三船秋生EYES-Ⅱ
「この少年が、通報にあった彼ですか」
スーツの男が校長と話しているようだ。
顔を鷲掴みにされ、視界は遮られている。
もう一方の腕で壁に押し付けられ、無理やり立たされている状態だ。
ギリギリと強烈に痛むが、すぐには殺されない。やはり。
赤ん坊が目当てだとしたら、俺に居場所を話させる必要がある。
待つ。呼吸を深め、身体の状態を探りながら。
「羊の群れに野犬を見つけた気分ですねぇ」
どうやら立場のある男らしい。
校長との会話の中で「宮内庁」という言葉が出た。予想外の言葉だ。
国家公務員なのか? こうも血の匂いを染み付かせて?
「さぞ手を焼いておいででしょう。これは教育というより折伏が必要のようだ」
喉に触れるものがある。男の手だ。
殺せる間合いだが今は無理だ。大坊主、とんでもない腕力だ。
呼吸を計られている? 失神を擬態しているが……通じているか?
「ふむ?」
いいぞ、校長が慌てて弁明を始めた。
暴力的な状況を嫌ってのことか。単に空気を読めないだけか。
男の手が離れた。心持ち、拘束が緩んだ気がする。よし。
「……ほぅ、その事件は私も知っていますよ」
校長が語っているのは俺の身の上話だ。
不愉快な内容だが、こいつらの注意を引くには格好の内容だろう。
『大麻村』事件。
秩父山中に密かに設けられた、とある新興宗教団体の拠点。
その実態は大麻栽培及びマリファナ製造工場であり、活動も淫祠邪教の極み。
思いつく限りの邪悪が行われていた……と連日マスコミを騒がせた事件だ。
火災によって存在が明らかとなった、その隠れ村。
踏み込んだ警察が目にしたものは、死体、死体、死体だ。
銃器すら所持していた、そこに巣くう男ども。
その悉くが屍を晒す。内ゲバの果てかと、世間は大いに盛り上がったようだ。
女たちまでが皆殺しにされていた理由、それを説明できた憶測は未だにないが。
唯一の生存者は、山中で凍えていた10歳の男の子。
彼は何も語らない。これまでも、これからも。
断言できる。俺のことだからな。
「なるほど……では発見当時の状況は、やはり?」
校長は絶好調だ。
何か教育者のスイッチでも入ったものか、興奮して語っている。
貧血上等の長話が思わぬ役に立つもんだ。
よし。いいぞ。
痺れのようなものは、とれた。
「件の者ではなさそうですが、これはこれで、興味深いですねぇ」
男の声が近い。覗き込んでいる?
顔でも確認したいのか、万力のような手も離れた。
好機。
男のネクタイを掴むのと、体を壁沿いに横倒すのと、同時に。
ブレザーを脱皮するように身を捻り、その回転に男を巻き込む。
廊下を一蹴りし、男を背中から羽交い締めにしてしゃがみ込んだ。
「なっ……ぐぅっ!?」
ネクタイの輪を捻って締め上げる。さっきのことがある。黙らせる。
大坊主から打撃の1つも来ると思ったが……ああ、なるほど。
校長がだらしなく伸びている。
何の偶然か、丁度いい所に立っていたようだ。
打撃を受けたのだ。俺の身代わりに。いい教師だなぁ、アンタ。
「動くな」
言ってはみたが、果たして聞くものか。
大坊主は正に仁王立ちといった風で、こちらを睨みつけている。
既に手元の男は落とした。弛緩している。
大坊主を警戒しつつ、ネクタイを口に押し込んだ。自力蘇生への警戒だ。
全身が鳥肌立つような圧は変わらない。未だ死地だ。
じりじりと後ずさる。
どう考えてもこいつらは普通じゃない。
身を隠すべきだ。正体を探ることは二の次だ。
あの赤ん坊を委ねるなど……考えられない。そう判断した。
こいつらは命を育む側じゃない。摘み取り奪う側の人間だ。
下がる。
大坊主は動かない。人質が効いているのか。
「もうよいか?」
どこか呆れたような、その野太い声。大坊主。
くすりと笑い声。背後から。これはスーツの男の声。
抱えていた重さが文字通り紙と化した。
手品か奇術か、何の摩訶不思議か。
俺が抱えているのは、手の平サイズの人型の紙切れだ。
瞬く間の変化。呆然とすれば死ぬ、思考を止めない。
この刹那に。
上半身を倒して後背へ蹴り。「おっと危ない」と避けられた。
四つんばいで身を返し、扇子など出して微笑する男へ飛び掛る……フリをする。
重心を低いままに足を掴む、掴めた。そこを支えにスライディングで……きない!
また紙になった! どういうことだ! 人が紙になる!?
