伯爵令嬢、冷徹公爵に励まされる
扉の鈴がやさしく鳴る。
ちらりと顔を上げると、ふわりとした帽子を被った常連のお客さま──メリンダ夫人が入ってくるのが見えた。
「まあ、今日もいい香りねえ。外まで届いてたわよ」
「おはようございます、ミセス・メリンダ。いつものお席へ、どうぞ」
私は笑顔でそう言って、左側の席を指し示した。
けれどその手が止まる前に、彼女は目をきらきらさせて話し始める。
「聞いてちょうだい、エリーさん。この間ね、バイン商会のティーサロンで開かれた“月香の茶会”に行ってきたの。とっても優雅で、まるで宮廷舞踏会みたいだったわ」
月香の、茶会?
初耳だった。
なんてきらびやかな名前をつけたのかしら。
「また何か仕掛けてきたのね、あの人たち……」
私は小さく苦笑した。
これで何度目になるんだろう。
だけどその口ぶりからして、今度はけっこう力を入れてきたらしい。
「そこでね、西方の国からの珍しい茶葉が出されたのよ。名前は……ちょっと忘れちゃったけれど。これがまた不思議な香りでね。ティーツリーでも扱わないのかしら?」
うーん、多分それは──。
「……残念だけど、あれは仕入れ値がとても高いの。遠方の港経由で運ばれるし、量も安定しないし……うちみたいな小さな店じゃ、手を出すのは難しいかな」
「まぁ、そうなの? それは、残念」
私の率直な返しに、メリンダ夫人は少し眉をひそめるものの、すぐさま笑顔を見せる。
「でも、ここの紅茶の方が、私は好きよ」
そう言ってメリンダ夫人はいつもの席に座った。
注文は、エグランティーヌ。
すっかりお気に入りになってくれたようだ。
そのとき、また新たにお客さまが来店する扉の鈴の音。
私が顔を上げるより早く、マリアが笑顔で、いらっしゃいませ、公爵さま、と言っていた。
「……」
店に入ってきて無言で立ち尽くすヴィクトル公爵。
見慣れた無愛想さに私は可笑しくなる。
すっかり常連さんだ。
最近まで他のお客さんが、まさかあの方が? とそわそわしていたけれど、今では誰もが見慣れた様子で、避けることもなく、常連客として溶け込んでいる。
「公爵さま、いつもの席でよろしいですか?」
「ああ、頼む」
彼はすっかり馴染んだ窓際の席へ腰を下ろした。
背筋の通ったその姿は、何度見ても少し緊張してしまうけれど、彼の注文はいつも変わらない。
「エグランティーヌを」
「かしこまりました」
私は茶葉を用意しながらふと口を開く。
「そういえば、バイン商会で“月香の茶会”というイベントが開かれていたそうです。ミセス・メリンダが教えてくださって。西方の珍しいお茶が出たとか」
カップにお湯を注ぐ音の合間に、公爵は軽く頷いた。
「聞いている。……いや、正確には、試しに一杯だけ飲みに行った」
ティーツリーの為に偵察してくれたのだろうか?
それとも、紅茶好きとしての趣味の一環なのだろうか?
フェイに変装して行ったのか、ヴィクトル公爵のまま行ったのかも気になる。
「西方の茶葉──名前は《シェル・ダラン》。王族の宴にも出される銘柄だ。だが、保存状態が悪かった。長距離輸送ではよくあることだ。香りが飛んでいた。あれでは本来の味が出ない」
私は静かにうなずいた。
茶葉は繊細だ。
移動も温度も湿度も、そのすべてが品質を左右する。
「バイン商会の戦略は悪くない。話題になる素材に金をかけ、貴族筋の信用で一気に客を呼び込む。その経済的体力があるのは事実だ。イベントも繰り返して開催するらしい」
私の胸が、少しだけざわつく。
私たちはそこまで派手な真似はできない。
「……でも、そういったやり方では、エグランティーヌを上回ることはできまい」
「……え?」
「茶葉も、客の舌も、ごまかせないということだ。今、お前が扱っている地元の茶葉――エグランティーヌには、この街の空気が詰まっている。記憶が染みている。あれは、他所の誰にも真似できぬよ」
私は気づかぬうちに、両手でエプロンを握っていた。
「……公爵さま」
彼は視線を上げ、私の顔をまっすぐに見た。
「心配せずとも、お前はこの店を真摯に営んでいれば問題ない」
そのひとことは、あたたかい紅茶よりもずっと、胸に沁みた。
カウンターの向こう、笑い合うマリアと常連客たち。
変わらない、けれど確かに積み重なっている日々。
「……もちろんです」
私は答えた。
たぶん、ちょっと誇らしい声で。




