伯爵令嬢、商会との交渉へ向かう
「でも……サヴォワ商会って、私のことをどう思ってるのかしら。元貴族ってだけで、警戒されるのでは?」
口に出してから、今さらだと思った。
私はもう“伯爵令嬢”ではない。
けれど、だからといって、庶民の信頼が簡単に得られるわけでもない。
アルくんはきゅっと口を引き結んで、小さくうなずいた。
「……正直に言うと、商会長さんたちはちょっと警戒してます。バイン商会とのこともありますが、そもそも昔、貴族と揉めたことがあるらしくて。でも、恩人であるフェイさんの紹介なら――って、僕はこのお店のこと、エリーさんのことを信じてます。だから、ちゃんと会ってもらえるようお願いしてきました」
「それは……ありがとう。それなら、ちゃんと私が話さなきゃ、駄目ね」
そう言う私に、”フェイ”は、その通りだ、と満足げに頷いた。
「アルは仲介役として立ち会う。私も同行しよう。ただ、交渉そのものはお前が主役だ」
「ふむ、やっぱりそうなりますか……」
私は壁に掛けられた時計を見上げた。
開店時間は過ぎていた。
以前なら、これから朝食にとお客さんが来店して忙しくなる時間だ。
その私の視線に気づいたのか、“フェイ”は悪びれもせず言った。
「では、今すぐ行こう。話は早いに越したことはない」
「えぇ……? 今?」
あまりに即決すぎて、思わず声が裏返ってしまった。
”フェイ”は平然としているが、こちらは店を切り盛りしている身だ。
「ちょっと、それは――」
「大丈夫よ、エリー」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、マリアだった。
いつものように前掛けを軽く整えながら、頼もしげな表情をこちらに向ける。
「悲しいことだけど、客足は以前より遠のいてるの。一日くらい、あたしひとりでどうにかなるわ」
「でも、万が一忙しくなったら……」
「その時は、“この街の人たち”が手伝ってくれるじゃない。ね?」
マリアの目は、どこか誇らしげだった。
ティーツリーがグリンフォードの街に根を下ろしはじめている証だろう。
私はしばし黙り込んで、それから小さく頷いた。
「……わかったわ。行きましょう、サヴォワ商会へ」
店を出ると、朝の陽が登り始めた通りに、淡い風が吹いていた。
グリンフォードの旧市街地。
レンバー地区と呼ばれる石畳の小道は、かつて交易の拠点だった場所で、今も地元の老舗商店が並んでいる。
バイン商会の華やかさとは対照的に、落ち着いた雰囲気と誠実な職人たちの気配が残っていた。
三人並んで歩くその途中、私はふと、アルくんに視線をやる。
「えっと、ヴィク――じゃなかった、“フェイ”。ちょっと聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「アルくんって、本当に商人なんですよね? 年齢にそぐわないっていうか……ちょっと信じられなくて」
その言葉に、アルは横で、えへへ、と照れたように笑っていたが、ヴィクトル公爵は歩調を緩めながら答えた。
「最初は私も、ただの子どもだと思っていたよ。でも、彼は違った。ある街で、バイン商会の下請けに無理な契約を飲まされそうになっていてね。それを、巧妙な言葉と交渉術で切り抜けた。しかも、自分ではなく、他の商人たちを守るために」
「……それ、本当?」
「事実だ。あれには驚かされた。契約書の裏に潜んでいた“曖昧な価格条項”を指摘して、逆に相手に法外な賠償請求を突きつける隙を作ってみせた」
「そんなことが……」
私は、アルを見る目を少し変えた。
彼は恥ずかしそうに笑いながら、両手を振って否定する。
「ち、違うんです、僕はただ、父さんが昔言ってたことを思い出してやっただけで……。小さい頃、商人だった父さんに、契約の話とかよく聞かされてたんです。難しくて当時はちんぷんかんぷんだったけど……」
ふいに、彼の目がどこか遠くを見るようになった。
「……でも、今は思うんです。あの話は、僕が一人になっても生きていけるように、って教えてくれてたのかなって」
その一言に、私は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
どんな子ども時代を過ごしたのか、どれだけ早く“大人になる”ことを強いられたのか――
「彼は本物だよ」
ヴィクトルの静かな声が、石畳に吸い込まれるように響いた。
「私もそうだが、人は時に仮面をかぶる。でもアルの仮面は、年齢に縛られずに生き抜くための“希望”なんだ」
「……あなたの仮面は?」
「私の仮面? ――まあ、ただの趣味と逃避だね」
とぼけたように笑う“フェイ”に、私は思わず吹き出してしまった。
「視察、って言ってませんでした?」
「それはまぁ、建前だよ」
アルくんに聞こえないよう小声で問う私に、公爵として来店した時には見せなかった笑みを浮かべる”フェイ”。
趣味と逃避。
視察と称して各地の紅茶を飲み歩いていたりするのだろうか?
彼にとって、仮面とはどちらのことを言うのだろうか?
私にとって、仮面とはどちらのことを言うのだろうか?
そんな疑問が頭の中をぐるぐると駆け回ってるうちに、私たちは目的の場所――サヴォワ商会の屋敷へと足を踏み入れていた。




