伯爵令嬢、夜道で遭遇する
パン屋の扉を開けた瞬間、香ばしい焼きたての香りが鼻先をくすぐった。
お腹が鳴るほど心地よい香り──だけど、今の私たちの目的はただの晩ごはんじゃない。
新作試食会という名の、ささやかな集いだった。
「今日は来てくれて助かるよ。新たな“冒険”の時間に付き合ってくれ」
バレットさんが焼き立てのパンを大皿に盛ってテーブルへ運んできた瞬間、ふわりと香ばしい匂いが広がった。
思わずマリアが、これ絶対美味しい、と目を輝かせて声を上げる。
彼女の隣ではノアが鼻をくすぐる匂いに小さくくしゃみをして、メアリがくすくす笑っていた。
「これはな、新しく入ってきたハーブを練りこんだんだ」
「私も最初は変な匂いかと思ったけど、意外とクセになるのよ」
バレットさんが胸を張って言うと、続けてミリアムさんが微笑んだ。
私たちはひと口ずつ、新作パンを味見していった。
もちもちとした生地の中から、ほのかな苦味と爽やかな香りが広がって、思わず私は口元をほころばせてしまった。
「これ、朝に食べたら目が覚めそう。ほら、あの苦いお茶と一緒に……あ、なんだっけ、えっと……」
メアリが頬を膨らませると、マリアがすかさず、マテ茶ね、と教える。
子どもたち向けの菓子パンは、動物の形をしていた。
くまやうさぎの顔を模したパンに、ノアは目を丸くし、メアリは、かわいい~! と声を弾ませて手を伸ばす。
お行儀よくね、と私が言うと、はいっ! とふたりがそろって返事した。
「何年も愛される同じ味を日々保つってのは、正直言って難しい。でも、それが職人の意地でもあるんだ」
やりがいとも言えるな、バレットさんは続ける。
「でも最近は、こうして新しい食材が入ってくるだろ? 今まで思いつかなかった組み合わせも試せる。楽しいんだよな、新しいことに挑戦するのは」
彼はそう言って、私の方をちらりと見た。
「特にお嬢みたいに、挑戦を続けてる人を見ると、俺もやらなきゃって思うんだよな」
「えっ、私……ですか?」
不意にそんなふうに言われて、少し戸惑ってしまった。
けれど、目の奥でまっすぐに笑う彼を見ていると、なんだか胸の中があたたかくなった。
笑って、食べて、時に口の中をやけどして──気がつけば外はとっぷりと夜だった。
「送っていくわ、マリア」
パン屋から少し離れた場所に住んでいる彼女を、一人で帰らせるのは心配だった。
「んー? 大丈夫よ、グリンフォードの治安は上々。それにアシュフォード家のメイドはね、有事の際に備えて武道を嗜んでるの」
「えっ、ほんとに!?」
「……なんて、冗談よ」
そう言って、彼女は肩をすくめて笑った。
私はメアリとノアの手を握り、夜道をティーツリーの方角へと歩き出した。
街の夜は静かで、灯りがぽつりぽつりと揺れている。
──けれど、その静けさを破るように、妙に鼻につく声がした。
「おや、これはまた……意外な顔ぶれだな」
低く湿ったような声に、私は反射的に子どもたちの手を引き、ふたりを背後に隠した。
街灯の陰から現れた男――レオポルド・ド・グレイ。
わざとらしく高そうなマントをひるがえしながら、細い目にいやらしい笑みを浮かべていた。
「まさか家出令嬢が、こんなところで子供二人を引き連れているなんてね。まるで、どこかの……ふふ、何とは言わないが」
その笑い声が耳障りだった。
静かな夜道で、その音だけが濁った水音のように響いた。
「何のご用ですか。私に用があるのなら、子どもたちの前では控えてください」
できるだけ冷静にそう言ったつもりだったけれど、声が少し震えていたかもしれない。
「いやいや、誤解しないでくれ。ちょっと気になっただけだよ? 世間話さ。たとえば……このふたりの親は誰なんだろう、とかね。まさか、君が……?」
足音が近づく。
私は自然と一歩後ずさった。
ノアの手が少し強く握り返される。
そのときだった。
「それ以上、彼女に近づかない方がいい」
低く、けれどはっきりとした男の声が夜を裂いた。
振り返ると、そこには旅人の装いをした男性――ウィルが立っていた。
長めの外套の裾を風になびかせ、レオポルドを真っ直ぐ見据えている。
「こんな夜道で、女性に強引に言い寄るとは……まったく、貴族の品位とはいかなるものだったか、教えて差し上げようか?」
レオポルドの顔がひきつった。
けれど、すぐに憤りの色に染まり──
「何様のつもりだ貴様は!」
怒鳴り声を上げる。
それでも、ウィルは一歩も引かず、冷たい瞳で言った。
「名乗るほどの者ではない。ただの旅人だ。……だが、礼儀というものを弁えぬ方には、それ相応の態度を取らせてもらう」
そのやり取りに気づいたのか、近くの民家の灯りがともり、扉が開く音がした。
人々の気配が広がっていく。
レオポルドは舌打ちし、小声で、覚えてろよ、と捨て台詞を残して、夜の路地へと消えていった。
──私は、まだ胸の奥がざわざわと波立っていた。
けれど、ノアの小さな手が私の指をきゅっと握ってくれる。
「もう大丈夫よ」
私はそう言って、自分に言い聞かせた。
ティーツリーまでの帰り道、ウィルは終始穏やかだった。
子供たちのことを気遣い、軽く話を振ってくれて、空気を和らげてくれる。
「さっきの……どうして、あの場に?」
「アルの近況を聞いてた帰りさ。しばらくグリンフォードを離れ、別の街でエグランティーヌを広めていたらしい」
「アルは、商売の報告をいつも?」
「なに、一緒に商売をやろうってことではない。ただ……アルはひとりで頑張っているからな、話し相手くらいには、なろうと思ってね」
そう言う彼は、どこまでも優しくて……どこか儚い目をしていた。
「今夜は紅茶でも入れるわ。せめてお礼を──」
「遠慮するよ。夜中にお邪魔するのは気が引ける」
「でも……その、さっきのこともあるし」
彼は少しだけ笑って、でも目だけは真剣だった。
「安心しろ。あの放蕩貴族には、ちゃんと制裁を加える手は打っておく。お前たちに余計な波風が立たないようにな」
その時のウィルの顔には──あの、冷徹と噂される公爵の気配があった。
私は、少しだけ胸がざわつく。
「心配しなくていい。派手にはしない。……ただ、お前があの子たちをティーツリーに迎えた、その誠実な行為が、陰口を叩かれるようなものじゃないってだけだ」
言い終えて、彼は背を向けた。
それでも、私にはわかった。
彼はあの子たちを、私と同じように守りたいと思ってくれているんだ、と。




