02.能面令嬢の出立
侯爵夫妻とその次女が園遊会から戻ってからしばらくして、ガブリエラは侯爵の執務室に呼び出された。
ガブリエラが部屋に入ると、侯爵はまだ外出着のまま、着替えもせずに執務机を前にして、不機嫌そうな顔で座っている。
「何か御用でしょうか?」
「用があるから呼んだに決まっているだろうが。あの母に似て、どうしようもない女だな、お前は。そもそもワシに何も言わず、先に勝手に帰宅するなど、いったい何様のつもりなのだ。自分がまだ侯爵家の主だとでも思っているのか!」
先に帰ろうが一緒に帰ろうが、帰る旨を伝えようが伝えまいが、何をどうしたとしても侯爵はガブリエラに文句を言わなければ済まない。そのことをガブリエラは良く知っていた。
この男にどれだけ気を使ったとしても、どれだけ何をしてもどうせ無駄なのだから、もう何もしない、路傍の石のように扱うと、ガブリエラは決めている。それは憎いから、というよりも、ただ面倒で無駄だから、というに過ぎない。
ガブリエラが侯爵家の主だったことなど一度もない。この男はいったい誰に何を言いたいのだろうか。その対象が誰なのか、それがわからないわけではないが、とても煩わしいことには変わりない。
どれだけ叱ろうと、何を言おうと、まったく表情を変えることなく、ただこちらを冷めた目で見つめているガブリエラに、侯爵は苛立ちを隠せない。その言葉はどんどん荒くなり、ただの罵倒へと変わっていく。
ガブリエラからすれば、それもいつものことだ。特に何かを感じる必要はないし、返事をすることもない。机をバンバンと叩き、彼女のことを激しく罵る生き物を目の前にして、彼女は普段通り、何も変わることのない態度でたたずむだけだった。
しばらくそうしているうちに、侯爵がやっと怒りを無理やりとどめ、ガブリエラを強く睨みつけて舌打ちした。
「この鬼女の生まれ変わりめが。」
彼女の祖母、先代の侯爵が亡くなったのは数年前、彼女の物心がついてからしばらくしてからのことだ。それなのに祖母の生まれ変わりのはずがないではないか。そんなこともわからないから、祖母から出来損ないの無能呼ばわりされるのだ。
何もかも見透かすような、自分のことを蔑むようなガブリエラの目つきを前に、侯爵は抑えきれない怒りから、丈夫そうな鞭を手に取って立ち上がった。
「この鬼女の生まれ変わりがっ!」
この男は同じ言葉を繰り返すしか出来ないのか。そんな侯爵の姿を見ても、ガブリエラの様子は何も変わることが無い。
「鞭を振るうのは良いですが、婚家でその傷を晒すことになります。そうなれば侯爵家で何があったのか、誰もが知ることになりますが、よろしいのですか?」
「言われなくてもわかっておるわっ!」
鞭を振るうことが出来ないことくらい、侯爵にもわかっている。顔色も変えないガブリエラへの怒りが抑えきれず、侯爵は手にした鞭を力いっぱい床に投げつけた。
この男は、気に入らない娘に鞭を振るうことすら出来ない小心者なのだ。
そう言えば、祖母は何かと言えば鞭を振るってきたことを、ガブリエラは思い出していた。そのあまりの痛みに叫び声をあげ、許しを請うても、祖母の鞭は止まることが無かった。
祖母は自分が気に入らないから鞭を振るうのだ。ガブリエラもそんな祖母が気に入らない。ならば祖母の教えのとおり、気に入らない祖母に鞭を振るえば良いのではないか。
ある日そのことに気づいたガブリエラが、祖母の鞭を避けようともせず、それを奪い取って死ぬまで打ち据えてやろうと、一歩、また一歩と祖母に近寄った時、
「良い顔が出来るようになりましたね。」
祖母は一言そう言うと、鞭を振るうのをやめたのだった。
それからしばらくして祖母は他界してしまったので、ガブリエラが祖母を鞭うつことは一度も無かったが、祖母はあの時、これから毎日死ぬまで孫娘に鞭うたれるようになることに気が付いたのだろう。
ガブリエラはそんなことを思い出しながら、あれもまた小心者だったのだなぁ、と、もう目の前に現れることはない祖母について考えていた。
「それで御用は何でしょうか? これでお済みなら、部屋に戻らせていただきますが。」
侯爵は思わず「とっとと出ていけ!」と叫びそうになったが、ぎりぎりのところで娘を呼び出した理由を思い出して、思いとどまった。この娘を前にすると、どうにも理性が役に立たなくなってしまう。
しかしそれももう終わりだ。やっとこの娘を屋敷から追い出すことが出来る。地獄のような場所に送り込むことが出来るのだ。
「お前と第二王子殿下との婚約は破棄、代わりにお前にはリンシー公爵に嫁いで貰うことになった。」