考えるのは後だ、動く。
廊下を這い、タイルを蹴り、転がるようにして校長室へ飛び込んだ。
扉を閉めて鍵をかける。手近な棚を引き倒してバリケードにする。
職員室へ繋がる扉を目指そうとして。
室内で暢気にお茶をすする音を聞いた。
「よく動きますねぇ、君。生存本能というやつですか?」
スーツの男!
廊下への扉には大きな影。大坊主だ。
一言でも発すれば俺を束縛できる奴と、一撃で俺を粉砕できそうな奴。
前門の虎、後門の狼。
心が冷える。冷え切る。薄刃の上に立つ心。
一瞬の判断ミスが破滅につながる、この、時の流れの極小1点。
俺は校庭に面した窓へと走った。
地上2階。大した高さじゃない。いける。
「ほほぅ、英断ですね」
話すきりで何もしてこない。
恐らく「本体じゃない」からだ。不可解極まるが、2度あることは3度ある。
本物は職員室側から来るはずだ。そんな気がした。
外へ身を乗り出すのと、扉を破って大坊主が現れるのとが、同時か。
俺は植木を避けるように飛び降りた。
着地するなり、即、窓から侵入する。保健室だ。
校庭を横切るのは危険だ。
奴らの視界に入るわけにはいかない。目的地も悟らせてはいけない。
驚く保健医を無視してシーツなどを手早く取り、廊下へ。
身を低くして廊下を走る。T字路を左折する際、右折側へ上履きを投げた。
保健室で寝ていた奴の物だ。寸時でも退路を誤認させたい。
別館へ駆け込む。今のところ追う足音は聞こえない。
本館からの視界を意識して、隠れるように2階へ。数学資料室へ。
音も立てず扉を開けて、入り、閉じる。
耳を澄ます。よし。とりあえずは死地を脱したか。
振り返って赤ん坊の所へ行く。一刻も早く離脱しなければならない。
起きていた。不思議そうな顔をして、天井を見上げていた。
綺麗だった。
窓から射す光が、細いスポットライトのように、赤ん坊の肩を照らしている。
この薄暗い部屋の中で。獣のように発汗と呼吸に駆られる俺の前で。
ただ赤ん坊1人だけが、神聖だ。
触れて……いいものだろうか?
あの大坊主たち側の人間だ、俺は。
殺し壊して何の躊躇いもない人種だ。汚れきってもいる。
平和に馴染めない動物だ。明るい世界にいる資格を欠いている。
でも、それでも。
一方で確信がある。
赤ん坊を護らなくてはならない、と。
どうしてこの朝に、この赤ん坊が俺の腕の中にいたのかはわからない。
大体、世の中っていうのはわからないことばかりだ。
そして大概が理不尽に俺を苦しめる。
だが、この「わからなさ」は……幸せなんだ。何かが。
護りたい。幸せにしたい。平和の柔らかさの中に包んでやりたい。
笑顔が見たい。世界が自分の為にあると思わせてやりたい。
産まれてきて良かったと、心の底から実感させてやりたい……!
何だろう、この気持ちは。
湧き起こる暖かさが、ひどく心地よい。
例えは悪いが、冷水に浸かる中で湯たんぽでも抱えているような気分だ。
俺は汚いままだ。
それは死ぬまで変わらないだろう。
だが、それでも、そんな俺でも。
この子を護り抜いて死ねたなら、それは……幸せなのではないだろうか?
僅かでも思えるのではないだろうか。産まれてきた意味がある、と。
視界がぼやけた。
俺は涙を流していた。
シーツに包んだ子を抱えて、裏口を目指す。
別館の裏手にあるそこは、本館から見て完全な死角だ。
まずは安全な所へ退避しなければ。
住所を把握されている恐れがある。自宅は厳しいかもしれない。
あのナリだ。連中は車だろう。最寄り駅を避ければ電車でいけそうだが。
……警察を頼っていいものなのか。
エゴでもいい。どの選択がこの子に平穏を約束してくれる。
日常が破れたこの状況で、どうすればこの子を明るい世界へ返してやれる。
「高名の木登りって知ってるかい?」
一撃。
後頭部から背骨伝いに膝まで抜けるような、衝撃。
急速に狭まっていく視界と、意思を伝達しなくなる身体。
捻るようにして振り向く。痩せた、鷲鼻の男だ。手には黒い皮袋のようなもの。
駄目だ! 意識を繋ぎ止めろ! 寝れるか、ここで!
「おお、咄嗟に避けてたか。やるじゃないか坊主」
3人目か。ふらつく足の制御方法を探り、実行する。
クソが。油断したのか。気配の1つも察知できないで……!
