前編:「兄妹」という仮面を脱ぎ、俺は「成人」した君を略奪する。
あらすじ:
大学卒業を控え、内定を得た悠真は、半年ぶりに雪深き実家へと帰省する。そこで待っていたのは、18歳成人を迎え、少女から女へと変貌を遂げた義妹・結愛だった。再婚家庭という「兄妹」の仮面の下で、募る情動と法的な自律。悠真は就職という経済力を、結愛は大学合格という自由を武器に、親の支配からの脱出を誓い合う。冬の静寂の中、二人の禁忌は「大人の契約」へと姿を変え、家族の秩序を内側から溶かし始めていく。
登場人物:
瀬戸 悠真:内定を得た大学4年の兄。経済力と法を武器に、愛する妹を略奪する。
瀬戸 結愛:高校3年の義妹。兄への想いを糧に、大学合格を目指す。
瀬戸 正嗣:厳格な義父。家父長的な支配を、新時代の個の自律に覆される。
瀬戸 恵子:実母。夫と子の板挟みに苦しみつつ、最後は「母」として動く。
### 第1話:帰郷の重い扉
一月一日。帰省の足を運ばせた瑞穂市の空気は、喉の奥を刺すような冷たさに満ちていた。半年ぶりに潜る実家の玄関、その引き戸が立てる乾いた軋み音は、幼い頃から変わらぬ拒絶の合図に聞こえる。悠真が吐き出した白い息は、暗い土間に漂う石油ストーブの、あの独特な鼻を突く匂いに吸い込まれて消えた。家父長的な秩序が支配するこの家において、空気さえも父・正嗣の所有物であるかのような錯覚を覚える。靴を脱ぎ捨てて上がる畳の感触は、冬の湿気を吸って驚くほど重く、一歩踏み出すごとに家全体の沈黙が足元から這い上がってくるようだった。
「ただいま戻りました」
奥の居間から現れた正嗣は、再会の言葉を投げかけることさえしなかった。その視線は悠真の顔ではなく、彼の手元、就職先から届いたばかりの「親展」と印された厚手の封筒に注がれている。正嗣は悠真の手から強引に封筒を奪い取ると、傍らの机から取り出したペーパーナイフを迷いなく差し込んだ。機密保持契約を含む雇用書類が、耳障りな音を立てて切り裂かれる。内定を得て「自律」への一歩を踏み出したはずの悠真の誇りが、父の身勝手な「正義」によって物理的に蹂躙されていく。正嗣は内容を検閲しながら、鼻で笑うように書類を放り出した。そこには、個人のプライバシーを盾に親の干渉を拒もうとする息子への、明確な侮蔑が込められていた。
「家族の間に隠し事は不要だと言ったはずだ。お前がどこの誰に、いくらで買い叩かれようとしているのか、それを把握するのは親としての義務だろう」
正嗣の声には、一切の迷いがない。その言葉こそがこの家の法律であり、逆らうことは秩序そのものを破壊する大罪であると信じて疑わない傲慢さが、部屋の温度をさらに数度下げたように感じられた。悠真は書類を無残に散らかした父の横顔を、氷のような冷徹な眼差しで見据える。怒りはすでに暴発する段階を超え、冷たい計算へと変わっていた。この怪物を、自分が手に入れた「社会的な力」で打ち破る。それはもはや、単なる救出劇ではなく、一人の女の人生を法的に、そして経済的に引き受けるための、凄絶な略奪の始まりだった。
その光景を、部屋の隅で結愛が肩を震わせて見つめていた。彼女の瞳には、かつての幼い少女の面影はない。十八歳成人を迎え、制服の襟元から覗く首筋の白さが、室内を支配する沈鬱な空気の中で異常なまでの生々しさを放っている。だが、その瑞々しい肉体とは裏腹に、彼女が置かれている現状は「奴隷」のそれと変わらなかった。正嗣は悠真の雇用書類を放り出すと、今度は結愛の手元にあるノートに手を伸ばした。
「さて、結愛。今日の日記も聞かせてもらおうか。お前が今日、何を思い、誰を想ったのか。隠す必要はない。お前のすべては私が守り、管理しているのだからな」
正嗣は結愛から奪い取った日記を、無感情な声で朗読し始めた。昨日食べたもの、解いた数学の数、そして胸の内に秘めたはずの淡い孤独までもが、家長の唇を通じて公に晒されていく。それは「教育」という名を借りた、魂への凌辱だった。さらに正嗣は、結愛のスマートフォンの同期画面を悠真に見せつける。通信ログ、検索履歴、位置情報。すべては父の端末へとリアルタイムで送信され、彼女にプライベートな空間など一寸たりとも残されていなかった。
結愛の視線が、父の背後で悠真と重なった。助けて。声にならないその渇望が、痛いほどの熱量を持って悠真に突き刺さる。彼女の手は、自身のスカートの裾を白くなるほど握りしめていた。その震えは冷気のせいではなく、剥き出しの悪意に晒され続ける恐怖と、出口のない絶望から来るものだった。正嗣はそんな娘の心理的摩耗に気づくことさえなく、あるいは気づいた上で楽しむように、次の検閲対象を探して部屋を見渡している。
「父さん、その日記を返すんだ。結愛はもう十八歳だ。法的には成人であり、個人の内面に土足で踏み入る権利は、親であっても存在しない」
悠真の声が、低く、しかし明確な拒絶を孕んで居間に響いた。正嗣が不機嫌そうに眉を寄せ、家長としての権威を振りかざそうと口を開く。だが、悠真はそれを制するように一歩前へ出た。その背中で、結愛が小さく息を呑む気配がする。彼女にとって、悠真はもはや優しい兄などではなく、暗闇の中で自分を人間として繋ぎ止めてくれる唯一の命綱となっていた。正嗣が持ち出す「家族の情」という名の暴力に対し、悠真は自らの懐にある「雇用条件提示書」という名の軍備を意識する。ここにある数字と法的な地位こそが、この腐り果てた聖域を破壊し、結愛を奪還するための最強の武器になるのだ。
「成人だと? 笑わせるな。親の金で飯を食い、親の屋根の下で寝ている者に、成人の権利などあるものか。お前も、その小娘も、私という主権の下にある付属物に過ぎないことを忘れるな」
正嗣は吐き捨てるように言うと、結愛の通信端末から直近の買い物履歴を表示させた。そこには彼女が密かに購入した、レースのあしらわれた下着の記録があった。正嗣はそれを卑猥なものを見るような目で眺め、娘の羞恥心を徹底的に粉砕していく。結愛は顔を覆い、その場に崩れ落ちそうになった。彼女の尊厳は、今、まさに最後の一片まで剥ぎ取られようとしている。悠真は拳を固く握りしめた。今ここで殴り倒すのは容易だが、それでは一時的な感情の暴発に過ぎない。この歪んだ家庭という檻を根底から解体するためには、より確実で、より冷酷な「契約」が必要だった。
悠真は、散乱した書類の中から一通の通知書を拾い上げた。そこには彼に約束された、初任給と手当、そして社宅への入居権利が明文化されている。正嗣が誇示する「親の金」という支配の根拠を、数ヶ月後には物理的に上書きできる。その確信だけが、今の悠真を正気へと繋ぎ止めていた。視界の端で、結愛が唇を噛み切りそうなほど強く閉じているのが見える。彼女の絶望が深ければ深いほど、救済の価値は高まる。悠真は自らの中にある、兄としての庇護欲を超えた、一人の男としての黒い独占欲が鎌首をもたげるのを感じた。父から彼女を奪うのではない。この地獄から彼女を「買い取る」のだ。
「……分かったよ、父さん。今は、あなたの言う通りだ」
悠真はあえて矛を収め、従順な息子を演じた。だが、その瞳の奥には、正嗣の「正義」を法と経済の刃で切り刻むための、冷徹な秒読みが刻まれている。結愛は驚いたように顔を上げたが、悠真が自分を直視し、瞬き一つで「待て」と合図を送ったことに気づき、わずかに肩の力を抜いた。一月一日の冷たい夜。瀬戸家の沈黙は、破滅へのカウントダウンを伴って、二人の共犯関係を密かに熟成させ始めていた。
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### 第2話:解氷の吐息
深夜二時。瀬戸家の静寂は、時が止まったかのような重圧を伴って、悠真の肌を刺していた。古い木造家屋は、昼間に吸い込んだ冷気を吐き出しながら、時折、生き物のように家鳴りを立てる。悠真は自室の板間に座り、正嗣に切り裂かれた雇用書類の残骸を見つめていた。家父長という名の暴君が支配するこの家において、プライバシーとは存在しない概念であり、個人の尊厳は「家族の平穏」という名目で日々、磨り潰されていく。悠真は、自らの懐に隠した通帳の数字だけを頼りに、この凍てついた城を内側から爆破する計画を、脳内で冷徹に組み立てていた。
その時、ドアの向こうで微かな衣擦れの音がした。続いて、木の葉が触れ合うような繊細な震えとともに、引き戸がゆっくりと、しかし確実に開け放たれる。そこに立っていたのは、厚手のカーディガンを羽織り、恐怖で瞳を潤ませた結愛だった。廊下の冷気に晒された彼女の肌は、月の光を浴びて透き通るように白く、その細い指先がドアの縁を白くなるほど強く握りしめている。彼女は音を立てないよう、まるで深海を泳ぐ魚のような慎重さで部屋へ滑り込み、悠真の背後に静かに膝をついた。
「……お兄ちゃん、まだ起きてる?」
結愛の声は、震える吐息となって悠真の項に触れた。彼女から漂うのは、実家特有の線香の匂いと、それをかき消そうとするかのような、若々しくも切実な熱を孕んだ石鹸の香りだった。悠真が振り返ると、結愛は縋り付くように彼のシャツの裾を掴んだ。その瞳には、昼間の凛とした拒絶の裏側に隠されていた、剥き出しの絶望が渦巻いている。正嗣という名の怪物が支配するこの家で、彼女が唯一、人間としての言葉を交わせるのは、この深夜の密会という名の、禁忌の空間だけだった。
「お父さん、また……寝室に来たの。私が寝たふりをしているのを分かっているのに、ずっと枕元に立って、私の寝顔を撮影してた。シャッターの音が、頭の奥に直接突き刺さるみたいで、怖くて、吐き気がして」
結愛の告白は、静かな夜の空気を切り裂く剃刀のようだった。正嗣は「娘の変化を把握し、健康を管理するのは親の絶対的な義務だ」と豪語し、日々の監視を「愛」という名の免罪符で正当化している。彼は結愛の睡眠時間、呼吸の深さ、果ては寝言の内容までをも「監視ログ」としてノートに克明に記しているのだ。それは教育でも保護でもない。一人の人間を自らの所有物として完全に定義し、その魂を物理的に縛り付けようとする、病的な独占欲の表れだった。結愛の体は、その異常な執着への嫌悪感で小刻みに震え続けていた。
「ごめんなさい。お兄ちゃんにこんなことばかり押し付けて。本当は、自分でなんとかしなきゃいけないのに。私、お兄ちゃんの重荷になってるよね。依存してる自分が、情けなくて……」
結愛は自嘲気味に呟き、自らの掌を爪が食い込むほど強く握りしめた。彼女の中にある「矜持」が、悠真という命綱に一方的に依存することを拒んでいる。だが、その弱音とは裏腹に、彼女の瞳には復讐の灯が静かに、しかし激しく燃えていた。彼女は震える手で、懐から数枚のメモを取り出した。それは、正嗣が「絶対の聖域」として君臨する書斎から、命がけで盗み見た情報の断片だった。結愛は、依存するだけの無力な妹であることを自らの意志で否定し、共犯者としての「武器」を悠真に提示した。
「これ、お父さんの書斎で見つけた。瀬戸家の資産状況、定期預金の額、それからお父さんが隠してる別の通帳の記録。お父さんは『親の金』で私たちを支配してる。でも、この数字が公になれば、お父さんの『聖人君子』の仮面は剥がれるはず」
結愛が差し出したメモには、正嗣の年収や資産の具体的な推移が、彼女の執念を感じさせるほど正確に記されていた。彼女は、正嗣が職権を乱用して個人情報を検索している痕跡についても、その時間と対象を克明に記録していた。悠真はメモを手に取り、妹の凄絶な覚悟を正面から受け止めた。彼女はただ守られることを待っているのではない。自らの尊厳を奪い返そうとする「意志」を持った、一人の戦士へと変貌を遂げようとしていた。この情報の重みこそが、正嗣を社会的に葬るための、そして二人を自由へと導くための、最も鋭利な刃となる。
「結愛、これは重荷なんかじゃない。俺たちが新しい世界へ行くための、最高の軍備だ。あいつが守ろうとしているのは『秩序』じゃない。自分に都合のいい『人形劇』だ。それを俺たちが、現実という名の数字で破壊する」
