白馬の花は絵の具の香り ~とうに捨てた恋心、掘り起こさないでください!~
※こちらはシリーズ物の二作目です。
単体でもお読み頂けると思いますが、宜しければ一作目から読んで頂けると嬉しいです。
前作:
竜大公は星を愛でたい ~就職だと思ったら、まさかの溺愛結婚でした!~
「やぁ、マリッサ。今日は何を描いているの?」
そう言って、キャンバスを覗き込む柔らかな笑顔。
頭の上でピンと立った淡い灰色の耳は深い興味を、穏やかに揺れる真っすぐな尾は明確な好意を表している。由緒正しい侯爵家の令息らしからぬ、感情をこれでもかと露わにした仕草だ。直球過ぎて夏の日差しよりも眩しいそれに、問われたマリッサは思わず目を眇めた。
「……いつも通り、花を」
笑顔も見せず、視線も合わせず、最低限の受け答えだけにとどめる。何とも愛想の無い返事だ。
不敬だと思われても致し方が無い態度だけれど、目の前に立つ彼、白馬の侯爵家の令息パウルは、いつものように形の良い眉を少しだけ下げて笑った。
「ごめん、邪魔したね」
またね、と言い置いて去る彼の後姿を、ちらりと横目で追う。しょんぼりと垂れ下がる長い尾に、寂しそうな背中。それを見ると流石にマリッサの心も痛む。けれど、仕方がないのだ。
あの絹糸のような白銀の髪や薄い灰色の耳、宝石のような淡い紫色の瞳、穏やかな笑顔も優しい声も、何もかも。パウルの持つ全てが、容赦なくマリッサの心臓を叩いて息が詰まる。
「あ~~もう、ああいう線が細いのは好みじゃない……はずなんだけどなぁ」
はぁ、と溜息を吐いて、マリッサは誰にも聞こえないように小さく呟いた。
視線を下げ、足元に置かれた絵の具を溶くための油瓶を見つめる。正しくは、その分厚いガラスに映る自身の姿を。
「……いつ見てもパッとしないわね」
みすぼらしい濡れた藁色の髪に、面白みのない灰色の瞳。平凡な顔立ちと凹凸の無い貧相な体、おまけに鼻と頬には濃いそばかすが浮いている。
そんな美しさとは無縁の自分が、この世の美を集めて丸めて形にしたようなパウルの隣に立つなど、想像するだけでスンと真顔になってしまう。これは卑屈ではなく客観的な事実だ。人には皆、身の程というものがある。
「ま、悩む必要もないのよね。何せ私、書類上は彼の義母なんだから!」
はは、と笑うマリッサの声は、どこか自嘲気味だ。
乾いた笑いも、まるで自分に言い聞かせるように呟かれた言葉も、穏やかな初秋の風に紛れて消える。
パウルには、出来れば近寄りたくない。近寄らないで欲しい。
だって、もうどうしようもないのに。彼が歩み寄るたびに、話し掛けるたびに、柔らかく微笑むたびに。とうの昔に心の床下に埋めたはずの、淡い期待が掘り起こされてしまうから。
マリッサは深く重い溜息を吐き出した。つい先ほどまで熱心に筆を走らせていた描きかけの黄色い花は、今はもう、何だかとても色褪せて見えた。
***
ここは、竜を筆頭にあらゆる亜人種が住む世界。
力が弱く、体も小さいただの『人族』が生きていけるのは、偏に人の手が生み出すものの美しさを、世界の王たる竜が愛しているからだ。
人が生み出す数多の芸術や宝飾品をこよなく愛す亜人種は、その才能を我が物にするために、しばしば『異種族婚』という手段をとる。正式な伴侶を意味する『番』ではなく、才を買われた形ばかりの人族の伴侶は『花』と呼ばれ、他の亜人を寄せ付けぬように囲われる。年齢も性別も関係ない。それはもはや結婚ではなく、才を買われた『就職』のようなものだ。
そのため人族の間では、芸術分野の学びを深め技術を磨き、貴族の『花』として就職する『花婚』が一種のステータスとなっている。
大抵は一定の期間を終えたら離縁をするが、生涯『花』として生きる人族もいる。特に生涯を芸術家として生きていきたい者には、多くの『花』を抱える高位貴族に迎えられ、花束の中の一輪になることは名誉であり本望。たとえ自身の幸せな家庭を持つことが叶わなくとも、芸術家としての幸福を優先する人族も数多くいるのだ。
マリッサ・プルデンスも、そうした者の一人だ。
彼女は白馬のプルデンス侯爵家の三十二番目の『花』で、専門は絵。花や草木などの自然風景を描くことを得意としていて、季節に合わせて邸のあちこちに飾るための絵を担当している。
国で最も有名な芸術学院に在籍していた頃、マリッサは毎月のように開かれていた作品展示会という名の就職活動で、幸運なことに名高い『花束主』でもある白馬の侯爵夫妻に絵を気に入ってもらえた。
当時のマリッサは十八歳。とある理由で花婚を熱望していた彼女は、二つ返事で侯爵夫妻の打診を承諾した。そうして二十歳になる年に卒業と同時に輿入れし、以来四年ほど、心の赴くままに絵を描く贅沢な暮らしをさせてもらっている。
「な~んにも不満はない……どころか、これ以上ない環境なのよね」
元平民には分不相応なほどに立派な自室の天井を見上げ、マリッサは誰にともなく呟いた。
淡いクリーム色の天井には純白の馬の彫刻があちこちに施されている。プルデンス家の伝統的な意匠で、邸に住む彫刻家の『花』たちが丹精を込めた作品でもある。まるで今にも動き出しそうな躍動感は見事の一言だ。絵を生業とするマリッサにとっては畑違いとはいえ、良いものは良い。ついつい見入ってしまう。
