伯爵令嬢、貴族の争いを知る
「監察機関……?」
聞き慣れない単語に、思わず私は問い返していた。
ウィルは頷きながら、静かに続ける。
屋敷にいた頃の授業の時間を思い出す。
「ギルバード侯爵が推し進めているのは、『帝国軍務局の腐敗を正すため』という名目で、軍に対する監察機関を新設するという案です」
言葉だけを聞けば、悪くない話のようにも思える。
だが、それが実際は──。
「表向きは貴族の横暴を律するための仕組みのように見えますが、実際は国民の不満を、改革派の残滓である軍務局へ向けさせるための工作です。帝政移行後に力を持ちすぎた貴族たちへの不満は確かに存在します。ただ、それは軍務局だけの問題ではありません。むしろ、そこを抜き出して糾弾させようとしている点に、意図があるのです」
ウィルはそう言いながら、少し視線を落とした。
その様子から察するに、こうした政争を間近に見てきた彼の中でも、消化しきれない想いがあるのだろう。
「でも、ヴィクトル公爵は、そういう横暴な貴族たちを……律していたのよね?」
私の問いに頷いたのは、ジュヌヴィエーヴさんだった。
「ええ、だから彼は“冷徹公爵”と呼ばれるようになったの。非道を働いた貴族たちに対して、一切の容赦なく粛清を下した。それが、反発した側から悪名として言いふらされるようになったのよ」
「彼の行動はむしろ正義そのもの。……だけど人は、自分の都合の悪いものほど悪く言いたがるものなのね」
ジュヌヴィエーヴさんは小さく肩をすくめながら、紅茶に口をつけた。
「“冷徹”って言葉も……公爵が軍を通じて民衆を締めつけている、みたいに広まったのよね。でも実際は、違う。むしろ庶民に寄り添おうとしている。そういう貴族こそ、危険視されて潰されるの。怖い話よ」
その言葉に、私は思わず黙り込んでしまった。
知らないことが多すぎる。
見えていなかったものが、いくつもある。
「一方で……ギルバード侯爵が、じゃあ庶民派かというと……」
ウィルの言葉に、私は身を乗り出した。
「違う……そうよね?」
「……はい。彼が庶民派を名乗っているのは、あくまでも印象操作にすぎません。実際には、支配下に置くための手段として民衆に『寄り添っているように見せかけて』いるだけです。今回の件で言えば、ティーツリーに圧力をかけているバイン商会は、彼の意向で動いています」
私の胸の奥に、小さな怒りが灯る。
やはり、あの商会の後ろにはそういう意図があったのか。
「アシュフォード家の執事として知る限り、以前はギルバード侯爵に対して悪い印象は持っていませんでした。外聞も評判も良い。ですが……調べていくうちに、彼の背後にあるものが見えてきました。印象操作。裏工作。反対勢力の口封じ。彼の悪評が広まらないのは、そのすべてを見えないところで押さえ込んでいるからです」
ウィルの言葉に、レオノーラが苦い顔をして頷いた。
「……レオポルドが口を滑らせなければ、私たちも気づけなかったでしょうね」
「そうなのよ。今回、ギルバード侯爵の名が出てきたのはあの男のおかげ。“容姿端麗、品行方正、才色兼備、文武両道”って、まあ聞いてるだけで鼻につくわよね。でも、それがまたやっかみにしか聞こえないようにできてる。悪口を言っても、ただの妬みにしか見えない。そういう立ち回りをしてるの。……本当に、巧妙だわ」
ジュヌヴィエーヴさんは吐き捨てるように言った後、小さく息をついた。
「庶民を食いものにしようとしてる男が、庶民に寄り添おうとする公爵を“庶民の敵だ”なんて担ぎあげようとしてるなんて……。最低な皮肉ね」
その言葉が、どこまでも冷たく空気を凍らせる。
何が正しいのか、何が間違っているのか、ますますわからなくなるような気がした。
ただ一つ、確かなことがあるとすれば――。
「……そんな人たちに、私たちの居場所を奪わせたくない」
思わず、ぽつりと口に出た私の声に、ウィルとジュヌヴィエーヴさんが目を細めて頷いた。




