伯爵令嬢、現実を思い知る
「でも、その南部商業評議会って、帝国南部の統治にも関わる組織なんでしょう?」
控えめに、けれど芯の通った声でレオノーラが言った。
「……そうなると、アシュフォード伯爵も、関係しているはずよね?」
伯爵──私の父の名前が出たことに、少しだけ体の内側が緊張する。
南部の経済や自治に関わる組織。
そう言われれば、確かに父が無関係とは考えにくい。
けれど、私は思い出そうとして──記憶の中から、はっきりとしたものを引っ張り出せなかった。
屋敷で行われていた政治学の授業の中で、「南部商業評議会」なんて名前が出たことがあっただろうか。
どこかで聞いたような……でも、そこに自分の意志や関心を向けた記憶がない。
貴族の娘として、ただ座って聞いていた時間。
あの頃の私は、そういう言葉の意味を、何一つ実感していなかったのだと痛感する。
「難しいところね」
ジュヌヴィエーヴさんが、紅茶のカップに手を添えながら言った。
「確かに、伯爵であれば関係はあるでしょう。でも、それは最終的な容認にサインをする程度の話よ。細かな指示や管理まで関与しているとは考えにくいわ」
「つまり……いち店舗の拡張申請が、伯爵の机まで届けられているとは思えない、と?」
「そう。大量の書類の中に紛れた一行として──それも、見出しだけを目で追って印を押すような、そんな案件ね」
レオノーラは少し俯いて、小さく息を吐いた。
ほんの少し希望をかけようとしたその提案が、根から否定されたことで、がっかりしているのが分かる。
「それに──」
ジュヌヴィエーヴさんの声が、少しだけ強くなった。
「仮にエリーのお父様がティーツリーの件を把握していたとしても。抗議でも何でも、アクションを起こすとは思えないわ」
……図星だった。
レオノーラの沈黙に、彼女が何を言おうとしていたか分かったのだろう。
身内として伯爵に頼れないか。
レオノーラはきっと、そう言いたかったのだ。
「ラングフォード侯爵の影が色濃く見える状況で、アシュフォード伯爵が『うちの娘の店なので、融通をきかせろ』なんて言えるわけがない。爵位の差という、絶対的な上下があるもの」
「……そうですね」
私は頷いた。
「それに、今の父の立場は……私が家を出たことで、さらに難しいものになっています」
あの人にしてみれば、私の“我儘”で家名に傷がついた、という認識だろう。
そして今、ラングフォード家の命令で、ウィルがティーサロンに派遣されている。
父にとっては、上位者の顔を立てている最中なのだ。
その最中に、反旗のような真似をするわけがない。
「そもそも、父は……私がティーツリーを経営し続けること自体、良しとは思っていない」
思わず、口の中が苦くなった。
つい先日、ウィルから聞かされた帰還命令。
あれは父の言葉だった。
助けを求めれば──返ってくるのはきっと、
「ならば、店など閉めて帰ってこい」
そんな言葉だろう。
ありありと声まで思い出せた。
「ごめんなさい、今の提案──なしにしてちょうだい」
レオノーラが唇を噛み、視線を落とした。
その顔には、複雑な後悔がにじんでいた。
「伯爵も公爵も、そもそもが気軽に物を頼める立場の方ではないの」
ジュヌヴィエーヴさんが、ふっと微笑むように言った。
「ハナからそこは考えていなかったことだし、気にしないで。私たちは私たちの力で、この状況を打開していきましょう」
それは、優しい慰めの言葉に聞こえた一方で──
没落貴族となったレオノーラに対して、「貴族を頼る発想から抜け出さなければならない」と釘を刺すようでもあった。
私もレオノーラも、いまはもう庶民の立場だ。
例え父が貴族であっても、そこに頼れる権利なんて、とうに無い。
「発言力は弱いといえど、私たちサヴォワ商会も南部商業評議会の一員であることは変わりないわ」
ジュヌヴィエーヴさんの声に、芯のある力強さが宿る。
「私たちが認めた店の開業に、今さら審議がかけられるというのなら──その点については、然るべき言葉を届けるつもりよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
誰かが、味方でいてくれる。その安心感に支えられる。
「それに、『商会法改正案』は、まだ通った法案ではないんです」
今度はアルくんが口を開いた。
「現時点では、そう進めようという段階の“案”にすぎません。ですから、すぐにティーツリーに廃業の指示が来るわけでもない。……時間をかけて圧をかける嫌がらせであって、それは逆に、付け入る余地があるとも言えるんです」
彼の年齢を考えれば、あまりにも冷静で、戦略的な言いぶりだった。
──本当に、十歳の子なのだろうか。
そんなことを考えながら、私は返す言葉を探していた。
「付け入る隙……?」
レオノーラが眉を寄せ、私の方を見てくる。
……正直、私もそこまでは思いつかない。
けれど、“何かある”という感覚だけは、わかる気がした。
「そもそも、その『商会法改正案』を通させない。あるいは、内容を変更させるという動き方もあると思うんですよ」
アルくんは、まるで盤上を見据える将棋指しのような口調で言った。
まるで違う世界を生きてきた子。
……不思議な生き物みたい。
私は、ぼんやりと思った。
私は、学校で教えられた政治の知識を「知っていた」。
けれどそれは、現実の中で息づいている言葉じゃなかった。
授業、教科書、教師──どれも、どこか“別の世界のこと”として受け止めていた。
だけど今は違う。
アルくんと向き合うたびに思う。
私は、現実を知らなかったのだと。
貴族の令嬢として生きていた日々が、どれほど「箱庭」の中だったかを、思い知らされるような気がする。
──さて、どうする、エレノア。
答えのない問いが、胸の内側で、ゆっくりと形になろうとしていた。




