戦場のサンタクロース
一九一四年、ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦は熾烈を極めた。本大戦は毒ガス、戦車、飛行機、ロングライフルなどの最先端兵器の導入でこれまでの戦争の常識を大きく覆した。
覆ったのは戦場の常識だけではなく、これまでそこへ赴くもののふたちが、武器とともに持ち寄る騎士道精神ことロマンチシズムをも覆した。ガスマスクを被った兵士が機関銃を担ぎ上げ、戦車の後を追うように歩みを進める様から、古代祖国防衛に燃えた騎士たちの姿を映すことはできなかった。
参戦国の人々誰もがクリスマスまでには終戦する、と楽観視していた本大戦、各国軍が持ち寄った機関銃の攻勢を避けるため深い塹壕に身をひそめる塹壕戦が展開され、戦争は泥沼化した。クリスマスが刻一刻と近づくにつれ、国民だけでなく前線にて愛国の情熱に燃えていた兵士たちをもが一抹の不安に駆られることとなった。
*
ベルギー西部に、イーペルという小都市がある。
ドイツ軍と連合軍ことイギリス軍、フランス軍が交戦した西部戦線と呼ばれる地域で、激戦区であった。このイーペルは開戦間もなくドイツ軍に占領される。しかし一〇月三一日からの連合軍の尽力によっておよそひと月で奪取するという快挙を得た。
しかしながらそのイーペル近郊では連合軍の奪取後も未だ熾烈な戦闘が続いていた。西部戦線が激戦区であったと言わしめる所以であった。
そのイーペル近郊の一地域にてドイツ軍とイギリス軍が対峙していた一二月末日のことである。
*
一九一四年一二月二四日 ベルギー イーペル近郊
雪が止んだ。木炭の燃えカスのような黒い曇り空を突き破るように、赤い夕陽が顔を出した。その赤い太陽光線を反射した雪原が、まるで一面血の海に染まったかの如く赤く輝く。その様はこの地の戦闘の激しさを物語るようだった。
イギリス陸軍の一兵士であるハリーは夕陽に照らされながら実に狼狽していた。
例に漏れずクリスマス前には終戦し、暖炉前の食卓にて暖かいスープを飲めると彼は考えていたのに、はるか数十メートル先の塹壕に潜むドイツ軍の攻勢は弱体化する兆しを一向に見せなかった。
ハリーはふと後ろを振り返る。一番の仲良しだったバニング一等兵が仰向けになり渇いた目で虚空を仰いでいる。眉間を流れる血液は寒さのためかすでに固まってしまっている。額を被弾して倒れたのはほんの数十分前だというのに。
昨日は衛生兵長のモリガンが蟀谷に被弾し絶命した。
先ほど肩に被弾し、出血が止まらないヘルマン伍長は壁にもたれかかって左手で力なく傷口を押さえ、虚ろな目を天に向けていた。出血により体力を失して衰弱していくのが手に取るようにわかる。
ハリーは左右に目を泳がせてみた。ヘルマン伍長の他にも負傷者は掃いて捨てるほど、またバニング一等兵のように冷たい地面に伏す者も視界に入った。
素人目で見てもわが軍の劣勢が見て取れた。ついひと月前はイーペルを奪取したのに何たることだ! 悔しさが脳裏をよぎると同時に自分の左手の数センチ先の地面が雪解け水を撒き散らしてえぐれた。ドイツ軍の銃撃である。おのれドイツ軍め……! ハリーは自身の左手の安否よりも先に雪原の向こう側数十メートル先のドイツ軍塹壕をにらみつけた。
*
「ちくしょう!はずしたか!」
ドイツ軍塹壕にて正式採用歩兵小銃であるGew98を敵側へ向けたドイツ陸軍兵士のハインツが悪態をついた。
ここ数日のドイツ軍は実に勢いに乗っていた。ひと月前はイーペルの陥落を許してしまったもののそれを契機に兵士たちの士気はむしろ逆上し、再度イーペルを奪還する先駆けが自分たちになることを望むが如く奮闘を開始したのだ。
兵士たちの孤軍奮闘が実を結び、当初は押され気味だった戦局も現時点では自分たちが優位となっていた。
有事故に徴兵された職業軍人でもないハインツが昨日すんなり敵兵士を撃ち取ったのがドイツ軍の優勢をはっきりと示していた。