悠真は結愛の肩を抱き寄せ、その冷え切った耳元で低く囁いた。窓の外では、雪が音もなく降り積もり、すべてを白く塗り潰そうとしている。だが、二人の間にある熱は、どんな猛吹雪でも消せないほどに高まっていた。依存と自律、愛欲と契約。それらが複雑に絡み合い、瀬戸家の重い闇を内側から溶かし始める。正嗣の寝室から聞こえる微かな物音に、二人は同時に息を止め、互いの心音の同期を確かめる。それは、地獄の底で結ばれた、世界で最も強固で美しい「裏切りの契約」だった。
「お兄ちゃん、私を連れて行って。この家の鎖じゃなくて、お兄ちゃんの、社会的な責任の中に」
結愛の言葉は、深夜の闇に深く吸い込まれていった。彼女は悠真の胸に顔を埋め、正嗣の視線が届かないわずかな時間の平穏を噛みしめる。悠真は彼女の髪に指を這わせ、その柔らかな質感の裏にある、鋼のような強さを愛おしく思った。夜明けまではまだ遠い。だが、二人の指先が触れ合うたび、正嗣の築き上げた「管理の檻」は、確実な崩壊へと向かって、微かな、しかし決定的な軋みを上げ始めていた。
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### 第3話:18歳の宣誓
深夜の静寂を切り裂くように、居間の古い柱時計が二時を刻む音が響いた。瀬戸家の空気は、外で降り積もる雪の重みに耐えかねるように沈み込み、石油ストーブが消えた後の予熱だけが、微かに肌を撫でている。悠真は居間の炬燵に深く脚を入れ、薄暗い常夜灯の下で、結愛が差し出した「家の資産状況」のメモを凝視していた。正嗣という家父長が築き上げた偽りの城壁を、内部から崩壊させるための具体的な数字。それは単なる情報の断片ではなく、結愛が自らの尊厳を削り取り、血を吐くような思いで収集してきた反逆の証拠に他ならなかった。
炬燵の向かい側で、結愛は身を固くして座っていた。彼女の指先は、炬燵布団の縁を白くなるまで強く握りしめ、その細い肩は時折、寒さではない何かに耐えるように小刻みに震えている。彼女の瞳には、昼間の「従順な娘」という仮面は微塵も残っていない。そこにあるのは、自らの人生を他者に委ねることを拒絶し、しかし自力では立ち上がれないことへの苛立ちと、悠真という唯一の希望にすべてを賭ける、狂おしいまでの決意だった。二人の間には、兄妹という言葉では決して説明できない、共犯者特有の濃密な熱が渦を巻いている。
「お兄ちゃん。私、決めたの。もう、あのお父さんの所有物として生きるのは終わりにする。たとえどんなに汚い手を使っても、この地獄から抜け出して、人間として息をしたい。そのためなら、私は自分のすべてを差し出す覚悟がある」
結愛の言葉は、震えながらも明確な刃となって悠真の耳に届いた。彼女は一度言葉を切り、大きく息を吸い込むと、掌を自らの膝に強く押し当てた。その力みによって、細い指の関節が浮き上がり、肌の下を流れる血液の拍動が目に見えるかのような生々しさを放つ。彼女は「18歳成人」という、正嗣が最も忌み嫌い、そして無視し続けてきた法的身分を、今、この密室で最後にして最強の盾として掲げようとしていた。
「私と、結婚して。……お兄ちゃんが、私の新しい主権者になって。今すぐじゃなくていい。でも、春が来たら、私を『瀬戸結愛』という鎖から解き放って、お兄ちゃんの妻として略奪してほしい。それが、あのお父さんの親権を消滅させて、私が法的にも経済的にもあいつの手から逃げ出せる、一番確実で、最短のルートだから」
その宣誓は、あまりに重く、あまりに凄絶な「大人の契約」だった。結愛の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。それは悲しみの涙ではなく、自らの依存を一生の誓約という形で返そうとする、歪で、しかし真実の恋心の独白でもあった。彼女は悠真に依存しきりになることに、耐え難いほどの負い目を感じている。だからこそ、彼女は「愛」という曖昧な言葉に逃げるのではなく、「契約」という社会的な重みを持って、自らの人生を悠真の責任の中に放り込もうとしていた。
悠真は、結愛の瞳の奥に宿るその「自律への渇望」に、自らの中の独占欲が激しく呼応するのを感じた。兄として彼女を救いたいという純粋な動機は、今この瞬間、一人の男として彼女を完全に買い取り、正嗣の手の届かない場所へ囲い込みたいという、どす黒い情熱に塗り潰されていく。悠真は炬燵の中で、結愛の冷え切った足先に自分の脚を重ねた。微かに震える彼女の体温が、布越しに伝わり、悠真の心拍を加速させる。
「結愛。それは、俺の人生を君に捧げるだけじゃない。君の人生のすべてを、俺が社会的に引き受けるということだ。君が犯す罪も、君が背負う未来も、すべて俺の署名一つで確定させる。その覚悟が、君にはあるのか」
悠真が低く問いかけた瞬間、廊下の向こうから重苦しい足音が聞こえてきた。正嗣だ。家の中を巡回し、秩序を乱す者がいないか監視し続ける、病的な番人の足音。二人は反射的に息を止め、視線を交錯させたまま石のように固まった。暗闇の中で、二人の心臓の鼓動が重なり、同期していく。情熱と恐怖、背徳と連帯。正嗣の足音が部屋の前を通り過ぎるまでの数秒間、瀬戸家の居間は、世界で最も危険で、しかし最も甘美な契約の祭壇と化していた。
足音が遠のき、再び静寂が戻ったとき、結愛は悠真の手を、自らの胸元へと引き寄せた。薄いパジャマ越しに伝わる、彼女の激しく波打つ鼓動。それは、親の支配という名の死に絶えた過去ではなく、自らの意志で選び取った未来へと駆け出すための、生命の咆哮だった。悠真は彼女の指先を力強く握り返した。二人はもはや、血の繋がらない兄妹という不確かな記号ではない。法と経済、そして肉体の熱によって結ばれた、運命の共謀者となったのだ。
「いいよ、結愛。春になったら、俺の苗字を君に刻む。君をこの檻から略奪し、俺だけの所有物として、誰よりも自由に、誰よりも重く愛してやる」
悠真の誓いが、冬の夜気の中に溶け込んでいく。結愛は安堵したように顔を歪め、悠真の肩に額を預けた。掌に食い込んだ爪の痕が、消えることのない誓約の刻印のように赤く浮かび上がっている。外では雪が、すべてを隠蔽するように深く、深く降り積もっていた。だが、この密室で交わされた宣誓だけは、雪解けの春を待つまでもなく、瀬戸家の歪んだ秩序を内側から着実に、そして冷酷に溶かし始めていた。
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第4話:兄の特権、男の渇望
深夜、悠真は自室の机に向かい、スマートフォンのバックライトが照らす無機質な数字の羅列を凝視していた。カーテンの隙間から差し込む月光は、机上に広げられた内定条件提示書と、一冊の古い預金通帳を青白く浮かび上がらせている。正嗣が支配するこの家において、唯一、父の検閲が及ばないのは、悠真が東京の大学生活で自ら稼ぎ出し、管理してきたこの数字の城だけだった。一月の瑞穂市特有の、身を切るような寒さが部屋の隅々まで満ちているが、悠真の脳内では、正嗣という旧い権威を法と経済で切り刻むための、熱く、冷徹なシミュレーションが加速していた。
悠真の手元にある内定通知書には、大手精密機器メーカーのエンジニアとしての初任給、そして数々の手当が明文化されている。基本給に加えて、月六万円もの住宅手当。それは単なる福利厚生ではなく、結愛をこの地獄から連れ出し、誰にも邪魔されない聖域へ囲い込むための、最強の軍備であった。正嗣の年収は約七百万円。地方都市の公務員としては申し分ない数字だが、その内実は、世間体という名の鎖に縛られた、流動性のない過去の蓄積に過ぎない。悠真は、自身の将来的なキャッシュフローと、正嗣の縛る力を天秤にかけ、冷酷なまでの微笑を浮かべた。
「父さん。あなたの正義は、この具体的な数字の前では、ただの古い紙芝居に過ぎないんだ」
独り言が、冷たい空気の中に白く溶けていく。悠真は通帳の残高をなぞり、それを結愛を買い取るための軍事予算として再定義した。家賃、光熱費、大学の学費の補填。計算機が弾き出す数字の一つ一つが、結愛を縛り付けている正嗣の指を一本ずつ引き剥がしていく快感。それは兄としての庇護欲を超えた、一人の男としての、どす黒く、しかし純粋な略奪の衝動だった。結愛を救いたいのではない。彼女の人生のすべてを、俺の責任と経済力の中に閉じ込め、俺なしでは息もできないほどに従順な妻として再生させたい。その独占欲が、悠真の心臓を激しく打ち鳴らしていた。
脳裏に浮かぶのは、炬燵の中で震えていた結愛の、あの瑞々しくも痛々しい白いうなじだ。十八歳成人という法的身分を手に入れた彼女は、もはや正嗣の所有物ではない。だが、社会的な翼を持たない彼女は、まだ一人では羽ばたけない。その無防備な自律を、俺という名の檻で優しく、そして強固に包み込む。悠真は、結愛のすべてを自分の資産で上書きする瞬間の悦びを想像し、指先に力を込めた。ペンが紙を走る音が、静寂の中で鋭い切創のように響く。彼は、新居となる一LDKの間取り図に、結愛の居場所を、そして二人のための主権の再契約を行うためのベッドの配置を、緻密に書き込んでいった。
悠真は、自身の初任給から算出される可処分所得が、正嗣が娘に与えている恩恵をいかに容易く凌駕するかを確認し、深い溜息をついた。それは安堵ではなく、勝利を確信した者の陶酔だった。正嗣が親の金という言葉を暴力として振るうのであれば、悠真は夫の資産という名の法的盾で応戦する。そこには、血縁という名の甘い逃げ場など存在しない。あるのは、一人の女の人生を一生引き受けるという、重く、甘美な責任という名の支配だけだ。初任給の数字を睨みつけ、彼はその重みを掌に刻み込んだ。
突如、廊下で床板が微かに軋む音がした。正嗣の夜の見回りが、また始まったのだ。悠真は瞬時にスマートフォンの画面を消し、書類を教科書の下へ滑り込ませた。ドアの向こうで、父の重苦しい気配がしばらく留まる。それは、息子を自分の延長線上にある部品として監視し続けようとする、絶望的なまでの執着の現れだった。悠真は暗闇の中で、静かに、しかし激しく嘲笑った。正嗣が監視しているのは、すでにここにはいないかつての息子の影に過ぎない。本物の悠真は、すでに結愛と共に、法と数字で武装した新しい秩序の最前線に立っているのだ。
「春が来たら、すべてを終わらせる。そして、すべてを俺のものにする」
悠真は心の中で、自分自身に、そして闇の向こうで震えているであろう結愛に誓った。掌に残る書類の硬い感触が、これから始まる凄絶な略奪の、確かな手応えとなって彼を支えていた。外では、瑞穂市の家々を飲み込もうとする雪が、音もなく降り積もっている。だが、悠真の心に灯った略奪の炎は、その冷たい白銀の世界を内側から焼き尽くし、二人だけの楽園を現実のものとするための、冷徹な進軍を開始していた。
彼は机の引き出しの奥に隠した、もう一つの書類――婚姻届の雛形を指先でなぞった。未だ白紙のその紙片は、春になれば彼と結愛の連名によって、正嗣という旧い神を殺すための宣告書へと変わる。悠真の脳裏には、既に正嗣の顔が屈辱に歪む光景が、勝利の凱歌と共に鮮明に描き出されていた。一秒、また一秒と、独立へのカウントダウンが刻まれていく。悠真は静かに目を閉じ、毛布を被った。その下で握りしめた拳は、守るべき者の体温と、支配すべき者の野心で、いつまでも熱を帯びていた。
深夜の静寂は、もはや恐怖ではなく、収穫を待つ猟師の孤独に似ていた。悠真は正嗣の足音が遠ざかるのを確認し、意識を深い眠りへと沈めていく。夢の中では、雪解けの瑞穂駅のホームで、かつての自分たちの苗字を捨て、新しく選び取った苗字で呼び合う二人の姿があった。その光景を現実に引きずり下ろすための代償なら、どんなに法的な重圧であろうと、どんなに社会的な責任であろうと、悠真は喜んで差し出すつもりだった。彼にとっての愛とは、そのような冷徹な実力行使の果てにのみ、完成されるべきものだったからだ。
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第5話:雪に閉ざされた午後
