三船秋生EYES-Ⅰ
泣き声がする。
ガキの泣き声だ。
辛くて辛くて堪らない、そんな泣き方。
助けて。誰か助けて。救って。救い上げて。
馬鹿だなぁと思う。誰も助けちゃくれないさ。
助けてやりたいとは思う。でも無理だ。救えっこない。
お前、汚れてるよ。俺みたいだ。
まぁ……いずれ気付くさ。泣くことの無意味さに。
とりあえず生きることだ。生きてさえいれば、手足の力も増す。
立って、歩いて、掴めばいい。それで大体は何とかなるから。
ほら、泣くなよ。汚れ者。
仕方ないんだよ。もう。取り返しはつかないんだ。
誰もがお前を避けるだろうが、汚れているお前が悪いんだ。
人に擦り付けるくらいなら死ねよ。居るだけでも迷惑なんだから。
綺麗なものは素敵なんだ。
お前が触っていいもんじゃない。わかれよ。
……それにしても。
随分と俺に似てるなぁ、お前。
俺なのか? ああ……俺なのか。なんだ。
ふざけた夢だ。
夢の中くらい、俺が俺であることを忘れさせてくれよ。
クソが……さっさと覚めろ。
◆ ◆ ◆
夢なら覚めろ。マジで。
「くあ~、かわゆい~!」
「何歳……っていうか何ヶ月かな?」
「2人して寝てるとか超癒されるんですけど!」
駄目だ、状況がわからるまでは寝たフリだ。
ここが教室で、窓際の俺の席だってのはわかる。
朝だ。始業前だ。ホームルームすらまだ始まらない。
「よく見ると……似てる?」
「そうかも。やっぱり三船くんの赤ちゃんなのかな?」
「ええ!? 普通、妹とかじゃない?」
「弟かもよ? 三船って中性的だし」
やばい、声が増えてきた。状況が悪化してきてる。
腕の中で妙に暖かい物体……柔らかい……やはりアレなのか。
見間違いじゃないのか。すうすうと寝息まで聞こえるし。
「おっはよーう、皆の衆!」
「あ、おはようナッちゃん」
おお、これは夏紀の声。
普段はめんどくさいお前のテンションが、今はとても頼もしい。
「何してんの? アッキーの周りに溜まるとか超珍しいじゃん」
「そ、そりゃあ……普段はちょっと……ねぇ?」
嫌われてるからな。
だから迷惑にならないよう気を使って生きてる。俺なりに。
朝一で登校するのもそうさ。一番当たり障りがないだろ?
「わ、やばーい! 何これ、超可愛いぃいいいい!!」
「でしょ! でしょ!」
「天使じゃん! 天使がいるじゃん!!」
お前も一緒に騒ぐのかよ、夏紀。
っていうか、うるさいよな?
お前の言う天使、起きちゃわないか? 俺も普通は起きるんじゃないか?
