伯爵令嬢、新しい茶葉を試してみる
新しいことを始めるとき、最初にやってくるのは期待じゃなくて、手探りの連続だ。
けれど、それでも前に進みたくなるのが、好きなものに向き合うときだと思う。
ティーツリーでは今、曜日限定で《新しい紅茶》の提供を始めている。
もともとは、パンの試食会のときにレオノーラがぽろっと口にした、「安くて美味しい外国産の紅茶を入れてみるのはどうかしら」という提案がきっかけだった。
紅茶が好きな人に、もっと多くの味を届けたい――という考えには、私も大いに賛成だった。
けれど、現実はすぐにうなずいてはくれない。
うちがメインで仕入れているのは、アルくんとサヴォワ商会の紹介する卸商人たち。
どちらも誠実な取り引き相手だけれど、外国産茶葉となると事情が違う。
特にアルくんは国内を旅する行商人だ。
扱っている茶葉は各地のものが中心で、外国産は、少し、あるかないか……という程度だった。
「僕の荷物の中をひっくり返してかき集めれば、三日分くらいは出せるかもしれないけど……一日十杯が限界ですね」
気まずそうに笑うアルくんに、私は首を振って笑った。
「それでも、ありがとう。十分よ」
問題は、安定した仕入れだった。
輸入の道を開こうと思えば、バイン商会の名前がちらつく。
あるいは、貴族の庇護を受けた商店を通すしかない。
でも、それは……今のティーツリーにとって、選べない選択肢だった。
「でしたら、ご当地の茶葉を出してみたらどうですか?」
と、再び口火を切ったのもアルくんだった。
各地を巡るなかで集めた、特産の茶葉。
珍しいけれど、質は良い。
ただし量がない。
エグランティーヌのように、その地で消費されて街の外にはあまり出回らないものが多い。
それでも、私は頷いた。
「……試してみましょう。仕入れが安定しなくても、“その日しか飲めない”紅茶があるって、ちょっと素敵だと思うの」
アルくんは少し驚いた顔をして、それから、嬉しそうに目を細めた。
そうして始まったのが、“曜日限定の地紅茶”の試験提供だった。
最初の週は、北の山岳地帯で育った「ツィルベルの霧紅茶」。
名前の通り、霧の深い土地で育った茶葉で、ほんのり花の香りがする、でも土っぽくもあるという、なんとも不思議な紅茶だった。
まだ朝の空気がひんやりと残る時間、ティーツリーの扉を開けると、ふわっとチョークの粉の匂いが鼻をくすぐった。
店先の立て看板――いつもの“黒板メニュー”に、絵描きのセリーヌさんが身をかがめて絵を描いているところだった。
「おはようございます、セリーヌさん。今朝もありがとうございます」
「おはよう、エリーちゃん。今日はね、山に霧をかけるのが難しくって……ほら、ツィルベルって“霧”が名物なんでしょう? どうやったら“あの霧ごと飲みたくなる”ような絵になるのか、けっこう悩んでるの」
言いながら、セリーヌさんはチョークの白で、黒板の山並みにやさしく霞を流し込んでいく。
今日限定で提供する「ツィルベルの霧紅茶」のイメージを、彼女なりに表現してくれているのだ。
細い筆先のような指先が、山の端をなぞって、ふわりと柔らかい雲の輪郭をつくる。
湯気のように立ちのぼる白は、本当にそのまま紅茶の香りになりそうで、私はつい息をのんだ。
「ここに、ティーカップを描くわね。霧の中に、浮かぶような感じで……」
その様子を、マリアが少し離れたテーブルで見守りながら、両手を広げるように話していた。
「ツィルベルは北方の山岳地帯よ。標高が高くて、朝と夜の寒暖差がすごいの。その気候が、茶葉に独特の香りを与えるのね。土壌も火山灰が混じっていて……ああ、あと、鹿の目撃情報が多いのも特徴よ」
「しか……。それって、食べるんですか?」
と、真顔で尋ねるノアに、マリアは目をぱちくりさせてから笑い出した。
「食べなくていいのよ。ツィルベルの紅茶に鹿の風味はないから安心して」
「……よかったです」
椅子に座っていたメアリは笑いながらノートを開いて、何かを書き込み始めた。
「北の山岳地帯、霧、火山灰、寒暖差。なるほどね……次に紅茶を出すときの説明文に使えるかも」
「説明文って、店内のあの短いやつ?」
「うん。ちゃんと書かないと、お客さん“ツィルベルって誰?”ってなっちゃうから」
マリアが小さく吹き出すと、メアリも得意げに鼻を鳴らす。
そのやり取りを聞きながら、私はカウンター越しにそっとメモ帳を開いて、聞いた単語を小さく書き留めた。
“火山灰の土壌”、“鹿の目撃”、“寒暖差”。
書いた文字の向こうに、まだ行ったことのない山の景色がぼんやり浮かんでくる。
マリアの知識は本当に幅広い。
しかも、話し方が上手で、聞いているだけで頭に映像が浮かんでくる。
できることなら、お客さまに出す紅茶の一杯一杯に、その風景も添えて渡したい。
「できたー!」
という声とともに、セリーヌさんが立ち上がった。
黒板には、淡いグレーで描かれた山の稜線、その合間を流れる霧、そして真ん中に浮かぶ湯気の立つティーカップ。
山の中に差す光のように、ほんのり黄色のチョークで小さく「本日限定 ツィルベルの霧紅茶」と書かれていた。
「今日もきっと、いい日になりますよ」
セリーヌさんが笑い、マリアが「素敵」と頷き、ノアがまぶしそうに黒板を見つめている。
私はカウンターに立ち、紅茶缶の蓋を開けた。
霧の紅茶、ツィルベルの香りが、今日も静かに店の空気に溶けていく。
話題にならないはずがない。
「これがツィルベルの紅茶……! 飲んだことなかった!」
「エグランティーヌより香りが強いのね。こっちはこっちで面白いわ」
「限定ってことは、来週には飲めないんだよな? だったら今のうちにもう一杯!」
常連のお客さまの何人かは、好奇心をまっすぐに紅茶へと向けてくれた。
一方で、
「なんだってわざわざ、他の街の紅茶を?」
「地元のエグランティーヌを大事にするべきじゃないの?」
と、言外に眉をひそめるような反応も、ないではなかった。
でも、それでも構わなかった。
紅茶が好きな人たちが、それぞれの目と舌で、好みを探す場所――それがティーツリーであってほしいと、私は思っている。
試験的、というのは確かに妥協だった。
でも、挑戦でもあった。
安定供給が難しいなら、あえてそれを“特別”にしてしまえばいい。
紅茶を楽しんでもらう、という目的は、少なくともぶれていない。
もちろん、苦い顔をする人もいたし、限定メニューがあるのに売り切れて飲めなかったと残念そうに帰る人もいた。
それでも――
「今日の紅茶、どんなのですか?」
そんなふうに、新しい客が戸を開けるたびに、ティーツリーの空気が少しだけ膨らんでいくようだった。
新しい紅茶に、笑う人。
紅茶の違いに、語り合う人。
その“話題”が、また別の客を連れてくる。
“安定していない”ことは、弱みであると同時に、魅力にもなるのだと、私は知った。
次の週は、西の渓谷で採れる「ロス・ブランの黄金茶葉」を出す予定だ。
ほのかな甘みと軽い渋みがあるという。
アルくんいわく、「紅茶なのに金平糖みたいな後味がする」らしい。
私はすでに楽しみでならなかった。
次は、どんな香りがティーツリーを満たしてくれるのだろう。




