悪ナル王ヘ-Ⅰ
その夜、東京が変わった。
夕陽の池袋に炎の大柱が立ったその夜から、全てが悪い方向へ変わった。
まず空が陰った。灰色の曇天だ。
厚い雲が都心を中心にして渦を巻き、いっかな動こうとしない。
不気味に蠢く灰色の濃淡は稀に赤や紫といった色を雷光に仄めかせる。
臓物のような空だ。
そして赤子が泣き出した。ひきつけを起こしたかのような絶叫だ。
方々で親たちが慌てる。どうあやしつけても止まらない叫び。
それは恐怖の主張だ。悪しきものへの警告だ。魂の限りに声を上げる。
動物たちも平穏を捨てた。
猛り狂い、空を見上げて血を吐かんばかりに吠える。睨みつける。
まるでそこに不倶戴天の天敵がいるとでも言わんばかりの戦闘態勢で。
霊感が強い者たちも狂った。
落ち着きをなくし、聞いたこともないような予言を語りだした。
倒れる者も続出した。中には血を吐いてショック死したものすらいる。
それらでない、一般の人間たちも、誰もが胸にざわめきを覚えた。
この夜が普通の夜でないことを、何とはなしに、理解していた。
この夜は明けない。目を閉じてやりすごせない、そんな夜なのだと。
全ての者が空を見上げた。
生命あるものとして当然の、その行為。しかし、何ということか。
禍々しく対流する何かは、その誰も彼もを見つめ返していたようだ。
人々が狂いはじめた。
その男はコンビニで夜食を買いに来たのだが、空を見上げたなり、走った。
店内へ猛然と駆け込み、食料品の棚を荒らし始めた。その場で食べ始めた。
どれもこれもを、全部など食べきれるわけもなかろうに、一心不乱に食う。
違う女はゴミ集積場に放火した。彼女はそこの乱雑さを不快に感じていた。
異なる男はモバイルを連打し始めた。課金行為を連続しているようだ。
別な女は目の前の女の鞄を奪った。始まる乱闘。爪を突きたててでも奪う。
全ての人間が狂ったわけではない。
しかし少なくない人数が狂い、周囲に猛威を振るい始めている。
狂乱の夜の始まりだ。悲鳴が。怒号が。煙火が。夜の東京のそこかしこで。
街を見まわし、空を見上げ、苦悶に満ちた呟きをもらした少年がいる。
「始まってしまったか……これが彼奴の真の姿、真の影響力!」
墨染めの法衣をまとった少年、魁尊である。歯を食いしばって走り出す。
駆けるうちに並走してきた僧がいる。街角で托鉢に立っていた虚無僧だ。
「魁尊様、これは……」
「うむ。もはや時間稼ぎも誤魔化しもきかん。眠れる虎は目を覚ました」
「神子の行方に目処がたったようですが」
「優先すべきことを誤るな。未知の危険よりも眼前の脅威だ。外苑へ急ぐぞ」
走る先には池袋警察署がある。目当てはそこのヘリコプターだ。
「ご当主に御出陣して頂くよりない!」
「思いも寄らぬパンドラの箱じゃったな」
横須賀ベースの地下作戦室において、ハイマリアは肩をすくめてみせた。
居並ぶ面々も渋面ながらそれぞれに息をついたようだ。事態は深刻である。
第2方面軍の威信をかけて行った探索でもって発見したソウル元少佐。
彼は現地人の少年たちを集めて淫靡な遊興に耽っていたようだ。
戦闘力を鑑みてストーム大佐が接触を試みた結果は、脱走認定である。
上層部の許可も降りて処刑へと推移したのだが。
「アレは普通では倒せん。通常兵器では逆にエネルギーを与えかねんわ」
東京上空に発生した怪奇の渦雲、その性質をハイマリアは看破していた。
『神眼』だ。これまで多くの悪魔、化物の類を見極めてきた力である。
渦雲はソウル元少佐の変異体で間違いない。
質量という存在根拠を必要としない、霊的な高エネルギー生命体である。
物質的な攻撃は無効だ。爆発やレーザーなども吸収される恐れがある。
まだ破壊行動をとっていないが、精神汚染といったものは拡大している。
テレパシーの類だろうか。人を狂わせる念波が強烈に放射されているのだ。
その範囲は東京近郊に限られているが、次第に被害地域が広がっている。
大きくなっているのだ。
渦雲は発生当初よりもエネルギー総量を増してきている。
限度は知れない。或いは地球上を蔽いつくすつもりなのかもしれない。
「そうなると、私ではもう手に負えませんなぁ」
