伯爵令嬢、マダムと交渉する
レンバー地区の中心に構える古びた洋館――サヴォワ商会の会館を目の前にして、私の指先は、かすかに震えていた。
これまで街のあちこちで話を聞いてきた商会。グリンフォードに根ざし、古くから多くの商人に影響を与えてきた存在。
その長にして、この街でもっとも実力のある女性といわれる人物に、これから面会する。
「……緊張してる?」
アルが小さく、笑うように囁いた。
私は頷くしかなかった。
ここに立っている“私”は、カフェの店主であるはずなのに、心のどこかで“アシュフォード家の娘”だった頃の自分が顔を出す。
格式や礼節にばかり囚われて、自分の言葉で話すことができなかった、あの頃の――。
アルくんが事前にアポイントメントを取っていたらしく、屋敷に着くなり私たちはすんなりと控えの間まで案内された。
ヴィクトル公爵──フェイの段取りなのだろう。
昨日の提案から今朝までで、迅速且つ強引なスケジュール組み立てだ。
ティーツリーでやったすぐ行く行かないのやり取りも、本当は有無を言わさず決行するつもりだったのかもしれない。
「お通しします」
控えの間で待つこと数分。
落ち着いた身なりの老執事が、静かに告げた。
私とアルくん、フェイは軽く頭を下げて立ち上がる。
扉の向こうには、商会の重みと歴史が詰まった空間が広がっていた。
応接間の家具ひとつひとつは、豪奢ではないけれど丁寧に手入れされ、色褪せることなく役目を果たしているように見えた。
淡く陽の差し込む窓辺に置かれた花瓶の花が揺れ、静けさの中に張り詰めた空気が漂っている。
やがて、奥の扉が開いた。
静かに歩み寄ってきたのは、堂々とした雰囲気をまとう一人の老婦人。
ドレスの色は控えめで、装飾も質素なのに、ひと目で“格が違う”とわかる。
きりりと整えられた白髪、深く落ち着いた黒曜石の瞳、そして自然に背筋の伸びたその姿――
この人が、マダム・ジュヌヴィエーヴ。
「――あなたが、ティーツリーの店主。エレノア・アシュフォード嬢、ね?」
まるで、私の中身まで見透かすような声音だった。
笑っているのに、油断できない。
言葉を一つ選ぶにも神経を使うような、そんな相手。
「はい。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」
私は丁寧に頭を下げた。
表情を保つので精一杯だった。
胸のあたりがきゅっと締め付けられるようで、手のひらの中で汗がじっとりと滲む。
ジュヌヴィエーヴさんは、私をじっと見つめたあと、椅子へと腰を下ろした。
その仕草も淀みがなく、習慣でしかないほど自然な所作だった。
私も対面の椅子に座る。
アルくんとフェイは、少し離れたところで控えてくれている。
「ティーツリー。ずいぶんと話題になっているようね。レンバーの商人たちは、どうにも騒がしいものだから」
声色は柔らかいけれど、そこにある“興味”と“疑い”の温度差に、わたしの背筋はひやりと冷えた。
「評判は、ありがたいことです。ですがまだまだ、始めたばかりで……」
「ええ、もちろん承知のうえよ。でも――」
彼女は視線を落とし、組んだ指先に目を落とす。
「貴女がこの街に来てから、カフェを始めたのは、偶然じゃないのでしょう?」
不意に、私の胸が跳ねた。
どうしてそこまで見透かされてしまうんだろう、と。
けれど、そうか。
商会長としてこの街を見続けてきた彼女にとって、“街の変化”は誰よりも鋭敏に映るのだ。
「グリンフォードは、かつて“お茶の街”だったのよ。地元の茶葉を使ったカフェがいくつもあった。素朴で、あたたかくて……だけど、ある日を境に、ぱったりと消えてしまったの」
彼女の声には、少しだけ寂しさが滲んでいた。
「王都──セントノアから安い茶葉が流れ込んでね。地元の味は時代遅れとされ、店も、文化も衰えていった。……だからこそ、貴女がいきなり、カフェを開いたと聞いたときは、懐かしさと同時に――疑念を抱いたのよ」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
「しかも、元・貴族の出でしょう? 私たち庶民の市場に、上から降りてきた者が踏み込んでくるとき――期待よりもまず、“警戒”が先に立つのは当然のことですわ」
その物言いは、決して敵意ではない。けれど、容赦もない。
「――貴女のカフェが、私たちにとって“価値ある存在”となりうるか。商会として、判断するには材料が足りませんの」
「材料……ですか?」
「ええ。貴女の店がグリンフォードに、そしてサヴォワ商会に、どんな利益をもたらすのか。そこをお聞かせ願えるかしら?」
静かな口調なのに、ぴしりと音を立てて、空気が張り詰めた気がした。
……でも、私は、すぐに言葉が出せなかった。
“利益”という言葉に、私の思考はふっと止まってしまったのだ。
ティーツリーのことをずっと考えてきた。
お客さんのこと、紅茶のこと、居心地のいい時間のこと……でも、それが“商会の利益”になるかと問われれば、私はまだ、うまく答えられない。
「……私……その……」
喉がかすれて、声にならなかった。
さっきまでのジュヌヴィエーヴさんの言葉が、鋭く心の奥に刺さってくる。
何を言っても見透かされそうで、下手なことを言えば即座に切り捨てられそうで。
私は、ただ、黙っていた。




