を一閃させると、今度は彼の前方数十メートルで爆発が起こる。

襲撃者の位置が分かるとでも言うのか、松田の攻撃は正確なもので、彼の放った爆発呪文は移動中の敵にちょうどよく当たった。

彼らの呻き声が聞こえ、向こう側の森に隠れる者たちも何が起こったのかわからずにポカンとして攻撃をやめているようだった。

そんな彼らをよそに、松田は赤い線

の結界を、空中に描き出していく。

結界を使う魔術・・・天海に思いつくことは一つだけだった。

しかし・・・それは不可能とされているものの筈だ。天海はそう呟く。

40年前、“それ”を使うことの出来る人物が死んでからというもの、その魔術は見られることが無かった。

だが、松田は実際にそれを成そうとしていた。

幻獣・・・

松田は、結界を完成させると、中国語で何事か叫び杖を宙に掲げる。

するとそこから、巨大な龍が現れる。

かつて伝説上にのみ存在していた神獣がそこにはあった。

「行けぇ!」

松田の声ではない、嗄れた何者かの声がそう叫ぶ。

龍は、使えるべき主の命に従い頷くと、そのまま森の方へと飛んでいく。

天海は、ただ呆然とその光景を見ているのみだった。

[newpage]

敵の攻撃はピタリと止んだ。後退した様子も見られない。

龍は、襲撃者達へと襲いかかり、彼らの居ると思われる森へと火をつけた。

森は盛大に燃えたものの、いよいよ大規模な森林火災へとなりかけたあたりで、松田が魔術で消火を始めたために今は小さな火が燻っているのみである。

だが、森の延焼範囲を考えるとあの状況では生存者はいないだろう。

天海が見る中、龍は忠実なしもべとして主人の元へと戻る。そして、また一礼すると龍は松田の握る杖の先へと還っていった。

幻獣使いーーー

魔術師の中でも更に上、魔道書使いと呼ばれた人間のみに許された魔術だ。

普通の魔術師が使おうにも、一人が持つ魔力の量を遥かに上回る代物であるから、結界を張る段階で断念することとなる。

しかし、それを目の前に立つ少年がやってのけたという事実。

天海は信じられないという面持ちで立ち尽くしていた。

その時松田の体は、糸が切れたマリオネットさながら地面に崩れ落ち、天海は慌てて彼に走り寄り抱きすくめる。

それなりに質量を持った彼の体はピクリとも動かない。死んでいるーーー?という不安に駆られたが、彼の小さな寝息が腕の中で聞こえたことから、天海は胸を撫で下ろす。

起こしてやろうかとも考えたが、今は休ませてやろうと天海はそのままにしておいた。

彼女達の上空に、今更のタイミングで6課の強襲ヘリMH60の黒い機影が現れる。

ここまで音が聞こえなかったのは、特殊仕様としてローターを始めとした改造を施されていたのと、風向きを調べ、風下のみを選んで飛び続けたパイロットの腕によるお陰だ。

「ようやくか・・・」

天海は安堵の気持ちでそう呟く。

帰ったらやることは沢山あるだろうが、今は今で休ませて下さいーーー

天海は彼女の信じる神に願い、そのまま松田とともに眠りについた。





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