「まぁ、なんだ。悪いようにはしないから、よこしな?」
ヨレヨレのジャケットの内側にホルスター。見せ付けているのか。
足運びも体捌きも玄人のものだ。訓練を受けた兵士の動きだ。隙がない。
裏門はすぐ後ろだってのに……1歩も動けない。動く機がない。
「無関係……でもなくなっちまったかな? やれやれ」
小袋をしまって歩み寄ってくる。
まずい。あと3歩で間合いだ。どうする。どうする。
あと2歩。どうする。後ろへ跳ぶか。いや、危険だ。
地形が確認できていない。目測を誤ると怪我は俺だけじゃ済まない。
あと1歩。前だ。下がれないなら前しかない。浴びせ蹴りだ。
顔の消失は相手の目測を眩ませる。一撃は出来る。その後に跳ぶ。これだ。
重心を下げようとした、そこへ。
校庭の方から重エンジン音。迫って来る。バイクだ。
「ちょ、おおお!?」
鷲鼻の男が飛び退いた。轢く気で来たぞ、そのバイク。
重厚なアメリカンタイプの車体に似合わない、随分とキュートなヘルメット。
何だっけそれ……コンビニで見た、アニメだかアイドルだかだ。
「悪ぃ、機械人形とやりあってたら遅くなっちまった」
黒縁眼鏡の男。誰だ?
「おっと」
発砲音。眼鏡男が撃った。
肩に掛けていたのは散弾銃か何かだ。
拳銃を抜こうとしていた鷲鼻男は物陰へ跳んだ。
好機だ。
「ん? おいおい、待てし」
更に発砲音。どういう東京だ、クソ。
裏口から飛び出す。寂れた商店街を走る。
少し遠いが隣の駅へ行こう。とにかく離れるんだ。
「待ーてーしー」
バイクが追ってくる。
何だ、どうして馴れ馴れしい。敵か味方か。
小道を選んで走っているというのに、大型バイクで器用についてくる。
「あれ? お前って依頼されてた奴と違う? でもそれ赤さんでしょ?」
害意は感じられないが、常に射程距離だ。
4人目というわけではないようだが……何者なんだ。
「ま、いいや。乗れよ。逃げるし」
背後に聞こえた車のエンジン音が選択を迫る。
乗ろう、ここは。
見たところ散弾銃は弾切れだし、背後に乗るのならむしろ優位だ。
少なくともこの場に留まるよりはいい。
「よっしゃ、赤さん落とすなよ?」
急発進を覚悟したが、そうでもなく緩やかな加速。
ただし上限は無視だ。国道に出る頃には、飛び降りることなど出来ない速度だ。
覆いかぶさるようにして、赤ん坊への風圧を減じる。
「てれれっ、てとてっ。てれれっ、てとてとてと」
歌ってやがる。この眼鏡男。
暴走としか思えない高速で、人を避け、車を避け、信号を無視して。
楽しそうにリズムをとっている。余裕なのか。イカレてるのか。
「辺境一の剣士、か……あの二刀とジャンプは浪漫だ。うん」
意味がわからない。
トラックとガードレールの隙間をかすめるようにして突破。
片側三車線の広い道路へ出た。更に加速。ノーヘルだぞ、こっちは。
風とエンジンの音が身を揺する。
赤ん坊への負担を考え、全身のバネを使った緩和を試みている。
見れば、また寝ている。この状況で。
「あれは落とせないよなぁ……あ、落とせる?」
促されるままに、空を見た。ヘリコプターだ。
……馬鹿なことを言う馬鹿だ。馬鹿だろう、この眼鏡。
いや待て。あれも追っ手なのか?
「ボーナス点はお預けだなっと」
半地下の道路へ差し掛かる。
潜るなり、そこで初めて減速した。中に隠れるつもりだろうか。
中央分離帯に寄せていって……おい、おい馬鹿、やめっ!
「よいやさー」
ウイリー走行というのだろうか。
乗り上げ、加速し、跳ねて……衝撃の着地。反対車線に。
「あ、舌噛まないようにね?」
遅ぇよ!
赤ん坊への衝撃は和らげたはずだが、どうだろう。
寝ている。良かった。それにしてもよく寝るな、この子は。
「ぺんぺれぺれれ、ぺ、ぺれれれぺぺれれれ」
またそれか。違う曲か。
反対車線の路肩へ、スルスルと進んでいく。
中型のトラックが停まっている。箱型の荷台の、後ろの扉が開かれた。
「トレーラーじゃ目立つ。でも浪漫。ガッカリだよね?」
この眼鏡男は発言のいちいちが不明だ。スロープが下ろされた。
慣れた運転でそれを伝い、荷台へ。すぐに扉が閉められる。発進する。
バイクがロープで固定されていく。眼鏡男と作業服の女性によって。
荷台の中は照明が灯り、簡素ながらベンチや作業台、棚などが設置されている。
クーラーボックスもある。作業服の女性がペットボトルを手に寄ってきた。
「初めましてかしらー? 私、雨宮理沙。よろしくー」
フワフワと波打つ髪、眠たげな目、優しげな笑み。
その頬は機械油で汚れ、大きめの作業服も薄汚れているのだが。
俺にはその女性が、どうしてか母親に見えた。