その日は、朝から瑞穂市の街並みを塗り潰すような猛吹雪だった。窓の外は白一色の境界を失った世界となり、叩きつける雪礫が古い木造家屋の窓ガラスを絶え間なく震わせている。正嗣と恵子は、法事のために隣町の親族宅へ向かったが、この天候では今日中に帰還することは不可能だろう。家の中に残されたのは、悠真と結愛の二人だけだった。外気から遮断された瀬戸家は、あたかも外界から切り離された巨大な繭のように、静まり返った密室と化している。暖房の届かない廊下は極寒の闇に沈んでいるが、それとは対照的に、二人の間に流れる空気は異常なまでの熱を帯び、飽和状態に達していた。
悠真が自室で独り、新居の契約書類を精査していると、ノックの音もなく結愛が姿を現した。彼女は冬用の厚手の部屋着を纏っていたが、その襟元からは、緊張と興奮で微かに上気した白い鎖骨が覗いている。彼女の指先は小刻みに震え、自身の腕を抱きしめるようにして冷え切った身体を支えていた。正嗣という監視の目が消えた空白の時間は、彼女にとって自由への渇望を暴走させる劇薬となった。彼女は悠真の足元に力なく膝をつき、縋り付くような眼差しで彼を見上げた。
「お兄ちゃん、お願い。私の全部を、お父さんから奪って。あいつの記録にも、あいつの記憶にも残っていない、私だけの場所を作ってほしいの。このままじゃ、私は私でいられなくなる」
結愛の声は、湿り気を帯びた切実な祈りのように悠真の胸を打った。彼女は自身の自律が正嗣によって一歩ずつ侵食されていく恐怖に耐えかね、悠真という防波堤の中に完全に沈み込むことを選んだのだ。悠真は彼女の冷たい頬を両手で包み込んだ。氷のような指先が触れ合うたびに、互いの皮膚の下で脈打つ激しい拍動が同期していく。これは単なる情動の暴走ではない。一人の女の人生を買い取り、支配の檻から引き剥がすための、魂の主権を書き換えるための神聖な再契約だった。
悠真が彼女を抱き寄せた瞬間、彼女の唇から押し殺したような小さな喘ぎが漏れた。二人の距離が消滅し、重なり合う体温が冷え切った部屋の温度を急速に上書きしていく。R15という制約の中、視覚的な露骨さを排した描写が、逆に想像力を鋭敏に研ぎ澄ませた。脱ぎ捨てられた厚手のカーディガンが、畳の上に音もなく落ちて重なる。結愛の指先が、悠真のシャツの背中に深く食い込み、シーツの皺が彼女の背中に刻まれる。冬の冷気の中で、二人の肌からは微かな汗が浮き上がり、それが石油ストーブの残り香と混ざり合って、密室の熱をさらに濃厚に変質させていった。
「これは、君を一生背負うという誓約だ。俺が君の主権者になり、君の未来をすべて俺の責任で確定させる。その覚悟はいいか」
悠真が耳元で低く囁くと、結愛は返事の代わりに、彼の首筋に強く顔を埋めた。窓の外では雪がますます激しさを増し、家全体を深い白銀の底へと沈めようとしている。だが、その閉ざされた静寂の中で、二人の心拍はかつてないほど力強く、そして狂おしく鳴り響いていた。悠真は、自らの腕の中に収まったこの瑞々しい肉体こそが、正嗣という怪物を打ち破るための唯一の「真実」であることを確信した。父が守ろうとした「子供」という幻想を、悠真は今、一人の「女」として抱くことで、根本から解体しようとしていた。
結愛の喉元を伝う汗の粒が、微かな光を反射して光っている。彼女の指先が悠真の髪を掻き乱し、その力の入り方が、彼女が抱えてきた絶望の深さを物語っていた。悠真は、彼女の背中を支える自身の掌の熱を通じて、一人の結婚相手として彼女を受け入れる重圧を心地よく感じていた。社会的な地位も、経済的なリソースも、すべてはこの一瞬のために積み上げてきたのだ。支配を奪い、責任を負う。その冷徹なまでの愛の形が、雪に閉ざされた午後、二人の境界線を完全に消失させていった。
どれほどの時間が経過しただろうか。激しい情動の波が引き、残されたのは、重なり合った二人の静かな呼吸の音だけだった。窓の外の吹雪は一向に止む気配を見せず、瀬戸家は依然として外界から孤立したままだったが、二人の内側では、既に新しい秩序が芽生え始めていた。結愛は悠真の腕の中で、安堵に満ちた瞳を閉じている。彼女を縛っていた見えない鎖は、この肉体の結合という名の「契約」によって、音を立てて砕け散ったのだ。悠真は彼女の額に優しく唇を寄せ、暗闇の中で静かに微笑んだ。
この午後、二人は「兄妹」という記号を雪の中に葬り、自律した個としての「共犯者」へと新生した。正嗣が帰宅し、再び監視の目を光らせたとしても、彼女の芯にある熱までは奪い去ることはできない。悠真は、自身の人生を結愛という存在で完全に定義し直す覚悟を、改めて自らの魂に刻印した。外では、瑞穂市の家々を飲み込もうとする雪が、音もなく降り積もり続けている。だが、悠真の心に灯った略奪の炎は、その冷たい白銀の世界を内側から焼き尽くし、二人だけの楽園を現実のものとするための、揺るぎない進軍を続けていた。
「もう、どこにも行かせない。君のすべては、俺が買い取ったんだから」
悠真の独白は、雪に閉ざされた部屋の隅々まで染み渡っていった。結愛は微かに微笑み、彼の手を強く握り返した。掌に残る、消えることのない熱の手応え。それこそが、正嗣の支配を上書きする唯一の、そして最強の証拠だった。一月の極寒の中、瀬戸家の小さな一室だけが、狂おしいほどの生命の熱量に包まれていた。それは、春に予定された「略奪」を完遂させるための、血の通った決起集会に他ならなかった。二人の物語は、この雪の午後を境に、取り返しのつかない決定的な一歩を踏み出したのである。
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第6話:契約としての情事
深い静寂に包まれた深夜、瀬戸家の二段ベッドの下段には、冬の厳しさを忘れさせるほどの熱気が漂っていた。外では依然として猛吹雪が瑞穂市の街並みを白く塗り潰し、時折家全体を揺らすような突風が、古い木造の壁を叩いている。しかし、この厚いカーテンで仕切られた狭い空間だけは、家父長という名の暴君の手が及ばない、二人だけの聖域となっていた。肉体の結合という名の「契約」を終えたばかりの二人の間には、汗の匂いと、混じり合った吐息の熱、そして言葉にできないほどの濃密な共犯意識が、重く、甘く沈殿している。
結愛は乱れた長い髪をシーツに散らし、悠真の腕の中で小さく肩を上下させていた。彼女の肌は事後の余熱で赤らみ、月光さえ届かない暗闇の中で、微かに浮き出た汗が真珠のような光を放っている。悠真は彼女の細い肩を抱き寄せ、その指先がなぞる皮膚の質感を通じて、一人の女の人生を法的に、そして社会的に引き受けるという重圧を、心地よい充足感として噛み締めていた。これは単なる一夜の過ちではない。支配者である正嗣の「正しさ」を、内側から決定的に、かつ冷徹に溶かし尽くすための儀式であった。
「お兄ちゃん……私、ただ守られるだけのお人形にはなりたくないの。お父さんの言いなりになって、日記を読まれて、スマホを覗かれるだけの子供には、もう二度と戻りたくない」
結愛の声は、湿り気を帯びた低い呟きとなって、悠真の胸元に響いた。彼女は自身の震える指先を見つめ、それを悠真の掌に重ねると、爪が食い込むほど強く握りしめた。彼女の瞳には、依存から脱却しようとする強い自律の光が宿っている。彼女は、悠真が提供する「新しい檻」に逃げ込むのではなく、彼と共に戦い、彼が背負うこれからの人生の半分を、自分もまた「契約者」として背負うことを決意していた。恋心という曖昧な情動が、この瞬間、社会的・法的な責任を伴う鋼のような誓約へと昇華されていく。
「分かっている。君はもう、誰の付属物でもない。俺の人生を半分背負うということは、俺が君の人生に責任を負うのと同義だ。俺たちは単なる兄妹という欺瞞を捨て、運命を共にする対等なパートナーになる。この肌に残る熱が消えても、俺たちが交わした契約の効力は一生消えることはない」
悠真は彼女の額に唇を寄せ、重厚な響きを伴った声で応えた。R15という情緒的な制約があるからこそ、二人の間に漂う空気感はより研ぎ澄まされ、視覚を超えたエロティシズムを創出している。シーツに刻まれた指先の痕や、重なり合う肋骨の感触。それら五感を通じて伝わるすべての情報が、正嗣という怪物が決して立ち入れない「主権の再構築」を証明していた。悠真は結愛の指先に残る自律への意志を認め、彼女を一人の自立した女性として、そして生涯を共にする伴侶として、魂に深く刻印した。
二段ベッドの下段という閉鎖的な空間は、あたかも外部の秩序を拒絶する独立国家のようであった。悠真の脳内では、春に向けての進軍計画が、より鮮明に、より冷酷に組み上がっていく。住宅手当、福利厚生、そして婚姻届。それら具体的な社会のリソースを、結愛という唯一無二の存在を奪還し、保護するための実弾として定義し直す。正嗣が「家族の情」という名の暴力を振るうのであれば、悠真は「世帯の自立」という名の正義で応戦する。その決意は、結愛の柔らかな肌を通じて、確かな手応えとなって悠真の全身を巡っていた。
「お兄ちゃんじゃなくて、悠真さんって呼んでもいい? 明日からは、お父さんの前でも、心の中ではそう呼ぶから。私を、あなたの瀬戸結愛にして」
結愛のその問いかけは、兄妹という仮面を完全に剥ぎ取り、新しい属性を自ら選び取るための最終宣告だった。悠真は何も答えず、ただ彼女をさらに強く抱きしめることで、その要求を受諾した。外の吹雪は一向に弱まる気配を見せなかったが、瀬戸家の内側に生じたこの亀裂は、もはやどんな旧い秩序をもってしても修復することはできない。暗闇の中で、二人の心拍は完璧なまでに同期し、一つの大きな生命の鼓動となって静寂を支配していた。春が来れば、この苗字は二人が自らの意志で選び直した「責任の記号」へと上書きされる。
悠真は、結愛の耳元で刻まれる確かな鼓動を聴きながら、窓の外の闇を見据えた。そこには、明日になればまた再開されるであろう正嗣の執拗な監視と、息の詰まるような「教育」が待ち受けている。しかし、今の二人にとって、それはもはや恐れるべき対象ではなかった。肉体の熱を通じて交わされたこの「契約としての情事」こそが、彼らを繋ぎ止める最も強固な絆であり、支配を打ち破るための最強の武器であることを、彼らは本能で理解していたからだ。一月の凍てつく夜、瑞穂市の片隅で、新しい人生の産声がひっそりと、しかし力強く上がっていた。
結愛は深い眠りに落ちる直前、悠真の腕の中で微かに微笑んだ。その表情には、もはや奴隷としての虚ろな光はなく、未来を掴み取ろうとする者の誇りと高揚感が滲んでいる。悠真はその寝顔を、命を懸けて守るべき城郭として心に描き、自身の掌に残る彼女の温もりを反芻した。愛とは情熱に身を任せることではなく、その相手の人生を社会的に引き受ける覚悟である。その物語の核心を、彼は今、自身の肉体と魂で証明し続けていた。雪は音を吸い込み続け、二人の間に流れる密やかな熱だけが、瀬戸家の歪んだ均衡を静かに解体していく。
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第7話:内定条件提示書の重み
悠真は自室の机に向かい、改めて手元の内定条件提示書と雇用契約書を精査していた。蛍光灯の青白い光が、紙面に並んだ無機質な数字を冷徹に浮かび上がらせている。基本給、超過勤務手当の見込み、そして最も重要な福利厚生の項目。月額六万円の住宅補助、確定拠出年金、完備された社会保険。これら一つ一つの項目こそが、正嗣という家父長的支配者を打倒するための、物理的かつ法的な実弾であった。悠真は、自らの将来的な経済的リソースが、正嗣の語る「家族の情」という曖昧な言葉をいかに容易く上書きできるかを、緻密な事務処理のように計算していった。
一月の瑞穂市を包む猛吹雪は、窓ガラスを絶え間なく震わせ、屋根に積もった雪が時折重い音を立てて滑り落ちる。その音さえも、今の悠真にとっては反撃へのカウントダウンを刻む鼓動のように聞こえていた。正嗣は約七百万円という年収を盾に、家族の生殺与奪の権を握っていると信じ込んでいる。だが、悠真が手にしたのは、それとは全く異なる種類の力だった。それは独立した世帯を維持する能力という、正嗣の支配が及ばない外部社会への切符である。悠真はこの書類を、単なる就職の証ではなく、結愛を略奪するための軍備拡張計画書として再定義し、冷徹な微笑を浮かべた。