「昨日敵の衛生兵撃てたからって浮き足立ってるんじゃねえの?」
「いいや、あと少しで当たってたさ」
同い年のトルバルト一等兵の投げかける冷やかしの言葉にハインツは遊底を引きながら相槌を打った。
「ほうら、一発で仕留めねえから、あのイギリス兵頭ひっこめやがったぜ?」
ハインツは塹壕から頭を出しているイギリス兵が一人もいないのを確認すると舌打ちをして銃身を塹壕の中に引っ込めた。
「まあちょっと休憩しようぜ」
トルバルトは左手に持っていたパンをハインツに投げてよこした。今夜の夕食らしい。ハインツはもらったパンにかぶりついた。味気がなく冷たくて固い、安麦のパンである。
「現状じゃイギリスが攻撃仕掛けてくることはないだろ。おい、一人で哨戒大丈夫だよな?」
トルバルトに問われた新入りの二等兵は、双眼鏡をイギリス軍の塹壕の方へ向けたまま左手の親指を立ててみせた。それを見てにっこりほほ笑んだトルバルトはハインツと同じ味気のないパンにかぶりついた。
「まずいなこれ。家に帰ってスープが飲みてえや」
「俺は嫌いじゃないけどな。このパン」
嫌いでないというより、この味気のないパン食がかなり長く続いており単に文句の言いようがなくなったと言った方がよいかもしれない。人間とは最低限の食物だけでも十分命を懸けた戦いができるものであるとしみじみと思った。
「おいおい、今日は何日か覚えてないのか?」
「いいや。ちっとも」
「おいおい。今日はクリスマスじゃないかよ。ジーザスがお生まれになった日なのさ」
怪訝な表情をするトルバルト。同じような表情で応答するハインツ。ある日は敵側から嵐のように飛散する機関銃弾から身を隠し、またある日はこちら側から機関銃弾の応酬をお見舞いし、そしてここ最近は静止画と言って差し障りのないほど動きのない敵方の塹壕を眺める日々が続く。そんな多忙と退屈の連続する日々を計上してよくもクリスマスだと気が付いたものである。トルバルトに感心する一方でハインツは戦場の移り変わりの激しい時間に呑まれ、先週の自分の二四度目である誕生日をすっかり忘れてしまっていた。
「キリスト様の誕生日ぐらい覚えておけよ。俺たちドイツ人は敬虔なプロテスタントだろう」
トルバルトが右手で十字を切ろうとするが、先ほど哨戒を一任した二等兵の「敵影!」の一声に手を止めた。
「シャイセ。誰かさんがジーザスの誕生日忘れるもんだからサタンが迎えにきやがったぜ」
*
小銃を携えて恐る恐る塹壕から顔を出してみる。視界に入ってきたのはイギリス兵の煤けた戦闘服ではなく戦場に似つかわしくない真っ赤な衣装を着た一人の男が見えた。赤い夕陽に照らされた雪原で、その恰好姿は実によく目についた。彼は武器を持っていない。故銃撃もない。赤装束の男はこちらとの距離を徐々に詰めつつあった。
「ありゃ何だ」
ハインツの隣でいつのまにやら分隊指揮官のカウフマン曹長が覗き込んでいた。
「白いひげを生やした老人のようです。見たところ銃器類は所持しておりません。距離四〇」
「英軍め追い詰められて気でも狂ったか」
哨戒の報告を聞いてトルバルトが苦笑する。
「分隊長、どうします? このまま接近を許すのは危険かと思いますが」
トルバルトは小銃の遊底を引いた。哨戒が赤装束の男との距離を三〇と告げた。
「このあたりに民間人はほぼいないはずなのだがもしかしたらどこからか迷い込んだのかもしれん。非武装の民間人を攻撃するのは気が引ける。威嚇射撃にとどめよう」
哨戒が残り距離を二五と告げた。
「両名撃ち方用意。射撃合図は分隊長のそれに続け。威嚇射撃に留めよ」
カウフマン曹長が小銃を赤装束の男に向ける。ハインツも遊底を引いてそれに倣った。哨戒が残り距離を二〇と告げた。
カウフマン曹長の小銃が火を噴いた。ハインツとトルバルトの小銃もそれに続く。カウフマン曹長の初弾は男の右肩のやや上を通過、ハインツの二発目は男の右足元に雪を巻き上げて着弾。トルバルトの弾丸は男の左耳をそれて通過した。男はいきなりの射撃に酷く驚いて転倒し、冷たい雪原に尻もちをついた。
