13.蜜柑と蝶
蜜柑の木々が並んでいる庭に、夏の日差しが強く照り付けている。まだ昼には時間があると言うのに、この暑さの中では立っているだけで干からびて死んでしまいそうだ。
そんな木々の間を、アゲハ蝶はさほど暑さを気にすることなく、今日もひらひらと飛び回っている。花も無ければ蜜も無い。あるのは濃い緑色をした葉っぱと、同じく濃い緑色をした蜜柑の若い実だけだ。
そんな緑色のまだ小さな蜜柑を、なぜか庭師がせっせと収穫していた。美味しいのかと尋ねたら、まだ熟れてない、酸っぱいだけだという返事だ。試しに一つ口に運んでみたが、なるほど、ガブリエラには酸っぱすぎて食べられそうになかった。こんなものを何故収穫するのだろう、この酸っぱさが好みの人でもいるのだろうか。
蜜柑の木を見上げると、芋虫がいっぱいいるのが目に入った。毎日のように蜜柑の木を眺めているうちに、ガブリエラは芋虫を見つけるのが得意になってきている。茶色くて鳥の糞のようなのもいれば、大きい緑色のものもいる。芋虫たちは緑の葉っぱをもりもり食べては、糞を飛ばしている。
彼らはのんびり幸せそうで、悩みなんてどこにもないように見えるけれど、実はそうではない。鳥や他の虫に食べられてしまう事がないように、彼らは彼らで必死になって生きているのだ。
まったくそうは見えないけれど。
日差しの強さに耐えかねてガブリエラが庭先から屋敷内に退避したところ、今まで見かけたことがない中年女性が、遅めの朝食であろう食事を運んでいる姿が目に映った。あれが例の乳母なのだろう。ガブリエラがこの屋敷に移ってから四ヶ月ほど経つが、彼女の姿を見たのはこれが初めてだ。
乳母は本当に実在していたのだと、ガブリエラはまるで絶滅危惧種の生き物を発見した時のような感想を持った。声を掛けるには遠すぎるのが残念だ。足を止めて待つように言っても良いのだろうが、それでは運んでいる料理、おそらく公爵向けの食事が冷めてしまうだろう。
後ろからつけていって、乳母が公爵の部屋に入る時に覗き込めば、うまくすれば公爵の姿を目にすることが出来るかも知れない。一瞬ちらっとそんな考えがガブリエラの脳裏に浮かんだが、もちろんそれを実行することはなく、乳母の観察を諦めておとなしく居室に戻ることにした。
実のところ、ガブリエラは公爵の顔が見たいとは、もうあまり思わなくなっている。正直なところ、いても、いなくても、どちらでもいいのだ。
三日の期限を突き付けても、一切何も返答が得られなかった時、彼女は自分が怒り出すのではないかと思っていたのだが、実際には違っていた。何も感じなかったのだ。
顔を見たこともない、声を聞いたこともない、どんな文字を書くのかも知らない。突然上から結婚を命じられ、無理やりこの屋敷に連れてこられただけで、公爵に対して何の思いも持っていない。そんな当たり前なことにガブリエラは気づいたのだった。
どこの誰だか分からない人に興味を持ち続けるのは非常に困難だ。公爵のことを我が夫だと思う気持ちは皆無だし、この屋敷の主人だからと敬う気持ちもほとんど残っていない。公爵の顔を見てみたいとは思うが、それはただの興味本位でしかない。ただ珍しい生き物を見て楽しむような、そんな感覚に近いものだった。
会ったことはないけれど、同じアパートで別の部屋に住んでいる住人、ガブリエラの公爵への気持ちは、それが一番近いかも知れない。
ガブリエラは部屋に戻ると、ふかふかのソファーに腰を下ろし、いつものようにレース編みの続きを始めた。作っているのはこの屋敷の変わった庭、アゲハ蝶と蜜柑の花を主題にしたショールだ。
雪国に嫁ぐのだから雪の結晶を纏うのだ、というプリシラに触発されて、ガブリエラも何か婚家の特徴を模様にして纏おう、などと殊勝なことを……考えたわけではない。そんな気持ちは全くない。ただ単純に、花に群がる蝶々が綺麗だったから、それだけの理由で選んだ主題だ。
そんな適当な思いで初めてはみたものの、最初はなかなか上手く編み進めることが出来ず、編んでは解き、編んでは解きを繰り返していた。
例の商人が現れなかったので注文していた絹の編み糸は手に入らなかったが、代わりに死蔵されていたレース織りの糸が大量に出てきていた。だから解かなくてもしばらく糸が足りなくなることは無い。
解いていたのは単純に、出来が気に入らなかったからだ。どうも頭の中でアイデアがまとまっていなかったのが原因なのか、しっくりこなかったというか、納得いく形を作る事が出来なかった。いや、そもそもアゲハ蝶と蜜柑の花という主題が良くなかったのかも知れない。
よし、アゲハ蝶は後回しにして、花と葉っぱだけにしてみよう。
それに気づいて花と葉に集中すると決めると、それまで悩んでいたのが嘘じゃないかと思うぐらい、さらさらと編めるようになった。蝶が問題だったというよりも、蝶と花の組み合わせというか、蝶が花の周りを飛び回っている姿がうまく表現できなかったことが原因だったわけだ。
それに気づいた後、製作は滞りなく進み、蜜柑の花と葉をモチーフにした小品が難なく完成した。今はその編み上がった蜜柑の花と葉を中心に据えて、周囲に大小さまざまな蝶々をぶら下げるようにして編み進めている。
この作品、蜜柑の部分と蝶々の部分がまったく融合していないことは、ガブリエラ自身も理解していた。蝶々が増えれば増えるほど、その分裂具合が増していくのが良くわかる。しかしそれでいて、なんだかしっくりするような気がしなくもない。