毛先まで丁寧に彫られた長い尾を眺めていると、ふと先ほどのしょんぼりと項垂れたパウルの尾を思い出して、苦笑いがこみ上げた。
「ここでの暮らしに不満はないけど、問題はあるなぁ」
天井の白馬を見上げたまま、ふぅ、と溜息を吐く。
脳裏に浮かぶのはプルデンス侯爵家の美しい次男、パウルのことだ。マリッサよりも三つ年下の彼は、書類上はマリッサの義理の息子でもある。
「初めて会った時から懐かれてるのよね……何でなんだろう」
四年前、マリッサが侯爵家に輿入れした当時。まだ十七歳だったパウルは、どこか少年らしさが残っていた。
『花』として挨拶代わりにと、即興で庭のユキヤナギを描いてみせたマリッサを、パウルはまるで魔法を見るかのように目を輝かせて眺めていた。
その初対面の日以降、パウルは暇さえあれば、庭や温室で絵を描くマリッサの元を訪れるようになった。マリッサが描く姿を見つめ、彼女の筆が映し出す世界に感嘆の溜め息を零し、彼女が筆や絵の具皿の手入れをする様を飽きることなく眺めた。
てっきり「絵が好きなんだろう」とマリッサは思っていたのだが、どうやら他の『花』にはそういうことをしていないようだった。他の花たちからそのことを聞き、マリッサは頭を抱えたい気分になった。
何故なら、物凄くときめいてしまうからだ。パウルの容姿に。いや、今では容姿以外の彼の性分や立ち居振る舞い、こちらの機微を良く察するところも本当に好ましい。身も蓋もない言い方をしてしまえば、どストライクだ。だからこそ困る。
「はぁ~~~、もう! もっと男らしいのがタイプだったはずなのに!!」
寝転がったまま、マリッサは自身に渇を入れるように両頬を叩いた。
どうしてだかパウルに惹かれてしまっているのは確かだ。でもこれ以上好きになりたくはない。形ばかりの花とは言え、法的にはもう人妻。恋や愛など、期待はおろか夢に見ることすら許されない身なのだ。
「はぁ……しっかりしなきゃ。私の恋心は、あの日に死んだんだから……」
絞り出すように呟いて、色の薄い唇を噛む。叩いた頬がジンと熱を持って疼く。頬を覆う指先からは、身に馴染んだ絵の具の匂いがしっとりと香った。
***
「それでね、マリッサ! ちゃんと聞いてる?」
手にしたティーカップから今にも紅茶が零れそうなほどに、興奮気味に話す白馬の侯爵夫人。淑やかで可憐な見た目とは真逆の声量に、テーブルを挟んで向かいに座るマリッサは苦笑いを返した。
侯爵家の『花』たちは皆、月に一度は侯爵夫人の茶会に招待される。作品の制作に障りがあるようなら欠席が認められるのだが、マリッサは出来るだけ参加するようにしている。花として拾ってもらった恩を少しでも返したいし、何より、侯爵夫人は女性のマリッサの目から見ても素敵な方だ。
柔らかく波打つ白銀の髪に、真っ白な耳と濃い紫色の瞳。愛らしく庇護欲をそそる顔立ちも相まって、若い頃は『菫馬の君』と称され、国内外の馬族を軒並み虜にしたのだとか。
竜の王族や他国の高位貴族からも声が掛かる中、優しいだけが取り柄と揶揄されていた白馬のプルデンス侯爵に自らグイグイ迫り、否やを言わせず異例の速さで番婚を決めた女傑でもある。
「それでね! 雷竜のトルトニス大公が人族の女性を番にしたお話は聞いたでしょう? あのときも大変な騒ぎだったけれど、つい最近お子様が生まれて、凄いことがわかったのよ!」
夫人は尚も興奮気味に捲し立てる。侯爵家の使用人たちはすっかり慣れているのだろう、手にしたまま口をつける様子が無い(というか暇が無い)夫人のティーカップをさりげなく受け取り、冷めてしまった紅茶を淹れ直している。
「あら、ありがとう。マリッサもごめんなさいね、私ったらつい興奮してしまって……」
「いいえ、奥様」
「それでね!?」
しおらしげに無作法を詫びたかと思えば、すぐにスイッチが入る。花になった当初は夫人の見た目と中身のギャップに面食らったものだが、この四年でマリッサもだいぶ慣れてきた。
「つい先日、トルトニス大公が進めていた研究の結果が出たのよ。これからはきっと亜人と人との異種婚が当たり前になるわ!」
前のめり気味に話す夫人の、紫色の瞳が確信をもってキラキラと煌めく。
「研究、ですか?」
一体何の。そう聞こうとするマリッサに、夫人は待ってましたと言いたげに、真っ白な耳を一層ピンと立てた。
建国の王、雷竜の末裔であるトルトニス大公が、人族の女性を正式な番としたのは二年ほど前だ。
当時は国の至る所で賛否が巻き起こった。亜人と人との婚姻は古来より多々あれど、技術を買う就職と同義の『花婚』ではなく、正式な伴侶とする『番婚』はほとんど例が無かったからだ。血統を重んじる高位貴族ともなれば猶更で、王族に次ぐ地位を持つ大公と人族との番婚など前代未聞だった。
だが、お相手の女性は下位とはいえ人族の貴族の令嬢で、更には婚姻前から国内外に名を馳せる稀代のレース職人だったこと、そして大公が婚姻後しばらくの間は正式な番の証となる『咬合の儀』を、お相手の体の負担を考えて我慢したほど溺愛していることが発覚し、批判の声は徐々に小さくなっていった。