「父さん。あなたの時代では家族こそが最小の安全保障だったのかもしれないが、今の俺には、この契約書こそが唯一の防壁だ」
独り言は、凍てついた空気の中に静かに溶けていった。悠真は、自身の初任給から算出される可処分所得と、結愛を新居に囲い込むための維持費用を対置させる。住宅手当の支給要件に「配偶者」の記載があることを確認し、そこに結愛の新しい苗字が記される未来を幻視した。婚姻届と雇用契約書。この二つの契約が組み合わさったとき、正嗣の築き上げた支配の城郭は、足元から音を立てて崩れ去るだろう。彼はペンを執り、余白に何度も生活費の試算を書き連ねた。食費、光熱費、結愛が大学へ通うための学費の補填。そのすべてを自分のリソースで賄えるという確信が、悠真の胸に歪んだ万能感をもたらしていた。
脳裏を掠めるのは、二段ベッドで交わした結愛との、あの密やかな熱の感触だ。結愛の指先に残っていた、自律への凄絶なまでの意志。彼女を守るためには、単なる同情や情熱だけでは足りない。彼女の人生を丸ごと社会的に引き受けるだけの、具体的な裏付けが必要なのだ。正嗣が「親の金」で結愛を支配し、下着の購入履歴まで検閲する奴隷化を正当化するのであれば、悠真は「夫の資産」で彼女の尊厳を上書きし、誰にも踏み込ませない自由を保証する。支配から解放するのではない。俺という名の、より強固で、より知的な責任の中に、彼女を閉じ込めるのだ。その独占欲が、悠真の心臓を心地よく打ち鳴らしていた。
正嗣は、悠真が大学を卒業して「自分の部下」のような存在として家に戻ることを疑っていない。彼は家族ならすべての財産も思考も共有して当然だという歪んだロジックを、今も悠真に押し付けようとしている。だが、悠真は既に、正嗣という怪物を打ち破るための物理的な壁を、数字の海の中に構築し終えていた。初任給の振り込み口座、新居のオートロックの暗証番号、機密保持契約によって守られた自身の社会的地位。それらすべてが、結愛を略奪し、隔離し、自分のものとするための聖域を形成する。
「情ではなく、実利で対抗する。それが、あいつの支配から彼女を救い出す唯一の道だ」
悠真は、雇用契約書の末尾に自らの署名を書き入れた。インクが紙に染み込んでいく様子を眺めながら、彼はこれが一種の宣戦布告であることを自覚していた。この書類を提出した瞬間、彼は正嗣の管理下にある息子ではなく、独立した社会人としての地位を確立する。それは同時に、結愛を法的・経済的に「買い取る」準備が整ったことを意味していた。正嗣が誇示する約七百万という年収は、この家に留まり続ける限り、二人の自由を縛る重石でしかない。対して悠真の提示するリソースは、外の世界へ飛び出し、新しい生活を構築するための純粋な動力源であった。
部屋の外では、正嗣が廊下を歩く足音が聞こえた。一歩一歩が重く、家全体の秩序を確認するような威圧的な響き。悠真は反射的に書類をフォルダに隠し、机の上の参考書を開いた。ドアの隙間から漏れる光を遮るように、父の影がしばらくそこに留まる。正嗣は息子が自分の支配を強化するための「優秀な部品」として成長していると信じて疑わないだろう。その傲慢さが、悠真にとっては滑稽であり、同時に冷酷な殺意を抱かせる要因でもあった。父が去った後、悠真は再び書類を取り出し、住宅手当の月六万という数字を愛おしむようになぞった。
この六万円という具体的な数字こそが、正嗣が結愛に対して行ってきた「衣食住の提供」という恩義を無効化する。悠真は結愛の人生に、父を上回る実弾を投下する準備を整えていた。社会保険の扶養家族、緊急連絡先、そして婚姻による新しい戸籍。それらすべてが正嗣という壁を突破するための装備であり、二人が生き残るための生存戦略だった。悠真の瞳には、かつての優しい兄の光は微塵も残っていない。そこにあるのは、獲物を確実に仕留めるために軍備を拡張し続ける、冷徹な猟師の光だった。
夜が更けるにつれ、風の音はさらに激しさを増していった。悠真は電卓を叩き続け、端数の一円までを計画の中に組み込んでいく。結愛を新居に囲い込み、誰の検閲も受けない生活を提供するためには、一分の隙も許されない。正嗣の「家族の絆」という名の監視に対し、悠真は「独立した世帯」という名の要塞で対抗する。その要塞の設計図こそが、今、彼の手の中にある雇用契約書に他ならなかった。悠真は、春に予定された「略奪」を完遂させるためのシナリオを、最後の一文字まで脳内で完結させると、静かに電気を消した。
暗闇の中で、悠真は結愛の震えるような呼吸を思い出していた。彼女が受験勉強を装って、正嗣の監視ログに対抗するための毒針を研いでいるあの横顔。共犯者としての彼女の期待に応えるためにも、この経済的武装に一切の不備は許されない。悠真は、自身の人生を賭けた軍備拡張計画の完成を確信し、意識を深い眠りへと沈めていった。夢の中で、彼は新しい部屋の鍵を結愛の手に握らせていた。そこにはもう、正嗣の足音も、検閲の影も存在しなかった。あるのは、契約によって確定された、二人だけの閉ざされた楽園の静寂だけだった。
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第8話:【断絶の肖像】父の戦った冬
正嗣は、深夜の書斎で独り、琥珀色の安価なウイスキーを口に運んでいた。微かに揺れるグラスの底に映るのは、歪んだ自らの貌と、既にこの世にはいない亡霊たちの影だ。外では瑞穂市の吹雪が荒れ狂い、古い家屋を物理的な圧力で押し潰そうとしている。その音を聴くたび、正嗣の背筋には形容し難い悪寒が走る。彼にとって「冬」とは、単なる季節の移ろいではない。それは、自身が築き上げてきた平穏という名の砂の城を、容赦なく抉り取っていく、呪わしい破壊の象徴だった。正嗣がなぜここまで「管理」という名の病的な執着に憑りつかれているのか。その根源は、彼がかつて経験した、あまりに無残な敗北の記憶に深く根ざしていた。
正嗣の実父は、この瑞穂市でも名の知れた放蕩者であった。かつての名家の末路として、父は酒と博打に溺れ、先祖代々の土地も、家族の誇りも、すべてを灰燼に帰した。幼い正嗣が目にしたのは、差押えの赤い紙が貼られた家具と、飢えに震える母の背中だった。無秩序がいかに容易く人間を破滅させるか。その教訓は、正嗣の骨の髄まで染み渡っている。彼は誓ったのだ。自分だけは決して「管理」の手を緩めない。秩序こそが生命線であり、一分の隙も許さぬ検閲こそが、愛する者を守る唯一の術であると。正嗣にとって、家族のプライバシーを侵害することは、彼なりの「生存戦略」であり、狂信的なまでの使命感に裏打ちされた儀式でもあった。
書斎の机の奥には、一通の古い診断書が隠されている。それは、結愛の実母である前妻の死を記録したものだ。当時の正嗣は、仕事の激務を言い訳に、妻が訴えていた微かな体調不良を見逃した。単なる風邪だと思い込み、十分な看病もせずに出勤したその日、妻は肺炎をこじらせ、独り冷たい寝室で息を引き取った。「検閲を怠れば、家族は死ぬ」。その凄絶なトラウマが、正嗣の精神を歪な形に凍結させた。彼は、結愛の日記を読み、スマホを同期し、下着の購入履歴までを把握しなければ、彼女がいつの間にか死の深淵へと滑り落ちてしまうのではないかという、終わりのない恐怖に突き動かされているのだ。
「誰も理解しなくていい。私がこの家を守り抜く。そのためなら、私は喜んで怪物になろう」
独白は、冷え切った書斎の壁に虚しく跳ね返った。正嗣の眼鏡の奥にある瞳は、既に現実の結愛や悠真を見ているのではない。彼が戦っているのは、かつて自分を裏切った運命という名の敵だった。彼は結愛を「一人の自立した女性」として見ることを、本能的に拒絶している。成長し、自分の管理の及ばない「外の世界」へと羽ばたこうとする彼女の姿は、正嗣にとっては、死へと向かう危うい足取りにしか見えないのだ。彼が振るう家父長的な暴力の正体は、実は剥き出しの孤独と、二度と誰かを失いたくないという、悲痛なまでの臆病さの裏返しに他ならなかった。
正嗣は、悠真が持ち帰った雇用契約書の残骸を思い出し、不快そうに顔を歪めた。息子が手に入れた「社会的な力」は、正嗣が三十年かけて築き上げてきた、この「監視の館」の均衡を乱す異物でしかない。家族に秘密は不要だ。隠し事があるということは、そこに死の芽が潜んでいるということだ。正嗣は、悠真が自分と同じ轍を踏まぬよう、より一層の締め付けが必要だと確信を深める。彼にとっての教育とは、相手の魂を屈服させ、自分の視界の届く範囲に繋ぎ止めておくことと同義だった。瑞穂市の吹雪が窓を叩く。その冷気が、正嗣の心に巣食うトラウマという名の怪物を、さらに肥大化させていった。
彼はウイスキーを飲み干すと、ふらつく足取りで結愛の部屋の前へと向かった。ドアの向こうから聞こえるはずのない寝息を確かめようと、耳を澄ませる。暗闇の中で、娘が「自分の管理下」で無事に生存していることを確認して初めて、彼は束の間の、しかし安息とはほど遠い静寂を得ることができるのだ。正嗣は、結愛を人間としてではなく、壊れやすい精密機器のように扱っている。その歪んだ愛情が、結果として娘の精神を奴隷化し、悠真という略奪者への渇望を加速させていることに、彼は死ぬまで気づかないだろう。彼は時代に取り残された、哀れな番人だった。
瑞穂市の冬は、すべてを白く塗り潰し、個人の意志を奪い去ろうとする。正嗣はその冷徹な白銀の世界に、自らの人生を重ね合わせていた。雪を掻き、道を整え、家族という名の家畜を安全な柵の中に閉じ込める。その反復こそが、彼にとっての人生の意義そのものだった。しかし、その柵の内側で、悠真と結愛という二つの魂が、彼の築き上げた「正義」を溶かし尽くすほどの熱量を持って共謀していることに、正嗣はまだ気づいていない。彼は独り、歪んだ眼鏡を拭きながら、来たるべき春の訪れを、破滅の予兆として本能的に恐れ始めていた。
書斎に戻った正嗣は、再びペンを執り、監視ログに新しい一行を書き加えた。「悠真、帰省初日。反抗的。さらなる指導が必要」。その文字は、かつて没落した実父への恨みと、亡き妻への贖罪、そして現在進行形の狂気が混ざり合った、凄絶な断絶の肖像であった。彼は自らの孤独を「崇高な自己犠牲」へとすり替え、家族という名の生贄を捧げ続けることで、ようやく自らの存在を肯定できているのだ。正嗣が抱える強固な「悲劇の正義」は、今や彼自身をも飲み込む暗い深淵となり、瀬戸家の廊下に、いつまでも消えない重い影を落とし続けていた。
夜明けはまだ遠い。正嗣は冷え切った指先を暖めることもせず、ただ執拗に、家族の「動静」を記録し続ける。窓の外では、音を吸い込む重い雪が、瑞穂市の家々を一層深く、静かに幽閉していた。その静寂の中で、正嗣の吐き出す溜息だけが、呪いのように室内の空気を重く変質させていく。彼は一人の父親としてではなく、ただ一つの崩壊を食い止めようとする、盲目の守護者として、この長く苦しい冬を戦い抜くつもりだった。しかし、その戦いの果てにあるのは、彼が最も恐れていた「完全な断絶」であることを、吹雪の音だけが嘲笑うように告げていた。
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第9話:秘密の同盟
冬休みが終わりを告げ、瑞穂駅のホームには、現実へと引き戻される帰学の日の寒々しい空気が漂っていた。鈍色の空からは細かな雪が舞い落ち、出発を待つ列車の金属音が、冷え切った大気の中に鋭く反響している。悠真は自らの荷物を握る手に力を込め、隣に立つ結愛の気配を静かに探った。その隣には、家父長としての威厳を崩さない正嗣と、その影に寄り添うように立つ実母・恵子の姿があった。表面的には、どこにでもある家族の別れの光景だった。しかし、氷点下のホームで四人の間に流れているのは、互いの喉元を狙い合うような、研ぎ澄まされた沈黙という名の刃であった。雪は音を吸い込み、視界を白く遮るが、悠真の意識はかつてないほどに研ぎ澄まされ、周囲の微かな動悸すらも捉えていた。
