伯爵令嬢、無愛想な常連客に安堵する
翌日。
ティーツリーの朝は、いつも通り温かな紅茶の香りと、焼きたてのスコーンの匂いで始まった。
だけど、私の胸の中には、昨夜のレオノーラとの出会いが、冷たい雫のように残っていた。
マリアがカウンター越しにカップを拭いている隙を見計らって、私は声を潜めるように話しかけた。
「ねえ、マリア。昨日の夜、レオノーラに会ったの」
マリアの手がぴたりと止まる。
「……そう。あの人がわざわざティーツリーの近くまで?」
「ええ。閉店後のことだったけど、私たちの様子を何度か見に来ていたみたいなの。特に、メアリとノアのことを気にしていたわ」
マリアは一瞬だけ目を伏せ、それからカップを布巾にくるみながら言った。
「……それって、前に私が気にしてたこと、よね。二人をお手伝いさせることについて。周囲の目が、まだ整っていないんじゃないかって」
「そうなの。街の人たちが優しく迎え入れてくれたことで、私……すっかり、その不安を頭の隅に追いやってた。あなたが言ってたのに」
自分でも、どうしてそんなに簡単に安心してしまったのか分からない。
あの子たちの笑顔ばかり見て、周りのまなざしを見落としていたのかもしれない。
だけど、マリアは柔らかく微笑んだ。
「エリー、あなたは間違ってないよ。そういう見方をされるのは、どうしても止められない。それは仕方ないの。でも、それよりも大切なのは、メアリとノアが楽しくお手伝いできているかどうかでしょう?」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなった。
私が選んだやり方を、マリアはちゃんと見てくれていたんだ。
でも、マリアの次の言葉には、私も思わず眉をひそめた。
「それにしても、レオノーラ。彼女、相当焦ってそうね?」
「……焦ってる?」
私は反射的に聞き返していた。
マリアはカップを棚に戻しながら、ぽつりと語る。
「私たちは視察で一度ティーサロンを訪ねたけど、彼女の方からティーツリーに来たことは一度もなかったわ。でもその様子だと、彼女、メアリとノアが働き始めてから、何度か店の様子を見に来てるみたいよ」
「子供たちの働く様子を見たかっただけ……って、ことなのかしら?」
「それだけなら、昼間に来て軽く覗くだけで済むはずよ。でも、夜に来るっていうのは、きっと他にも理由がある。たとえば……ティーツリーの客足が、彼女の想定よりも増しているとか。あるいは、ティーサロンの方が思ったより振るわないとか」
マリアの声は淡々としていたけれど、その眼差しは鋭かった。
「とはいえ、最近はうちも忙しくてね。向こうの様子は、お客さんの噂話くらいでしか分からないの。あくまで、想像に過ぎないけれど」
そう言って、マリアは小さく笑ったけれど、その笑みにもやはりどこか張りつめたものがあった。
私はそのまま、店の奥から漂ってくる紅茶の香りに導かれるようにカウンターの向こう側へと戻る。
いつも通りの接客に戻ったつもりだったけれど、どこか、背中に冷たい視線を感じるような落ち着かなさが残った。
それから、いくつかの忙しい時間帯を乗り越えたあと──夕暮れどき。
ふっと客足が落ち着いた頃に、扉のベルが軽やかに鳴った。
ドアの向こうに立っていたのは、久しぶりの姿だった。
「……ヴィクトル公爵閣下」
思わず、口から出てしまった。
彼は変わらず寡黙な表情で、しかし視線はやや和らいでいるように見えた。
無言のままいつもの窓際の席に歩き、椅子を引く音を立てて腰を下ろす。
その様子があまりにいつも通りで、私は口をつぐむことができなかった。
「……お久しぶりですね」
言ってしまった瞬間、後悔の波が押し寄せてくる。
どうしてそんな余計なことを言ったのだろう。
まるで、面倒くさい女のようじゃない。
あるいは、店主としての立場すら、忘れてしまったような。
けれどヴィクトル公爵は、少しだけ目を見開いたあと、ふっと微かに笑ってこう言った。
「公務の方が、少し立て込んでいたんだ」
その声は、他の客には届かない程度の、静かな音量だった。
公務……つまり、それは軍の仕事ということだ。
胸が、一瞬だけきゅっと締めつけられる。
戦争が近いのだろうか。
そんな思いがよぎって、私は不安な顔をしてしまったのだろう。
するとヴィクトル公爵は、すぐに察したように言葉を重ねる。
「交渉事や事務処理ばかりで、大それた話じゃない。お前が心配するようなものではないよ」
その言葉に、思わず肩の力が抜ける。
安堵をごまかすように、私は小さく咳払いをしてから、オーダーを伺った。
「ご注文は……?」
「疲れを癒すような、落ち着いた紅茶がいいな」
珍しく、銘柄の指定はなかった。
その分、私はその言葉に含まれた信頼を感じて、胸が少し誇らしくなる。
「かしこまりました。お任せくださいませ」
選んだのは、エグランティーヌをベースに、ラベンダーとカモミールをほんのりブレンドした一杯。
ほどよい甘みと草のような香りが、疲れた体と心をそっと包み込むはず。
ティーポットとカップを乗せたトレイを手に、席へと向かいながら、私はその紅茶のことを説明した。
「エグランティーヌ、おかげさまでウチの定番人気メニューです。最近は、ティーサロンの方でも取り扱いが始まったと聞きました」
「アルから聞いているよ」
ヴィクトル公爵は静かに答えた。
アルくんの名が出たことに、少しだけ安心する。
でも、そのとき。
私が“ティーサロン”という言葉を口にした瞬間、ヴィクトル公爵の目が一瞬だけ細められたのを見逃さなかった。
私の声に、どこか不安が混じっていたことを、彼はきっと察したのだろう。
そして──いつも通りの、頼もしい口調で言った。
「しかしながら、ティーサロンのエグランティーヌ提供は、そう長くは続かないだろう」
その言葉は、まるで霧の中に差す光のようだった。
けれど同時に、どこか不穏な予感もはらんでいる。
その続きは、まだ語られていない。
だからこそ、私は息をひそめて、彼の言葉の続きを、静かに待った。