その後も大公が継続して人族の地位を高めるために尽力していることは、今や周知の事実。先ほど夫人が言った『研究』とやらも、恐らくその一環なのだろう。偏に愛する妻のための行動であろうとも、どうしても弱い立場になりがちな人族にとっては、有難いことこの上ない。
「マリッサはもう知っているでしょうけれど、亜人同士の結婚は、異種族なら夫婦どちらかの血が濃く受け継がれるの。例えば私はこの通り白馬だけれど、大鷲の血も入っているわ」
白く華奢な指で自身を示して、侯爵夫人が言う。
納得だ、とマリッサは胸中で思った。この見た目は儚げな奥様には、大鷲の好奇心旺盛なところや気性の荒さ……もとい、強さが混じっているのだと思うと……。何だかとてもしっくりくる。
「それでね。最新の研究で、亜人と人の子は『亜人の性質が完全に受け継がれる』ってことがわかったのよ!」
ここが肝だ、と言いたげに、侯爵夫人は一層大きな声で言った。その細い体のどこにそんな力が……と思うほどに張りのある声だ。これもまた大鷲の血のなせる業だろうか。
「だからね。貴族の血を遺すために、人を忌避する必要はなくなったの。むしろ他種族との混血のほうが、どちらの種族になるか賭けになる分、難しいわね。それに、人にとっても問題は出そうだけれど……」
後半部分は声を潜め、夫人は心配そうに眉を下げた。
もしも本当に、人族が亜人の血を薄めずに、亜人の力を受け継ぐ子を産めるのだとしたら。今後は『花』に子を産むことを望む貴族が出てもおかしくはない。今でも閨の技術を売る花はいるが、それはあくまで繁殖目的ではなく娯楽の範疇だ。
人族の地位が高まる反面、利用価値も高まる。搾取の対象になることを懸念するのは当然だろう。
「そのあたりの法整備を急いでいるそうよ。旦那様も忙しそうだわ」
夫人の夫、白馬の侯爵は王宮の法務官長として勤めている。言われてみれば、侯爵はここ最近帰りが遅かったり、王宮に泊りがけの日もある。
(なるほど、そんなことが起きてたのね。絵のこと以外にはあまり興味が無いから、全く知らなかったわ……)
この国の『花婚』は、花組合と呼ばれる国の組織と、人の権利を守る厳格な法によって制度化されている。だが、悪いことを考える者はどこにでもいるものだ。
花組合を通さずに非合法な花の斡旋を行う『花売り』と呼ばれる者たちは、ときには人族を攫って法外な値で売り飛ばすこともあると聞く。そうした無法者たちが、新たな人の『価値』に気付けばどうなるか。頭を過ぎる不穏な考えに、マリッサの顔色が悪くなる。
「ああ、怖い話をしてごめんなさい! 安心して、マリッサのことは全力で守るわ。私たちの大事な花だもの」
慌てたように椅子から立ち上がって、夫人はマリッサの傍らに歩み寄った。そっと目線を合わせるように屈んで、柔らかく微笑んで見せる。
「奥様……」
午後の陽がきらきらと差し込むテラスは美しく、そのなかで微笑む夫人はまるで聖母像のようだ。流れるような白銀の尾が陽を反射して、何かの祝福のように輝いている。
何て綺麗なんだろう。思わずそう思った。目の前の光景と、夫人の心遣いの両方が、マリッサの胸をじんわりと暖かくする。
「……ありがとうございます、奥様」
「それでね!!」
感動の余韻もむなしく、またスイッチが入った夫人にビクリと肩を揺らすマリッサ。固まる彼女の手をとって、夫人は今日一番の声量で言った。
「もしもマリッサに好いた相手がいるのなら……いいえ、少しでも気になっている、というか、ちょっと年下だし押しが弱いけど悪くはないかな~、なんて思える相手がいるのなら、遠慮なく私に言って欲しいの! 絶対に悪いようにはしないから!!」
何故か期待を込めて輝く紫色の瞳。何だか妙に具体的だし、ものすごい圧だ。
「い、いませんよ、そんな人。それに恋愛とか、そういうのはもう、私は……」
咄嗟のことで、上手く誤魔化す言葉が見つからない。夫人の手を弱く握り返すだけで精いっぱいだ。笑顔を作る練習、もっとしておけばよかった。そんなことを頭の片隅で思いながら、マリッサは力なく笑って視線を下げた。
俯いて唇を噛むマリッサの姿に、夫人は少しだけ視線を彷徨わせた後で、静かに聞いた。
「……何か、辛いことがあったの?」
そう問われた瞬間、胸の内で真っ黒な噴煙がぶわりと噴き出すかのように、思い出したくもない記憶がマリッサの脳裏に蘇った。
十六歳の頃、マリッサには恋人がいた。
相手はマリッサと同じく平民で、亜人種には珍しく芸術学院に通う、二つ年上の先輩だった。専攻は彫刻。熊族の膂力を活かしたダイナミックな彫り方は、繊細さには欠けるが荒々しい魅力があった。展示会で互いの作品に惹きつけられたことから交流が始まり、何度も言葉を重ね、やがて拙いながらも愛を伝え合った。
「いつか種族を超えて結ばれたいと、思っていたんですけど……」
小さく鼻を啜りながら、過去を見つめるように目を伏せて、マリッサは自嘲気味に笑った。
亜人と人の番婚など、当時ほとんど例が無いことは知っていた。それでも自分たちは貴族ではないし、もしかしたらいつか。
そう思っていたのはマリッサだけだったのだと気付かされたのは、恋人だったはずの相手に「番が出来たから」と別れを告げられたときだった。
なんで。どうして。愛してるって言ったのに。混乱しながらそう縋るマリッサに、相手は悪びれもせずに笑って告げた。「だって君は人じゃないか。亜人が人に本気になることなんか無いよ。わかるでしょ」と。