「よし、わかった! 説明しよう!」
おお、夏紀。何がわかったというのか。
藁をも掴むぞ、今の俺なら。
俺のブレザーは小さい何かに掴まれているが。
「アッキーの抱えてる赤ちゃん。可愛いね?」
「「うんうん!」」
そうか、可愛いのか。いや、そうじゃなくてだな。
「ところで、このクラスで一番可愛いのって誰? 僕だ」
「「うん、うん?」」
相変わらずわけわかんないな。おい。どうせドヤ顔なんだろうが。
「そして、僕はアッキーを愛している。皆知ってるよね?」
「「うん! うん!」」
物凄く嫌な予感がしてきた。拳は……駄目だ。塞がってる。
「つまり! この赤ちゃんは僕とアッキーの子供なnゲフォォオオオオ!?」
蹴り飛ばした。
机を2つ3つ巻き込んですっ転ぶ、美少女風の男。
「痛いなぁ」と笑顔で立ち上がるのは、街でスカウトされまくる、男。
男だ。いや、そうでなくとも有り得ないが。
……人垣が散った。
そう、背を向けてくれた方がいい。関わらないのが日常だ。
距離感を誤ると嫌な思いをするんだから。お互いに。
「やっぱり起きてたんだ? アッキー」
「……俺の子じゃない」
「じゃあ、誰の子なのさ?」
「わからない」
赤ん坊だ。
抱えていたのはやはり赤ん坊だった。まだ寝ている。
見覚えがないし、そもそも心当たりがない。
今朝は……いつも通りに登校したはずだ。記憶が曖昧だが。
こう、習慣に身を任せてる感じなんだ。最近ずっと寝不足気味で。
誰もいない教室でうたた寝するのも、このところの日課だ。
でも、それにしたって。
気付いたら赤ん坊を抱えてたってのは、どうなんだ。
悪戯にしちゃ性質が悪すぎるだろ。落としたりしたらどうするんだ。
「アッキーは捨て猫とか超拾う派だからなぁ」
待て待て。関係ないだろ、この状況に。
拾った覚えもないし、そもそも捨て子だとしたらエクストリーム過ぎるだろう。
朝の高校に忍び込んで、居眠りする男子に気付かれないよう抱きかかえさせて。
そうだ、無理がある。
だが現実問題として、俺は赤ん坊を抱えて眠りこけていた。
どういうんだ……普通に意味がわからない。
「あれ、どこ行くの?」
「職員室」
異常事態の説明はつかないが、この子に罪があろうはずもない。
親を探すべきだろうし、何よりもきちんと保護されるべきだ。
そしてどちらも「社会」の仕事だ。個人の善意でどうこうする話じゃない。
「へぇ……凄いじゃん」
廊下へ出ても夏紀がついてくる。
俺が出るなり、教室は随分と騒々しくなった。いつものことだ。
入って静まるよりは、まだこっちの方がいい。
「アッキーが先生頼るなんて初めてじゃない?」
事が事だ。我慢もするさ。
色々と聞かれるだろうし、それにうまく答えられるとも思えないが。
どう転んだって、赤ん坊にとって悪い話ではないはずだ。
「気付いたら抱っこしてたってことなんだよね?」
「ああ」
「身に覚えもないんだよね?」
睨みつける。
夏紀は笑顔だ。コイツはいっつもこうだ。
俺は……殴ったり蹴ったりしちまうのに、平気な顔でくっついてくる。
高校だって本来ならここじゃないだろ?
頭脳もそうだが、何よりも家格ってやつが違う。
物好きというか……つくづく変わった奴だと思うよ。
「あ、ねえねえ、僕にも抱っこさせてよ」
「ん」
手渡そうとして、それが中々に難しいことがわかった。
凄い握力で掴まれている。どこか柔道の組み手を思わせる握り込みだ。
起こしても可哀相だし、慎重に剥がさなければ。
「手ぇ、ちっちゃいねー!」
ん?
涎掛けの裏に何か貼り付けてある。
ノートの切れ端か。何が書いて……英語か。
『Live your life without attracting attention』
なるほど、わからん。
夏紀に渡してみる。評定平均4.8の力を見せてくれ。
「え、何? わ、英語だし……注意を引かないように生活を送れ、かな?」
何だそりゃ。目立つなってことか?
何を馬鹿な。十二分に目立っただろうが、既に。
こんなことを仕出かした馬鹿野郎に怒り覚えた、その時だった。
「わっ!?」
爆発音だと思う。
同時に、窓という窓がビリビリと鳴動した。
「わ、ちょ……ええ!?」
「気をつけろ」
ガラスが割れなかったのは良かった。抱えているものがある。
あちこちで教室のドアが開き、ギャアギャアと大騒ぎが起こった。
何人かはこっちを見てギョッとしている。
1年の教室は4階だ。外を見やる。
黒煙が上がっているな。高架道路の方か。
交通事故……にしては凄い規模だ。この距離で衝撃波が来たとは。
或いはテロか?
或いは戦争か?
