伯爵令嬢、少年を紹介される
朝の陽射しがティーツリーの木洩れ陽みたいに、ゆっくりと店内を照らし始めた頃。
開店準備を終え、あとは客足を待つだけとなった私の耳に、扉の鈴が鳴る音が届いた。
「いらっしゃいませ」
いつも通りの笑顔で振り向いた私は、次の瞬間に思わず言葉を詰まらせてしまった。
見慣れぬ男性が一人、カウンター席の近くに佇んでいる。
ごわついた焦げ茶の旅装束に、無造作に跳ねた髪。
まるで旅の行商人か吟遊詩人のような……けれど。
……えっ、うそ、なんで。
私は一歩踏み出して、その顔をもう一度見た。
そこにいたのは、どう見ても――ヴィクトル・フォン・シュトラウス公爵閣下、その人だった。
「……ヴィクトル、様……?」
声を潜めて問いかけると、男はわずかに口元を緩めて、視線を落とし、静かに囁いた。
「……”フェイ”だ。今はな」
「フェイ?」
「偽名とは、バレないようにつけるものだ。覚えておくといい」
口調も仕草も、いつものヴィクトル公爵とはまるで違っていて――なんだか、ほんの少しだけ、子供っぽいような、そんな雰囲気すら感じられた。
「な、なんですか、その格好……その……その髪、どうしたんですか?」
「視察用の変装だ。必要があってな、慣れている」
さらっと言ってくれたけれど、ボサボサ頭に埃っぽいマントの組み合わせが、逆に目立つ気がするのは私だけかしら。
しかもどうやら本当に、それでこの街を歩いて来たらしい。
だったら、いつもその格好で来店すればよかったのに……。
あれこれと文句を並べたくなるのを抑えて、私はひとまず席に案内しようとする。
しかしそれを遮るように、ヴィクトルはふと手を上げた。
「今日は、お前に紹介したい人物がいる。ちょっと、こちらへ」
ヴィクトル公爵が扉の外に目配せすると、小柄な影がすっと店内へ入ってきた。
現れたのは、年端もいかない少年だった。
ぼろぼろではないが、何度も洗われて色褪せたシャツに、小さな布袋を肩から下げている。
年は十歳ほどだろうか。
少年は立ち止まると、まっすぐに私を見上げて、ぺこりと丁寧に頭を下げた。
「はじめまして。僕はアルっていいます。旅の商人です。今日はお店を見せてもらいに来ました」
「旅の……商人?」
私は思わず聞き返してしまった。
彼は自分の身の上を恥ずかしそうに語った。
「戦争の時に家族を亡くして、それからはひとりで街を転々としてます。商品は、よその街の雑貨とか……あと、地方の茶葉とかを扱ってます」
年齢にはまるで見合わない言葉遣いと、背負った重さに一瞬だけ胸が詰まる。
「彼とは、ある街で出会った。強盗に絡まれているところを偶然見かけてね」
ヴィクトル公爵がそう付け加えると、アルくんはにこっと笑った。
「フェイさん、あの時は本当にありがとうございました! あのままだったら、僕の茶葉も道具も全部盗まれてました」
……なるほど。
アルくんはまだ、彼が“フェイ”ではなく“公爵閣下”だと気づいていないのか。
それを察した私は、少しだけ安心しながら話を戻した。
「それで、どうしてこの子を連れてきたんですか?」
「紹介したいのは、アル個人としてではない。彼が繋がっている、この街の老舗商会“サヴォワ商会”だよ」
その名前に、私は小さく眉を上げた。
「……ああ、開業申請のときに関わりました。でも、それっきりですね。今はバイン商会に押されて、商売の中心にはなっていないんじゃ……?」
「その通りだ。サヴォワは庶民出身で構成された、昔ながらの地元商会だ。長らくバインに圧されて後退していたが、今でも街の人々からの信頼は厚い。私が表に出るより、彼らとの協力のほうが、ティーツリーにとっては自然だろう?」
私はハッと息を呑んだ。
「まさか……サヴォワ商会と、手を組めと?」
「正確には、アルを通して橋を渡すだけだ。君が望むなら、話を聞くくらいはできるはずだ。しかも――」
そこでアルが一歩前に出た。
「サヴォワが今、地元産の茶葉の在庫で困ってるんです。質も良いし、香りも個性的。でもバイン商会が流通を独占してるから、他に売る先が無くて……。そこで、ティーツリーさんがその茶葉を使ってくれたらって」
「地元の茶葉……」
「ティーツリーで新しいブレンドとして出せば、きっと人気が出ます! 僕が責任をもって、茶葉の品質も価格交渉もやりますから!」
年端もいかない少年が、まっすぐにこちらへ差し出す小さな手。
その手のひらの中にあるのは、きっと茶葉だけじゃない。
彼の商人としての誇り、信念、そして――生き抜く強さ。
私はその手を見つめ、ふと笑った。
「……君がそんなに言うなら、一度話を聞いてみようかしら」
ヴィクトル公爵――いや、”フェイ”は小さくうなずいた。
「いい判断だ。必要なのは派手な支援じゃない。地元に根を張ること。庶民に寄り添うこと。そして、君自身が選んだ“この店”を、君が主役として守ることだ」
私はその言葉を胸に刻んだ。
うん。
そうだ。
私はもう、貴族じゃない。
ここで生きて、ここで働いて、ここで繋がっていくんだ。




