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臆病者の恋  作者: 苑生
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遠ざかる影

扉越しに漂う空気は凪いだ海のように静かで、穏やかに二人を包んでいる。

あの屋上の時のような緊張感は微塵も感じない。

すりガラス越しに額を合わせたまま、藤田は静かな気持ちで瀬尾と向き合っていた。ずっと抱いてきた恐怖感は、嘘のように消え失せている。瀬尾から何を言われても、今なら受け入れられる気がした。


どの位の時間が流れたのだろうか。感覚がわからなくなる程時間がたった頃、ようやく瀬尾は言葉を紡ぎ始めた。

迷いの無い澄んだ声音が、深夜の静寂にゆるやかに波紋を描く。瀬尾と言葉を交わした中で、初めて聞く優しい語りかけ方だった。


「あの時、本当は嬉しかったんだ、俺。おんなじ気持ち、だったから、さ。…でも、だからこそ怖くもあったんだ」


耳朶を打つ声は、少し弱々しく感じられる。

すりガラスの向こうで、瀬尾はどんな表情で想いを紡いでいるのだろうか。

瀬尾が長い間封じ込めていた気持ちが、愛しくて仕方ない―そんな気持ちで藤田は話を聞いていた。じんわりと染み入るように心に届く言葉、その一つ一つにあの日の傷が癒されていくのを感じる。

怖かったと話した瀬尾の声は、内容とは裏腹に相変わらず穏やかだ。今はもう、それが払拭されていると言っている気がして安堵した。

瀬尾もまた過去から前に進もうとしているのだ。


不意に扉から瀬尾が離れる気配がして顔を上げる。少し遠くなった人影に、途端に不安になった。

今より幼かったあの日のように打ちのめされることはなくても、瀬尾の言葉を受け入れられたとしても、傷付かない訳ではないのだ。それでもお互い良い方へ進んで行くためには、今この状況を乗り越えなくてはならない。

目を閉じゆっくりと深呼吸をして気持ちを落ち着ける。


「お前は優等生で、俺は出来が悪くてさ。釣り合うわけ無いって思った。ましてや男どうしだろ?あの頃の俺には、そう言う色んなことを受け止める自信なんて無かったんだ」


ガラスの向こうにぼんやりと見える姿は、うつ向いて見えた。

過去に思いを馳せて語る声は、徐々に絞り出すようなものに変わっていく。藤田もそれにつれて胸が締め付けらるのを感じていた。同時に瀬尾が自分にたいして劣等感を持っていた事実も、心に深く突き刺さる。

あの頃の楽しげな笑顔の下に、痛みや苦しみを抱えていたのだろうか。そう思うと藤田は無性に瀬尾を抱き締めたくなって、ぎゅっと手を握りしめる。

ここにきて、瀬尾は突然押し黙ってしまった。未だ遠くにある姿を眺めながら、急速に心が恐怖曇っていく。

泣きたくなる気持ちを抑えて、なんとか扉の前に立っていた。



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