正嗣は悠真の顔を見ることもなく、ただ自身の時計を何度も確認しながら、予定通りの運行を管理することに執着していた。彼にとって、息子を東京へと送り出すこの儀式さえも、自らの支配体制が揺るぎないことを確認するための事務的な工程に過ぎない。しかし、その正嗣の死角で、恵子の瞳が悠真を真っ向から捉えた。恵子は普段、夫の影に隠れて自己を消しているが、その眼差しには、正嗣の病的な監視の網を潜り抜けてきた者だけが持つ、凄絶なまでの知性が宿っていた。彼女は悠真と結愛の間に流れる、兄妹という言葉では到底説明のつかない異常な熱を、誰よりも早く、そして正確に察知していたのである。
恵子は、かつて自分もまた、この家という名の檻から逃げ出そうと足掻いた一人の女であった。だが、彼女は自律を捨て、夫の支配に従順に従うことで、辛うじて生存を維持してきた。そんな彼女にとって、悠真が手に入れた経済力と、結愛が掲げる成人という盾は、自分がかつて捨て去った、しかし心の奥底で燃え続けていた自律への渇望そのものだった。恵子は正嗣の横で、精巧に作られた人形のように静かに微笑んでいた。だが、その指先は悠真にだけ分かるように動き、結愛の凍えた手を、自身の掌で包み込むように強く、折れそうなほど強く握りしめた。その感触は、言葉よりも雄弁に彼女の意志を伝えていた。
「あの子を、お願いね。悠真」
恵子の唇は動かなかった。だが、その託託は、悠真の脳内に直接響くような重みを持って届けられた。恵子の指先から伝わる微かな振動は、沈黙の中に潜ませた彼女自身の反逆の意志だった。彼女は悠真が実家の資産状況を把握し、婚姻という名の法的契約によって結愛を略奪しようとしていることを、すべて見抜いていた。そして、その計画を止めるどころか、自らもまたこの家を内側から解体するための共犯者となることを決意したのだ。恵子の沈黙は、もはや屈服の証ではなく、嵐を呼ぶための静かな、しかし確固たる宣戦布告であった。悠真はその無言の圧力に、背筋が震えるような戦慄と、同時に揺るぎない連帯感を覚えていた。
悠真は母の眼差しの中に宿るその凄絶な覚悟を読み取り、微かに、しかし力強く頷いた。正嗣は、妻が娘の手を握っているのを、別れを惜しむ母親らしい情愛だと解釈し、満足げに鼻を鳴らした。その滑稽なまでの無自覚さが、悠真には哀れにさえ思えた。正嗣が築き上げた支配の城郭は、最も信頼していたはずの妻の手によって、既に足元から静かに、確実に崩され始めている。恵子は、自分が果たせなかった個としての自律を、息子と娘に託したのだ。それは、実母から実子へ、そして一人の抑圧された女から次の世代へ受け継がれる、血塗られた聖火のような同盟であった。
発車のベルが、凍てついたホームに鳴り響いた。悠真は結愛の瞳を見つめた。そこには、正嗣の監視を潜り抜けて毒針を研ぎ続けた者だけが共有する、鋭い光があった。悠真は恵子に向けて、一度だけ深く、重い一瞥を贈った。それは、この家という名の檻を物理的に、そして社会的に爆破するという、共犯者同士の最終確認であった。恵子は、正嗣に気づかれないよう、自身のコートのポケットの中で、結愛の逃走を助けるための最低限の荷物の在り処を、手話のような細かな指の動きで悠真に伝えた。沈黙の中に編み上げられたその同盟は、瑞穂市の雪をも溶かすほどの殺意と情熱に満ちていた。
列車がゆっくりと動き出す。ホームに取り残された正嗣の背中は、依然として家父長としての権威を誇示している。だが、その隣に立つ恵子の横顔には、夫を欺き抜き、子供たちの略奪を完遂させるための、冷徹な勝利の予感が滲んでいた。彼女もまた、この家という呪縛から解き放たれる瞬間を、死を待つような静かさで待ち望んでいるのだ。悠真は、遠ざかる母の姿を見つめながら、自身の懐にある雇用条件提示書を指先でなぞった。母という最強の共謀者を得た今、春の進軍に一分の迷いも必要なかった。社会的な責任を引き受けるということは、こうして血の繋がった縁さえも戦術に組み込む非情さを伴うのだと、彼は改めて自覚した。
車窓に映る瑞穂市の雪景色は、すべてを隠蔽するように深く降り積もっている。だが、悠真の心に灯った火は、もはや誰にも消すことはできない。彼は、母から託された結愛の命運を、自身の人生という名の契約の中に完全に取り込むことを改めて誓った。瑞穂駅のホームに消えていく正嗣の影。それは、旧い時代の終焉を象徴する、哀れな残像に過ぎなかった。悠真は、隣の席で安堵したように目を閉じる結愛の肩を抱き寄せ、春に訪れるであろう苗字の上書きという名の凱旋を、確信を持って幻視していた。二人の間に漂う沈黙は、かつての兄妹のそれではなく、一つの運命を共にする番いとしての、密やかで重厚な響きを帯びていた。
悠真は鞄からノートパソコンを取り出し、既に作成済みの新居の備品リストを開いた。そこには恵子が密かに教えてくれた、結愛が実家で最も大切にしていた数少ない私物のサイズが書き加えられている。このリストを埋めていく作業は、彼にとって正嗣の支配領域を塗り潰していく領土拡大の儀式に等しい。恵子の協力があれば、正嗣に気づかれることなく結愛の「痕跡」を家から消し去り、新天地へと移植することが可能になる。悠真の指先は冷徹なまでの正確さでキーを叩き、略奪のシミュレーションをさらに強固なものへと磨き上げていった。冬の嵐は列車の窓を激しく叩き、外界との断絶を強調するが、悠真の胸中には、春の光の中に建つ二人の城郭が、既に完成された姿で存在していた。
愛とは、情熱に身を任せることではない。それは、相手の人生に関わるすべての泥を被り、社会的な責任の防壁を築き上げる、孤独で知的な闘争である。悠真は、恵子が自分に見せたあの凄絶な微笑を思い返し、自分もまた同じ表情を浮かべていることに気づいた。家族という名の幻想を解体し、真実の契約を結ぶための冬。瑞穂市の深い雪の下で、瀬戸家の秩序を根本から覆す種火は、母という名の共謀者によって守られ、静かに、しかし確実にその火力を増していた。春が来れば、この雪解けとともにすべてが露わになり、悠真が手にする権利の重みが、正嗣の築いた虚飾の家を跡形もなく押し流すことになるだろう。
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第10話:新居の内覧(幻視の城)
悠真が降り立ったのは、瑞穂市の停滞した空気とは正反対の、乾いた活気に満ちた都心の駅だった。帰学後、彼は大学の講義の合間を縫って、不動産仲介業者の案内で一軒のマンションを訪れていた。駅から徒歩圏内、周囲の視線を遮るように建てられた築浅の低層マンション。その一室、四階にある一LDKが、悠真が結愛を略奪し、隔離するための真空の聖域となるべき場所だった。仲介業者が鍵を開け、無機質な金属音が静まり返った廊下に響く。玄関を跨いだ瞬間、悠真の鼻腔を突いたのは、人の生活の痕跡が一切ない、新築特有の接着剤と建材が混ざり合った独特の匂いだった。その冷たい静寂は、父・正嗣の支配が及ばない空白の地帯であることを悠真に確信させた。
「こちらのお部屋は、遮音性についても非常に高い基準で設計されておりまして、プライバシーを重視されるお客様には最適かと存じます。隣戸との壁も厚く、外の喧騒もほとんど気になりません」
業者の型通りの説明が、何もないリビングの壁に跳ね返り、空虚な残響を残す。悠真はその声を半分も聞き流しながら、空っぽの空間に自分と結愛の未来を投影していった。窓際に置くべきダイニングテーブル、二人の時間を刻む時計、そして奥の寝室に据えられるべきダブルベッド。それらはすべて、正嗣の監視が及ばない二人だけの新しい秩序を構成するパーツとなる。悠真はキッチンの高さを確かめるように手をかざし、壁の厚さを掌で測る。オートロックの堅牢さ、モニター付きインターホンの解像度。具体的な固定資産のスペックを確認するたび、悠真の指先には、支配を断つための絶対条件を手に入れたという、冷徹な高揚が宿っていた。
間取り図をなぞる悠真の視線は、もはや学生のそれではなく、一人の女を守り、囲い込むための執念に満ちた家長のそれだった。彼は業者の質問に対し、初任給の額面や住宅手当の具体的な支給条件、さらには将来的な昇給の見込みまでを淀みなく提示する。それは自身の有能感を誇示するためではなく、この城を確実に手に入れるための、冷徹な事務処理の一環に過ぎない。業者は、目の前の若者が放つ、年齢に似合わない重厚な責任感と、どこか殺気立った独占欲を察知したのか、自然と言葉を選び、敬意を込めた態度に変わっていった。悠真は、自らが稼ぎ出すリソースによって、社会的地位という名の鎧を一枚ずつ着込んでいく実感を噛み締めていた。
寝室の窓からは、都会の無数の光が見下ろせた。瑞穂市の、あの音を吸い込む重い雪に閉ざされた闇とは、完全に対極にある光景だった。悠真はこの部屋の隅々に、結愛の自律を育むための自由と、同時に自分以外の誰にも彼女を触れさせないための拘束を、同時に幻視していた。彼にとって、略奪とは救済であると同時に、主権の完全な移行に他ならない。正嗣という旧い神を殺し、自分が新しい苗字の下で彼女を統治する。その甘美な重圧が、悠真の背筋を心地よく震わせていた。彼は、結愛がこの床を歩き、このキッチンで料理を作り、このベッドで自分の名前を呼ぶ瞬間を、一秒ごとに克明にシミュレーションしていった。
「この物件で進めてください。契約に必要な書類は、明日の午前中にはすべて揃えます。審査の手続きも、可能な限り迅速にお願いしたい」
悠真の決断に迷いはなかった。業者が安堵の表情を浮かべて書類を整理する中、彼は一人、空っぽのクローゼットの奥をじっと見つめていた。そこには、春になれば結愛の制服が脱ぎ捨てられ、代わりに新しい苗字で買い揃えた私服が並ぶことになる。実家に残された二段ベッドも、鍵のないドアも、日記の検閲も、下着の履歴を洗うような父の病的な執着も、ここには一切存在しない。あるのは、悠真が社会的に引き受けた責任という名の、透明で強固な檻だけだ。彼は、自分の資産によって確定されたこの空間を、世界で最も安全な、そして最も独善的な楽園として再定義した。
内覧を終え、マンションを出た悠真は、夜風に吹かれながらスマートフォンの画面を開いた。そこには、結愛から届いた短いメッセージが表示されている。正嗣の監視を潜り抜けて送られた、渇望に満ちた言葉の断片。悠真は返信を打つ代わりに、今しがた撮影した空っぽのリビングの写真を一枚だけ送った。これが、俺たちの戦場であり、俺たちが選び取った新しい檻だ。悠真は都会の雑踏の中に身を投じながら、自身の掌に残る、鍵の冷たい感触を反芻していた。それは、正嗣という怪物の手を払い除け、結愛の人生を略奪するための、最強の通行手形に他ならなかった。
春、この城に彼女を妻として迎えるために、悠真は自身の経済的スペックをさらに研ぎ澄ませるべく、大学の図書館へと足を向けた。明日から始まる入社前の研修、そして結愛の受験の最終追い込み。二人の共謀は、具体的な数字と契約という鎧を纏い、もはや誰にも止められない進軍を続けていた。瑞穂市の深い雪の下で、正嗣が過去の亡霊に怯えている間に、悠真は新しい時代の法と倫理を味方につけ、着実に上書きの準備を整えていた。彼の胸中には、雪解けとともに訪れるであろう、残酷で美しい凱旋の情景が、既に完成された姿で輝いていた。
彼は、内定先の福利厚生規定をもう一度読み返した。住宅手当の月六万円、家族手当の支給要件、そして社員持株会の詳細。これらすべての制度は、かつて正嗣が家族を養うことで誇示していた恩恵を、より合理的な形で凌駕するための武器であった。悠真は、自らの労働の対価を、結愛の自由を買い支えるための軍事資金として管理する。愛とは情熱に身を任せることではなく、その相手の人生を社会的に引き受ける覚悟であるという彼の信念は、不動産賃貸借契約という事務的な手続きを通じて、より強固な確信へと変わっていった。
夜の都心は、瑞穂市の静寂とは無縁の喧騒に包まれていたが、悠真の周囲だけは、冷徹な決意によって真空のような静謐が保たれていた。彼は、正嗣という男を単なる悪役として憎んでいるわけではなかった。むしろ、時代に取り残され、愛し方を間違えた哀れな敗北者として、自身の勝利の踏み台にしようとしていた。父がかつて守れなかったものを、自分は法と実利で守り抜く。その傲慢なまでの自負が、悠真の足を一歩一歩、確実に未来へと進ませていた。結愛という少女を、瀬戸という苗字の鎖から解き放ち、悠真の瀬戸という新しい属性へと再定義する。その凱旋門への道筋は、今、都会の光の中に鮮明に描き出されていた。