「……何それ、って思いました。そんなのわかるわけない。だって私は人だもの」
当時の怒りと絶望感を思い出し、言葉が僅かに震える。ふぅ、と深く息を吐き出してから、マリッサは続けた。
「そのときから、亜人と……いいえ、誰かと深い関係になるのが嫌になったんです。恋愛って、相手に期待してしまうでしょう。それが嫌で。信じても無駄なんだって思い知らされるのが怖くて……だからもう、恋愛はしたくないんです」
いつの間にか溢れていた涙を雑に拭って、マリッサは弱々しく微笑んだ。
期待するのは怖い。他者の心も考え方も、自分にはどうすることも出来ないのだと突き付けられるのは怖い。そんな不確かなものを信じるのも怖い。それはマリッサの紛れもない本心だった。
あの一方的な別れの後、誰かに恋する気持ちは、心の床下に穴を掘って埋めた。二度と起き上がらないように、深く深く穴を掘った。自分自身の勝手な期待に振り回されて、惨めな思いをするのはもう沢山だと思った。
「それに私、これでも一応、侯爵家の花ですから!」
形ばかりの妻ではあるが、今のマリッサは書類上は人妻で、侯爵家の被雇用人だ。恋愛などに現を抜かす暇も資格もない。だから大丈夫。そう伝わるように、へらりと笑って見せる。
侯爵夫人はまだ何かを言いたげに口を開きかけて、けれど結局何も言わずに、少しだけ哀しそうに頷いた。
***
「まったく、これだから我が家の男たちは!!!」
侯爵家の面々だけが使うサロンに、夫人の怒声が鳴り響く。
部屋の中にいるのは、怒り心頭といった表情で腕を組み仁王立ちする夫人と、その横のソファで苦笑いを零す侯爵、そして夫人の目の前に立たされているパウルの三名だ。
「パウル! あなた、やる気はあるの!? マリッサに好かれるどころか、まだ気にも留められてないじゃない!」
「まぁまぁ、パウルもこれで頑張っているんだよ」
「あなたは黙っていてちょうだい!」
「はぁい」
何とも簡単に引き下がる父を恨めしそうに見つめつつ、パウルは胸中で盛大な溜息を吐いた。
プルデンス侯爵家は、とにかく女性が強い。既に家を出ているパウルの姉もすこぶる強く、数多のライバル令嬢たちを蹴散らして皇太子妃の座を掴んだ傑物だ。
「奥手すぎるあなたの兄が、やっっっっと片付いた今! あとはあなたの伴侶探しだけが心配なのよ!!」
パウルの兄は次期当主として領地の本邸で修行中で、つい最近、遠縁の伯爵家のご令嬢との縁談がまとまったばかりだ。あまりに奥手すぎて一時期「女性嫌いなのでは」とか「男色なのでは」という噂まで流れ、夫人は大層気を揉んだ。
パウルは次期侯爵の兄の補佐として家に残り、領地経営に忙しい兄に代わって、この王都のタウンハウスと社交を任される予定だ。そのためにも早いうちに良い縁を捕まえて身を固めて欲しい、というのが母侯爵夫人の意向なのだが。
母譲りの容姿と父譲りののんびり気質のせいか、パウルに寄ってくるのは野心をぎらつかせた肉食系の女子ばかり。貴族としてある程度の野心があるのは結構なことなのだが、隙あらば次期侯爵夫人の座を狙いそうな彼女たちを家に入れる気にはならず、夫人は大いに気を揉んできた。
そこへ彗星のごとく現れたのがマリッサだ。
華やかさには欠けるが化粧映えのしそうな整った顔立ちで、不相応な野心を持たず、絵の腕前は一級。それに加え地頭が良いのか、少し教えれば夫人が頼んだ雑務も難なくこなし、茶席にも嫌な顔一つせずに出席する。そして何より、パウルが積極的に話し掛けに行くほど惹かれている。どんな花を迎えようとも、今まで一度もなかったことだ。
もうこの際、人との混血でも構わないだろうと侯爵夫妻で話し合っていた矢先に、大公の研究結果を耳にした。渡りに舟以外の何物でもなかった。
狙った獲物は逃がさないことで有名な大鷲族の血を引く夫人にとって、マリッサは絶対に逃すわけにはいかない未来の嫁なのだ。
「パウル、早くマリッサに告白しなさい。ちょっと強引でもいいわ。あの子の心の傷が心配だけれど、とにかく頷かせなさい。そうすれば私が姑として存分に甘やかしてあげられるもの!」
「いや落ち着いてください、母上。そんな横暴な……」
「どこぞの躾のなっていない熊のせいで、亜人が人を弄ぶクソ野郎だと思われたままで良いの!?」
「あぁもう、またそんな大声で……。何と言われようと、一番大事なのはマリッサの気持ちですからね。僕は彼女に好かれてはいないだろうし、権力を振りかざして強気に出ることは出来ません。あ、でもまだ諦める気はありませんけど……」
もじもじと歯切れ悪く言うパウルを呆れたように眺め、夫人は背後の侯爵に何やらアイコンタクトをとった。弱ったように眉を下げる侯爵。力強く頷く夫人。
明らかに何かを企んでいる両親の様子に、どうすればマリッサに好いてもらえるか思案することに忙しいパウルは、全く気付いていなかった。
***
「移籍、ですか?」
紅茶を手に、マリッサは呆けた顔で聞いた。
いつものテラスではなく、夫人の執務室で茶会をしようと呼び出されたときから、いつもとは違う何かがあるのだろうとは思っていた。