大げさにため息をつくのはストーム大佐だ。
池袋の夕暮れにミサイルを叩き込んだ後、即座に撤収してここにいる。
彼の能力『神達』はあらゆる兵器を支配下において操る力だ。
ミサイルで葬れない相手ならば、確かに手の出しようもない。
「私なら斬れるかしら?」
そう言って笑うのはグロス中佐だ。派手な美貌が地下室に眩しいほどだ。
彼女の影には、今この時にも人造聖剣KOLが身を潜めている。
そしてそれは敵に応じて最適化する万能兵器だ。霊体であろうと斬り裂く。
「斬れるじゃろうな」
ハイマリアの返答は確信に満ちていた。
「斬れるが、倒しきれるかどうかとなると、怪しいものじゃの」
「それは私の能力の問題でしょうか」
「中佐の実力の問題じゃ。相対的に相手が強大過ぎる」
辛辣な物言いである。しかしハイマリアには見えるのだ。
あの渦雲は純粋に強い。恐ろしいほどだ。桁違いとはこのことかと思う。
人間が抗えるレベルを超えているのかもしれない。だが、それがどうした?
ハイマリアには他の誰も持ちえない能力がある。
それはつまり、他の誰も成しえない使命を帯びるということだ。
神は試練を与えるが、それは超えられる限界であって不可能ではない。
彼女はそう信仰しているし、これまでもそうして苦難を乗り越えてきた。
今回に限って絶望する必要など感じていない。むしろ聖戦の予感すらある。
ましてや、ソウルは仮にも自らの部下であった男だ。
それに対して恐怖し、自らの義務と責任を放棄することなど考えられない。
在るものは無くできる。それが真理だ。
在らぬものを在らせるよりもよっぽど容易ではないか。
「なに、単独で戦う必要もないということじゃ。戦力を結集させねばの」
「……それはつまり、共闘もあり得るということですな?」
大佐にしては重々しいその口調。確認していることは大きな事柄だ。
各方面軍の戦力を指してのことではない。彼の言わんとするところは。
「そうじゃな。これより『天桐』へ交渉に赴くこととする」
そういうことだ。
結果として災厄を持ち込んだ形となった第2方面軍であるが。
事の軽重判断を誤るハイマリアではない。責任逃れをする気もない。
「情報を提供して一時的な共闘体制を申し出る。断るのは自由じゃ」
断られたなら、その時は。
その時は、手段を選ばない闘争へと突入するだけだ。
東京の片隅にある、とある邸宅で。
美貌の母と美少女のような息子とが取っ組み合いの喧嘩をしている所へ。
「め、恵……!?」
「お、お姉ちゃん……!?」
高校3年生になってより部屋から一歩も出てこなかった長女が姿を見せた。
母の娘だからか、弟の姉だからか、どちらとも知れないが。
美しい。美しすぎる。
深窓の令嬢にして傾国の美女とでも評すべきか。
美は国境を超えるとでもいうのか、国籍不詳の造形は女神の像のようだ。
栗色の髪がシルクのような揺らめきと煌めきを惜しげもなく発している。
その装いは奇異であるのに、それも含めて妖しい魅力に昇華されてしまう。
古風で重厚な作りの学ランに、五芒星飾りの学帽、黒外套、白手袋。
男装の美女とはかくも圧倒的なものか。母と弟すら見惚れて動けない。
「長らくご心配をお掛けしました。私、用向きあって外出いたします」
もしもその声で「死ね」と言われたなら本当に死んでしまうのではないか。
それほどまでの妖しい力……魔力に満ちた声音。只者であるわけもなく。
今、この時に。
空を見上げて狂った者の1人が、この邸宅へ向けて火焔瓶を放り込んだ。
財を成した者への嫉妬と攻撃性とが、灯油と炎とに化身して入江家を襲う。
……襲うはずであったが、しかし。
それは見えない壁に弾かれて、投げた本人の頭上へと舞い戻ってきた。
たちまち燃え上がる。控えめな街灯など凌駕して放たれる光と熱の、死。
「『魔力壁』。成程、こちらでも使えるようですね」
玄関先に出てきた恵が呟く。立派な扉を背景に立つその姿は芸術だ。
これから荘厳で浪漫に満ちた何かが始まりそうな、そんな予感を抱かせる。
彼女の足元へ擦り寄っていく黒猫がいる。
月色の瞳を歪めた様は、まるで笑っているかのようだ。
「帰還するや否やの魔法行使、お見事だニャ」
しゃべる、この猫は!