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第11話:ビデオ通話の檻
悠真が東京の自室に戻ってから数日が経過したが、都心の乾燥した空気は、瑞穂市の雪の匂いを未だに彼の記憶から剥ぎ取れずにいた。深夜、悠真はノートパソコンの画面越しに、青白い光に照らされた結愛と向き合っていた。ビデオ通話の小さな枠の中に映る彼女は、実家の自室で声を潜め、正嗣の耳を警戒するように、有線のイヤホンを耳の奥まで押し込んでいる。画面越しに伝わる彼女の震えは、通信の遅延によるものではなく、日々増悪していく正嗣の監視という名の暴力に対する、生理的な拒絶反応であった。
「お兄ちゃん、これを見て……。お父さんが仕事で使っている予備の端末を、さっき、お風呂に入っている隙に確認したの。そしたら、検索履歴のトップに私の名前と、私の通っている高校の裏掲示板のログが並んでた。それだけじゃない。悠真さんの就職先や、そこへの最短ルート、周辺の地図までが、職権を利用して調べられた痕跡があったわ。お父さんは、私たちが『どこで』『誰と』繋がっているのか、そのすべてを社会的に検閲しようとしている」
結愛の声は、恐怖を通り越し、研ぎ澄まされた憎悪の響きを帯びていた。彼女がスマートフォンを掲げて見せた画面には、正嗣が職権を悪用して取得したと思われる、悠真や結愛に関わる私的な検索ログが、無機質なリストとして表示されていた。それは、家族を保護するという名目で行われる、知的な蹂躙であった。正嗣にとって、家族のプライバシーとは管理不全の証であり、相手の行動パターンを秒単位で記録することこそが、彼が自らを納得させるための「安全保障」となっていた。結愛の瞳の光は、その青白い光の中で、まるで毒針のように鋭く研ぎ澄まされていく。
「お父さんは、私の変化を把握するのが親の義務だと言っている。でも、これは愛じゃない。私という人間を、自分の指先一つで操れるデータに変えようとしているだけ。……だから、決めたの。この監視の記録を、今度は私たちが武器にする。お父さんが職務を逸脱して個人情報を漁ったという証拠を、すべて保存して、あいつを社会的に葬るための材料にするわ」
結愛のその言葉は、依存しきりになることへの矜持としての申し訳なさを、自らが「武器の供給者」となることで払拭しようとする決死の覚悟だった。彼女は、受験勉強を装って、深夜の書斎から不当なアクセスログや、父の行動パターンの記録を収集し始めていた。悠真は画面越しの彼女の変貌に、形容し難い高揚を覚えていた。かつての無力な義妹は、今や同じ敵を見据える冷徹な共謀者へと進化を遂げている。正嗣が彼女を「無知な子供」として檻に閉じ込めようとすればするほど、彼女の知性は、その檻の鍵を内側から溶かすための酸へと変わっていった。
「結愛、それでいい。その毒を研ぎ澄ませておけ。俺もこっちで、新居の契約と、あいつの法的支配を無効化するための実弾を揃えている。住宅手当、福利厚生、そして婚姻による新しい戸籍。これらすべてが、あいつの『家族の情』という名の脆弱な壁を、物理的に粉砕するための大砲になる。あいつが社会的立場を利用して君を縛るなら、俺はより強固な社会的リソースで君を奪い返す」
悠真の宣言は、ビデオ通話のデジタルな音声を介して、結愛の耳へと重く、しかし甘美な責任感を持って届けられた。二人の間に流れるのは、もはや兄妹の愛情などではなく、一人の女の人生を買い取り、管理し、誰にも邪魔されない聖域へと囲い込むための、知的な略奪の計画であった。画面の中の結愛は、わずかに唇を震わせ、悠真の言葉を貪るように頷いた。彼女にとっての自由とは、正嗣という旧い支配者から、悠真という新しき主権者へと、自らの命運を委ね直す契約そのものだった。
突如、結愛の側の画面で、ドアの向こうから重い足音が響いた。正嗣の夜の見回りが始まったのだ。結愛は瞬時にスマートフォンの画面を消し、ノートを開いてペンを走らせる「受験生の顔」へと切り替わった。悠真の側の画面には、暗転したままの結愛の部屋が映し出されている。数秒の沈黙の後、ドアが開く乾いた音が聞こえ、正嗣の「勉強の進み具合はどうだ」という、粘りつくような声がスピーカーから漏れてきた。悠真は、自室の暗闇の中で、その声を聴きながら、自身の掌を白くなるほど握りしめた。
正嗣は、娘の勉強を励ますふりをしながら、その視線で部屋の隅々をスキャンし、不審な物音や匂いがないかを検閲しているのだろう。その光景を容易に想像できることが、悠真の殺意をより静かに、より冷徹なものへと変質させた。父が去った後、再び画面が点灯し、結愛の青ざめた、しかし復讐心に燃えた瞳が戻ってきた。彼女は何も言わず、ただ自身の腕に残った正嗣の指先の跡を、悠真に見せつけた。それは、略奪を完遂させるための、最終的なGOサインに他ならなかった。
悠真は、内定先の社員寮の規定を閉じた。もはや、そこに入る選択肢はない。彼は自らの初任給と、住宅手当の月六万円、そしてこれまでに蓄えた資産のすべてを、結愛を略奪し、正嗣の視界から完全に消去するための軍事予算として確定させた。都会の夜景を見下ろしながら、悠真は独り、勝利の凱歌を心の中で奏でていた。春、雪解けとともに訪れるのは、旧い家父長制の崩壊と、法と実利によって武装した、新しき夫婦の誕生である。ビデオ通話の檻を壊し、肉体の熱が重なり合うその日まで、二人の共謀は、暗闇の中で着実にその牙を研ぎ続けていた。
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第12話:国立二次試験前夜
都心のホテルの客室は、瑞穂市のあの湿り気を帯びた静寂とは無縁の、無機質な乾燥に包まれていた。窓の外には、血管のように張り巡らされた首都高速の光が、止まることのない血流のように脈動している。翌日に国立大学の二次試験を控えた結愛は、受験生という建前の仮面を脱ぎ捨て、悠真が用意したこの仮初めの聖域のベッドに身を沈めていた。正嗣の監視の目が届かない、わずか数平米の密室。ここでは日記の音読も、スマートフォンの同期も、下着の検閲も存在しない。あるのは、悠真が自らの財力で確保した、法的な空白地帯としての静謐だけだった。
白く糊のきいたシーツの上に、結愛の長い髪が扇状に広がる。その横で、悠真は彼女の細い肩を抱き寄せ、肌の奥に潜むかすかな震えを掌で受け止めていた。それは試験に対する緊張だけでなく、正嗣の支配という名の重力から解き放たれたことによる、急激な減圧症のようなものだった。瑞穂市での彼女は、常に背後に父の視線を感じ、呼吸一つさえも検閲されているような閉塞感の中にいた。だが今、この部屋を支配しているのは悠真の体温であり、彼が社会的に獲得しつつある実力という名の庇護だった。悠真は、彼女の耳朶に触れる自らの指先が、正嗣の暴力的な愛を上書きしていく確かな手応えを感じていた。
「お兄ちゃん、……怖い。明日、もし失敗したら、私はまたあの家に戻って、お父さんの日記の音読を聞かなきゃいけないの。一生、下着の枚数まで管理される生活に、逆戻りするの」
結愛の声は、都会の夜景を撥ね退けるように、悠真の胸元に吸い込まれていく。悠真は彼女の喉元に額を寄せ、トク、トクと刻まれる早鐘のような鼓動を感じ取っていた。その熱は、正嗣が保護という名目で凍りつかせようとしていた彼女の生命力そのものだった。彼女は悠真に依存しきりになることに矜持としての申し訳なさを感じていたが、同時に、この試験に合格することこそが、父という名の主権を剥奪するための唯一の武器であることを理解していた。悠真は彼女の細い指を自らの掌で包み込み、指先の一つ一つに、契約という名の力を込めるように強く握り締めた。
「そんなことはさせない。明日の試験に受かることは、単なる進路の問題じゃないんだ。それは、あいつが主張する、保護されるべき無力な子供という物語を、社会的な事実で粉砕するための、たった一つの通行手形だ。受かれば、君はもうあいつの庇護下にいる必要はない。法と実績が、君を自由にする。俺が用意したこの場所も、これから始まる新しい生活も、すべては君が勝ち取る合格という実弾によって正当化されるんだ。だから、今はただ俺の熱だけを感じていろ」
悠真の言葉は、冷徹な事務処理のような響きを持ちながらも、その奥底には狂おしいほどの独占欲が燻っていた。彼は結愛の肋骨の起伏をなぞるように掌を滑らせる。R15という境界線の中で、二人の肉体は、言葉では埋められない不安を埋めるように密着していった。薄い皮膚の下で蠢く血潮、重なり合うことでしか得られない安心感。結愛が悠真のシャツの背を、指先が白くなるほど強く掴み、その爪を立てる。その痛みさえも、悠真にとっては彼女の所有権を移転させるための、不可避の儀式の一部に思えた。喉元を伝う一筋の汗が、シーツに吸い込まれ、二人の境界線を曖昧にしていく。
「奪って。お父さんが絶対に入ってこれない場所まで、私を連れていって。……お兄ちゃんの名前だけで、私を満たして」
結愛の吐息が悠真の耳朶を打ち、甘い痺れが全身を駆け抜ける。悠真は彼女の項に、消えない刻印を刻むように唇を押し当てた。この行為は情熱の発露であると同時に、正嗣という旧い神を殺し、悠真という新しい守護者との間に結ばれる、血の滲むような契約の儀式でもあった。情熱に身を任せるのではなく、相手の人生を社会的に引き受ける覚悟。その決起集会としての愛欲は、瑞穂市のあの寒々しい廊下での恐怖を塗り潰し、二人の魂を、もはや後戻りできない場所へと連れ去っていった。皮膚の呼吸、同期する心拍。それらすべてが、正嗣の監視ログには決して記されることのない、二人だけの真実の記録となった。
窓の外では、都会の夜が何事もなかったかのように更けていく。だが、この数平米の空間だけは、二人の共謀によって醸成された異常な熱量で満たされていた。悠真は、自らの腕の中で眠りに落ちようとする結愛の、その無防備な睫毛を見つめながら、自身の経済力と社会的地位を、彼女を一生守り抜くための最強の防壁にすることを誓った。初任給、住宅手当、そして婚姻による新しい戸籍。それらすべての実弾を、明日の合格という成果と連結させる。その冷徹なまでの略奪のロジックが完成されたとき、悠真の胸には、かつてないほどの充実感が満ち溢れていた。
愛とは、情熱に身を任せることではない。明日、この少女が手にする合格という実弾と、数カ月後に自分が手にする給与という兵站。それらを組み合わせ、誰も文句を言えない法的な関係へと昇華させること。それが、成人した悠真が結愛に捧げる、最も冷酷で誠実な愛の形だった。結愛が小さく寝返りを打ち、悠真の腕を求めて擦り寄ってくる。その微かな体温の揺らぎを感じながら、悠真は夜明けを待った。瑞穂市での雪に閉ざされた日々が、遠い前世の出来事のように、都会の光の中に溶けて消えていく。
二人の間にあるのは、もはや兄妹という生温い仮面ではない。一つの目的のために肉体と法を武装させた、運命の共犯者としての絆だった。明日の試験会場で、結愛は正嗣の娘としてではなく、悠真の妻となる資格を持つ一人の自律した個として、ペンを執るだろう。その一撃が、瀬戸家の歪んだ秩序に最後の一線を引くことになる。悠真は彼女の髪に残る残り香を吸い込み、自らもまた、略奪を完遂させるための男としての飢えを研ぎ澄ませていた。都会の喧騒が朝の兆しを孕み始める中、この密室だけは、春の凱旋に向けた静かな決意に満たされていた。
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第13話:シュレッダーのパズル
