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伯爵令嬢のカフェ開業計画~冷徹公爵様、貴族らしからぬ店に入り浸る~  作者: 清泪(せいな)


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2/21

伯爵令嬢、カフェ開業を決意する


 屋敷を飛び出した夜のことを、私は一生忘れないだろう。

 貴族として生きる未来を拒み、すべてを捨てて駆け出したあの瞬間。

 冷たい夜風に吹かれながら、私は初めて『自由』というものを実感していた。


 けれど、それも束の間のことだった。


 貴族の娘として何不自由なく育った私にとって、外の世界は想像以上に厳しいものだったのだ。



───


「……宿代が、足りない?」


 数日後、グリンフォードと呼ばれる街の安宿で私は困惑していた。

 所持金は決して多くはなかったが、計算上、しばらくの生活費にはなるはずだった。


「申し訳ありませんが、お嬢さん。ここは前払いが基本でしてね」


 宿の主人は申し訳なさそうに言いながらも、金貨を受け取らなければ部屋を貸すつもりはないようだった。


 私は旅支度のために服や生活用品を買い揃えていたが、その出費を甘く見ていたらしい。

 お金が底をつくのは、思ったよりも早かった。


「……少し、考えます」


 私は財布の中の金貨を数えながら、宿を後にした。


 このままでは、いずれ行き詰まる。

 どこかで働かなくてはならない。


 しかし──


「働くったって、私に何ができるの……?」


 貴族としての教育は受けてきたが、それが役に立つ職業など限られている。

 令嬢として学んだ礼儀作法や舞踏、詩の朗読が、庶民の世界で何の役に立つというのか。


「……料理も、まともに作ったことがないし……」


 今さらながら、自分の無力さを痛感する。

 貴族の生活では、食事はすべて使用人が用意するものだった。私が厨房に入ることはなく、せいぜい紅茶の淹れ方を知っている程度だ。


「紅茶……」


 ふと、その言葉が頭の中で引っかかった。


 紅茶なら、私にも扱える。

 屋敷にいたころ、客人をもてなすための茶会を開くことは日常だった。

 どの茶葉がどんな味を持ち、どういう淹れ方が適しているのかは心得ている。


 そして──


「……そういえば、ここの街にはカフェがない?」


 私は街を歩きながら気がついた。


 この街は商人や職人が多く、昼間は賑わっている。

 だが、簡単な食事を提供する店はあっても、気軽にくつろげるような店はない。


「もし、ここにカフェがあったら……?」


 紅茶や菓子を提供し、ゆったりとした空間を作る。

 貴族のような格式張ったサロンではなく、誰でも気軽に入れるような場所。


 ──それなら、私にもできるかもしれない。


 私は立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。

 やるなら、今しかない。


 私は カフェを開くことを決意した。



───


 とはいえ、決意したところで、すぐに店が開けるわけではない。


 まず必要なのは資金だ。

 だが、貴族の娘だった私には、商人との交渉経験もなければ、働いたこともない。


「……まずは、仕事を探さなきゃ」


 私は市場を歩きながら、求人を探した。


 商人たちは忙しく働いており、大きな荷物を運ぶ者、商品の陳列を整える者、値段交渉をする者など、様々な仕事がある。

 だが、どれも私には難しそうに思えた。


 そんな中、ふと目に入ったのは、小さなパン屋だった。


「いらっしゃいませ! 焼きたてのパンはいかがですか?」


 笑顔で接客する女性の横で、店主らしき男性が生地をこねていた。

 おいしそうなパンの香りが漂い、店の前には客が並んでいる。


「……ここなら、学べるかもしれない」


 私は意を決して、店に入った。



───


「働きたい……だって?」


 パン屋の店主は驚いたように私を見た。


「ええ。報酬は少なくても構いません。働かせてもらえませんか?」


 私は必死だった。

 パン屋であれば、基本的な調理の知識も学べるし、接客の経験も積める。

 将来、カフェを開くためには必要なスキルだ。


 店主の男──オスカー・バレットさんは腕を組み、じっくりと私を観察した。

 彼はがっしりとした体格の持ち主で、白いエプロンには小麦粉が付いている。

 口元には立派な髭をたくわえ、その奥の目は職人気質らしい厳しさと、人の本質を見抜くような鋭さを秘めていた。


「……貴族の娘さん、か?」


 私は一瞬、息を飲んだ。


 やはり、服装や話し方でわかってしまうのだろうか。


「私は……ただの旅の者です」


 そう答えると、オスカーさんは短く鼻を鳴らした。


「まあ、いいさ。手伝いが欲しかったところだ」


 その言葉に、私は思わず顔を上げた。


「ただし、うちの店では仕事ができない奴にはパンのひとかけらもやらん。ちゃんと働けるな?」


 オスカーさんの言葉には、決して甘さはない。

 しかし、そこに貴族を見下すような偏見は感じられなかった。

 私は深く頷く。


「もちろんです!」


「よし、それなら──」


「まぁまぁ、ちょっと待ってよ、オスカー」


 奥からひょっこり顔を出したのは、ふくよかで優しげな女性だった。

 彼女は栗色の髪を後ろでまとめ、丸い頬にやわらかな微笑みを浮かべている。


「そんな怖い顔してないで、まずはお嬢さんにパンでも食べさせてあげたらどう?」


 彼女はそう言うと、カウンターの奥にある籠から、小さめのパンを取り出した。


「はい、焼きたてよ。まずはお腹を満たして、それからゆっくり話しましょ?」


 彼女は、ミリアム・バレットさん。

 オスカーさんの妻であり、店の接客を担当しているらしい。


「ありがとうございます。でも、私は働く前に食事をもらうわけには──」


「遠慮しないの。お腹が空いてちゃ、いい仕事はできないわよ?」


 私はその言葉に押されるように、パンを手に取った。

 ひと口かじると、ほんのりとした甘みとバターの香りが口の中に広がる。

 それまでの緊張が解け、思わずため息をついた。


「……おいしい」


「ふふ、でしょ? うちのパンはね、ちょっとだけ蜂蜜を加えてるのよ」


 ミリアムさんは楽しそうに言った。


「さて、オスカー。仕事の話をするのは、彼女がお腹を満たしてからでしょ?」


「ちっ……仕方ねぇな」


 オスカーさんはぶっきらぼうに言いながらも、どこか諦めたような表情だった。


「ところで、お嬢さん、貴女お名前はなんて言うのかしら?」


「エ──エリー、です」


 危うく本名を名乗ってしまいそうになったが、咄嗟に偽名を名乗ることにした。

 家から飛び出してきたのだから、気をつけなくちゃ。


「そう、いい名前ね。これからよろしくね、エリー」


 ミリアムさんは優しく微笑み、そう呼びかけてくれた。


 私は、この店でならやっていけるかもしれない──そう思った。

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