伯爵令嬢、ライバルと対峙する
立て看板をしまい終えた頃には、通りはすっかり静まり返っていた。
グリーンフォードの街路を彩るランタンがぽつぽつ灯り、昼の賑わいが嘘みたいに消えている。
夕暮れの余韻をほんの少しだけ残した空が、やがて夜の帳へと溶けていこうとしていた。
扉に鍵をかけようとしたその時、ふと、背後に足音がひとつ。
柔らかなヒールの音。
気配に振り返れば、月明かりに紅い影が浮かび上がっていた。
——レオノーラ。
どこか張り詰めた面持ちで、こちらをじっと見つめていた。
「あ……レオノーラ。おひさしぶりね。お疲れさま、そちらも閉店後かしら?」
「ええ、まあ。一応はね」
彼女は、まるで皮膚一枚で感情を隠してるみたいな笑顔を見せた。
強がってるのか、気取ってるのか、それとも何も感じてないのか……。
読めそうで読めない、けれど、どこか放っておけない人だった。
「今日もたくさんのお客様がいらしてくれて、本当にありがたいわ。ティーサロンもエグランティーヌを出すようになって、評判になってると聞いたけど?」
「そうね。まあ……あなたのところほど“活気”には恵まれていないけれど」
なんて言い方。
軽口のように聞こえるけど、妙に棘がある。
でも、それ以上にどこか自嘲が混ざっているようにも思えた。
私は深く考えず、心からの思いを伝えた。
「でも、嬉しいわ。エグランティーヌって、もともと地元の人しか知らなかった茶葉なのに……貴族のお客様にまで届くようになるなんて」
ティーサロンでエグランティーヌを扱うことに驚きはあったものの、ティーツリーではまだ届かない客層に知られることは嬉しくもあった。
「ティーサロンで扱われるなんて、夢みたい。グリーンフォードのこと、たくさんの人に知ってもらえるきっかけになるわよね」
そう言った私を見て、レオノーラはほんの一瞬だけまばたきをした。
驚いたような、言葉を探すような……その一瞬の間に、何かがあった気がする。
「……ええ。そう、ね……そういう見方もあるのね」
でも、彼女の返事はどこかぎこちなかった。
口元に浮かべた微笑も、どうにも硬い。
「でもわたしは……エグランティーヌを選んだのは、あくまでティーツリーに対抗するための“手段”として、よ。香りも風味も、特徴が強いから。あなたのカフェと戦うには、強く印象に残るものが必要だった。それだけの話」
なんだか、急に口調が速くなったような気がした。
その言葉の選び方も、どこか……自分自身を説得するみたいに聞こえる。
「戦いのために……?」
思わず私は訊き返していた。
彼女は少しだけ間を置いて、視線を逸らした。
「ええ。そうでなければ、ティーツリーに並べない。バイン商会は、結果を求めるもの」
結果。
数字。
競争。
レオノーラの言葉は、冷たい氷みたいに透き通っていたけど、どこかでひび割れていた。
「わたしが……この町でティーサロンを任されたのも、“没落した貴族の娘”という肩書きを看板にするため。飾りとして、ね。だから……ええ、きっとわたしは、“それっぽいもの”を集めてるの。地元の茶葉も、サロンの雰囲気も……わたし自身も含めて、ぜんぶ」
言葉が、そこで止まった。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
だけど、その沈黙がなにより雄弁だった。
自分で自分を“飾り”だって言うなんて。
本気でそう思ってるの?
……それとも、誰かにそう思い込まされてきたの?
私は返す言葉を探していると、彼女は小さく鼻で笑った。
「たとえば、ね。あのふたり——可愛らしいお手伝いさんたち。…メアリちゃんとノアくん、だったかしら」
レオノーラはティーツリーへと指をさす。
窓から片付け作業に勤しむ姉弟の様子が窺える。
今日も遅くなったから部屋に戻って先に寝てていいと言ったのだけど、二人は手伝うのだと頑なだった。
「随分と手慣れてきた様子ね。まるで……“働き慣れている”ようにすら見える」
彼女の視線には、妙な静けさがあった。
「小さな子どもに、あれほどの仕事をさせるなんて……感心するわ」
え?
思わず、私のまばたきが止まる。
「もちろん、きちんと報酬は払っているんでしょうけど。ああいう子たち、境遇につけ込まれやすいから……お店での居場所があるって言われたら、何でも我慢してしまうでしょう?」
言い回しは穏やかなのに、その奥にある何かが、喉元をひやりと撫でていった。
「……そう、なのね」
私はゆっくりと視線を落とし、ひと呼吸おいて口を開いた。
「私、あの子たちにとって“店が居場所になればいい”って、ただそれだけで動いていたわ。でも、そうか……誰かにはそう思って見えているのかもね」
レオノーラは返事をしなかった。
ただじっと、何かを測るように私を見つめていた。
「でも、私はあの子たちに何かを押しつけてはいないわ。メアリもノアも、自分で選んで、ここにいてくれてる。お茶を運んで、笑ってくれて……その笑顔が、どれだけ支えになったか」
「……“笑顔”ね。そう、それが何より大事でしょうよ。でも……その“笑顔”が、必ずしも真実とは限らない」
レオノーラは独り言のようにそう呟いた。
「あの子たちは……ここを好きでいてくれてる。だから、自分たちで居場所を育てているのよ」
私が静かにそう言うと、レオノーラの目元がほんの一瞬だけ揺れた。
「……甘いのね、あなた。まっすぐで、優しくて、誰もがあなたを信じたくなるような顔をしている。でも——」
彼女の瞳に、一瞬だけ痛みのようなものが走った。
「その優しさが、時に誰かを追い詰めることがある。……そういうことも、あるのよ」
それは、警告にも似ていたけれど、まるで自分自身に言い聞かせているような声音だった。
私は彼女の言葉に、ただ静かに頷いた。
「私には、わからないこともある。でも……少しずつでも、目の前の人たちに、ちゃんと向き合っていきたい。それが“勝ち”じゃなくても。心の通ったものなら、きっと残っていくと、信じたいから」
レオノーラはゆっくりと顔をそらし、肩をすくめた。
「やっぱり、あなたにはわからないのね。でも——その“優しさ”にすがってしまう人のこと、いつか……ちゃんと見てあげなさい」
ヒールの音が、夜の道に吸い込まれていく。
振り返らずに歩き出すその背に、私は何も言えなかった。
ただ、かすかに漂ったのは、エグランティーヌの香りだった。
私の店よりも少し濃く、けれどほんの少しだけ、寂しさの混じった香りだった。




