血ヲ流スモノドモ-Ⅱ
粒の大きなにわか雨が、さっと大地を湿らせていった。
濃い色になった土は風に埃をたてることもない。
傘を差すでもなく濡れた少年は、髪をかき上げ、深く長く息を吐いた。
彼の名を三船秋生という。
本来であれば登校しているはずの朝に、立つ。何をするでなく。
薄手のシャツを羽織っただけの身に揺らめき立つものがある。湯気だ。
それは雨なのか汗なのか。足元を見る限り、運動をした形跡はない。
土と砂礫と雑草とが綯い交ぜとなった、庭とも駐車場ともつかないその場所。
「冷えませんか?」
声を掛けた者がいる。
樹木が天候時刻を選ばず日差しを遮る、密やかな縁側に正座する少女だ。
鶯色のワンピースの上に、豊かな黒髪と青白い頬との対比もはっきりとして。
彼女の名を沖春奈子という。
奇しくも2人は同い年だが、こちらは中学を卒業したきりの身の上である。
より正確を期すならば、こう言うべきか。
少女は中学の入学式に出席して以来学校へ行っていない、と。
「……返事もなし、ですか?」
口調に責めるものが混ざっている。呆れているのかもしれない。
それもそのはずで、春奈子は秋生と会話が成立した例がないからだ。
この古い家屋で寝食を共にしはじめてから何日も経つのだが。
練馬区北東部。都の生産緑地としてネギやキャベツを育てる専業農家。
屋敷林の茂る旧態依然としたその農家は、今、避難所兼隠れ家となっている。
あの日、秋生が必死の逃亡を果たしたる後に乗りこんだ中型トラック。
北へと逃れたその車両は、東京を出ることなしに、ここへ来たのだ。
『月盟騎士団』団員であるところの老夫妻に一時の庇護を求めて。
「そろそろ時間です。地下に戻って下さい」
言うなり、返事も待たずに奥へと去っていく春奈子。
静かでゆっくりとした足取りは、優雅というよりはむしろ弱々しく頼りない。
その目元口元に宿る凛々しさを欠いたならば、幽霊のようですらある。
秋生は振り向きもしなかった。
うっすらと閉じた眼差しをそこらに放擲し、日差しを浴びることを続ける。
しばらくして玄関へ向かう。庇の影に入るその瞬間に、ちらりと空を見た。
ああ……どうして哀切の表情を浮かべるのだ、少年よ。陽光に何を求める。
いざ入ってしまえば、先と変わらぬ不動の顔。覚悟を鎧うたか。
光から遠ざかり、奥へ、影へ、暗闇へ。
ギシギシと鳴る前時代の階段を降り下ったならば、そこは、カビ匂う地下室。
かつては防空壕であったものを拡張した、『月盟騎士団』の秘密拠点である。
天井の低い中、扉を開け、廊下を歩き、その部屋へ。
黄ばんだ蛍光灯に照らされた雑然は、何か後ろ暗い企みの吹き溜まりか。
苦々しそうに紙束を捲っていた雨宮理沙が、「あら」と微笑み迎えた。
「少しは気分転換になったー? お外の天気はわからないけれど」
乱れた頭髪。こけた頬。薄汚れた白衣。
歌いながら洗濯物でも干していることが似合いそうな彼女も、今や。
「それじゃ、また頑張りましょーか。はい、これ」
掃除用具でも渡す気軽さで、一振りの剣を手渡す。
黒鞘に黒革の柄。金属部分である金色と銀色とが鈍く輝いている。魔剣だ。
鍔が金属の草のように捻じれて鞘と絡み、抜けない構造のそれ。
秋生は足を肩幅に開いて直立した。剣も柄頭を上にして地面と垂直だ。
左手を鞘に右手を柄に。目を閉じ始める。抜剣を。魔剣を抜こうというのだ。
「力が入ってる、それじゃ駄目なの。抜こうとしないで抜かないと駄目なの」
何度となく言われ理解していたはずのことを繰り返す。焦燥。常識の壁。
秋生はゆっくりと深呼吸した。顎を引き、背筋を伸ばし、集中する。