「目標、転倒しました」
「おや、こりゃ軍人じゃなさそうだな」
哨戒の報告に首をかしげるカウフマン曹長を尻目に、素早く遊底を引いたトルバルトは二発目を男に向かって放っていた。薬きょう尻を叩かれ煙とともに飛び出したトルバルトの二発目は膝を立ててすくみ上っている男の左足付近の地面をえぐった。
ハインツも負けじと遊底を引く。空薬きょうが宙を舞い、地面に敷かれた雪に突き刺さる。次は当てるぞと言わんばかりに男に再び銃口を向けた。
「待ってくれ! 撃たないで欲しいんだ!」
男が半ば絶叫に近い声を上げた。
「ドイツ語です! 分隊長!」
「おい、撃ち方やめ! 撃ち方やめ!」
カウフマン曹長が今まさに引き金を引かんとするハインツと再び遊底を引き銃口を目標に向けんとするトルバルトを手で制した。
「撃たないで! 撃たないでくれ!」
赤装束の男は尻を地面に付けたまま小刻みに震えていた。
*
「ありゃ何だ」
イギリス軍側塹壕内でこちらに背を向けて尻もちをついた赤装束の男を双眼鏡で眺めつつサリバン一等兵が呟いた。
「なあハリー、あれ何だろうな」
「おい、頭を出してるとドイツ軍に風穴開けられるぞ」
ハリーはサリバンのヘルメットを被った頭を右手で押さえつけて体勢を低くさせた。
「なあハリー、あれ何だろうな」
「うるせえな。ドイツ軍に威嚇射撃食らったんだから少なくとも連中の仲間じゃないだろ。そんでもって俺たちも知らないんだから俺たちの仲間でもないだろ。どっかの命知らずの大馬鹿野郎だ」
ハリーは改めて用心深く塹壕から顔を出してみた。先ほどまで雪原に尻を付けていた赤装束の男がドイツ語で何やら喚きながらドイツ軍の塹壕へ歩いていく。
「ドイツ人だな」
サリバンがハリーの横から同じように顔を出す。唯一異なる点は、サリバンは既に遊底を引いたイギリス軍正式採用のエンフィールド小銃を構えていたという点である。
「おい待てまだ撃つな」
ハリーの制止も虚しくサリバンの小銃は火を噴いた。弾丸が銃口から煙とともに噴出され、空薬きょうが雪の積もった地面に叩きつけられる。しかしサリバンの放った弾丸は赤装束の男の右肩をかすめ、はるか彼方へと向かって飛んで行った。幸か不幸かサリバンの射撃の腕はとても褒められたものではなかった。
「シット、はずしたか」
「おい何やってんだ! 頭下げろ!」
ハリーはサリバンのヘルメットを被った頭を再び右手で引っ掴んで地面に押さえつけた。サリバンの頭が地面に押さえつけられると同時にドイツ軍からの報復弾がこちらに飛翔してくる。
「ハリー、撃てる時に撃って殺しとかねえといつまでたっても戦局は変わんねえよ。こっちの余力を見せておかないと士気も下がる一方だって……」
「お前の言ってることは間違ってないよ。でもそれは俺たちの決めることじゃないし、それに今は俺たちが不利な状況なんだ。感情的に動いちゃ駄目だ。少し頭冷やそうぜ」
「こんな寒い中これ以上頭冷やしてどうするんだよ」
サリバンの苦し紛れの冗談にハリーは苦笑して見せた。ハリーはサリバンに言い聞かせると同時に、自分にも言い聞かせていた。
*
「撃ち方やめ! 撃ち方やめ!」
遊底を引いて小銃弾を押し出し、引き金を引いて弾丸を撃ち出す。小銃に込めた弾を撃ちきると再装填を行う。この一連の動作を機械のように連続していたハインツとトルバルトを怒鳴りつけたカウフマン曹長は再び二人を手で制す。
「やめてくれ!」
先ほど塹壕に無遠慮に入り込んできた赤装束の髭男がカウフマン曹長に続ける。ハインツとトルバルトは装填されていた最後の弾丸を撃ちきると、小銃とともに頭を塹壕内に引っ込めた。
「もう少しであの舐めた射撃した野郎に鼻の穴もう一つこさえてやれたのにな」
トルバルトが悪態をつくと同時に赤装束の男を睨みつけた。