間違いなく駄作で、清々しいまでに完全な失敗作だ。しかしこれはこれで、味があって面白い。だって本物のアゲハ蝶どもには、別に蜜柑と融和を図ろうなんて気はなくて、好き勝手に蹂躙しているだけなのだ。それがこの分裂具合にぴったりとはまっているように、ガブリエラには感じられた。
あまり根を詰めても良いことはない。少し休憩を取ろうとメアリにお茶の準備を頼んだところ、珍しいことに反対されてしまった。
「お茶よりも、昼食をお持ちしましょうね。」
「ああ、もうそんな時間なのね。まったく気づかなかったわ。」
ガブリエラには自覚症状は無かったが、傍から見れば既に十分根を詰めすぎていたようだ。素直に食事の用意を頼んでから、編みかけのレースを置いて立ち上がると、その場で大きく伸びをした。
「食事の後は、しばらくゆっくりしようかしら。」
「それはいけませんよ、仕立て直しの予定が入っておりますので。」
「わかっているわ、言ってみただけよ。」
メイド長のメーガンによって、公爵邸の中に仕立てのための作業場が用意され、そこを拠点に数名の職人が長期滞在している。もちろんガブリエラの衣装作成がその目的だ。先日、冬服の本仮縫いが終了して新品の製作は一段落したので、これからは前王妃コレクションの仕立て直しが順番に行われることになっている。
今は夏だが、仕立て始めるのは冬服だ。本縫いには時間がかかるので、時間差ができるのは仕方のないことだ。そしてそれゆえに、夏服と比べて、冬服の仕立ては重労働なのである。
冬はもちろん厚手の布地で重ね着をすることになるので、布地は硬く糸は太くなる上に、縫わなければならない服の枚数が夏に比べて多くなる。だが問題はそこではない。本仮縫いは実際の状態に合わせて行う必要がある、つまりこの暑さの中で、真冬と同じように何枚も重ね着をしなければならないのだ。
毛皮の外套のサイズ合わせなど、まさに地獄である。いったい誰がこんなものを発明したのか、呪いたくなるのも当然というものだ。もちろん冬の寒い日には、発明者に感謝を捧げるに決まっているのだが、それはそれ、これはこれだ。
想像するだけで恐ろしいことに、コレクションの中にはそんな毛皮の外套が五着も含まれているのだ。その手直しのために、今日はいつもの仕立て屋だけでなく、皮革職人まで臨時で屋敷にやって来ていた。
つまりガブリエラには、もうどこにも逃げ場は無かった。
「もう、煮るなり焼くなり、好きにしていいわよ……。」
「いいえ、お嬢様。大丈夫、流石にそんなことはされません。ただちょっと蒸されて、ゆで上がるだけですよ。」
「…………。できれば半熟でお願いするわ。」
「はい、かしこまりました。」
メアリは良い笑顔でガブリエラの前から退出すると、食事の準備を整えるために厨房へと降りて行った。
ガブリエラが適度に暇で、適度に忙しい、それなりに充実した日々を送っていたちょうどその時、公爵もまた極度に暇で、極度に空しい、かなり閑散とした日々を送っていた。
リンシー公爵家は普通の貴族とは異なり、自分の領地を持っていない。王国からの年金だけで生活を立てている貴族家だ。つまり普通の貴族家当主ならば行わなければならない領地経営の仕事は、公爵家にはそもそも存在しない。
貴族家は領地経営以外にも、ガブリエラの祖母が遺したワスプ商会のように、商売を行っている家が多い。今では公爵家の商取引は、そのほとんどをガブリエラのワスプ商会が取り仕切っていて、そこに公爵家は関与していない。つまり商売は公爵の仕事ではない。
それでは公爵はどんな仕事をしているのか、毎日なにをして過ごしているのか。それを知っているのは公爵本人とその乳母、そして執事のギャリソンの三人だけだった。まあ、知らなくてもだいたい想像はつくのだが。
ガブリエラから返答の日限を三日と区切られ、それを基にして公爵本人と激しく交渉した結果、何も結果が得られなかった執事ギャリソンは、激しい失意の中でこの一ヶ月を過ごしていた。
ギャリソンの目から見ても、ガブリエラは表情豊かだとはとても言えない。能面令嬢の噂は伊達ではないのだ。しかしそれでも、ギャリソンは表情豊かでないことは、感情豊かでないこととは、まったく同じではないと、肌で感じていた。
この娘であれば、変に感情的になるのではなく、公爵の問題を包み込んでくれるかも知れない。そんな想いもあって公爵に粘り強く進言したのだけれど、公爵はかたくなで、一切それを受け入れることはなかった。
「一方的に日限を決めて通告してくるなど、公爵に対して不敬極まりない。」
公爵の言い分は、まあ、そういうことだ。
ガブリエラ視点ではなく、ギャリソンから見ても、「いやいや、お前がちゃんとしてないから、そうなったんだろ?」という話だ。これが自分の息子だったら間違いなく殴っているだろう。
表沙汰には出来ないが、公爵の状況を考えれば、そう言いたい気持ちも理解できないわけではない。しかし受け入れないなら受け入れないなりに、やり方はあるのではないか。何も言葉をかけずに一切無視するのではなく、拒否するなら拒否すると言葉をかけるべきなのだ。
結局ギャリソンの言葉は受け入れられず、公爵は黙秘したまま。そうするうちに、ガブリエラは公爵をいないものとして扱うことに決めてしまった。ガブリエラのアーカンデ侯爵家にも問題はあったと思うが、こうなった原因のほとんどはリンシー公爵本人と公爵家にあることは間違いない。
ギャリソンに出来ることは、ため息をつくことだけだった。