自然体を捨てる。不自然を我がものとすべく感覚を探るのだ。正気を対価に。
ふわりと、シャツが膨らみを持った。風通しなどないこの地下において。
音もなく水滴が浮く。髪についていた滴だ。何かが起きている。
部屋が暗くなっていく。電灯を消したわけではない。
秋生を中心にして、霧のように暗がりが広がっているのだ。怪奇の現象だ。
それだけではない。室温も増している。不規則な周期をもって放たれる熱気。
闇と炎だ。
秋生を灯心として、闇と炎とが揺らめき、立ち上っている。
通常の火が人に明るさと熱と、時として神秘の畏怖とを体感させるのに対し。
これらは暗さと熱と、そして魂を苛むような恐怖とを感じさせる。
魔のモノだ。これは。
人が無思慮に触れてはいけないものだ。日常の安息を一瞬で消し去るものだ。
この黒を直視することは、底なしの井戸へ身を乗り出すことに等しい。
恐怖とは警告なのだ。魂がその清浄を確保するために鳴らす警鐘なのだ。
鍔の草が蠢きだした。
恐る恐るといった風に、どこか戸惑うかのような挙動で、しかし確実に。
高速再生で見た植物の繁茂を思わせる、その妙に生々しい動き。
鞘がずれる。抜ける。抜けていく。
鋼鉄の刀身が明らかになっていく。不可思議な文字文様の刻まれたその姿。
「そこまでよ!」
絶叫が放たれた。理沙だ。
瞬く間に、いや、そんな事実が無かったかのように納まる魔剣。絡み合って。
膝をつく秋生の顔色は真っ青だ。球のような汗が全身から噴出している。
「まだ癖が抜けないけれど……抜剣できるようになったわね。凄いわ」
タオルを渡す理沙の顔もまた青褪めている。肌の荒れも無関係ではあるまい。
毒なのだ。魂を侵害するものなのだ。先の黒と熱とは。
近くにいるだけでこうだ。自らの内からそれを発する者は……ああ、やはり。
ガシャリ、と落下音。魔剣だ。
次いで受身も無く秋生が倒れた。全身を痙攣が襲っている。ひきつる四肢。
口からは泡。焦点の合わない視線が乱舞する。汗には血色が混じる。
だが、それでも。
歯を食いしばれ。眉は逆八の字にして。震えるその手を拳に握れ。
そう、ゆっくりでいい。額で地を押し、次に肘。膝。両の足を踏みしめろ。
立ち上がらなければならない。
何かを護らんと欲するならば、立て、三船秋生よ。誰の手も借りずに。
有るものを見切り差し出すカード遊びではないのだ。常に己を更新せよ。
そう……その目だ。断固たる決意の眼差し。
自分でも気付いてはいまい。それこそが、今のお前の全てだ。
自らよりも大切なモノの為に命を燃やす者の輝き。
狂信でも無謀でもなく、滅びの美学も否定して、結果のみを希求する決心。
己が命の最大に最長に最適に使おうとする熱情。汚れなど厭わず。
子のために。
即ちそれは、父親の眼光である。
「はい、これ飲んでね。お水。舌噛んでない? ちゃんと飲んでね」
立ち上がり色々を拭く。ペットボトルの水を飲む。未だに震える身体。
何事もなかったかのように椅子に座る。連続で出来ることではないからだ。
「クンダリーニ症候群、まだ当分はなくならないと思うわー」
今の泡吹く痙攣のことだ。
時間をかけた修行によらずチャクラを開放したものが患う病である。
秋生の病状は重い。さもありなん。彼のチャクラは7つとも全開状態だ。
チャクラ。
ヒトをヒト足らしめる形成力体上に存在する霊的な渦のことだ。
回転することによって魂の力を発揮するものだ。その形態は様々であれ。
常人であれば窪みでしかないそれ。
秋生の場合は、まるで小さな太陽ででもあるかのように赫々と渦巻いている。