深夜の瀬戸家は、静寂そのものが牙を剥くような、異様な緊張感に支配されていた。一階の居間では石油ストーブが微かな音を立てて燃え、その赤い火影が、正嗣の歪んだ貌を壁に巨大な怪物のように映し出している。正嗣は居間のテーブルに向かい、結愛のゴミ箱から回収してきた紙屑の山と対峙していた。それは彼女が「不要」として破棄したはずの、学習ノートの断片や、何気ないメモの数々だ。正嗣は盆栽の手入れに使うような細いピンセットを操り、バラバラになった紙の破片を、一枚の真っ白な台紙の上に、パズルのように丁寧に並べ替えていく。家父長としての秩序を守るためという名目で行われるその作業は、既に教育の域を逸脱し、狂気的な執着へと変貌していた。
「家族なら、心の中まで共有して当然だ。隠し事をするから、迷いが生まれ、死の淵へと滑り落ちる。私はあの子の思考のすべてを、正しく管理しなければならないのだ」
正嗣の独白は、もはや正常な父親のそれではなく、獲物の足跡を追う猟師の執念、あるいは狂信的な収集家の熱を帯びていた。彼はシュレッダーにかけるまでもなく、自らの手で徹底的に粉砕された言葉の破片を繋ぎ合わせ、結愛が今日何を考え、何に心を動かしたのかを復元しようと試みている。正嗣にとって、結愛の思考に自分が立ち入れない空白が存在することは、耐え難い秩序の崩壊を意味していた。彼は一文字、また一文字と、繋ぎ合わされた文字の羅列から、娘の不穏な動悸を読み取ろうと目を血走らせる。ピンセットの先が紙片を掴むたび、カチリ、カチリと硬質な音が静寂を切り裂き、彼の歪んだ正義感を増幅させていった。
二階の自室で、結愛はその微かな紙の擦れる音を聴きながら、全身の血が凍りつくような恐怖に震えていた。ドアの鍵は父の手によって撤去され、部屋は物理的な防御力を失っている。一階から聞こえてくる、あの執拗で、精密な作業の音。それは結愛にとって、自らの魂が薄皮を剥がされるように検閲されているという、逃れようのないホラーそのものだった。彼女は暗闇の中で自身のスマートフォンの発光を最小限に抑え、東京にいる悠真に宛てたメッセージを打つ指先を小刻みに震わせていた。画面の光が、彼女の青ざめた頬と、恐怖に支配された瞳を痛々しく浮かび上がらせる。
「お兄ちゃん、助けて……。お父さんが、またゴミを漁ってる。私が捨てたはずのノートを、下着の枚数を数えるみたいに、一文字ずつ洗ってるの。私の頭の中を全部、自分の管理ログに書き写そうとしているみたいで、息ができない。この家は、もう家じゃない。巨大な胃袋の中みたい」
結愛の吐息は、冷え切った冬の空気の中で白く濁り、消えていった。正嗣の愛は、もはや娘を一人の人間として尊重することをやめ、管理すべき精密機器のデータへと変質させていた。家族なら隠し事は不要だという歪んだロジックは、彼女から最後のプライバシーさえも剥ぎ取り、精神的な奴隷化を完遂させようとしている。結愛は、自身の心臓が立てる早鐘のような鼓動が、一階でパズルを完成させつつある父に漏れ聞こえているのではないかという、終わりのない被害妄想に苛まれていた。瑞穂市の深い雪は、外部の助けを拒む冷たい壁として彼女を幽閉し、家の中では父の病的な監視が彼女の精神を磨り潰し続けている。
正嗣の手元では、数行の文章が復元されつつあった。そこには自由、春、契約といった、今の彼が最も忌み嫌う言葉の断片が、娘の筆致で残されていた。正嗣の眼鏡が火影に反射し、その奥にある瞳が凍てつくような殺意で満たされる。彼はピンセットを置き、完成されたパズルの上に、自らの掌をゆっくりと押し当てた。それは、娘の自由を力ずくで圧殺しようとする、暴力的な家長としての意思表示だった。彼は立ち上がり、二階へと続く階段を一歩ずつ、重い足取りで登り始める。一段ごとに軋む床の音が、沈黙の中に響き渡り、家全体が父の怒りに共鳴しているかのようだった。
階段の軋み音が、結愛の絶望を一段ずつ押し上げていく。彼女は布団を頭から被り、嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように身を縮めた。正嗣の足音は、彼女の部屋の前でぴたりと止まった。ドアの隙間から漏れる父の重苦しい気配。それは、検閲を正当化し続ける怪物の影だ。正嗣はドアを開けることはなかったが、その代わりに、復元されたばかりの言葉の断片を、ドアの隙間から滑り込ませた。それは、お前のすべては、私の掌の上にあるという、逃れようのない支配の宣告であった。結愛は、暗闇に落ちたその紙片を、指先でなぞった。
「お前の考えることなど、すべて私にはお見通しだ。教育とは、お前のような未熟な存在を、正しい秩序の中に繋ぎ止めておくことなのだからな」
ドア越しに響く正嗣の声は、低く、湿り気を帯びて結愛の鼓膜を震わせた。彼女はその言葉の中に、自分がもはや人間ではなく、父の所有するコレクションの一部に成り下がってしまった事実を突きつけられた。しかし、彼女はその恐怖のどん底で、逆に悠真という唯一の命綱への依存を、凄絶なまでの覚悟へと変えていった。父が自分の思考を復元しようとするなら、私はもっと深い場所に、悠真さんとの誓約を隠し通してみせる。彼女の瞳に、復讐という名の毒火が再び灯った。掌に食い込む爪の痛みさえも、彼女にとっては悠真との契約を裏切らないための楔となっていた。
一階に戻った正嗣は、残りの紙屑を丁寧な手つきで暖炉の中に投げ入れた。火が燃え上がり、娘のプライバシーを灰へと変えていく様子を、彼は満足げに眺めていた。秩序は守られた。そう自分に言い聞かせる彼の背中は、独裁者のそれでありながら、同時に時代に置き去りにされた敗北者の寂寥感を漂わせていた。彼は、自らのトラウマを鎮めるために家族という名の生贄を捧げ続けている。その虚しさに気づかぬまま、正嗣は再び監視ログを広げ、今日一日の検閲成果を克明に記録し始めた。彼のペン先が走る音だけが、瀬戸家の重い静寂をさらに深めていく。
外では、瑞穂市の雪が音もなく降り積もり、瀬戸家をさらに深く、静かに世界から隔離していく。その白銀の檻の中で、結愛は一人、暗闇を見つめていた。彼女の脳裏には、悠真が用意してくれた東京のマンションの、あの新築の匂いと遮音性の高い壁の静謐さが浮かんでいた。そこにはパズルを組み立てる父も、ゴミを漁る怪物もいない。あるのは、悠真が社会的に引き受けてくれる責任という名の、透明で強固な防壁だけだ。春が来れば、この雪解けとともにすべてが露わになり、彼女は悠真の妻として略奪される。その確信だけが、正嗣の病的な執着に晒される彼女の精神を、辛うじて繋ぎ止めていた。
夜明けまではまだ遠い。瀬戸家の廊下に残る正嗣の重い影は、いつまでも消えることなく、二人の共謀者たちの決意を試すように佇んでいた。しかし、結愛の心拍は、もはや恐怖だけではなく、来るべき反撃への期待に満ちて力強く刻まれていた。彼女は、ドアの隙間から差し入れられた紙片を握り潰し、布団の中で静かに微笑んだ。お父さん、あなたが復元したのは、私がわざと残した抜け殻に過ぎないのよ。真実の契約は、あなたの指先が決して届かない、私の血肉の中に刻まれている。瑞穂市の深い闇の中で、瀬戸家の均衡は、もはや修復不能なほどに、内側から決定的に崩壊し始めていた。
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第14話:歪んだ鏡像
瀬戸家の居間は、重苦しい静寂と石油ストーブが発する微かな燃焼音に満たされていた。壁に掛かった古時計の秒針が刻む一定のリズムさえも、今の結愛にとっては断頭台へ続く足音のように聞こえる。彼女の正面には、家父長としての絶対的な威厳を纏った正嗣が、取り調べを行う刑事のような冷徹な眼差しで座っていた。テーブルの上には、先ほど彼が結愛のゴミ箱から復元した紙片の山が、娘の罪状を裏付ける証拠品のように整然と並べられている。冬の乾燥した空気が喉を刺し、逃げ場のない閉塞感が結愛の全身を縛り付けていた。
「お前のために言っているんだ、結愛。お前はまだ無知で、外の世界がどれほど残酷で、汚濁に満ちているかを知らない。私がこうして管理しているのは、お前をその悪意から守るためなのだ。家族に秘密があるということは、そこに崩壊の種が潜んでいるということだと、なぜ分からないのだ」
正嗣の言葉は、慈愛を装った呪文のように結愛の思考を麻痺させようと試みていた。彼は自らの行動を、家族を守るための崇高な義務であると一寸の疑いもなく信じている。その確信に満ちた狂気が言葉の端々に毒のように混じり、部屋の空気を淀ませていく。正嗣は娘を一人の人格を持った女性としてではなく、自らの正しさを証明するための精巧な作品、あるいは管理すべきデータとしてしか見ていない。結愛は膝の上でスカートの裾を強く握りしめた。正嗣の視線は、彼女の瞳の奥までを透かし見ようと執拗に注がれ、彼女の精神を徐々に磨り潰していく。このままでは自らの意志が父の正しさという名の濁流に飲み込まれてしまうと、結愛は本能的な恐怖を覚えた。
「……はい、お父さん。私が未熟なせいで、心配をかけてごめんなさい。お父さんの言う通り、私はまだ何も知らない子供です」
唇からこぼれたのは、自身の魂を裏切るような偽りの謝罪だった。だが、今の彼女にとって屈服は、より深い場所で反逆の爪を研ぐための高度な生存戦術に他ならなかった。正嗣はその答えに満足したのか、わずかに口角を上げ、娘の頭を慈しむように撫でた。その指先が髪に触れるたび、結愛の背筋には激しい嫌悪感が走る。それは愛する娘に触れる父の手ではなく、所有物の摩耗具合を確認するコレクターの冷たい手触りだった。結愛は心拍を必死に隠し、瞳の光を消して、鏡に映る自分の虚ろな泥人形のような顔を見つめながら、心の中で何度も悠真の名を呼び続けた。
悠真さん。助けて。でも、今はまだ、ここに来ないで。この復讐の炎を絶やさないように、私はこの地獄で良い子の仮面を被り続ける。あなたの用意してくれたあの遮音性の高い部屋に辿り着くまで、私は決して自分を見失わない。結愛の脳裏には、東京のマンションの新築特有の匂いや、悠真が提示した経済的自律の数字が、唯一の鮮明な色彩として浮かんでいた。正嗣が娘を精神的に檻へ閉じ込めようとすればするほど、彼女の内なる反逆心はより冷酷に、より知的に研ぎ澄まされていく。彼女は父の長々とした説教を、意味を持たない無機質なノイズとして処理しながら、彼の視線が届かない死角で、次なる武器の製造を虎視眈々と狙っていた。
正嗣は結愛の沈黙を完全な服従であると誤認し、饒舌に自らの家族論を語り続けた。彼にとって、娘が自らの管理を離れて自律することは、かつての放蕩した父や、自らの過失で死なせた前妻の悲劇を繰り返すことと同義だった。正嗣は自らのトラウマを鎮めるために、家族という名の生贄を、安全という名の檻に捧げ続けている。結愛はその歪んだ愛情の重圧を静かに受け流しながら、自らの血肉の中に悠真との契約をより深く、より重く刻み込んでいった。この家という名の檻の鏡には、もはや一人の無力な少女の姿などは映っていない。そこにあるのは、支配者という名の亡霊を葬るために、美しき復讐者の鏡像を演じる一人の女の姿であった。
夜が更け、正嗣がようやく満足して寝室へ引き上げた後、結愛は洗面所の鏡の前に立った。冷たい水で顔を洗い、数時間前まで顔に張り付かせていた人形のような表情を脱ぎ捨てる。滴り落ちる水滴を拭うこともせず、鏡の中の自分と真っ向から視線を合わせ、彼女は小さく、しかし鋼のような強さを持った声で呟いた。それは瑞穂市の深い闇を切り裂く、彼女自身の魂の産声だった。
「お父さん、あなたは私を無知な子供として檻の中で殺そうとした。でも、私はもう、あなたの知らない場所で、大人としての契約を交わしているの。あなたの手は、もう二度と私の心には届かない」
その言葉は深夜の静寂に溶け、瀬戸家の歪んだ秩序を内側から食い破る決定的な亀裂となった。彼女の指先は、悠真から送られてきた新居の写真を思い描きながら、自らの喉元を愛おしむようになぞった。そこには、父の目には決して見えない、しかし決して消えることのない略奪の刻印が、熱を帯びて刻まれている。瑞穂市の深い闇の中で、少女は人形の皮を脱ぎ捨て、一人の契約者として春の凱旋に向けた最終的な秒読みを開始した。彼女は再び自室に戻り、没収されることを免れた予備の記録媒体を握りしめた。