「はい、そのお話は殿下から伺いました。」
「それなら話は早い。先方には話は通してあるから、今夜中に荷物をまとめて公爵家へ向かえ。日付が変わった後は、この屋敷に残ることは許さん。以上だ。」
「はい、わかりました。」
ガブリエラは侯爵の言葉を理解したのか、それとも理解していないのか、いつも通り全く表情を変えることなく、リンシー公爵宛の手紙を侯爵から受け取ると、軽く礼をして退室した。
「我が娘ながら気味の悪い、腹の立つ女だ。しかしこれで二度と顔を合わさずに済むと思えば、そう悪くはないな。」
侯爵の独り言は、まるで他人に聞かせたがっているような声量だったが、その時にはガブリエラは部屋の扉から大きく離れており、彼女の耳にはまったく届いていなかった。
「今夜中ですか。それならさっさと要件を伝えれば良いものを、まったく愚図すぎて呆れますね。」
家を出る準備、と言っても大した荷物があるわけではないが、それでも準備が必要なのは間違いない。ガブリエラは素早く屋根裏部屋に戻ると、急いで出立の準備を始めた。
これから輿入れとなれば、両親や家族に挨拶するのが常識なのだろうが、ガブリエラにはそんな気は全く無い。挨拶してもしなくても、どちらにしても嫌がらせをされることは決まっているのだ。それなら挨拶しない方が無駄が省けてお互いのためになる。彼女は真剣にそう考えていた。
何よりあまり時間が無いのだ。早く出て行って欲しいのか、それとも本心では違うのか。あまりに考えなしの侯爵に、ガブリエラは今日以上に呆れたことは今までに無い。
そもそも早く出て言って欲しい娘を、わざわざ引き留めてまで文句を言ってくる時点でおかしいし、興奮して文句を言っているうちに、出ていけということすら忘れそうになっているのだから、もう無能以外にどう呼べばいいのかわからない。
ガブリエラは古びた旅行鞄を取り出し、その中に着替えを詰めていく。と言っても大したことではない。下着が数枚と、普段着が一着、着替えといってもたったそれだけだ。
クローゼットの中には祖母の残していったドレスもあるが、それらはここに残していくことにした。それしかなかったから仕方なしに着ていたが、別に手元に残したい物ではない。祖母の思い出の品なのかも知れないが、ガブリエラには特に何の思い入れもなかった。
ただ一着だけ、古ぼけた外套だけは持っていくことにした。これも祖母の残した物のうちの一つだが、思い出が欲しかったわけではない。夜中のうちに移動しなければならないのだ。朝晩の冷え込みを考えると、外套はあった方が良いだろうという判断だった。
いくつか残っていたアクセサリーもここに置いていく。持って行くと、あとになって返せと言われかねないからだ。それほど高価な物では無いが、売ればいくらかにはなると思う。置いていけばそれはそれで文句を言うのだろうが、文句を言うためだけにわざわざ向こうからやって来ることは無いだろう。
あとは編んでいるレースや私用の手紙、小物の類を放り込み、いくつかの貴重品を身に着ければ、それで出立の準備は終わりだ。とても簡単であっさりしている。ガブリエラはそのまま部屋を出ようと思ったが、少し気を変えて、何通かの手紙を書くことにした。
家族とは不仲というより他には言い方が無かったが、別に家に引きこもっていたわけではなく、彼女にも交友関係がないわけではない。手紙を封筒に入れた後、それを使用人に渡すかどうかをためらって、結局、鞄の中に仕舞い込んだ。
使用人に渡しても、投函してくれるとは限らない。リンシー公爵家への道中のどこかで、自分の手で投函した方が確実だと思いなおしたのだ。
すべての準備が終わると、ガブリエラは長年暮らした侯爵邸の表玄関から、誰に声をかけるでもなく、まったく後ろを振り返ることもなく出て行った。
そのまま門から表に出ようとしたところで、ガブリエラは後ろから声をかけられた。
「お嬢様、旦那様から送っていくように命令されていますから、馬車に乗ってください。」
「あら、そうなの? それじゃあ、お願いするわ。」
男は先代侯爵の時から仕えている初老の庭師だった。馬車と言っても乗用の物ではなく、植木などを運ぶための荷馬車のようだ。
「手紙を出したいから、途中で郵便局に寄って貰えるかしら?」
「真っすぐに公爵邸に向かうように命令されているんですがね。まあ、そのぐらいの寄り道なら良いでしょう。」
庭師は不機嫌な顔をしながらガブリエラの願いに了承すると、そのまま荷馬車に彼女を積んで馬車を走らせ始めた。