凄まじいまでの霊的なエンジンだ。身体を焼き尽くしてしまうほどに。
彼には素養があったかもしれない。
何某かの方術を学べば自然と才能を開花したかもしれない。
しかし、ただの一夜が。
それまでにも予兆と言えるものはあったが、それにしても衝撃の夜。
こじ開けるという表現でも生ぬるい、爆発的な開拓が成されたあの夜。
たった一度の夜。衛星軌道上に攻撃衛星が消失したあの夜に。
秋生は普通の生き方の出来ぬ身となった。日に何度と無く襲う発作。
それだけでも深刻であるのに、そればかりか。
「呪詛についても……多分、もうどうしようもないからね?」
静かにそう告げる理沙に対して、秋生は軽く頷いてみせた。
同じ夜に身に刻まれたものがある。宿すではなく、焼きついた残照として。
闇の力と炎の力だ。使いこなせば加護なのかもしれない。しかし。
「これで、俺も戦えるんだろ?」
「ええ。戦えるわ。多分、誰よりも……貴方自身の力で、きっと戦える」
理沙の、苦渋の皺を無理に歪ませるような微笑み。被虐を望むようなそれ。
秋生は見ない。目をつぶり、呼吸を整える。意識を己の内側へと向けている。
確実迅速なる抜剣を習得するまで、繰り返すのだ。限られた時間の中で。
神宮外苑の木々には、どこか公衆良俗の鑑たる格式がある。
走り抜けていった雨雲も今や見えず、明るい日差しが万緑を照らしている。
神宮球場、国立競技場、絵画館などが緑地の中に建ち並ぶその中に。
周囲を背の高い樹木に覆われてそれが在る。歴史の喧騒を余所に悠然として。
明治天皇記念離邸。それは宮内庁付特別執行機関『天桐』の拠点である。
絨毯のように鮮やかに広がる芝生の庭を、日傘を差して歩く少女がいる。
白地の着物に白磁の肌。桃色がかった白髪の下に紅の瞳。木鉛綾理である。
異色と表現するのが最も適切だろうか。
重度の色素欠乏症である彼女は、日差しの中に透き通っているかのようだ。
職人が微に入り細に入り装飾を施した宝石のような、その神秘的に過ぎる繊美。
常盤緑と翡翠色の縞をサクリサクリと踏み越えて、奥庭園へ。
足元を撫でていくのは霊気か冷気か。幽玄な雰囲気漂う池には妖怪が住まうか。
仰向けにプカプカと浮かぶ子供がいる。椋本六月である。
「お加減はいかがですか、ムムタン」
「奇しうこそ物狂ほしけれ」
「……ええと?」
「原潜いくなし。放射能いささか漏れたりきなんですけども。わろし」
三宅島の東にて行われた海中戦闘がある。
オーストラリアを発って横須賀を目指す脅威を妨害するための戦闘だ。
原子力潜水艦ホーリーアークに立ち向かったのは、たった1人、六月だった。
水面を歩き、凍結の機雷を投じ、70ノットを超える速度で水中を飛ぶ。
敵直掩を突破し、原潜が炉の冷却に用いる注水口を狙ったまではよかったが。
撹乱目的と演出精神とから錐揉み状に螺旋軌道を描いたのは失敗であった。
1つに、原潜とは微量ながら周囲に放射能を漏らしていた。被爆したのだ。
もう1つに、これは単純なことではあるが、彼女を戦闘不能にする事態があった。
三半規管を無視して回転しすぎた。つまり、目が回ったのだ。
自称「水の妖精」と言えども、術はともかく、身体はただの人間である。
80ノットに迫る勢いでやっていいことではなかった。図に乗ったのだ。
前後不覚となって墜落。海底深くへと落下していった六月である。
「では引き続き回復に努めてください。私は病院へ行ってきます」
「それって遠方やなる?」
「すぐそこです。徒歩でも10分とかかりませんよ」
その距離に何を納得したものか、浮かぶ猫耳娘はコクリと頷いた。