「アッキー?」
匂いがする。
鼻の奥で赤く尖るような、この匂い。
暴力の匂いだ。悪意の匂いだ。
全身の躍動を感じる。焦がれるような衝動がある。
殴りたい。蹴りたい。壊したい。手が震える。
くそ……狂ってるな。
あの男の血だ。俺の血は半分は腐った液で出来てるんだ。
全部搾り出してやろうか。あいつにしたように。全部ぶちまけてやろうか。
「アッキー! ねぇ、アッキー!」
……ゆっくりと呼吸しよう。
腹の底の何かを汲み上げて、吐いて捨てるようにして。
落ち着け。衝動を鎮圧するんだ。ここに敵はいないんだ。
「職員室へ行く」
とにかく、赤ん坊だ。
何の因果か俺の腕の中で眠っているが、安全に保護されるべきだ。
いつまでも俺が触れていていい存在じゃない。
綺麗なんだ。
世界が自分の為にあるとを信じて、疑ったことすらないような。
何の強張りもなく身を委ねきった風の、この寝顔。
大事にされるべきだ。貴重なんだ、その時間は。
「ねぇ……抱っこ」
忘れてた。
丁重に引っぺがして、柔らかくて軽い、いい匂いのするものを渡した。
嬉しそうに抱える夏紀を見て、何故か、ひどく気分が良かった。
「ですから! 三船くんも心当たりがないって言ってるんですよ!」
夏紀が教師に力説してる。
気持ちは在り難いが、言っても通じないものってのがある。
無駄だよ。見ろよ、もう答えを用意した顔してるだろ?
「警察に任せるってのはわかりますよ。でもどうしてここへ呼ぶんですか!」
そりゃ簡単な話だ。
事件に加害者と被害者がいるとして、俺は加害者ってことなんだろ?
下手したら誘拐犯に仕立てられたりしてな。凄いな、それも。
筋書きってのが大好きだよなぁ、アンタら。
何がどうしてそうなったか、全部説明できないと息も出来ないんだろ?
「俺」だしな。気持ちはわかるよ。好きにしてくれていい。
そもそも。
俺と一緒に車に乗りたいわけがない。
今も体育教師が2人も待機だ。つか、1人は担任だ。クラスはどうしたよ。
「なら、僕も同席します。どうして駄目なんですか!」
そろそろ剣呑だ。
腕をつかみ、顎で廊下を示す。あんま騒ぐと大学の推薦とかに響くぞ?
って、おいおい……何身構えてんだよ、アンタら。
やんねえよ。やったことないだろうが。高校は卒業したいんだ。
大人しく従うさ。最初にそう言ったろ。素晴らしいとか言ってたろうが。
「あ、アッキー!」
「いいから」
気持ちはありがたいし、ある程度させないと返って騒ぐから放っておいたが。
先がある奴は無茶をしないほうがいい。勿体無い。
家族のいる奴もそうだ。自分だけの人生と思わないほうがいい。
危ない奴に構ってる暇なんて、本当はないはずだぜ?
静かになった校長室で、待つ。
赤ん坊はソファーでむずかりもせず寝ている。
校長がテレビをつけた。報道番組の透明な音声が流れていく。
へぇ……さっきの爆発は車両事故か。
タンクローリーに乗用車が突っ込んで爆発とは、大事故も大事故だな。
死傷者は多くなりそうだ。通行止めも長いだろう。
現場の映像か。
おーおー、悲惨だな。
乗用車の方、原型も留めちゃいないぜ。高級車っぽいが。
ああ、あのエンブレムならわかる。
BMWだ。ドイツ車だっけか?
ん? そろそろ警察のお出ましかな?
名前も知らない教師が入ってきて、校長に何やら話している。
いつもの少年課の人かな……だとしたら、少しは話が通じるんだが。
校長が妙に挙動不審だ。そわそわしてる。
何だ……どういうんだ?
おい。
待て。
匂いがするぞ?
暴力の匂い……それもすこぶる強力な……危険な匂いだ!
