03.リンシー公爵邸
暗い夜道に、ガタゴトと馬車が揺れる音だけが響き渡っている。庭師は寡黙な男で、特に何かを話しかけて来るでもない。ガブリエラもまた、何かを話しかけるわけでもない。会話などは何もなく、二人ともただ静かに黙って馬車に揺られているだけだ。
ガブリエラは道中に寝られれば良いと考えていたのだけれど、道路のでこぼこがそのまま伝わってくるので、寝ようと思っても簡単に眠れるものではない。冷たい風が時折ピューッと吹き抜けるたびに、ガブリエラは外套を持って来てよかったと思う。これが無ければきっと風邪をひいていたことだろう。
「お嬢様、もうじき着きますぜ。」
東の空が明るくなり始めたころ、庭師の男はガブリエラにそう声をかけた。そこは町というわけではなく、周囲には畑が広がっている。こんな場所がリンシー公爵邸なのだろうか。
ガブリエラが訝しく思っていると、庭師の男は再び声をかけてきた。
「この丘を越えれば見えてきますぜ、ほら。」
庭師の男が指さす先に顔を向けると、濃い緑色の葉を茂らせた木々と、その中に浮かぶ館が目に入ってきた。あの建物がリンシー公爵の邸宅なのだろう。
「ありがとう、助かったわ。」
その屋敷の門に着いたところで、ガブリエラは荷馬車から降りて、庭師に声をかけた。庭師は軽く頭を下げただけで特に返事をすることもなく、馬車を回して来た道を戻っていく。
これで侯爵家とは完全にさようならだ。ガブリエラは心に打ち込まれていた釘が抜けるような錯覚を覚える。それは自由とはまた違う、だが何かから解放されたような気分だった。
「さすがにまだ時間が早すぎるわね。」
門番のいない屋敷の門の前で、ガブリエラは次にどうするかを考え込んでしまった。いくらこの家に嫁ぐとはいえ、勝手に門を開けて中に入ることはできない。まだ夜明けを迎えたばかりの早朝に、人を呼ぶのも常識外れ過ぎる。
道中一睡もしていなかったこともあって、あまりの眠気に考えもまとまらない。
「そうね、もう少しの間、ここで待たせて貰いましょう。」
ガブリエラは門の脇に腰を下ろし、屋敷の人たちが起き出してくるのを待つことにした。そして迂闊なことに、彼女はそのままぐっすりと眠り込んでしまったのだった。
気が付いた時、ガブリエラはふかふかのベッドの上に横たわっていた。
最初は自分がどこにいるのかわからず、内心では少し混乱したガブリエラだったが、部屋の造りや自分が寝ているベッドなどを見ると、どこかの裕福な家、おそらくリンシー公爵の屋敷に担ぎ込まれたのだということが理解できた。
まさか眠り込んでしまうとは、自分のことながら不用心に過ぎる。盗られて困るような物は何も持っていないとはいえ、誘拐されて犯されたり、殺されたりすることもあり得るのだ。
まあそうなったからと言って、ガブリエラには別に困ることは何もないのだけれど、知識の上で、それがいけない事なのはもちろん理解していた。
目が覚めたというのに、そのまま寝ているわけにもいかない。ガブリエラはすっとベッドから降りると軽く伸びをして、あらためて部屋を見回してみた。
ここはおそらく予備の客室か何かなのだろう。それほど広い部屋ではない。昨日まで過ごしていた屋根裏部屋と比べれば、高級感溢れると言えるけれど、公爵邸の中だと考えれば、それほど良い部屋でないことは確かだ。
窓には厚めの茶色いカーテンが引かれており、少し薄暗い感じがする。ガブリエラの眠りを妨げないようにと、配慮されたのかも知れない。家具は寝ていたベッド以外には、年代物ではないが、しっかりした作りのクローゼットと小さな文机があるだけだ。壁には小さな絵が掛けられているが、名作と言えるほどのものではなさそうだ。
窓に近寄ってカーテンを開けようとしたところで、部屋の扉がノックされる音が響いた。
「はい、どうぞ。」
「失礼いたします。」
頑丈そうな扉を開けて入ってきたのは、ガブリエラと同じ年ごろぐらいのメイドだった。
「お嬢様、お目覚めになられたのですね。もう体調はよろしいですか? どこか痛むところはございませんか?」