「けど調子のんニャア? あの御方が特別に使わせているだけの力ニャ」
「……わかっています。自らの力で戻ったわけでもなし」
悪魔か何かなのだろうか、この猫は。わざとらしく毛玉など吐いてみせる。
美の化身とも言うべき麗人に対してあまりに傲岸不遜である。
「それにしても、これは……」
「……全く、えらいこっちゃニャ」
見上げる空はもはや昼も夜もない有様だ。
生物的なグロテスクを雷光とちらつかせ、雷鳴で喧伝する、その背徳的存在。
雲のわけがない。神のわけもない。邪悪な在り様を見せつけるそれは。
「「宇宙諸神)」」
1人と1匹の声が揃った。
この者たちはあれの正体を知るというのか。この天変地異を説明できるのか。
「ま、とはいえ、所詮はハグレ。決戦を避けて上手くトンズラした奴ニャ」
「あれで『所詮』ですか……あれで」
「お前さんもああなる予定ではあったんニャろ?」
「冗談じゃありません。私は平和主義者です。慎ましく穏便に在りました」
猫が腹を抱えて笑い転げている。この異常な状況ではそれも普通なのか。
息もできないほどに笑った末に、2本足で立った。口元を前足でぬぐう。
「笑い殺す気かニャア」と肩で息をしている。恵は憮然とするのみだ。
「何にしたってお前さんの故郷ニャ。気張るこったニャア」
「わかっています。まずは『天桐』の本部へ……ちなみに私は飛べませんが」
「運び屋は借りてきたニャ」
猫が言うなり、その影から立ち現れた人影がある。
影そのものを衣服のようにまとった少女だ。銀髪で細い目をしている。
「……『雪風』」
「あくまで運び屋、戦いには参加しないニャ」
「……これを機に返してくれてもいいんですけど……」
少し頬を膨らませる、その表情の破壊力たるや、正に傾国傾城。美は力だ。
雪風と呼ばれた少女が、そんな恵の背後にまわった。音も無い移動である。
少女から影が、炎のように膨張して広がって、2人を包み込んだ。
「最後に確認しておきたいのですが……『彼』は?」
「お忙しそうニャ。推し量るのも畏れ多いことではあるけどニャア」
「……自分たちの世界は自分たちで護れ、ということですね?」
「そういうことニャ。そうできるだけの力がある世界ニャからして」
どこか誇らしげな猫である。影から顔だけ覗かせる恵も微笑んだ。
「では……入江恵、出陣して参ります」
影の炎が一層に燃え上がり、一瞬の後に消え去った。
それは魔法だ。影に潜み、全てを透過して、超高速で移動したのだ。
猫にはそれがわかっている。笑うように鼻を鳴らし、一言をこぼした。
「いってらっしゃいニャ……大魔導師イリンメル」