全身に震えが走る。怯えじゃない。身体が用意を求めてる。
硬直を解せ。切り替えろ。油断するな。戦え。戦え。
教師たちは気付いていない。これは俺にしか気付けない。
何度も何度も暴力にさらされ、死にかけ、生き延びた俺にしかわからない。
死だ。死の気配だ。近づいてくる。準備しなければ!
立ち上がった俺に、教師たちが不審の目を向けてくる。座って待てと言う。
正しいなぁ、アンタらは。正しいよ。俺の方が異常なんだ。
平和って、きっと正しさの先にあるんだ。尊いと思う。
けどな、今迫っているのは「正しくないモノ」だよ。きっと。
少年課の人たちじゃない。そういう類じゃない。
あの男に似てる気配だ。血が教えてくれる。同類だ。
殺人を楽しめる奴の匂いだ、これは。
教師がギョッとした顔をしている。それで気付いた。
笑顔なんだ、俺は。
頬を触って確認した。やはりな。俺は笑っている。
狂ってるな。狂ってるよ。
どうしようもないんだ、もう。狂人なんだ。
お仲間がくると嬉しくなっちまう程に、どうしようもない。
けど、なら、どうしたもんか……赤ん坊を。
警察に保護して貰うつもりだったが、どうにも怪しい塩梅だ。
警察関係者なのか? こんな物騒な匂いをさせる奴が?
無関係な狂人か? 警察への連絡を知り、学校が迎える姿勢の奴が?
状況がわからない。今朝はそんなんばっかだな。
そういう時は、隠れるんだ。わかるまで。
それが生き延びるための鉄則だ。
常識は、正しい世界でしか人を護ってくれない。
教師を無視して赤ん坊を抱える。
廊下へ出て、走る。
誰もいない場所、赤ん坊を隠せる場所……別館2階の数学資料室。
……しかしよく寝る子だな、この赤ん坊は。
オムツとかも平気っぽい。濡れていない。
何とも長閑な寝顔で、どうにも力が抜けてくる。綺麗だな。
扉を外して、中へ。
赤ん坊を1人にすることはひどく不安だが、他にしようがない。
異常事態には異常に対処するしかないんだ。
よし、来訪者を確認しなければ。
きちんとした人間ならば、預けよう。
勘の通りならば、逃げよう。赤ん坊を抱えて警察へ行こう。
……何の因果で俺は、こんなことになってるんだか。
校長室前の廊下に、そいつはいた。
細身のスーツの男に並んで、圧倒的な存在感でもって、山のように。
巨体を包むのは黒い和服……法衣っていうのか?
葬式で坊さんが着てるやつだ。坊さんとは真逆の雰囲気をまとって。
力士。
いや、仁王。
いや……鬼、か。
接近したのは失敗だったかもしれない。
気配を殺し、物陰から窺い見ているが……恐らく気付かれている。
顔をこそ向けてこないが、それ以外の所作が俺を意識している。
どうする。
いっそ姿を見せるか、それとも離脱するか。
俺だけならば間違いなく逃げる場面だ。あれはヤバい。
だが、赤ん坊がいる。正体を確かめなくていいものか?
「縛」
スーツの男が何事か呟いた。
指についた水滴を払うかのように、振る。俺の方に。
な、に?
身体が……う、動かない……だと!?
体勢が崩れる。バランスを直せない。廊下のタイルが迫る。
い、てぇ……瞬きもできない……!!
息も吸い辛い……焦る、焦る!
のっしのっしと近づいてくる、大坊主。
その重みを震動として頬に感じる。来る。濃厚な死の気配が来る!
指を鳴らす音がした。骨を圧し折るような音だ。来る。来るぞ。
殺される。
久しぶりに感じた、その確信。
何度となく味わった、この絶望。
ああ……わかりやすい。わかりやすいなぁ。
死ぬか死なすか。単純明快だ。畜生、居心地がいいぜ。狂ってる。
ははは、畜生が、結局ここなのかよ。
この灰色の世界では。
俺の汚れも、目立たない。惨めじゃない。
俺は震える唇を噛み切って、自分の腐った血を、味わった。