悪ナル王ヘ-Ⅱ
ボトリ、と落ちてきたものがある。
禍々しい空から、落とし子として、地上に降り立ったもの。
大きさは馬くらいか。全体として獣脚類の肉食恐竜に似ている。
黒々とした鱗に覆われた全身には紫色の粘液が滲んでいて、2本の脚は
3本の鋭利な爪と1本の鋸状の蹴爪とを持つ。目は蜘蛛のような多眼。
鋭い牙の並ぶ大きな顎、長くて凶悪な印象を与える尾など、見るからに
化物じみたその姿の中で、腕だけが奇妙に人間と酷似している。肌色だ。
指も五本あり、すらりとして、女性的な優美さも備えている。
それは名をガイストという。地球由来の言葉ではない。
とある世界において造られた魔物のうちの1種である。
製造された目的は単純明快だ。即ち、人を殺すこと。
人間よりも速く走り、高く跳べる。皮膚は剣を通さぬ硬さだ。顎は鎧を
着た人間をも一撃で噛み殺せる。反射神経にも優れ、機敏に動作する。
その手は、扉を開けることができる。居住空間へ侵入できる大きさ。
人間を駆逐しようとした場合、極めて効率的な兵器である。
事実、その世界においては総人口の8割以上を殺傷してのけたのだ。
そんな化物が、1匹、東京のアスファルトの上に立っている。
周囲にはまばらな雑踏があって、十数人が呆気にとられて見ている。
恐竜のようで恐竜でない、もっとグロテスクな印象のそれを。
殺戮はおもむろに始まった。
捕食ではない。ただの殺人だ。
噛みつき砕き、肉を口腔に含んでも、適当に咀嚼して吐き出してしまう。
純粋に人を殺すのだ、これは。効率的に多数を、迅速に、正確に。
しかも、犠牲者は殺されるだけでは済まないのだ。
見よ。ガイストの体表から立ち上る霊威の煙がある。毒々しい色のそれ。
それは殺せば殺すほどに発生し、全てが上へ、雲へと吸収されていく。
それは怨嗟だ。怨念だ。恐怖だ。苦悶だ。悲嘆だ。
無惨に殺された犠牲者たちの魂なのだ。それが非業の色に染められて。
忌まわしい「糧」として貪られているのだ。あの渦まく雲に!
つまるところ、このガイストという化物は、化身なのだ。
あの雲の力で誕生し、稼働する兵器。あの雲のために人を殺す凶器。
おお……何ということか。
1匹ですら既に100に迫る命を屠らんとしているのにもかかわらず。
降る。降ってくる。あの雲の中から、化物が、群れをなして、大量に!
1つのサイクルが生まれつつあった。
ガイストが人を殺し、その魂を糧にガイストが生産され、より人を殺す。
拡大していく。被害が甚大になっていく。虐殺の園が広がっていく。
誰が知ろうか。このようにして滅ぼされた世界があったことを。
殺し尽くした果てに神の如き力を手に入れた男がいたことを。
その男はこの世界における名前を、ソウルという。
詳細を理解することはできまい。この世界の住人にはそれが不可能だ。
しかし現実として、脅威として、危機として、彼はここに在る。
世界とは理不尽を理として動いていく節があるのだ。
立ち向かわなくてはならない。
与えられた全ては、奪われる物なのだ。
それは世界ですら同じこと。自らの努力によってでなく在ったものだ。
ならば誰かに奪われる。何の努力もなくば奪われることが当然なのだ。
抗わなければならない。
自らの力で得なければならない。価値があるのだと気付いたならば。
戦わなければならない。それを再び己のものにするためには。
勇気とはそれだ。誰かのせいではなく、自分の誇りとするために。
今や急速に地獄へと変貌しつつあるこの東京において。
戦士たちは既に在るのだ。抗い、敵を打倒せんとする者たちが。
防衛ラインを構築し、人々を救助・輸送していくのは自衛隊だ。
