伯爵令嬢、新作について考える
サヴォワ商会での説明会を終えた帰り道、ティーツリーに戻る私とレオノーラの足取りは、夕暮れの風に心地よく吹かれていた。
店の灯りが見えてきたころには、パン屋のバレット夫妻が新作の試作パンを手に来てくれていると、マリアが知らせてくれた。
いつもの恒例、夕食を兼ねた試食会の時間だ。
店内のテーブルには焼きたてのパンの香りがふわりと漂い、マリアがサラダやスープを手早く並べていく。
ミリアムさんが奥から差し入れのチーズやフルーツを出してくれた。
メアリとノアも、お皿を手に右往左往している。
みんなが席につく前、私は今日あった報告の一部を、ざっと共有しておこうと思った。
「……それで、例の『商会法改正案』なんですけど。今日の説明会ではまだ概要しか出てなくて……」
「商会法改正案、ねぇ……」
オスカーさんが腕を組み、パンの香ばしい匂いを無視してしまうほど、難しい顔をした。
「具体的な中身が見えねぇうちは、いいのか悪いのか判断はつかねぇけどな。ただ、最近のバイン商会のやり口見てると、両手広げて歓迎するって気分にはなれねぇな」
「うーん……そうね」
ミリアムさんも、眉間に皺を寄せたまま唸る。
私は少し間を置いてから、口を開いた。
「……アルくんが提案してくれたんです。お店の常連さんたちにも話を聞いてみてはどうかって。広く意見を募るような形で」
「それは……いい子ね、アルくん。ちゃんと考えてるのね」
ミリアムさんが微笑んでくれた……けれど、次に出た言葉は少しばかり慎重な響きを帯びていた。
「でも、ティーツリーでそれをやるのは、正直あまりおすすめしないわね」
「……え?」
「確かにね」
マリアも頷く。
二人の表情がそろって固くなったのを見て、私は思わず首を傾げてしまった。
すると、隣に座っていたメアリとノアが、私の真似をして首を傾げる。
……もう、かわいいったら。
「まだ、革命の記憶がそう遠くないからね。この国では、政治の話題は日常で交わされるようになったとはいえ、“お店”のような空間ではあまり歓迎されないのよ」
ミリアムさんの声は、穏やかだけどはっきりしていた。
「『あそこはああいう思想の店なんだ』って思われたら、それだけで足が遠のくお客も少なくないの。私たちもパン屋だけど──それだけに、なんでも話題にしていいってわけじゃないのよね」
「……そうなんですね」
思わずそう口にした私に、マリアが静かに補足する。
「政治ってね、勉強として令嬢たちが話すぶんにはよくあるけれど、庶民の立場からすると、“難しくて、巻き込まれたくない話”なの」
アシュフォード家で共に過ごしたマリア。
けれど、彼女の中には確かに庶民の視点が息づいている。
仕える相手と同じ立場だと勘違いしないように──そう教育されてきたと、以前聞いたことがあった。
「……難しいですね」
私はぽつりと呟いた。
“正しいこと”をしても、それが人を遠ざけてしまうのなら、どうすればいいのだろう。
たぶん、その問いに簡単な答えはない。
でもだからこそ、私たちは声を交わしながら進んでいくのだ。
そこに、ふわりと新しい香りが広がった。
「さ、熱いうちに食べちまおうぜ」
オスカーさんの陽気な声に、空気が和らいでいく。
テーブルに並んだのは、今日のために焼き上げられた数種類の試作パン。
見た目からして楽しい形のものもあれば、香辛料の香りがちょっと変わったパンもある。
「美味しそう……!」
レオノーラが、感嘆の声を上げる。
「グリンフォードじゃ、こういう新作パンなんてなかなか……っていうか、あの老舗の店がこんな挑戦するなんて思いもしませんでした」
「定番だけじゃ、常連も飽きちまうだろ?」
オスカーさんが豪快に笑う。
「それに、今はパン屋もライバルが多い。次々と新しい店ができる時代だ。こっちも挑戦しなきゃ追い抜かれるばかりだ」
「それでも、ちゃんとパン屋としての“味”は守ってるのよ。オスカーが冒険してるように見えて、実はすごく計算してるって、私はちゃんと知ってるんだから」
ミリアムさんが肩をすくめる。
「……ほんとに、すごいです」
心からそう思う。
私は、少し前までこの夫婦の店で働かせてもらっていた。
オスカーさんの職人としての姿勢には、何度も感銘を受けたものだ。
今でも思う。
あの背中を見て、私の中の何かが動き出したのだ。
ティーツリーも、変わらなければいけないのかもしれない。
今の看板商品は、エグランティーヌ。
地元の茶葉として名も広まり、品質の高さと希少性で話題になっている。
けれど、それも──ずっと続くものではないかもしれない。
アルくんやジュヌヴィエーヴさんが考えてくれている販売戦略が広まり、エグランティーヌが“普通に手に入る紅茶”になってしまえば、その希少性は少しずつ失われていく。
もちろん、完全に一般化するには時間がかかるだろう。
でも、その前に、ティーツリーの次の「強み」を用意しておかなければ。
「難しい顔してどうしたの、エリー?」
マリアが不思議そうに私の顔をのぞき込む。
「味が合わなかったか?」
オスカーさんの心配そうな声に、私は慌てて首を横に振った。
「い、いえ、そうじゃなくて……。新作って、ティーツリーでも考えないといけないなって、思って……」
「ああ、そういうことね」
ミリアムさんが納得したように頷いた。
「確かにね。エグランティーヌ一本推しじゃ、いつか限界が来るかも」
「ただ、紅茶ってなると、メニュー表が複雑にならないように注意しなきゃね」
マリアが思い出したように言う。
以前、ヴィクトル公爵に言われたこと──紅茶の説明が長いと、お客が入りづらくなるという指摘。
「紅茶に合うパンの開発は任せとけって! な、ミリアム?」
「もちろん。オスカーと私に任せなさいな」
メアリとノアが「おいしいー!」と新作パンをもぐもぐ頬張っているのを見て、みんながくすっと笑った。
そのとき、レオノーラが急に黙り込んだ。
「……レオノーラ?」
私は思わず声をかけた。
「何か、案が?」
「……えっと。ティーサロンで時々、輸入茶葉のフェアをやっていたじゃない? 単発で、国ごとにテーマを決めて──」
レオノーラの話を、皆がじっと聞いた。
「その中で、品質も良くて、仕入れ価格も安い茶葉がいくつかあったの。でも、フェアって話題性重視だから、いい茶葉があっても定番化されることはなかったの」
「ティーツリーで、それを使ってみたらどうかって?」
私が訊ねると、レオノーラは頷いた。
「でも、安いっていっても、輸入ですから仕入れ量や輸送のタイミングには制限がありそうね」
マリアが現実的な問題点を挙げる。
「それなら、日替わりとか週替わりで出すのはどう?」
と、ミリアムさんが提案した。
「数量を絞れば仕入れ量が少なくても賄えるし、限定ってだけでお客の興味も引ける。説明も、“今週のお茶はこちら”って形にすれば分かりやすいしね。うちでも日替わりパンで似たことやってるし」
「……いいかも」
私は、胸の奥に小さな明かりがともるのを感じた。
エグランティーヌに続く、ティーツリーの次の一歩。
それが、ここから見えてきたような気がした。




