伯爵令嬢、人手不足を実感する
エグランティーヌが評判になって以来、ティーツリーの賑わいは日を追うごとに増していた。
昼のピーク時などは、空いている席を探すのに一苦労という有様で、いつもより少し急ぎ足の接客が続いていた。
けれど、私の胸の中には、少しの不安が残っていた。
「最近、お客さま一人ひとりにかけられる時間が減っちゃってるわよね」
そう漏らしたのは、隣で紅茶を淹れていたマリアだった。
「このままじゃ、ティーサロンのレオノーラに接客で負けてしまいそう」
「彼女の接客は丁寧だって評判だもの。紅茶だけじゃなく、心地よさごと勝負しないと、ティーツリーの良さが薄れてしまう気がして」
うなずき合ったものの、現実は甘くない。
以前は人手不足を、オスカーさんとミリアムさんに助けてもらって補っていた。
でも――。
「最近、お二人のところも忙しそうね」
「ええ。エグランティーヌの注目が、グリンフォードにもじわじわと来てるんでしょう。元々、あのお店のパン目当てに来る観光客もいるくらいだし」
これ以上、バレット夫妻に頼るわけにはいかない。
私もマリアも、それは無言で理解していた。
「……求人、かけるべきかな」
「それならさ。前に店頭のメニュー看板の絵を描いてくれたセリーヌさんに、募集のイラスト頼んでみる?」
なるほど。
それはいいアイデアだ。
あの優しい線と色合いなら、ティーツリーの雰囲気にもぴったりだろう。
「うん、閉店後に話を詰めよう」
「とにかく、今は目の前の山場ね!」
マリアと一緒に気合いを入れ直した、そのときだった。
ふと視線の端に入った、小さな動き。
奥の席で、こそこそと立ち上がった二人の子ども。
あれ……?
「……あの子たち、注文は……してたはず。まだ、会計は……?」
冷や汗が背筋を伝う。
まさか、と思いながらも、確信めいた予感が胸を刺した。
小さな背中。
兄妹、いや姉弟だろう。
二人とも、ぶかぶかの大人用の服を身にまとっている。
袖は長く、ズボンの裾は引きずるほど。
破れも、継ぎもある。
それでも、それを直してきた痕跡もあって、胸が痛んだ。
「……!」
声を荒げるわけにはいかなかった。
他のお客様の目もある。
わたしは慌ててけれども静かに、入り口に向かって早足で歩いた。
けれど――
「あっ」
間に合わなかった。
ちょうど扉が開いたところへ、外から一人の男性が入ってくる。
姉弟とぶつかり、床に尻もちをつく音が響いた。
「……大丈夫か」
低く、けれど柔らかい声。
長身のその人物は、目を細めて状況をすぐに察したようだった。
ヴィクトル公爵。
彼はちらりと私の顔を見て、すぐに視線を、あの窓際の席へと向けた。
ああ――察してくれたんだ。
「立てるか?」
彼はそっと手を差し出し、姉弟を立たせる。
姉の方は怯えながらも頷き、弟の手を引いて席へ向かった。
私は無言で頷き返し、騒ぎを広げずに済んだことに胸を撫で下ろした。
しばらくして、注文が一段落ついた頃、ヴィクトル公爵が再び立ち上がった。
「この子たちの分は、私が払おう。……とはいえ、私が勝手に口出すのも問題だ。彼らが無銭飲食をしたことについては、お前の裁量に任せる」
公爵でありながら、グリンフォードの行政には関与しない立場。
彼のその距離感を、私はどこか誠実だと思った。
「ありがとうございます。でも、マリアと相談して、決めさせてください」
「いいだろう。……見張り役は、私がやろう。乗りかかった船だ」
彼が少しだけ肩をすくめて微笑んだのを、私は見逃さなかった。
閉店後、静けさを取り戻した店内で、マリア、ヴィクトル公爵、そして姉弟を前に、私はどう切り出すべきか迷っていた。
弟のほうは、ぶかぶかのシャツの袖をぎゅっと握りしめ、今にも泣きそうな顔でうつむいていた。
姉の服も、明らかに大人のもの。
ほつれた裾、引きずるようなコート。
どこかで捨てられた服を、苦労して着てきたのだろう。
「名前を教えてもらえる?」
しばしの沈黙の後、姉が小さな声で口を開いた。
「……メアリ。弟は、ノアです。わたしたち、王都の貧民街から、逃げてきました」
ポツリポツリと語られる過去。
貧民街での生活、亡き両親、荒れた治安。
旅馬車の荷台にこっそり潜り込んでここまで来たこと。
そして――
「……このお店の前を通ったとき、すごくいい匂いがして……。お腹が空いてて、どうしても我慢できなかったんです」
私は、ただ紅茶を淹れ、笑顔を向けていただけだった。
その裏で、こんなことが起きていたなんて。
「王都の貧民街……そんなにひどいの?」
私の問いに、マリアがふっと笑った。
「伯爵令嬢が足を踏み入れるような場所じゃないからね。知らなくて当然よ」
「王都では、警備や支援に優先順位がある。貧民街は意図的に後回しにされている。……あえて、ね」
ヴィクトル公爵の言葉は、静かだったけれど、その重みは確かだった。
「……ごめんなさい。でも、わたしたち、働いて返します。ねえ、ノア」
小さなノアが、ようやく顔を上げ、こくりと頷いた。
「わたし、お皿も洗えるし、掃除だってできる。だから……だから、ここにいさせてください!」
その言葉に、私はしばし何も言えなかった。
……私も、伯爵令嬢という立場を捨ててグリンフォードへ来た人間だ。
だからこそ、理不尽な環境から逃げ出す勇気の重みは、少しだけ、わかるつもりだった。
でも、だからといって、自分を彼女たちと同じだなんて軽々しく言うつもりはない。
私は逃げる場所も、支えてくれる人もいた。
けれどこの姉弟には、きっと何もなかったのだ。
その違いは、決して小さくない。
「……マリア」
小声で名前を呼ぶと、マリアはふっと私の方に目を向けた。
彼女の目は、もう答えを知っているように、やさしく細められている。
「エリーが、彼らを応援したいって言うって、思ってたわ。そう言ってくれると、信じてた」
「……うん。彼女たちに、ここでの居場所をあげたい。ティーツリーには、人を温める力があると信じてるから」
「そうね。だったら、歓迎してあげましょ。……ちょうど手も足りてないしね」
マリアが冗談めかして肩をすくめる。
私は思わず小さく笑って、深く頷いた。
改めて二人の方を向く。
緊張の面持ちで、こちらの言葉を待っている。
「もちろん、簡単に決められることじゃない。でも――その気持ちは、ちゃんと受け取ったわ」
私は、メアリとノアに向かって優しく微笑んだ。
「ようこそ、ティーツリーへ。……まずは、体を温めるところからね」