「で、あんたは何者なんだ爺さん。いきなりずかずか入ってきて俺たちに命令とはずいぶん階級が高いようじゃないか?」
ハインツも男を見た。遠くから見たときよりもずいぶんと恰幅がよい一方、年配であることが見て取れた。その柔和な瞳と口元が見えなくなるほど伸びた白い髭、真っ赤なコートとズボン、ナイトキャップに黒いスノーブーツという戦場に赴くには無茶すぎる服装からはとても武人の相は見て取れず、ハインツのように爺さんと親しげに呼びかけることをためらわせなかった。この近辺は民家は皆無のはずだが、やはりどこかから迷い込んだ善良な民間人なのであろうか。
「私はね、サンタ。サンタクロース」
老人は柔和な瞳を細めて顔いっぱいに微笑をたたえた。一方でトルバルトは呆気にとられ目が点になっていた。
「ダメだ。この爺さん自分のことサンタだって言ってる。きっとフランスかどこかの敗残兵で激戦が人格を大きく歪めてしまったんだ。戦場というものはまったく狂気だな。ハインツ、俺たちは気をしっかり持とうな」
「あなたはサンタクロースなのですか?」
トルバルトのため息が如く出てくる皮肉を尻目にハインツは老人の細めた瞳をまっすぐ見つめて問うた。
「そう、サンタクロース」
「なぜあなたはサンタを名乗るのです?」
トルバルトが再び目を点にしてハインツを見つめるのを尻目に続ける。ハインツはこの老人が虚言を述べているようにも、敗残故の発狂を患っているようにも見えなかったためである。
「そりゃもちろん今日がクリスマスだからさ」
「くそみてえなジョークだな」
顔に微笑をたたえる自称サンタクロースこと赤装束の老人にトルバルトが地面に腰を下ろしながら食いつく。
「今日はクリスマスだから……なんだ? 七面鳥やあったかいスープを用意してくれんのか? あわよくば戦争を終戦させてくれるのか?」
先ほどやれ今日はクリスマスだとかやれジーザスだとか騒いでいたのはいったいどこの誰なのやら。
「残念ながら君のお望みの七面鳥とスープは用意できない。しかしながらあわよくば終戦は可能かもしれない」
ハインツが仲裁に入ろうとした瞬間だった。自称サンタクロースは神妙な顔つきに変わっていた。
「イギリス軍と交戦状態に入って、何人の仲間が命を落した? そして何人の命を落とした仲間を弔ってやれた?」
ハインツとトルバルトは同時に背後を振り返る。そこには今朝方イギリス軍から受けた銃創からの出血が原因で眠るように息絶えて行ったベンツ兵長が毛布に包まれることなく横たわっていた。
「イギリス軍も状況は同じ……いや、おそらく彼らはより悪い状態かもしれない。せめて死者の弔いぐらいはしてやるべきだとは思うがね」
「アホらしい……そもそもそんなことイギリス軍が応じるわけ……」
「できるかもしれない」
沈黙をもって成り行きを傍観していたカウフマン曹長が唐突に口を開き、一同を吃驚させた。
「かつてアメリカ南北戦争やクリミア戦争でクリスマス休戦という名目で一時休戦協定が結ばれたことがある。もしかしたらそういった名目で停戦協定を申し込むことも可能かもしれない」
カウフマン曹長が神妙に答える。クリミア戦争もアメリカ南北戦争も一九一四年時点ではそう遠い昔のことではなかった。
「分隊長も何をおっしゃるのです。我々おろか一曹長のあなたでもこの戦局を覆すことはできない」
「しかしサンタクロースならどうかな」
唖然とするトルバルトにカウフマン曹長がしてやったりと言わんばかりの表情で笑いかける。
「サンタクロースにクリスマスプレゼント、もらおうぜ」
カウフマン曹長は声高らかに笑うと自称サンタクロースの背中を軽く叩くと「司令官に紹介します」と、小さく囁いた。イギリス軍側塹壕から弾丸が一発カウフマン曹長に向かって飛来してきたが、彼の後ろ髪をかすめて雪の積もった壁に突き刺さった。一方で標的となっていた当のカウフマン曹長は弾丸が飛来したことにすら気が付いていないようであった。