外では雪が、すべてを隠蔽するように深く、重く降り積もっている。だが、結愛の心に灯った復讐の炎は、その白銀の世界を内側から焼き尽くすほどに激しく、そして冷徹に、彼女の進むべき道を照らし出していた。正嗣という壁がどれほど高く、強固であろうとも、彼女はもはや立ち止まることはない。鏡の中に映る自分の瞳に宿る、その鋭利な殺意こそが、彼女が手に入れた自律の最初の証であった。春が来れば、この鏡に映る景色も、彼女の苗字も、すべてが悠真の手によって上書きされる。その確信だけが、正嗣の病的な執着に晒される彼女の精神を、極限の孤独から救い出していた。
結愛は暗闇の中で、悠真と共有した資産状況のメモを反芻した。父の築いたこの館の財政は、既に彼女の知略によって白日の下に晒されている。正嗣が誇示する約七百万という年収は、悠真がこれから築き上げる未来のキャッシュフローの前に、いずれ無価値な残像へと変わるだろう。彼女は父が組み立てたパズルの破片を思い出し、冷酷な微笑を浮かべた。お父さん、あなたが繋ぎ合わせたのは、私があなたに与えた偽物の思考に過ぎないの。彼女の知性は、もはや父の想像の及ばない高度な領域へと達していた。それは、愛する者に人生を買い取られるという、究極の受動的自律を選択した女の強さでもあった。
夜明けまでの数時間、彼女は一睡もすることなく、正嗣の行動パターンの記録を整理し続けた。それは父を社会的に抹殺するための毒針であり、悠真への捧げ物であった。瑞穂市の音を吸い込む雪が、瀬戸家を世界から隔離すればするほど、彼女の意識は外の世界、すなわち悠真の待つ都会の光へと加速していく。彼女にとっての春は、単なる季節の移ろいではなく、一人の男によって行われる神聖な略奪という名の解放であった。鏡の中の歪んだ鏡像は、今や一点の曇りもない決意を宿し、来るべき解体の時を静かに、そして狂おしく待ち望んでいた。
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第15話:見えない首輪
都会への帰路につき、大学の卒業制作と引っ越し準備に追われる悠真の日常に、冷水を浴びせかけるような着信があった。スマートフォンの液晶に踊る「瀬戸正嗣」の四文字。それは、雪深き瑞穂市からの、見えない首輪を引き絞るための合図だった。悠真は大きく一つ深呼吸をし、周囲に学生たちの喧騒がないことを確認してから、冷徹な仮面を被って通話ボタンをスライドさせた。受話器の向こうからは、耳障りなほどに丁寧で、しかし逃げ場を許さない重圧を孕んだ、あの家父長特有の声音が響いてくる。
「悠真か。就職が決まったそうだな。親として、一度お前の内定先の上司の方に挨拶に伺いたいと思っている。誠意を見せるのは親の義務だ。いつが良いか、担当の方の連絡先を教えなさい」
その言葉は一見、子の門出を祝う父親の配慮を装っていた。しかし、その実態は悠真の社会的な人間関係の根幹を掌握し、彼の「外の世界」での足場を検閲しようとする、正嗣の病的な支配欲の発露に他ならない。正嗣は「家族の情」という免罪符を振りかざし、悠真が築き上げようとしている新しい聖域へと土足で踏み込もうとしていた。もしここで正嗣のような旧態依然とした人間が企業に乗り込めば、悠真が勝ち取った「自律した技術者」としての信頼は、瞬時に「過干渉な親を持つ未熟な若造」というレッテルによって汚染されるだろう。それは、悠真が結愛を救い出すための唯一の武器である「経済的・社会的信用」を内側から破壊する攻撃だった。
「お父さん、お気持ちは感謝しますが、その申し出はお受けできません。私の内定先は大手精密機器メーカーであり、社員やその家族に対しても厳格な機密保持義務(NDA)を課しています。部外者が安易に関係者に接触することは、情報漏洩のリスクと見なされ、私自身の適格性を疑われる事態を招きかねません。現代のビジネス倫理においては、親の介入こそが最大の不利益になるのです」
悠真の声は、感情を一切排した事務的な冷たさを帯びていた。彼は正嗣が最も理解し得ない、そして最も恐れるであろう「現代社会の論理」という盾を構えた。正嗣が「家族」という内輪の力学で世界を支配しようとするのに対し、悠真は「契約と法」という普遍的なシステムで対抗する。電話の向こうで、正嗣の呼吸がわずかに乱れるのが分かった。正嗣にとって、子が自分に理解できない専門用語を駆使して反論することは、自らの絶対的な権威に対する明確な叛逆であった。
「機密保持だと? 親が子の職場に挨拶に行くのが、なぜリスクになる。お前はそうやって、理屈を並べて家族を遠ざけるのか。恵子も、結愛も、皆がお前の振る舞いを心配しているんだ。家族は運命共同体だろう」
正嗣はさらに「家族の絆」という呪文を重ね、悠真を罪悪感の檻に引き戻そうとする。だが、悠真の瞳には、かつて実家で切り裂かれた雇用契約書の残像が焼き付いていた。ペーパーナイフで個人の尊厳を蹂躙した男が説く「絆」など、悠真にとっては滑稽な喜劇でしかなかった。彼は受話器を握る指先に力を込め、結愛と共に立てたシミュレーションを脳内で再確認した。正嗣の「家族の情」という暴力が、現代のビジネス倫理という透明な壁に弾かれる瞬間。それは、悠真が精神的にも「成人」し、父を過去の遺物として定義し直した決定的瞬間でもあった。
悠真は、正嗣の怒号に近い説得を冷静に聞き流しながら、手元の資料に目を落とした。そこには新居の契約完了を示す書類と、結愛を迎え入れるための具体的な兵站計画が記されている。正嗣が悠真の首輪を引こうとすればするほど、悠真はより冷徹に、より合法的に、正嗣を社会的な孤立へと追い込むための外堀を埋めていく。電話を切った後、悠真の頬には一筋の冷たい汗が伝ったが、その表情には揺るぎない確信が宿っていた。
「お父さん、あなたはもう、僕たちの世界を理解できない。僕たちが結んだのは、あなたの想像も及ばないほど強固な、大人同士の契約なんだ」
悠真は独り言ち、スマートフォンの画面を消した。暗転した画面には、かつての自分とは違う、略奪を完遂させるために牙を研ぐ一人の男の顔が映っていた。正嗣という旧い神が支配する瑞穂市の闇に対し、悠真は都会の機能的な論理と経済力をもって、静かに、しかし確実に宣戦を布告した。この「見えない首輪」を断ち切る日は、もうすぐそこまで来ている。悠真は、結愛との共謀という名の愛を糧に、春の凱旋に向けた最後の手続きを、誰にも邪魔されない場所で淡々と進め始めた。
都会の喧騒は、正嗣の呪縛をかき消すように激しく、そして無関心に流れていく。悠真はその流れの中に、自らと結愛の居場所を法的に、そして経済的に確定させるための杭を打ち込んだ。正嗣がどれほど過去の正義を叫ぼうとも、時代という名の潮流は、既に悠真たちの側にあった。悠真は、結愛が瑞穂市で耐え忍んでいる地獄を思い、自らの責任の重さを噛み締めた。この愛は、情熱ではなく、覚悟だ。彼女の人生を丸ごと引き受け、どんな嵐からも守り抜くという、最も冷酷で最も温かい「契約」なのだ。
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第16話:修羅場の食卓(告白)
その日の瀬戸家のダイニングは、外で荒れ狂う地吹雪の音さえ遠のくような、氷点下の沈黙に支配されていた。中央に据えられた食卓の上には、まだ湯気を立てている煮物が並んでいたが、家族の誰一人として箸をつけようとはしなかった。正嗣の傍らには、無惨に中身を曝け出された結愛の通学鞄が転がっている。彼の手には、検閲によって引きずり出された「新居の間取り図」と、悠真の筆致で生々しく名前が書き入れられた「婚姻届の草案」が握られていた。
「説明しなさい、結愛。これは一体、どういう汚らわしい冗談だ」
正嗣の声は、低く、しかし煮え繰り返るような怒りを孕んで響いた。眼鏡の奥の瞳は血走り、娘を人間としてではなく、修復不可能な欠陥を露呈した不良品を見るような冷徹な光を放っている。結愛は椅子に座ったまま、指先が白くなるほど自らの膝を握りしめていた。彼女の肩は小刻みに震え、瞳からは涙がこぼれ落ちそうになっていたが、その奥底には、父への屈服を拒絶する、鋭利な殺意に似た自律の灯が消えずに残っていた。
「それは、冗談なんかじゃないわ。……私の、未来の設計図よ」
結愛が絞り出すように放った言葉が、正嗣の逆鱗に触れた。彼は手にした書類をテーブルに叩きつけると、立ち上がり、娘に向けて罵声を浴びせ始めた。お前をこれまで育て、管理し、守ってきた私の恩義を何だと思っている。兄妹という仮面の下で、これほどまでに醜悪な背徳を育てていたのか。正嗣の言葉は、家族という名の檻を補強するための暴力となって結愛を打ちのめしていく。実母の恵子は、その横で顔を覆い、板挟みの苦痛に耐えるように震えることしかできなかった。均衡が物理的な音を立てて崩壊していく中、突如として玄関の引き戸が、乱暴なまでの勢いで開け放たれた。
「そこまでにしろ。あいつをこれ以上、汚い言葉で罵るな」
冷気を伴って踏み込んできたのは、東京から急遽帰省した悠真だった。コートを脱ぐ間もなくダイニングへと進み出た彼の姿は、数ヶ月前までの従順な息子のものではなかった。悠真の瞳には、自ら稼ぎ出し、社会的に確立した地位という名の「主権」が宿っている。彼は正嗣の前に立ちはだかり、テーブルの上に散乱した婚姻届を拾い上げると、父の眼差しを真っ向から跳ね返した。その背中で、結愛が初めて安堵の吐息を漏らし、悠真のシャツの裾を縋るように掴んだ。
「悠真、貴様……。この小娘と共謀して、家族を、この家を破壊するつもりか。親権を何だと思っている。私の許しなく、婚姻など認められるわけがないだろう」
正嗣の叫びに対し、悠真は冷酷なまでの微笑を浮かべた。彼は自らの懐から、一通の厚手の封筒を取り出す。そこには、既に承認印が押された雇用契約書と、社宅への入居許可証、そして彼自身の最新の資産証明が同封されていた。悠真はそれを、正嗣の主張する「家族の絆」という名のガラクタを上書きするための、最新鋭の兵器としてテーブルに提示した。
「父さん、時代は変わったんだ。結愛はもう十八歳、法的には成人だ。あなたの許可など、彼女の人生には一滴の影響力も持たない。そして俺は、彼女を妻にする。これは一時の感情の暴走じゃない。俺の社会的地位、年収、そして将来の全責任を賭けた、法的かつ経済的な『契約』だ。彼女をこの檻から略奪し、俺が彼女の新しい守護者になる。今日この瞬間から、あなたは彼女の主権者ではない」
悠真の宣告は、ダイニングテーブルを真っ二つに叩き割るような衝撃を持って正嗣に突き刺さった。正嗣の眼鏡が歪み、自らが築き上げてきた家父長的な秩序が、息子の提示する「数字と法」という実利の前に、音を立てて瓦解していく。恵子は驚愕の表情を浮かべながらも、二人の間に流れる異常な熱――それはかつて自分が捨て去った自律への渇望そのもの――に、密かな、そして凄絶な共鳴を感じていた。
「ふざけるな! 親の金で生きてきた身で、大口を叩くな。貴様らに何ができる!」
正嗣が激情に任せてテーブルをひっくり返し、食器が砕け散る。破片が結愛の足元まで飛ぶが、彼女はもう、目を逸らさなかった。悠真の手が、彼女の震える手を力強く握りしめる。その掌の熱こそが、正嗣の暴力的な正義を溶かし尽くす唯一の真実だった。修羅場と化した食卓で、旧い時代の支配者と、新しき時代の略奪者が、血の流れない戦争の火蓋を切った。窓の外では、瑞穂市の雪がすべてを葬り去ろうと降り積もっていたが、二人の魂は既に、春の凱旋に向けた決死の進軍を開始していた。
「見ていろ、父さん。あなたが『管理』という名で殺そうとしたこの愛が、いかに強固な社会的防壁となって、あなたを拒絶するかを。俺たちは、新しい契約を結ぶんだ」
悠真の言葉は、深夜の静寂に鋭く反響し、瀬戸家の重い扉を内側から爆破した。結愛は悠真の横顔を見つめ、自らの苗字が塗り替えられる瞬間の歓喜を、舌の先で味わっていた。この惨劇こそが、彼女が自由を勝ち取るための神聖な儀式であった。二人の「兄妹」という仮面は、粉々に砕け散った食器の破片と共に、二度と修復不可能な形で冬の床に散らばっていた。
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