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臆病者の恋  作者: 苑生
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歩き出す

空が橙色に滲んでいる。そろそろ藤田の家での仕事が終わる時間が近づいているが、一向に彼からの連絡はない。

忙しい仕事だから、そうそう時間が取れないのはわかっている。それでもそわそわしてしまう自分に、瀬尾は少し苛立っていた。以前藤田を拒絶した自分が、今は彼との接触を心待ちにしているのを虫が良すぎるように思ったからだ。

やり場の無い気持ちをまな板の上のネギにぶつけるように、ざくざくと刻んで無造作に鍋に放り込む。同じように人参を、大根を切り刻んで鍋底に叩きつけても気持ちが晴れる事はない。八つ当たりした所で何一つ解決しないのだ。

出来上がった豚汁は、少ししょっぱいような気がした。水を足すともの足りなくなり、また少し味噌を足せば塩辛すぎる。結局どうしようもなくて、少し物足りない豚汁を置いてきた。



「んー、出汁が足りなかったんじゃないですか?やっぱり料理の基本ですからね、出汁なくして美味しいご飯は語れません」


事務所に戻ると、例のごとく赤髪の男が話しかけてきた。ぼんやりと上の空で豚汁の話をすると、懇切丁寧に出汁がいかに大切か説明している。その位、瀬尾とてわかっている。仕事そっちのけで身振り手振りを交えて、美味い飯とは何か話が続く。瀬尾はこの中年の御しがたい部分を、完全に諦めていた。


「何時も大切なのは基本的な事ですよ、困った時は基礎からやり直すものです。人間関係もね」


何時ものように聞き流していると、不意に真剣な声音で語りかけられてぎくりとする。はっとして瀬尾が振り向くと、あざとく小首を傾げイタズラを成功させた子供のように笑って見せた。視線がかち合ってしまい、瀬尾はばつが悪そうに目を泳がせる。そんな様子を楽しそうに眺めながら、美和は帰り支度を整え始めた。年期の入った黒いコートを羽織り、帰りしな居心地悪そうに仕事を続ける瀬尾にもう一度声をかける。


「内にこもって悩んでいるのは、君らしくないと思いますよ」


手を振りながら残していった言葉に、瀬尾は一気に脱力した。ここで仕事を始めてから、未だに美和と言う男が全く分からない。空気が読めていないようで、人間関係の事ならどんな些細な変化も見逃さない。繊細と言うか目敏いと言うか、とにかくお節介と言う事だけは確かだ。これが年の功と言うものなのだろうと瀬尾は認識している。

報告書を書き上げ、細々とした事務をこなし事務所を出たのは八時半過ぎだった。天気予報通りの厳しい冷え込みに、思わず身震いした。時代遅れのボロボロの携帯を確認するが、待ち望んだ連絡はまだ来ていない。吐き出したため息が白く宙をさ迷った。


『困った時は基礎からやり直すものです』


先程からずっと、美和の言葉が胸につかえている。今さらやり直す事が出来るだろうか。あの日途切れた糸をもう一度繋ぎ合わせる事が、出来るだろうか。考えれば考えるほど深みにハマって、思考に囚われるようで気持ちが悪い。

大きくかぶりを振って、自宅とは反対の方向へと踵を返しす。瀬尾は考える事が苦手な人間だ。元より考えた所で答えなど出る訳がないのだ。会ってどうしようとか、そう言うも考えていない。ただ、会って話をしよう―そう思った。



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