赤い太陽が雪原を見下げるように立つ山の間に沈んでいく。赤く染まっていた雪原は徐々に闇へと姿を変えていった。
*
陽は山間に姿を消した。これまで赤かった雪原に徐々に影を落としていき、瞬く間に闇に包まれた。闇はいつの時代も人を不安に掻き立てる。当時も例外ではなかった。塹壕内は小さなランタンが篝火となり兵士たちの心を支えていたが、塹壕の外は一切の光を通さぬ闇となっていた。この闇の先にドイツ軍が潜むことはよくわかっていたが、彼らがいつ、どのように、何人で自分たちに攻撃を仕掛けてくるかはその闇の深さもあいあまって予想することは困難であった。
塹壕から小銃の銃身を出し、闇へと向けるハリーの隣で、双眼鏡を構えたサリバンが小刻みに震えている。その震えは気温低下によるものか、武者震いか、恐怖か。ハリーはそれ以上考究を行わなかった。
「動き、ねえな」
突然沈黙を破ったサリバンにハリーは吃驚させられた。
「見えてないくせに」
「戦局なんざ誰も見えねえよ」
サリバンの機転の利いた返しにハリーは苦笑する。一寸先が見えないのは事実であるが、陽が落ちてからのドイツ軍の動きが皆無であることはハリーにもよくわかっていた。
「あの赤い服の男が戦局に影響していたりしてな」
ハリーは苦笑しながら続けるが、サリバンから返事がなかった。
「おいサリバン本気にすんなよ」
ハリーのその一言を遮るかの如く「敵影!」とサリバンが絶叫した。
すかさず小銃を握り直し、塹壕の外に目を向けた。暗がりの中に戦場を闊歩するには危険すぎる深紅の衣装を身にまとった男がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
「あの野郎! 次こそ地獄に送ってやる! ハリー! 頼むぞ!」
ハリーは小銃の銃口を男に向けたまま、歩み寄ってくるその姿を黙って凝視していた。ハリーは心のどこかで赤装束のあの男に親近感を感じていた。撃ってはいけない。良心がそう訴えていた。
「おい! 何やってるんだハリー!」
歩み寄ってくる男のその姿が鮮明になるにつれ、ハリーの親近感は強くなっていった。引き金にかけていた指が凍ったように動かなくなっていた。
「てめえ! ちくしょう!」
悪態をついたサリバンが勢いよく自身の小銃を男に向ける、遊底を引き、引き金を引くのは時間がかからなかったが、それよりも早くハリーの左手がサリバンの小銃の銃身をつかんで、銃口を天へと向けさせていた。放った銃弾は夜空へと高らかに飛び立っていった。
「ハリー! いったい何するんだ⁉」
「あれはいったい何なのですか?」
サリバンが小銃をハリーから奪い返そうと奮闘するのを尻目に赤装束の老人を見つめた。
近くで見ると思った以上に年配だった柔和な白髭の顔に微笑をたたえる男の背のドイツ軍陣地で盛大にたき火が焚かれ明々とした光が見え隠れしていた。それを彩るかの如くドイツ語の歌が聞こえてきた。男声のみの大合唱である。
「なあ、これ、クリスマスの歌じゃないか?」
サリバンがようやくハリーから小銃を奪い終えた。しかし赤装束の男を撃つつもりはないようだ。
合唱が止むと、突然火薬の破裂音が三発天に響いた。銃声⁉ サリバンがドイツ軍陣地に小銃を向けるが、雪原の闇を突き抜けたのは銃弾ではなく赤や黄色の色とりどりの紙切れだった。クラッカーだったのだ。
天に舞った色とりどりの紙切れがゆっくりと地面を目指して落下を始めるのを合図にドイツ軍陣地から再び大合唱が始まった。それに勢力を貰い受けたが如くドイツ軍陣地にゆっくりとモミの木が立てられた。
「そうか……今日はクリスマスだっけか」
サリバンが小銃を構えたままぼんやりとつぶやく。
「あれはいったい何なのですか」
ハリーは繰り返す。
「今日はクリスマスじゃないか」
赤装束の老人はいたずらっぽく笑い、両手を大きく広げた。
*