通常兵器ではガイストを葬ることは叶わない。しかし停滞は可能だ。
犠牲を出しつつも民間人を安全圏へ……今のところの安全圏へと運ぶ。
都内に残り、ガイストの群れに敢然と戦いを挑む者たちもいる。
『天桐』の方術士たちだ。その先頭には戦甲冑も艶やかな大槍の女侍。
霊験兵器『火之迦八号』を振るう巴山薫子である。
殺人に特化した化物は余りに強力だ。だが挑戦をやめない。
仲間の死に打倒のヒントを、情報を得て、即座に戦術へと昇華して。
殺されながらも殺す。殺してみせた。反撃は成しえるのだ。
在日米軍もまた出動した。自衛隊と協力して戦闘を開始している。
その一方で独自の作戦をも実行しているようだ。交戦意欲は高い。
夜を通しての死闘。
それは払暁に至って尚激しく続く。消耗し後退しつつも、強硬に。
そんな東京を東の遠方に見る者たちがいる。
不死山頂へ到った月盟騎士団の面々である。
「早い……あれが予言のものだとしたら、あまりに唐突過ぎる」
初老の男性が言う。登山経験の豊富さから、一行を先導していた男だ。
騎士団でも古参の団員であり、今までは京都において活躍していた。
他にも有力な団員が幾人も終結している。正念場なのだ。
その面々は一様に落ち着かず、口々に疑念を口にしつつ東を見やる。
今この時にも襲撃される恐れがあるのだが、緊張感は失われていた。
「神子による世界の革新さえ成れば、防げるはずだったのでは……」
「うむ。低きに落ちようとする世界を浮上させたならば、防げたはず」
「何を馬鹿な、見ろ、既に外界の脅威に侵入されているではないか!」
「やはりそうなのか? あれは異世界からの侵略者なのか?」
荒唐無稽に聞こえてくる諸説だが、誰もが真剣である。事実だからだ。
彼ら月盟騎士団は、月の夜の夢の先に会議を開いている。
それは半ば世界から逸脱した空間であり、参加者は人間だけではない。
例えば、猫だ。
ただの猫ではない。彼らは世界の外側の事情をよく知っている。
世に霊獣は多々あれど、猫の霊獣ほど「異界渡り」に長じた種族はない。
世界の境界を超えて見聞を広めている者たちなのだ。
その猫は教える。
世界は1つではない。数多の世界が併存しているのが真実であると。
或いは似通った、或いは似ても似つかない、そんな無数の世界たち。
「我々の世界群」という言い方で、その在り様を語る。
それはつまり、別の世界群が存在することを示唆している。
優劣とは違う次元で、世界群には上位と下位とがあるのだ。
それはある意味で位置エネルギーによる区分である。水を思うといい。
高きから低きへ水が流れ落ちるように、様々なものが上から下へ落ちる。
例えば影響力。上位世界群が憎しみに満ちれば、それは下位へ影響する。
下位世界群には病のように憎しみが伝播し、争いが起きやすくなる。
例えば人の魂。意志もつ存在は、その位置に在り続けるために力が要る。
力を失うなり抜くなりすれば、時として、下位へと滑り落ちる。
そして、ある1個の世界そのものが力を失ったなら、やはり落ちるのだ。
所属する世界群での高度を失い、低まり、やがては下位へと落ちていく。
多くの場合、落下とは破滅を意味する。
人であれ世界であれ、その存在を破砕され、素材と成り果てるのだ。
しかし、それは仕組みであるがゆえに、安全網も備わっている。
上位世界群と下位世界群との狭間に広がる空間。星空に満ちたそれ。
(落ちゆく魂を受け止める虚空、それを深淵という)
火口部へ100メートルほど降りた所で、三船秋生はその声を聞いた。
(そこもまた第三の世界群であるが、同時に魂の修練場でもある)