「ありがとう、お陰様でもうすっかり良くなりました。」
「それならば良かったです。でもまだご無理はなさいませんように。」
「はい、ありがとう。」
ガブリエラは別に体調不良だったわけではなく、ただ単純に寝不足だっただけだ。このメイドもおそらくそれはわかっているだろうが、それをわざわざ指摘して、人間関係を悪化させる必要はない。
ガブリエラには感情の起伏がほとんど無いように見えるが、だからといって感情が無いわけではないし、他人の感情の機微に疎いわけでもないのだ。
「私はアーカンデ侯爵の長女、ガブリエラと申します。ここがどこなのかお伺いしてもよろしいでしょうか?」
メイドは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑顔でそれを隠した。
彼女が驚くのも無理はない。侯爵家の令嬢が、こんな粗末な服装で行き倒れているなど、普通に考えればあり得ない。
「ここはリンシー公爵のお屋敷です。何があったのかは存じませんが、お嬢様はこのお屋敷の門前で倒れていらっしゃったのですよ。」
ガブリエラが思っていた通り、やはりここはリンシー公爵邸の中で間違いないようだ。
嫁入り先の邸宅の前で行き倒れて助けられるなど、とんでもない失態で、恥以外の何物でもない。しかしガブリエラは気にしないことに決めた。供もつけず、まるで庶民のようなみすぼらしい格好で、荷馬車に揺られてここまでたどり着いたのだ。いまさら貴族の恥など考えても仕方がない。
「もう昼食の時間は少々過ぎておりますけれど、もしよろしければ軽い食事をお持ちしますが、いかがなさいますか?」
「ありがとう、いただくわ。」
メイドに言われて、ガブリエラはかなり空腹だったことを自覚した。考えてみれば、昨日のお昼に軽くお菓子を摘まんだだけで、それからは何も口にしていないのだ。
運ばれてきたサンドイッチの様な物を口にして、ガブリエラは珍しく驚きの感情がこもった声を上げた。
「あら、おいしいわ……。」
「それはようございました。厨房の者へもお嬢様のお言葉をおつたえしておきますね。」
「はい、お願いします。」
ガブリエラとて味覚が鈍いわけではない。この数年の粗末な食事に不満を感じなかったわけでもない。ただ、それを面に表しても無駄だと考えていただけのことだ。
ガブリエラが悲しむ姿、泣き叫ぶ姿を見ることが生きがいのような人々を前にして、わざわざ感情を見せて愉しませてやる理由などどこにも無いではないか。
感情を出すことは悪いことだという祖母の教えが、ガブリエラの中にはしっかり根付いている。しかし祖母の言葉を妄信しているのかと問われれば、そういうことではない。今までに出会ってきた人たちの姿を思い起こせば、祖母の教えが正しいとしか思えないのが原因なのだ。
憎しみの感情を隠しもせず、そのままぶつけてくる家族たち。思うがままに喚き散らす元婚約者と、それを良しとして周囲に受け入れを強要するその両親。自分の虚栄心を満たすためだけに、汚い噂を流す貴族たち。
彼女の今までの経験上、感情を伴う人間関係には、これは正しい、これは美しい、そう思えるようなものは、どこにも無かったのである。
侯爵邸を出たことでタガが外れ始めているのかも知れない。変な感情が湧きだそうとする自分を戒めることを、ガブリエラは心に誓った。
食事を摂ってしばらくすると、また先ほどのメイドが部屋にやって来た。この家、リンシー公爵家の執事から彼女に話があるらしく、応接間まで来て欲しいとのことだった。
もちろんガブリエラも訪問の理由などを説明する必要がある。彼女はそれに了承すると、父の侯爵から渡された手紙を携えて、メイドの案内に従って屋敷内を移動することになった。
屋敷の廊下は高級感溢れるということは無かったが、しっかりと掃除が行き届いており、落ち着きのある風情が漂っている。それだけでこの屋敷の主人が、しっかりとした人物であることが、ガブリエラには見て取れた。
リンシー公爵は芋虫公爵、化け物公爵などと噂されているが、もしかしたらそんなに悪い人ではないのかも知れない。