夜も更けきった頃、炭を水に溶かしたかのように暗い空から駸駸と白い雪が降り出した。雪が積もり始める雪原ではもう銃弾は飛び交っておらず、かわりにドイツ語と英語の合唱が飛び交っていた。銃弾の代わりではあるが、歌は優雅に、美しく戦場を飛び交っていた。
ドイツ側に遅れてイギリス側塹壕にもモミの木が立てられた。先ほどまで銃弾が飛び交い、人が命を落とす場所だったその雪原は、二本のモミの木に挟まれて平和な不戦地帯となった。
ハリーは小銃を地面に置き、ウイスキーを手に取った。同じように片手にウイスキーを抱えたサリバンに肩を叩かれ、塹壕から駆け出した。
「クリスマス休戦だなんて洒落てるじゃねえか」
あの後たまたま通りかかった大尉に連れられて行った赤装束の老人がイギリス軍の大隊司令官に、ドイツ側は了承済みであることを念頭にクリスマス休戦の呼びかけを非常に流暢な英語で行った。赤装束の老人のその熱心さに心を打たれた司令官はサリバンの言うクリスマス休戦を受諾することになったのだ。
ハリーはサリバンと並んで雪原に足を進めた。先ほどまで銃弾や迫撃砲弾によって地獄と化していたが改めて足を踏み入れてみるとここは本当にただの雪原であり、ここに地獄を作り上げていたのは自分たちであったのだと戦慄した。
向かい側から自分たちと同じように肩を並べて歩いてくる二人のドイツ兵が目に入った。先ほどの緊張や殺意はどこに行ったのやら満面の笑みでウイスキーを高らかに掲げるサリバン。それに応じるようにドイツ兵の片割れが右手に持ったソーセージの束を掲げた。きっとサリバンと同じ表情をしていることだろう。
「メリークリスマス!」
「フローエヴァイナハテン!」
お互いに最初に出た言葉だった。ハリーとサリバンは各々ドイツ兵たちと握手を交わした。そして互いに持ち寄ったとっておきのクリスマスプレゼントを交換した。
「サンキュー」
「ダンケシェーン」
お礼の言葉が交わされた。先ほどまで顔が合えば交わされるのは刃、持ち寄るのはお互いのナショナリズムとそれにかけた命であるのが当然であった。持ち寄った物と交わされた物の暖かさに、ハリーは目に涙を浮かべて笑った。ドイツ兵の片割れも同じような表情をしてハリーの目を見た。きっと考えていることは同じであろう。
「私、は、ハインツ。彼、は、トルバルト、です」
ハリーの目を見つめてきたハインツと名乗るドイツ兵は、たどたどしい英語で自己紹介した。トルバルトというドイツ兵は英語が話せないのか「エスフロイトミッヒアオホ」と言った。ハリーとハインツも再びドイツ兵と握手を交わした。彼らの手は温かかった。
「クリスマスに、休戦になった。私たちは、とてもうれしい」
「私もです」
ハリーはハインツと顔を見合わせてにっこり笑った。サリバンはと言うとトルバルトとともにもうウイスキーの蓋を開けてソーセージをかじっていた。クリスマスを祝うものに言葉の違いは障壁にならないらしい。
ハインツはハリーに煙草を勧めてきた。ハリーも喫煙を嗜む為、自分の愛煙する煙草と取り替えた。
白い雪が駸駸と降る寒空に二本の細い煙が立ち上った。それに続きウイスキーをかっ食らって早くも泥酔したサリバンとトルバルトの酒嗄れした声で歌うクリスマスソングが響いた。歌詞こそドイツ語と英語とで異なるものの、同じ歌であった。
眼前に広がる雪原に目を走らせると、自分たち以外の兵士たちも互いにクリスマスを祝う姿を見受けることができた。自分たちと同じように互いの煙草を交換し燻らせる者、サリバンやトルバルトたちのように肩を組んで各々の言葉でクリスマスの歌を歌う者、またある者たちは凶弾に沈んだ仲間たちをお互いに補助しあいながら自分たちの陣地に連れ帰る者、家族の写真を見せ合う者もいた。
並んで喫煙を楽しむ二人の元に赤装束の老人がやって来た。
「ヘル・サミクラウス」
きょとんとするハリーにハインツが「ミスタ・サンタクロース」と、言い直した。