溶岩の固まった歪な岩が形成する、まるで違う惑星のようなそこで。
秋生は神子を抱えて腰を降ろしている。その身を包む霊威は凄まじい。
「あんたはそこから来たのか」
(出戻りだ。元はこの世界とよく似た日本にいた。一度落下して、再び
この世界群の位置にまで昇ってきたのだ。少々力をつけてな)
「少々、ね……」
日本列島の最高峰、不死山。ここは巨大な地脈が複数交差する霊場だ。
その霊力に包まれて、神子はその存在感をいや増しに増していく。
未だ不完全なその在り様が、急速に完全へと近づいているのだ。
「あの雲……あれも、そこから?」
(そのようだ。私が対立者たちとの決戦に及んだ時、全力を発揮でき
ない事情があったのだが、対立者たちもまた予想より弱勢であった)
「……つまり、あんたと対立しないで、逃げた奴がいたのか」
(うむ。階を昇れたというのだから大したものだ。しかしそこまで。
丁度、高度を下げていた世界、つまりはここに逃げ込んだのだな)
秋生は笑うしかなかった。とんでもない話だ。規模が大き過ぎる。
「なら、あんたが始末したらどうだ?」
(この世界がそれを望んでいない。自ら困難に立ち向かおうとしている)
「……この子、か」
(そうだ。この赤子こそ、世界が危急の時にあって生み出した存在だ)
手の中に眠る神子を見る。あどけない。そして愛おしい。
霊力が奔流となって流れ込んでいる。超常の子。この子が戦うのか。
小さな、ぷっくらとした手を見る。小さい。紅葉の葉のような大きさ。
己の手を見る。大きい。父を含む多くの命を奪った手だ。
腰の剣に触れる。これは牙だ。自分という獣が持つ、闘争の手段だ。
「俺で済ませたい」
呟く声。返事は無い。
「俺で充分だ」
剣の柄に触れる。力も込めないのに、スルリと鍔の封印が解けた。
再び手を見る。神子を抱いていた手だ。その身を任されていた手だ。
「俺は……そのためにいるんだと思う」
神子に触れたその手で、自分の体にそっと触れる。学ラン越しの体温。
これも命だ。汚れた身ではあっても、熱い血が通い、力を秘めている。
そう、力だ。
敵を打ち倒し、血塗れになっても突き進んでいく、暴力に由来する力。
どこまで研ぎ澄ましたところで、これは誰かと潰し合うためのものだ。
思う。神子はきっとそういうものではない。最強が正解なのではない。
もしもそうならば、世界はきっと、そのまま沈みゆくだろう。
神子は秋生の子ではない。子ではないが、しかし、子でもある。
どこの世界に、自らの子に暴力を望む親がいるだろうか。
逆だろう。遠ざけたいと願うだろう。暴力の席巻する環境から離して。
父たるものは、防波堤となるべきだ。
いずれやむを得ず過酷な環境が子を包むとしても、必ず護り、慈しむ。
やがて子が自ら立つ日が来るとしても、それは結果に過ぎない。
少なくとも、秋生の脳裏に妥協はなかった。
世界の趨勢など本来は興味の外のことだ。彼自身の幸せは既に潰えた。
しかし神子は違う。神子のために、最善の世界を用意してやりたい。
その為には、あの雲は、余りにも目障りだ。
「俺がやる」
これは宣誓である。
今、世界に滅びの危機が訪れようとしている中、不死山の頂において。
新人類たる神子を抱きながら、1人の少年が、誓いを立てたのだ。
純粋で一途な、そして不退転の闘争心。
「……あんたはどうするんだ?」
(見学する)
「いいご身分だな」
言った秋生の脳裏に、ほんの一瞬、見たこともない青年の顔が映った。
月色の双眸も煌々として、黒髪の下に絶世の美貌の微笑み。その荘厳。
(何しろ魔王だからな、私は)