「うちは何度もお断りしているのだけど、先方がマリッサの意見も聞いて欲しいと言ってきかなくてね」
テーブルの向こうで、弱ったように眉を下げる侯爵。その隣の夫人は複雑そうな顔だ。マリッサはひとまず紅茶のカップをそっとテーブルに置いた。あまりに予想外な話に、うっかりすると落としてしまいそうだったからだ。
亜人種の独占欲の強さは相当なものだが、絵や音楽など芸術分野の『花』の移籍は稀にある。手元に置いておきたい気持ちよりも、その花の才を一番発揮できる環境を用意することが肝要だと考える者もいるからだ。
たとえ自分の手を離れても、その花がより良い環境で磨かれ、生み出された作品を見てみたい。その欲求が勝るのだ。
他にも年老いた亜人が花の行く末を心配して別の者に後を頼む場合もあるし、花の移籍自体はおかしなことではない。だが、マリッサは自分にそんな話が出るとは露ほども考えていなかった。
どうして今。このタイミングで。そう思ったところで、嫌な考えが浮かんだ。
(もしかして、パウルに対する私の気持ちがバレたんじゃ……)
どくん、とマリッサの心臓が嫌な音で鳴った。
目の前に座る公爵夫妻の顔が見られない。彼らは今、どんな顔をしているだろうか。確かめなきゃと思うのに、不安と緊張で視線が定まらない。
これは罰なんだろうか、と思った。画家として拾ってもらった恩も忘れ、分不相応な想いを抱いたことへの罰。
「梟の伯爵からのお話でね。あちらは絵を専門にする花が多いから、マリッサにとっては良い話かもしれないんだが……どう思う?」
俯くマリッサに、侯爵は優しい声で言った。非難や軽蔑の色は全くない。むしろマリッサを案じているような声だ。
「え、と……」
どうかと問われても、急すぎて頭が回らない。夫妻の真意も、自分がどうしたいのかも、どうすれば良いのかもわからなかった。
「か、考えさせてください……」
何とかそれだけ絞り出して、マリッサは礼もそこそこに席を立った。その後確かに自分の足で自室へ戻ったけれど、どこをどう通ってきたのか、さっぱり覚えていなかった。
***
しばらく自室でぐるぐると悩んだが、一向に答えは出なかった。
「こうしていても埒が明かないわ……。少し外の空気でも吸おうかしら」
そう思い立ち、マリッサは気分転換も兼ねて画材屋に行くことにした。絵の具の残量も減ってきていたから丁度良い。ついでに表通りに新しくできたカフェに寄って、糖分を取って心を落ち着けよう。
決めるが早いか、サッと身支度をして屋敷を出る。常ならば外出時には侯爵家の使用人が付き添ってくれるけれど、今は一人になりたい気分だったので丁重に断った。
そうして愛用の店でいくつかの絵の具を買い、カフェでケーキでも食べながら一休みしようと思ったのだが。
(考え事をしながら歩くのは、良くなかったわね……)
気付けば、マリッサはすっかり道に迷っていた。これからどうするべきか、頭をかき混ぜながらフラフラと歩いていたせいだ。
薄汚れた路地で擦れ違う誰もが、お世辞にも良いとは言えない身なりをしている。おまけにジロジロと無遠慮にマリッサを見つめてくるものだから、どうにも居心地が悪い。
建物が密集しているせいか陽の光が薄く、心なしか据えた匂いもする。あまり治安の良くない裏路地に迷い込んでしまったようだった。いつもならば絶対に近寄らない場所だ。
(落ち着いて、大丈夫。何てことない顔で通り過ぎるのよ……)
自分に言い聞かせながら、ゆっくりと歩を進める。徒歩で来られる範囲なのだから、大通りからはそう離れていないはずだ。
明るい方に向かえば……いや、引き返した方が良いだろうか。不安で鼓動が速くなる。どくどくと心臓が脈打つ音が、やけに近くに聞こえる気がした。
(やっぱり、引き返そう)
そう思って踵を返せば、すぐ後ろに数人の人影があった。思わずビクリと肩を揺らす。
(あ……やばいかも……)
マリッサは小さく息を呑んだ。走り出したいのに、足が竦んで動けない。背筋にひやりとしたものを感じた時には、既に周囲をぐるりと取り囲まれていた。
目の前に三人、少し後ろに二人。耳や尾の形状からして、犬や猫科の亜人たちだろう。ぎょろぎょろと大きな目で品定めをするようにマリッサを見つめ、ひそひそと言葉を交わし合っている。
「耳が丸いな。人の女だ」
「良い服着てるぜ、貴族じゃねぇのか?」
「なら、こんなとこ来ねぇよ」
流石に貴族に手を出すのはまずいと彼らもわかっているのだろう。実際にはマリッサだって戸籍上は貴族なのだが、地味な見た目と装い、そしてこんなところに迷い込む軽率な行動からして、そう思われないのも致し方ない。
マリッサはかつてないほど自分の地味な見た目を恨めしく思い、それと同時にうかつな行動をした自身を悔いた。
どうしよう、どうすれば。一層どくどくと嫌な音で鳴る心臓。
ふいに、目の前の男が思い出したように呟いた。
「……なぁ、あの噂本当か?」
「あぁ…………人が亜人の子を産めるってやつか」
もう一人の男がそう答えた。ほんの一拍の空白を挟んで、空気が変わるのがわかった。いや、変わったのは彼らの目の色かもしれない。明らかにマリッサを見る目つきが悪化したのだ。無遠慮に、全身に投げかけられる視線に悪寒が走る。
(いやいや、冗段じゃないわよ……!)
