伯爵令嬢、カフェ開業を決意する
屋敷を飛び出した夜のことを、私は一生忘れないだろう。
貴族として生きる未来を拒み、すべてを捨てて駆け出したあの瞬間。
冷たい夜風に吹かれながら、私は初めて『自由』というものを実感していた。
けれど、それも束の間のことだった。
貴族の娘として何不自由なく育った私にとって、外の世界は想像以上に厳しいものだったのだ。
───
「……宿代が、足りない?」
数日後、グリンフォードと呼ばれる街の安宿で私は困惑していた。
所持金は決して多くはなかったが、計算上、しばらくの生活費にはなるはずだった。
「申し訳ありませんが、お嬢さん。ここは前払いが基本でしてね」
宿の主人は申し訳なさそうに言いながらも、金貨を受け取らなければ部屋を貸すつもりはないようだった。
私は旅支度のために服や生活用品を買い揃えていたが、その出費を甘く見ていたらしい。
お金が底をつくのは、思ったよりも早かった。
「……少し、考えます」
私は財布の中の金貨を数えながら、宿を後にした。
このままでは、いずれ行き詰まる。
どこかで働かなくてはならない。
しかし──
「働くったって、私に何ができるの……?」
貴族としての教育は受けてきたが、それが役に立つ職業など限られている。
令嬢として学んだ礼儀作法や舞踏、詩の朗読が、庶民の世界で何の役に立つというのか。
「……料理も、まともに作ったことがないし……」
今さらながら、自分の無力さを痛感する。
貴族の生活では、食事はすべて使用人が用意するものだった。私が厨房に入ることはなく、せいぜい紅茶の淹れ方を知っている程度だ。
「紅茶……」
ふと、その言葉が頭の中で引っかかった。
紅茶なら、私にも扱える。
屋敷にいたころ、客人をもてなすための茶会を開くことは日常だった。
どの茶葉がどんな味を持ち、どういう淹れ方が適しているのかは心得ている。
そして──
「……そういえば、ここの街にはカフェがない?」
私は街を歩きながら気がついた。
この街は商人や職人が多く、昼間は賑わっている。
だが、簡単な食事を提供する店はあっても、気軽にくつろげるような店はない。
「もし、ここにカフェがあったら……?」
紅茶や菓子を提供し、ゆったりとした空間を作る。
貴族のような格式張ったサロンではなく、誰でも気軽に入れるような場所。
──それなら、私にもできるかもしれない。
私は立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
やるなら、今しかない。
私は カフェを開くことを決意した。
───
とはいえ、決意したところで、すぐに店が開けるわけではない。
まず必要なのは資金だ。
だが、貴族の娘だった私には、商人との交渉経験もなければ、働いたこともない。
「……まずは、仕事を探さなきゃ」
私は市場を歩きながら、求人を探した。
商人たちは忙しく働いており、大きな荷物を運ぶ者、商品の陳列を整える者、値段交渉をする者など、様々な仕事がある。
だが、どれも私には難しそうに思えた。
そんな中、ふと目に入ったのは、小さなパン屋だった。
「いらっしゃいませ! 焼きたてのパンはいかがですか?」
笑顔で接客する女性の横で、店主らしき男性が生地をこねていた。
おいしそうなパンの香りが漂い、店の前には客が並んでいる。
「……ここなら、学べるかもしれない」
私は意を決して、店に入った。
───
「働きたい……だって?」
パン屋の店主は驚いたように私を見た。
「ええ。報酬は少なくても構いません。働かせてもらえませんか?」
私は必死だった。
パン屋であれば、基本的な調理の知識も学べるし、接客の経験も積める。
将来、カフェを開くためには必要なスキルだ。
店主の男──オスカー・バレットさんは腕を組み、じっくりと私を観察した。
彼はがっしりとした体格の持ち主で、白いエプロンには小麦粉が付いている。
口元には立派な髭をたくわえ、その奥の目は職人気質らしい厳しさと、人の本質を見抜くような鋭さを秘めていた。
「……貴族の娘さん、か?」
私は一瞬、息を飲んだ。
やはり、服装や話し方でわかってしまうのだろうか。
「私は……ただの旅の者です」
そう答えると、オスカーさんは短く鼻を鳴らした。
「まあ、いいさ。手伝いが欲しかったところだ」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
「ただし、うちの店では仕事ができない奴にはパンのひとかけらもやらん。ちゃんと働けるな?」
オスカーさんの言葉には、決して甘さはない。
しかし、そこに貴族を見下すような偏見は感じられなかった。
私は深く頷く。
「もちろんです!」
「よし、それなら──」
「まぁまぁ、ちょっと待ってよ、オスカー」
奥からひょっこり顔を出したのは、ふくよかで優しげな女性だった。
彼女は栗色の髪を後ろでまとめ、丸い頬にやわらかな微笑みを浮かべている。
「そんな怖い顔してないで、まずはお嬢さんにパンでも食べさせてあげたらどう?」
彼女はそう言うと、カウンターの奥にある籠から、小さめのパンを取り出した。
「はい、焼きたてよ。まずはお腹を満たして、それからゆっくり話しましょ?」
彼女は、ミリアム・バレットさん。
オスカーさんの妻であり、店の接客を担当しているらしい。
「ありがとうございます。でも、私は働く前に食事をもらうわけには──」
「遠慮しないの。お腹が空いてちゃ、いい仕事はできないわよ?」
私はその言葉に押されるように、パンを手に取った。
ひと口かじると、ほんのりとした甘みとバターの香りが口の中に広がる。
それまでの緊張が解け、思わずため息をついた。
「……おいしい」
「ふふ、でしょ? うちのパンはね、ちょっとだけ蜂蜜を加えてるのよ」
ミリアムさんは楽しそうに言った。
「さて、オスカー。仕事の話をするのは、彼女がお腹を満たしてからでしょ?」
「ちっ……仕方ねぇな」
オスカーさんはぶっきらぼうに言いながらも、どこか諦めたような表情だった。
「ところで、お嬢さん、貴女お名前はなんて言うのかしら?」
「エ──エリー、です」
危うく本名を名乗ってしまいそうになったが、咄嗟に偽名を名乗ることにした。
家から飛び出してきたのだから、気をつけなくちゃ。
「そう、いい名前ね。これからよろしくね、エリー」
ミリアムさんは優しく微笑み、そう呼びかけてくれた。
私は、この店でならやっていけるかもしれない──そう思った。