ハリーは改めて赤装束の老人を見つめた。赤いナイトキャップを目深に被った恰幅のいい白髭のその老人は、確かに言われてみればサンタクロースそのものだった。
「楽しんでいるかね?」
ハリーには英語で聞こえた一方で、あまり英語が達者でないハインツが笑顔で頷くのが早かった。彼にはドイツ語で聞こえたのだろうか。しかしこれだけ血しぶきが上がるほどにらみ合いを続けていた両軍が今は肩を組んでいると考えると、それくらいのマジックはとるに足りないもであるとハリーは割り切った。
「素敵なプレゼントをありがとうございます」
ハリーの一言にサンタクロースは「HO!HO!」と高らかに笑った。
「さあ、一緒に歌おう!」
サンタクロースはちょうど煙草を吸い終えた二人の肩に黒いミトンをした手を乗せた。三人は満面の笑みだった。
その夜、イーペル近郊の夜の雪原で『きよしこの夜』が高らかに合唱された。英語では『Silent night』ドイツ語では『STILLE NACHT』。題名の読み方こそ異なるものの、込められた意味は同じだった。
先ほどまで銃声が響き渡っていた地獄の戦場が、合唱の響き渡る優雅なパーティ会場となった。そこでは先ほどまで鬼の形相で互いに蹂躙しあっていた両軍が、今は満面の笑みで互いに肩を組んでいた。そのたくさんの笑顔はまるでクリスマスツリーの飾りつけのように輝いており、殺風景な雪原がクリスマスの装飾をされたかのように美しくなった。クリスマスを祝福し、またその装飾を彩るか如く寒空から雪が駸駸降り注いだ。その日はまるで雪も踊っているかのごとく輝いた一九一四年一二月二四日聖夜の出来事であった。
*
クリスマス休戦はイーペル郊外の片隅だけでなく各地の英独交戦地帯で広く、盛大に催された。場所によっては各軍兵士にチキンが振る舞われた場所、ツリーにキャンドルが灯された場所、サッカーの試合が開催された場所、オペラ歌手が慰問に訪れた場所さえあった。戦場なので当然司令官の許可が下りないところがほとんどで、下級の兵士たちのみが休戦を行った場所もあった。休戦のほとんどは兵士たちが自主的に行ったもので、このイーペルの片隅のように稀に上級士官が許可を下ろした場所も存在したが、休戦を大いに満喫した兵士たちは後に異口同音に「両国語を巧みに操るサンタクロースを自称する老人が現れ、休戦に持ち込んだ」と述べている。
*
一九一四年一二月二五日 ベルギー イーペル近郊
「ウイスキーうまかったな」
トルバルトは昨夜泥酔するほど飲んだウイスキーの味が名残惜しいかの如くゆっくりと口を動かす。
朝日が刺す。雪原がそれを反射し、宝石を散りばめたかの如く美しく輝く。朝日は同時に両軍の塹壕を守る有刺鉄線や機関銃の銃身をも照らし出した。これらは自分たちが戦場に立っていることを再認識させたが、昨夜の出来事が現の出来事であったことをともに朝日に照らされた英語ラベルのウイスキーの空瓶が如実に示した。
「さっさとこんな戦争終わらせて、国に帰って一杯やろうぜ。ウイスキーだけじゃなくビールもあるぜ」
ハインツがトルバルトを振り返り微笑をたたえたその時だった。ハインツの頭に衝撃が走った。右側頭部一カ所に集中した衝撃を食らったハインツは、弾き飛ばされるように地面に叩きつけられた。
「嘘だろ……? おい、しっかりしろ! ハインツ!」
朦朧とする意識の中トルバルトが自分の名を呼び続ける声が木霊した。先ほど衝撃が走った右側頭部から自分の体温が抜け出していくような感覚に襲われる。
「英軍め! もう撃ってきやがったか!」
どうやら自分はイギリス軍の銃撃を頭に食らったらしいことがカウフマン曹長の怒りを孕んだ一言でわかった。それを気づかせるかの如く、銃創から流れ出た血液が自分の顔を付けた地面を湿らせ、視界をも赤く染めていった。
本日は朝日が強く、実にすがすがしいはずの朝であったはずが、ハインツは凍えるほど寒かった。赤くかすむ世界の中で、昨夜の出来事だけでなく、自分が生きていた世界そのものが夢だったのではと徐々に思考力が衰弱する頭でハインツは考えた。