本能的な危機感に押されて駆け出そうとしたが、日ごろ絵にしか興味が無い痩せっぽちの女の体力など、たかが知れている。悲しいほどあっという間に掴まってしまった。
「離して!!」
「ほっそいなぁ、こんなんで本当に子が産めるのか?」
「いや、その前にちゃんと出来るのかよ?」
げらげらと下卑た笑い声が間近で響く。心底気持ち悪い。
(あ~~も~~、こうなったら反撃覚悟で急所を蹴り飛ばしてやる……!)
マリッサが胸中でたくましい覚悟を決めた時、ドガッという鈍い音とともに隣にいた男が視界から消えた。え、と思う間もなく、重たい音とともにもう一人消える。
「え!? 何何何……!?」
腕を掴まれたまま見回せば、消えた男たちは少し離れたところで気を失っているようだった。突然の展開に着いていけずに混乱するマリッサの耳に、聞き覚えのある声が響いた。
「失礼。当家の花に何用ですか」
いつもの穏やかで柔らかな声ではなく、これでもかと怒りを載せた重低音。自分に向けられたものではないとわかっているのに、思わずマリッサの背中がヒュンと縮こまる。
(え、パウルだよね? こわ……こんな声も出せるんだ……)
先程までとは違う緊張感に固まるマリッサに何を思ったのか、パウルは焦りを滲ませた顔で走り寄ると、男の腕から強引にマリッサを奪い取った。
「マリッサ、大丈夫!?」
問いながら、慣れた仕草で上着を脱いでマリッサの肩にかけ、その上から存在を確かめるようにそっと触れる。こんなときまで紳士的だ。そんな場合ではないと言うのに、マリッサは何だか妙に関心してしまった。安堵も手伝って肩の力が抜けてしまう。
「お、おい、何だてめぇ……!」
状況を飲み込めていないのだろう、残った男たちがパウルに詰め寄る。
一人がパウルの肩をガッと掴んだ瞬間。パウルの長い脚がひらりと翻ったかと思うと、強烈な回し蹴りが炸裂した。一閃、と評すべき美しい所作で、ドガガッと重い音を響かせ空を飛んでいく暴漢たち。
(さっきの音はこれだったのね……)
マリッサは後に知るのだが、怒った馬族の攻撃力はかなり高い。特に脚の強さは群を抜いており、ときには圧倒的な戦闘能力を誇る肉食獣族を蹴り倒すこともあるのだ。
ほどなくして侯爵家の護衛たちが到着し、まだ目を回している暴漢たちの安否を確認した。良かった、とりあえず全員生きてはいるようだ。マリッサはホッと胸を撫で下ろした。
本当に不快な思いをしたし、とても怖かったけれど、死んでほしいとまでは思わない。むしろ、自分の不注意のせいでパウルを人殺しにするところだったかもしれないと思うと……そのほうが余程不快だし怖い。
傍らに立つパウルに向き直り、マリッサは溜息を吐きながら言った。
「パウル、あなた……こんなとこ来ちゃ駄目でしょ」
本当は真っ先に助けてもらったお礼を言うべきなのだが、パウルの立場や身を案じる想いが先走ってしまった。
ぱちくりと目を瞬いた後で、パウルは苦笑いを零して言った。
「それ君が言うの? 一人で出て行ったって聞いて、僕がどれだけ心配したか。匂いで辿れたから良かったけど、これに懲りたらもう危ないことはしないで欲しいな」
「ん? 匂いって?」
「あっ、えーと……、そ、その話はあとで! まずは帰ろう!」
何故かしどろもどろに、視線を彷徨わせて言うパウル。怪しさしかない。
肩に掛けられたパウルの上着をキュッと握って、マリッサは深く溜息を吐いた。聞きたいことは色々とある。パウルにだって言いたいことがあるだろう。けれど歩き過ぎた足が痛いし、ここから早く離れたい。ひとまずはパウルの言う通りに、邸に戻ることにした。
***
侯爵邸に帰り、家令から愛ある説教を滔々とされたあと、マリッサはパウルに促されて医務室へ向かった。念のため、暴漢に掴まれた腕に湿布薬を貼ってもらったのだ。おかげで自室に戻った今も清涼感のある匂いが漂っている。
その爽やかな香りの中で、マリッサは念を押すように聞いた。
「……じゃあ本当に、邸からあの裏路地まで私の匂いを辿ってきたってこと?」
信じられないと言いたげな視線の先には、縮こまったパウルがいる。
小さなテーブルを挟んで向かいのソファに浅く腰かけ、初めて入るマリッサの部屋に赤くなるやら、女性の匂いを辿るなどという変態的な行為の露見に青くなるやらで忙しい。
