伯爵令嬢、安堵と不安が訪れる
あの騒動のあと、ティーツリーの空気は、ようやく、ほんの少しだけ元に戻りつつあった。
まだ残っていた数組のお客様たちが、にわかにざわめいた店内に驚きつつも、ジュヌヴィエーヴさんとマントの人物――ウィリアムだった――が見事に場を制してくれたことに安堵して、ほっとしたように紅茶を口に運んでくれている。
いつも通りの接客を、ようやく、またできる。
それが、これほど嬉しいことだなんて。
私もマリアもレオノーラも、声を出さずにほほ笑み合った。
ジュヌヴィエーヴさんは、静かにカップを空にすると、すっと席を立った。ウィリアムもそれに続く。
「それじゃあ、私は少し、衛兵に釘でも刺してくるわ」
去り際にさらりとそう言ってから、ジュヌヴィエーヴさんは私にそっと身を寄せ、小声で囁いた。
「後で話があるわ。閉店後、いいかしら?」
私は即座に頷いた。
ジュヌヴィエーヴさんの目には、ただの義務感だけではない、何か思うところがありそうだった。
久々に、店じまいの時間が穏やかだった。
メアリとノアも厨房の皿洗いを手伝ってくれていて、怯えた様子はまだ残っているけれど、それでも騒ぎがなく終わったことに安心してくれているのが伝わる。
閉店後の片付けを終えた頃、ティーツリーの扉がまた静かに開いた。
ジュヌヴィエーヴさんと、マントを脱いだウィルが姿を現した。
「お待ちしていました。紅茶をお淹れしますので、どうぞカウンター席へ」
私が促すと、レオノーラが席の向こう側にまわり、慣れた手つきでポットの準備を始めた。
「ありがとう、いつもながら頼もしいわね」
ジュヌヴィエーヴさんが笑顔でそう言うと、ウィルも丁寧に頭を下げた。
そして少し冗談めかして言った。
「先程は挨拶もなく、申し訳ありませんでした。お嬢様」
「ウィルがあんなに強いだなんて、初めて知ったわ」
私は呆れ混じりに言いながらも、正直驚きがまだ消えていなかった。
細身で温和そうに見えるウィルが、あんなにも手際よく相手を制してしまうなんて。
「アシュフォード家に仕える身ですから。主人を護る術は、それなりに心得ております」
「……まかせてくださいって顔ね」
思わずマリアの方を見やると、「ね?」と言わんばかりに得意げな笑みで頷いていた。
前に冗談めいて言っていた“仕える者の嗜み”が、本当だったのね。
そして、ジュヌヴィエーヴさんが一息つき、言葉を継いだ。
「ウィリアムさんと出会ったのは、偶然だったのよ」
私は思わず目を瞬いた。
「え……てっきり一緒にいらしたのかと」
「違うの。あなたから相談を受けたあと、私たちも商会として動き始めたの。カートン男爵への申し入れも含めて、いろいろとね。で、今日は直接、店の様子を確かめようと立ち寄ったわけだけど──」
彼女は少し苦笑して、ウィリアムに視線を送った。
「ティーツリーの前で、どうにもそわそわした様子で立ち尽くしてる彼を見つけたのよ」
「ジュヌヴィエーヴ様、それは……」
慌てて否定しようとするウィルの声を遮って、ジュヌヴィエーヴさんはなおも言葉を続けた。
「ティーサロンの従業員として、表向きには手助けできない──そう言いながら、今にも殴り込みに行きそうだったわ」
「……そ、それは……その……」
ウィルは耳まで真っ赤にしながら言い淀み、私と目が合うとバツが悪そうに視線を逸らした。
「で、だったらいっそ正体を誤魔化して手伝わせてしまおうかと思って。あの公爵様の変装、旅人フェイだったかしら? それを真似することにしたのよ」
私は息を呑んだ。
やっぱり、この人は──気づいていたんだ。
ヴィクトル公爵のことも、“フェイ”という名前でティーツリーを手助けしてくれていることも、全部。
「まあ、あの変装で誰かが本気で騙されてるのは……アルくんくらいじゃないかしらね」
ジュヌヴィエーヴさんが冗談めかして言ったその言葉に、私たちは皆、苦笑を浮かべた。
「いずれにしても、お嬢様。私はティーサロンの従業員であることに変わりはありません」
ウィルがあらためて言葉を引き締めたのに対し、レオノーラが少しだけ唇を噛んだ。
「……それでも、来てくれたことには、感謝しています」
私はそう伝えた。
この街で、誰がどこに立っていて、どこまで守ってくれるのか。
それはわからない。
けれど、ティーツリーという小さなお店のために、誰かがわざわざ手を差し伸べてくれたのだ。
その想いは、まぎれもなく、私たちにとって力だった。
私たちは静かに紅茶を啜りながら、それぞれに少しだけほっとした息をついていた。
メアリとノアも、厨房の戸の隙間からこっそりとこちらの様子を覗いていた。
彼女たちが怯えてしまっていた数日間を思えば、こうしてまた紅茶の香りと小さな笑顔が戻ってきたことは、何より嬉しい。
けれど、ジュヌヴィエーヴさんはふと手元のカップから目を上げ、静かに口を開いた。
「ところで、話があるというのは……私たちのことではないの」
そう言って、意味ありげにウィルの方へと視線を送る。
ウィルは一瞬ためらうように目を伏せたが、すぐに頷き、私たちへと向き直った。
「お嬢様……おそらくですが──ヴィクトル公爵にも、貴族たちの手が回っています」
その声は低く、静かだった。
けれど、胸の奥に鋭く差し込むような重みがあった。
私は、思わず、息をのんだ。
――結局、あの人を、巻き込んでしまった。
その予感は、紅茶の香りすらかき消すほど、ひたひたと冷たいものを私の背中に這わせた。




