伯爵令嬢、友達にからかわれる
──ヴィクトル公爵の話が一段落して、ウィルとジュヌヴィエーヴさんがティーツリーを後にしたあと、店内には少しの静寂が訪れた。
扉の閉まる音を聞きながら、私は深く息をついた。
今夜の話は重かった。
だけど、そのすべてに耳を傾けられた自分を、少し誇らしく思っていた──そう、思っていたのだけれど。
「一途な男ね」
不意にレオノーラがぽつりと呟いた。
その声に、私は思わず彼女の横顔を覗き込む。
月の光に照らされたその横顔は、どこか寂しげで、けれどそれを見せまいとする強さが滲んでいた。
「……誰のこと?」
首を傾げて聞き返す私に、レオノーラは一瞬だけまばたきしてから、目を細める。
「嘘でしょ……エレノア、本当に気づいてないのね」
「え……?」
何が、どうして、私が何か見落としていたのか──そう考えているうちに、マリアがくすっと笑った。
「この子、そういう話に疎いのよ。生まれは良くても、恋愛偏差値はゼロってところかしら」
「マリア!」
「違うの? だって、麗しき令嬢さまは同窓生とも、メイドとも女子トーク一つしたことないでしょ? まったく……教育の機会ってのは突然やってくるのねぇ」
教育?
恋愛を?
この人、何を言ってるの……。
思わず言い返そうとしたけれど、マリアの笑みが妙に自信に満ちていて、私は言葉を飲み込んだ。
確かに──私は恋愛ごとには疎い。
政治や経済、文学に歴史、父が好む硬い話題なら、それなりに答えられる自信があった。
でも、誰かを好きになること、誰かに想いを伝えること。
そういうことには、まるで自分が知らない言語を喋ってるみたいな気持ちになるのだった。
レオノーラが笑う。
高貴な身のこなしの中に、どこか柔らかい気配を乗せて。
「舞踏会に顔を出していれば、少しは男を見る目が養われるものなのに。まさか同い年で、こんなにウブだなんて思わなかったわ」
「レオノーラまで……」
私は肩を落としてふてくされた。
からかわれているのは分かるけれど、それが不思議と嫌じゃなかった。
こうして笑いあえる関係が、どこかくすぐったくて、あたたかくて。
「あ、そうだ、レオノーラ。実はエリーはね、ヴィクトル公爵に──」
「ちょっと! 何を言うつもり!」
慌ててマリアの肩を押さえた。
今、それを言われるのはまずい。
私だって、あの夜のことを思い返して、胸が少しざわついているのだ。
「何よ、気になるじゃない」
レオノーラが目を輝かせる。そういう話には目がないのだろうか。
「じゃあ、帰り際に教えてあげる」
「やめなさいってば!」
マリアが声を立てて笑い、レオノーラも釣られて笑った。
私は顔を赤くしたまま、二人に挟まれて小さくなった。
──でも、不思議だ。
貴族の館では、こんなふうに誰かと笑いあったことはなかった気がする。
良家の娘として、礼儀作法と自制を叩き込まれて、笑顔も言葉も選んで生きてきた私が、今ここでこんなふうにからかわれている。
それが、ちょっとだけ嬉しかった。
翌日。
朝の準備を終えて開店すると、ティーツリーにはこれまでと変わらない穏やかな空気が戻っていた。
……昨日までの異様な騒がしさが嘘のように、迷惑な客は一人も現れなかった。
「ちょっと気味悪いぐらい、静かね」
マリアが呟くように言うと、レオノーラが笑う。
「それだけ昨日の話が効いているということでしょう。ジュヌヴィエーヴさんがあそこまで堂々と宣言してくれたんですもの」
私はカウンターの奥から、そんな二人のやり取りを聞きながら、グラスを布で拭いていた。
──とはいえ、緊張の糸はそう簡単に緩められるものでもなかった。
ヴィクトル公爵の状況も、父の動きも、何もかもが交錯しながら、ティーツリーという小さな店を中心に大きな渦が広がりつつある。
……それでも、お客さまが笑ってくれること。
それだけで、今日は開けて良かったと思える。
そんなふうに考えていたところに、表のドアが開いた。
「あ、ギャランさん」
マリアが声を上げると、入ってきたのはこの建物の大家、ギャランさんだった。
「やあ、朝からすまんね、ちょっとだけ話があってさ」
私はカウンターから出てギャランさんの元へ向かう。ギャランさんは帽子を軽く脱いで私に会釈すると、すぐに眉間にしわを寄せた。
「例の、店舗拡張の申請の件なんだけど……」
「……はい。先日、資料を提出させていただいた件ですよね」
「ああ、それなんだがね。どうも商会連盟の方から差し戻されていて、理由がつかめないんだ」
「差し戻し……ですか?」
思わず声が出た。ギャランは申し訳なさそうに頷く。
「こちらの不備って話でもないようなんだが、”再審査を要する”という連絡だけで、詳しい説明もない。今のところ進行は一時保留になりそうだ」
「そんな……」
胸の奥がざわついた。迷惑客がいなくなったことで、一時的に平穏が戻ってきたと思った矢先のこの話。
──まるで、次の一手を相手が打ってきたかのような感覚があった。
ギルバード侯爵か、それともバイン商会か。
どちらかがまた、水面下で手を回してきたのだろうか。
昨日の話を思い返す。
だが、ジュヌヴィエーヴさんはここまでの話には触れていなかったはずだ。
もし彼女が知らない動きだとしたら、これは新たな一手──そして、ティーツリーに対するさらなる圧力なのかもしれない。
「……ご報告、ありがとうございます。とにかく、今は状況を見守るしかなさそうですね」
「ああ。何か進展があったら、すぐ知らせるよ」
そう言って、ギャランさんは帽子をかぶり直し、カウンターに向かって小さく手を振って帰っていった。
私は閉まりかける扉を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
静けさの裏に、また別の波が潜んでいる──そんな予感が、どうしても拭えなかった。