「う、うん。ごめんね、緊急事態だったから……」
「私、そんなに臭いの……?」
「違うよ! マリッサはとっても良い匂いだよ! ああ、いや、変な意味じゃなくて!! その、馬族はもともと嗅覚が鋭いんだけど、僕は特に先祖の血が濃いみたいで……」
「先祖って?」
「あれ、知らなかった? プルデンス家の始祖はスレイプニルなんだ」
「はぁ!?」
スレイプニルとは、伝説級の神獣で世界最速最強の軍馬だ。王の馬とも称されるそれは、淡い灰色の毛に八本の強い脚を持ち、主の匂いを決して間違えることなく、主のためならば死者の国にでも駆けつけ、どんなときも主一筋の一途な神馬だったという伝承が残されている。その特殊性を思えば、王家の雷竜の血よりも遥かに稀有だ。
(あの蹴りの威力……なるほどぉ……)
裏路地で見た華麗かつ驚異的な破壊力の回し蹴りを思い出し、マリッサは胸中で呟いた。納得だ。白馬の一族なのに淡い灰色をしているパウルの耳や尾も、とんでもない威力の足技も。
「今はもうほとんど普通の馬だよ! あ、でも、熊に勝てる程度には強いと思うけど……!」
何故か顔を赤くして、けれど真剣な顔で告げるパウル。
「え? 熊? なんで熊……?」
急に出てきた熊に、話の筋がわからなくなる。一体何のことかと頭上にハテナを浮かべるマリッサに構わず、パウルは意を決したように立ち上がった。そしてマリッサの傍らに跪き、湿布を貼られた手を支えるように、そっと取って言った。
「マリッサ、お願いだ。移籍なんかしないで欲しい。ずっとここに……僕の隣にいて欲しい」
真っすぐに、ひたと見つめてくる淡い紫色の瞳。マリッサの息が詰まる。
「さっきは頭に血が上ってしまって……怖がらせてごめんね。怒りで我を忘れそうになるなんて初めてだったよ。でも、そのくらい君が好きなんだ」
へにゃりと眉を下げ、絵を描くときの真剣な眼差しに心を掴まれたのだと、どこか頼りなげな笑顔で笑うパウル。その仕草は男らしさとは無縁のように思える。
マリッサの本来の好みは、筋骨隆々の男らしい人だ。パウルは違う。けれど、刺さる。マリッサの心の一番深いところに、パウルの柔らかい笑顔がこれ以上なく深く突き刺さって、もう抜けそうにない。
「僕の花に、いいや、番になってくれないかな」
「……っ」
マリッサは大きく息を呑んだ。パウルのその言葉が確かに嬉しいはずなのに、まるで何かに堰き止められているかのように、上手く言葉が出てこない。はく、と唇を開きかけて、また閉じる。
黙ったままのマリッサに何を思ったのか、パウルは寂し気に笑って言った。
「……やっぱり、僕じゃ駄目かな」
「ち、違う!」
そう言いながら、マリッサは咄嗟にパウルの手を握り返した。
胸の内に渦巻く色々な感情を、何からどう伝えれば良いのか。それはまだちっともわからない。上手く言葉にもできない。それでも今、パウルの手を離してはいけないということだけは、ハッキリとわかった。
誰かに期待なんかしたくない。信じて裏切られたくもない。それは本当なのに。
心のとても深いところでパウルを信じたいと思ってしまう。彼とのこの先があるのかもしれないと、そう願っても良いのかもしれないと、淡い期待が心の床下から湧き上がってしまう。
心掛けていたはずの無表情はすっかり崩れて、マリッサの瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。潤む瞳が窓から差し込む夕焼けに照らされ、きらりと眩しく光る。それをじっと見つめるパウルの喉が、小さくごくりと鳴った。
「……マリッサ、僕、期待してもいいのかな」
そうっと、壊れやすい宝物を扱うかのように、パウルはマリッサの両手を包むように握り直した。暖かな熱がじわりと広がる。まるで二人の境界線が崩されていくようだ。
「僕のことが嫌いじゃないなら……君を諦めたくない」
真摯に訴える真っすぐな瞳に射抜かれて、マリッサの息が一層詰まる。息が苦しくて、心臓が破裂しそうで、痛くて怖い。けれど嬉しい。
(ああもう。これで応えなきゃ、いつ応えるのよ。これが、こんな真摯な瞳が、言葉が信じられないなら……きっと一生、もう何も信じられないわ。そんなのは御免よ!)