*
命中した。
本大戦が始まって初めて命中したのではないかというくらい久々の命中だった。
「いいぞ。よくやった」
ウイスキーとドイツ軍のくれたソーセージの力で見違えるほど回復したヘルマン伍長がハリーの肩を叩いた。
「彼らには悪いが、戦争だからな」
ヘルマン伍長が表情を変えなかったのはそれ故であろう。
ハリーはヘルマン伍長の気を察してはいたが、何も言わなかった。遊底を引くと、ハリーは塹壕内に力なく頭を引っ込めた。ハリーの一発を合図にしたかの如くドイツ軍の反撃が始まる。それに応戦するためにヘルマン伍長とサリバンが、文字通り、鬼の形相で引き金を引く。ハリーは応戦に加わらず、膝を立てて座り、小銃を肩に立てかけ、両手で頭を抱えた。喜ぶべき久々の命中が脳内でフラッシュバックする。自分の一撃で後ろ向きに倒れる兵士の姿が何度も脳裏でスロー再生される。自分が射止めたのは、間違いなかった。
昨夜、たどたどしい英語で自分とクリスマスを祝った、ハインツだった。
*
サンタクロースのクリスマスマジックは、一夜限りのシンデレラのような魔法だった。
政治家や軍上層部は実に残酷であった。前述の如く軍上層部の高級士官は兵士たちの命令違反によるクリスマス休戦は快く思っているはずもなく、休戦後の二五日は直ちに攻撃再開を厳命した。時のイギリス首脳陣は『師団長は全ての下級司令官に軍隊の攻撃精神を向上させることは絶対に必要であり、また防御でもその精神は最大限発揮されねばならないと命令せよ』とし、敵との友好的な接触、非公式の休戦そして煙草その他の交換は厳しく禁止された。
このクリスマス休戦後、各地の英独戦線は激化し、毒ガスの使用も多く見られた。それによる犠牲者は一五〇〇人を超え、また第一次世界大戦の犠牲者は連合国、同盟国併せ一千万名を数えた。
そしてクリスマス休戦は、こののち第一次世界大戦中三回訪れるクリスマスにおいて、のちの第二次世界大戦においても二度と催されることはなかった。
近代戦争は、ヨーロッパ人の心に眠っていたロマンチシズムだけではなく、クリスマスを祝い、楽しむ気持ちをも打ち砕いた。
*
祖父、ハリーは一九八六年に九六年の天寿を全うした。祖父はクリスマスが来るたびに私にこのクリスマス休戦を語って聞かせた。あまり真面目にその話を聞いていなかった私には祖父の話に含有された大意は理解していなかったが、語っている祖父がときに楽しそうな、ときに物悲しそうな表情を見せる様をはっきり覚えている。今考えてみると、それが祖父が思い出話に込めたすべてだったのだろう。
一九九七年、私はイギリス陸軍にて大尉を務めており北アイルランドの暴徒鎮圧に奔走していた。
一九六〇年代からの暴動発生から両側とも少なからず犠牲者は発生していた。イギリス側は早期の終結を望んでいた。
私は一二月二四日の突き刺すような寒さの北アイルランドを警戒に回っていた。突き刺すのは寒さだけではなく、現地住民の攻撃的な視線もまたそうだった。
本日はクリスマスイヴ。ふと亡き祖父の思い出話を思い出した。アイルランドもカトリックとはいえキリスト教国家である。祖父たちにようにクリスマスは祝えないものかと。そう考えかけて私は苦笑した。ともに祝える仲ならこのような緊張状態に陥ることはない、と。
雪が降り始めた。地面を見つめていた私はふと正面を向く。向こう五〇メートルほど先に、緊張地帯に赴くにはふさわしくないほど真っ赤な装束を身にまとった男が視界に入った。見間違いかと思った私が二、三度目を瞬かせると、もうそこには何もいなかった。まさかな……と、私は再び苦笑した。
雪は駸駸と降りしきる。私は雪が舞い降りてくる黒い空を見上げた。
この黒い空の向こう側の天国で、祖父が不完全燃焼に終えた大戦中のクリスマスを、もう一度イギリス軍の仲間たちやかつての敵であったドイツ軍とともに祝っている気がした。