ちんもくせい
その日も金木犀は香っていた。
公園の遊歩道を歩いていると、前を行く母親と小さな女の子の声が聞こえてきた。
「ママ、なんか、くちゃい」
「金木犀の匂いよ。秋になると咲くお花」
「くちゃいよ。ちんもくせい!」
女の子は顔をしかめた。母親は困ったように笑い、道端の植え込みを指さした。
「あそこに咲いてるよ。小さなオレンジ色のお花」
女の子は花を見つめた。
「ほんとだ。ちっちゃくて、おほしさまみたい。かわいいね」
そして、花に向かって手を振った。
「かわいい、ちんもくせいちゃん、バイバイ」
私は足を止めた。忘れたふりをしていた光景が、ふいに蘇った。
高校三年の秋。文化祭のクラス展示で、私たちは地元の産業について調べることになった。私たちの町には、昔から木工の技術が受け継がれている。先生が用意した資料には、木製の玩具や伝統的な独楽の写真が載っていた。
「これ、AIにまとめてもらって印刷すればよくない?」
誰かが言った。
「独楽も一個借りてきて、ケースに入れて飾ればいいじゃん」
「それで十分だろ。受験もあるんだし」
私もそう思っていた。ところが、彼女だけが首を横に振った。
「そんなんでいいの?」
「何が?」
「AIにまとめてもらった文章を貼って、独楽を一個置くだけ。それで、何か覚えて帰ってもらえると思う?」
「別に、そんな大した展示じゃないだろ」
「だったら、何のためにやるの?」
誰も答えなかった。彼女の言っていることは、間違っていないと思った。でも、今さら展示を一から考えるのも面倒だった。受験勉強だってある。みんなが納得しているのなら、それでいいじゃないか。私は多数派に手を挙げた。彼女は不満そうに唇を結んだが、それ以上は反対しなかった。
展示に使う独楽をどうするかという話になると、彼女が、知り合いの木工所で借りられるかもしれない、と言い出した。展示には反対したはずの彼女が、誰よりも熱心に動いていた。数日後、彼女は古い独楽をひとつ、布に包んで持ってきた。
彼女は、少し変わった子だった。金木犀の匂いが苦手だと言った。秋になると、どこからともなく漂ってくる甘い香り。好きだという人は多かったし、私も嫌いではなかった。
「なんか、気持ち悪くなるんだよね」
彼女はそう言って、金木犀の咲く道を避けた。中庭の隅にも一本あって、秋のあいだ、彼女はわざわざ遠回りをして校舎に入っていた。
それから、ダンスが好きだった。休み時間に廊下の窓ガラスを鏡代わりにして、指先や足の動きを確かめていることがあった。将来はプロになりたいのだと、彼女は話してくれた。けれど、親も担任の先生も、大学に進学することを勧めていた。大学に行ってもダンスはできる。卒業してからでも遅くない。そう言われると、彼女も強くは反対できないらしかった。
「大学に行くのが嫌なわけじゃないんだよ」
彼女は言いかけて、窓ガラスに映った自分の指先を見た。
「……ううん、なんでもない」
私は、大学でもダンスを続ければいいじゃない、と言った。
「そうだね。できればね」
彼女は笑った。
ある日の放課後、彼女は借りてきた独楽を机の上で回していた。木の独楽は、小さな円を描きながら回り続けた。
「独楽って、なんで回ってるんだろうね」
「そりゃ、回すからでしょ」
私が答えると、彼女は笑った。
「そうなんだけどさ」
独楽の軸が、少しずつ揺れ始める。
「すぐ倒れる運命なのに」
彼女は、独楽を見つめていた。
「でも、回ってる間だけ、独楽なんだよ。止まったら、ただの木っ端」
独楽は最後に一度大きく傾き、倒れた。彼女はそれを拾い上げ、もう一度回した。
文化祭の一週間前、彼女が借りてきた古い独楽と、説明に使う写真パネルがなくなった。教室は騒ぎになった。
「あの子、展示に反対してたよな」
誰かが言った。
「独楽を持ってたのも、あの子だし」
「だからって、隠す理由にはならないだろ」
「でも、わざとかもしれないじゃん」
疑いは、あっという間に教室に広がった。彼女は、知らない、と答えた。私は、彼女が独楽を持ち出すところを見ていなかった。隠したところも見ていない。それでも、何も言わなかった。
翌日、独楽とパネルは見つかった。別のクラスの生徒が、借りるつもりで持ち出していたのだという。先生がこれで一件落着だと告げると、教室にはほっとしたような空気が流れた。
誰かが、次の準備について話し始めた。別の誰かが笑い、教室はいつもの騒がしさを取り戻していった。彼女の席の周りだけ、会話が途切れていた。誰も謝らなかった。
その翌日から、彼女は学校に来なくなった。担任の先生が、ホームルームで尋ねた。
「誰か、彼女の様子を知らないか?」
誰も答えなかった。私は、机の上に置いた教科書の端を指でなぞっていた。
彼女は何もしていない。みんなが勝手に疑っただけだ。そう言えばよかった。口を開きかけて、閉じた。先生は教室を見回したあと出席簿に目を落とし、ホームルームが終わると、みんなはいつものように席を立った。私は顔を上げなかった。
文化祭の前日になっても、彼女は学校に来なかった。そのころ、私は実行委員の生徒から、彼女が文化祭当日に中庭でダンスを披露する申請をしていたことを聞いた。
文化祭当日は、朝から雨だった。
私はクラスの展示準備を終えたあと、何度か教室の入り口を振り返ったが、彼女は来なかった。開会の放送が流れ、校内が人の声で賑わい始めても、彼女の姿はなかった。申請された時間が近づくと、私は中庭に面したガラス扉の前で足を止めた。
彼女がいた。
雨の中だった。
中庭の石畳に雨粒が跳ねる。その真ん中で、彼女はひとり踊っていた。
傘も差さず、付き添う人もいない。制服のまま髪を濡らし、腕を伸ばし、身体をひねり、足を踏み出す。
中庭の隅では、金木犀が雨に打たれていた。彼女が避け続けた木だった。
スピーカーは雨を避けるためにビニール傘がかけられていた。流れてくる音はくぐもり、時折、雑音が混じった。
ガラスの向こうに、何人かの生徒が集まっていた。
誰も外へ出なかった。
誰も傘を持っていかなかった。
私は扉の取っ手に手をかけた。
冷たかった。
押せば開く扉だった。
重くもなく、鍵もかかっていなかった。
曲が途切れた。
スピーカーから音が消えた。
彼女は踊るのをやめなかった。
雨音だけが、中庭に降り続いていた。
彼女は片足を軸に、身体を回した。濡れた制服の裾が広がり、髪が頬に張りつく。
もう一度、彼女は回った。
足元には、雨に打たれた金木犀の花が張りついていた。
私は最後まで、扉を開けなかった。
文化祭が終わったあと彼女は転校したと聞き、それきり会うことはなかった。彼女が何を思って雨の中で踊ったのか、私は知らない。ただ、ガラスの向こうで回り続ける姿を、今でも覚えている。
「ママ、もう行こう」
幼い女の子の声に、私は我に返った。母親と手をつないだ女の子が、植え込みを振り返った。
「かわいい、ちんもくせいちゃん、バイバイ」
女の子は、もう一度花に手を振った。