もう話は終わりとばかりに、ゆらゆらと流されはじめた。「あ”~」と唸る。
綾理は丁寧にお辞儀し、奥庭園から歩み去った。
庭を過ぎ、屋根の下も通って、正面玄関へ。横付けされていた公用車に乗る。
全てが無言の内に、一切の停滞もなく行われていく。洗練された介添えだ。
車は僅かな距離を走って目的地へ。絵画館を挟んで、慶応大学病院である。
男性1人女性1人のSPを伴って、綾理は進む。滑らかに無駄なく。
政府御用達の特別病棟、その個室にてベットに横たわる少女のもとへ。
「流石は綾理ちゃん。来るの知ってても、気配1つ察知できなかったよ」
「まだ術の使える身ではないでしょう。無理なさらないで下さい」
真っ白のシーツに包まれて、黒髪揺れ、黒瞳細まる。巴山渚子である。
点滴の管が、計器類のコード群が、マリオネットのように彼女へ繋がっている。
シーツの下の膨らみは、人一般のそれよりも短く終わる。膝から下は平らかだ。
「報告は読みました。その上で、敵の印象を伺いに来たのです」
「そうだねぇ……戦闘民族の宇宙人と戦ったら、あんな感じかな?」
「戦闘民族の……宇宙人?」
「規格外というより、別起源の何かと交戦した印象なの。類似がないもの」
微笑みのままに語る、その壮絶。
過度の『加速』により全身の自由が利かなくなった身で。両足を失った身で。
今や霊験兵器『雷震』すら彼女の側にはない。厳重に保管されてしまった。
現状、戦力外と見なされたのだ。だというのに。
「報告にあった創造と消失のことですか?」
「ああ、それもそうだよね。膝砕かれた感触なかったもん」
不思議そうに言う、その無邪気さ。そこにはどこか嬉しさすら滲む。
いや……実際に嬉しいのだ。あの夜の闘争を喜びをもって思い返すのだ。
狂っている。
若くしてもはや健常の生活など望めぬ身と成り果てたというのに。
そこまでの充実を体感し、歓喜を味わったか、渚子よ。
「感触もない、ですか」
「蹴りが先に触れた右膝の方、傷が違かったでしょ?」
気安い口調で話題にしているのは、己の欠損した両足のことだ。
あの夜、彼女へ放たれたキックは高速ながら時間差でもって命中した。
まずは右膝へ。そして左膝へ。そのどちらをも断ち切って蹴り抜けた。
そして、その傷口は。
左膝は正に力による破壊だ。鉄骨を超高速で振り抜いたならばこうなるか。
強力に過ぎた衝撃が音と光と熱とに変換され、皮を、肉を、骨を断った。
小さくも爆発現象すら起きたであろう一撃。
一方の右膝は、抉り取られたかのような、鋭利にすぎる切断面。球形に。
まるでそこにあった骨肉を「無かったこと」にしたかのような傷口。
体感した渚子の表現は「消失」だ。蒸発でも溶解でもなく。
「……そして回復ですか。服の損傷までも」
「あっちの宗教じゃ奇跡って言うのかもね。質量保存則、無視してたもん」
恐るべき敵。
未だかつて聞いたこともない能力。凄まじい戦闘力をも併せ持って。
内偵でわかった名はソウル。階級は少佐だ。『天使連盟』の新人。
「では、やはり?」
「うん。あれで死ぬわけがないよ。きっとまた来るね」
こればかりは、少し困ったように、渚子は断言した。
彼女は思うのだ。その「また」の時に、自分はもう一度動けないものかと。
あの歓喜の夜をもう一度味わえやしないか、と。
あの夜。
法力僧魁尊の自爆によって生じた爆発は、光ヶ丘拠点を半壊させた。
大きくクレーターすら生じさせた命の閃光だ。術者の肉片すら残さずに。
『天桐』は公園を放棄、程近い陸上自衛隊練馬駐屯地へと探索拠点を移した。
原因となった敵、ソウル少佐の消息は知れない。