胸中でそう叫んで、マリッサは大きく息を吸いこんだ。挑むようにパウルを見つめ、笑ってしまうほど震える声で正直な気持ちを紡ぐ。
「き、嫌いなわけない。パウルの気持ちは嬉しいの。本当に、とても嬉しい。でも、私は侯爵の花だし……」
「それは何とでもなるよ。『花婚』の解消は合法だし、珍しいことじゃない。それに僕は君を花じゃなくて、番にしたいんだ」
「で、でも、番って、解消できないんでしょう? 私、きっと重いわよ。浮気されたり、捨てられたりしたら絶対に許せない。解消できないのにそんなことになったら、パウルを呪ってしまうかもしれないわ」
「それも大丈夫。解消するわけが無いし、絶対に僕の方が重い自信あるから!」
「それは……大丈夫、なのかしら……」
にっこりと満面の笑みを見せるパウルに、一抹の不安を覚える。そんな良い笑顔で言うことだろうか。
「大丈夫だよ、マリッサ。君のためなら、僕がどんなことでも大丈夫にしてみせる。だからどうか、頷いてくれないか」
「ちょっと待って、パウル、ちょっ……近い!」
顔が近い。美しい顔が。
マリッサは思わず目を背けた。淡い銀灰色に煌めく睫毛の数まで数えられそうなほどの至近距離で、宝石のような瞳を潤ませて見上げてくるパウルを直視できない。尚もズイズイとにじり寄る彼に追い詰められて、マリッサの背中はぴったりとソファの背についている。もう逃げ場がない。
パウルは生来とても賢い人物だ。男らしさには欠けるが華やかな自身の容姿でもマリッサに有効そうだと気付くや否や、持てる全てでマリッサの理性を溶かしに掛かっている。相手の意志を最大限尊重しているようで、実際は逃がす気など毛頭ない。強引で強欲。如何にも亜人らしい求婚仕草だ。
「あ~~~、その、お、お友達からで……!!」
美の暴力に耐えきれなかったマリッサは、苦し紛れにそう答えた。
あくまで執行猶予でしかない返答だが、流されて今すぐに彼とどうこうなるのは心臓が持ちそうにない。
「あぁ、マリッサ! ありがとう!!」
心の底から嬉しそうにそう言って、パウルはギュッとマリッサを抱きしめた。
「お、お友達だからね!?」
「うん、わかってるよ」
少しだけ身体を離し、マリッサの頬にそっと手を添える。拒否する隙を与えない見事な手つきだ。
(いやこれ、絶対、わかってない……)
線が細いとばかり思っていたのに。こうして間近に見ると、パウルの身体も掌も、マリッサの予想よりもずっと大きくて厚みがある。少し乾燥してザラつく掌の感触が意外で、パウルも男性なのだと実感させられた。
頬に添えられた指が、愛おし気にマリッサの輪郭をなぞる。もはや暖かいを通り越して熱く感じるそれに、マリッサの心臓はかつてないほどに高鳴った。
「はぁ……」
パウルの吐息が頬を掠める。ふと視線を上げれば、薄紫色の瞳が亜人特有のぎらつきを放って、じっとマリッサを見つめていた。
抑えようのない所有欲と確かな歓喜が入り混じる、獲物を前にした亜人の目だ。草食系の亜人は比較的その性質も穏やかなはずなのだが、伝説の軍馬の血が濃いのなら……話は変わりそうだ。
「ああ、ごめんね。この目、怖いよね。ちょっと君の匂いが近くて……」
「に、匂い?」
「うん。すごく良い匂い。花と絵の具と……マリッサの匂いだ」
うっとりと呟きながら、パウルはマリッサの首筋に鼻先を摺り寄せた。
「馬族は嗅覚が鋭いって言ったでしょ? 伴侶も匂いで選ぶんだよ。だから僕は、君を初めて見た時からずっと、こうしたかったんだ……」
すり、すり。形の良い鼻が首筋を伝って鎖骨の窪みに触れる。その瞬間、マリッサの限界が訪れた。
「うわあ~~~! だ、駄目! これ以上は友達じゃない!!」
掌でパウルの頬を押さえて、マリッサは身体を離そうともがく。が、いつの間にかしっかりと腰に回された腕がそれを許さない。
全力を出してもビクともしないパウルの体幹に驚けば良いのか、非力すぎる自分を嘆けば良いのか、もうマリッサにはわからなかった。
「大丈夫、わかってるよ。我慢する。今はね」
しおらしく眉を下げて言う割に、最後の一言が不穏だ。
もしかしたら返事を早まったのではないか……と不安を抱くマリッサに構わず、パウルは顔面を押さえつけるマリッサの手を軽々と外し、ちゅ、と掌にキスをした。
「ひぇ……」
果たして、一体いつまで『お友達』でいられるのか。
確かな歓喜と羞恥、そしてほんの少し背筋をひんやりとさせる不安に、マリッサは間抜けな声を上げて言葉を失った。その姿はまるで捕食者を前にした子ネズミ、いや、白馬を前にした飼い葉の藁のようだった。
この後、パウルに促されてプルデンス侯爵夫妻にも委細を話した。
嬉々として迎えられたマリッサは「目論見通り!」と高笑いする夫人によって瞬く間にあらゆる外堀を埋められ、パウルとの「お友達」期間が限りなく短縮されてしまうのだが……このときは、まだ知る由も無かった。
了
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