伯爵令嬢、後ろ盾が現れる
誰もいない店内に、時計の音が静かに響いている。
客足は……今日も戻らなかった。
「……静かだね」
マリアがそう呟いたのは、午後の陽が傾き始めた頃だった。
いつもならこの時間、二番茶を楽しみに来る常連の奥様方でざわついているはずなのに。
「まるで開店前みたい」
私は黙ってカップを拭いていた。
磨いたところで、誰の手にも渡らないまま閉店時間を迎える。
意味のない作業だって分かってる。
だけど、手を止めてしまったら、不安が押し寄せてきてしまいそうで。
「ねえ、本当にこのままカフェ閉めちゃうの?」
「……閉めたくなんて、ないよ」
正直な気持ちだった。
だけど、このままじゃ仕入れも支払いもできなくなるのは目に見えていた。
「ラングフォードの名前が出たのがまずかったのよ」
マリアの言葉に、胸がズキリと痛んだ。
あの日、レオポルドさんがティーツリーにやって来て、あのふざけた態度でラングフォード侯爵の名前を出していった。
誰かがその話を持ち帰り、面白おかしく噂にしたのだろう。
「アシュフォードの令嬢が逃げたのは、あのラングフォードからだったって?」
「侯爵家の婚約破棄だなんて……」
「ラングフォード様を差し置いて庶民の店だなんて、身の程知らずもいいところよ」
そんな声が、私の耳に届くようになったのは、ほんの数日前からだった。
やがて、それは足を遠のかせる理由になった。
誰もが、うちの紅茶の味よりも、そこにある“話題”の方を恐れていた。
そんな空気が張り詰めていたティーツリーに、控えめなノックの音が響いた。
「……?」
営業時間中にわざわざノックして来るお客さんなんていない。
訝しみながら扉を開けると、そこに立っていたのは――
「公爵様……」
「少し、話がある」
ヴィクトル・フォン・シュトラウス。
その名を知らぬ者はいない、冷徹公爵。
いつも通り整った姿で、けれど今日はどこか表情が違っていた。
「中に、どうぞ」
彼は無言でうなずき、いつもとは違い真ん中の席にゆっくりと着いた。
無言のままヴィクトル公爵は、私に向かいの席に座るよう手で促す。
私は驚きつつもその指示に従い、席へと座った。
「……聞いたよ。あの放蕩貴族が、ここで余計なことを言ったそうだな」
「……レオポルド、さんのことですか」
嫌でも頷くしかなかった。
あの男の軽薄な笑みが思い出されて、思わず眉をひそめる。
「ラングフォードの名が広がったのは、彼の口からだ。そしてお前が“逃げた令嬢”だと確定的に扱われるようになったのも、な」
「……」
ヴィクトル公爵は、わたしの顔をじっと見つめたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「バイン商会の動きも、あからさまになってきている。背後にはラングフォードがいる。……アシュフォード家も、彼に圧をかけられていると聞いた」
「うちの家が……?」
「アシュフォードは、お前を連れ戻したいのだろう。だがそれとは別に、ラングフォードに婚約破棄という失態の代償として、何らかの協力を強いられている。だが、積極的に動いているわけではない。むしろ、できる限り距離を取りたがっているように見えるな」
少し、安心したような、でも胸の奥が締めつけられるような感覚だった。
決められた人生が嫌だったとはいえ、勝手に飛び出した私のせいで家に迷惑がかかっている。
わかりきっていた話だけれど、実際に直面すると申し訳なさが込み上げてくる。
それに、家を出た私が、家の重みによって追い詰められている――皮肉な話でもあった。
「……怖い、です。とても。でも」
私は、まっすぐヴィクトル公爵を見る。
「それでも、ここを続けたいんです。ティーツリーは、私の“今”なんです。逃げた場所なんかじゃなくて――自分で選んだ場所なんです」
ヴィクトル公爵は、何も言わずにしばらく黙っていた。
けれど、やがてその口元がゆっくりと持ち上がる。
「ならば――」
静かな声だったけれど、その響きは深く、力強かった。
「私が、ここを守ろう」
時が止まったように感じた。
私も、マリアも、言葉が出なかった。
「どういう、意味ですか……?」
ようやく絞り出した問いに、ヴィクトル公爵は淡々と応える。
「このままラングフォード侯爵に好き勝手させておくわけにはいかない。お前がただの平民ならともかく、“令嬢”として狙われているのなら、対抗するにはそれなりの後ろ盾が要る」
「……公爵様が、それを?」
「ああ。私がその“盾”になる。……もちろん、正式な形はまだだ。だが」
そこで彼はわたしの目を見据えて言った。
「お前の決意がある限り、私は退かない。お前が、ここで踏みとどまろうとする限り――私が支えよう」
私の胸の奥に、ぽつんと火が灯るような気がした。
「……それって、公爵様のお気に入りの紅茶を守るため、とかじゃないんですか?」
そう冗談めかして言うと、ヴィクトル公爵はすっと笑って頷いた。
「それもある。……あのサロンの、高値であることをありがたがるだけの、輸入物の量産ティーバッグには我慢ならない」
私は――思わず笑ってしまった。
マリアも、苦笑しながらそばにやってきて「やっと笑ったじゃん」と肩をすくめた。
でも、本当に。
久しぶりに、心から笑えた気がした。




