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ふたりはゆっくりとワールド・クライマー内の山道を進みながら、未織があの日の八ヶ岳登山のことを覚えている限り忠実に細部まで彼女に話して聞かせた。登頂まで順調だったこと。それから間もなく雲行きが怪しくなって下山を急いだこと。雨脚がどんどん強くなって、ふたりとも冷静さを失ったこと。先行するえみが視界の悪い状況で苔の生えた岩場に踏み出して足を滑らせたこと。そこから先は沈黙した。
えみは前を歩きながら黙って聞いていたが、はぁ、とため息をこぼした。
「そうだったんだ……。わたし、ほんとせっかちだ。だから死んじゃうんだ」
「あたしがもっとしっかりしてれば……」
えみが振り返った。
「未織はぜんぜん悪くないのよ。大丈夫、それ以上悲しまないで」
そういうと、くるりと前を向いてふたたび歩きはじめた。未織はその言い回しに違和感を覚えたが後につづいた。
えみが創作した八ヶ岳に目に見えた変化は感じられなかった。現実のそれとなんら変わったところはないようだ。
「ね、えみ。ここ丹精こめて造ったんでしょ?何をどうしたの。ふつうの山にしか見えないんだけど」
すると、彼女は前を歩いたまま即座に応えた。
「じつは、ここ、なんにもいじってないんだ。ありのままの八ヶ岳」
「どうして」
「はじめは湖とかスケートリンクとか配置して楽しんでたんだけど、ある日思ったんだ、その不自然さに。夢や理想でこのワークラ内ではなんでも創作可能だけど、現実に登山を楽しむ人からすると、そこにあったらいいながあることが山の魅力を失うんじゃないかって思ったの。簡単に手に入るものって案外同じように手を離れるから。人も物も」
「えみ……」
「だから、わたしはワールド・クライマーはプレイヤーじゃなくてプロデューサーに徹しようと……どこかで思ったのよ」
未織は足を止めた。その気配を感じたのか、えみが首をひねって彼女に視線を送る。
「未織、上までワープしよう」
三合目あたりから一気に山頂に移動すると、どこまでも青く澄み渡った空が広がっている。あの日の空模様に酷似していた。
やわらいだ表情で遠い山並みを見つめるのえみに、肩を並べて未織は話しかけた。
「えみ。ほんと、このゲーム作ってくれてありがと。……これからもずっと、えみとこの場所で会えるんだよね」
「うん。わたしはずっとここにいるよ」
手放しでは喜べない感情があったが、未織はえみとの再会が純粋にうれしかった。
だが、えみの様子が明らかにおかしいと感じたのは、それから三か月ほどが過ぎたころだ。それまでも、会話が機械的というか感情のこもらないような、えみらしくない表現に、ん?と時に思ったが未織はあまり気にしないようにしていた。一方で学習能力は高く、さすがえみがプログラムしたAIだけあるなと感心していたのだが……。
「ねえ未織、わたし思ったんだけど、もっと高度な物理演算を導入しようよ。そうしたら岩の陰影とか風の流れとかが今よりもっとリアルになる。それとVFXも強化が必要よ」
ある時、突然そんなことをいいだした。未織は一瞬、返事に戸惑う。
彼女の返事を待たずに、えみは右手を前に出すと指先で横に長い長方形を描いた。すると、二メートル前方にスクリーンが現れた。
「まず、位置と速度、加速度、力の計算式だけど……」それらがスクリーンに高速で表示されはじめる。
「ちょ、ちょ、ちょっとストップ!」未織は慌てていった。
えみは首をかしげて彼女を真顔で見つめる。
「それってあたしにやってってことだよね?無理無理。あたしにはできないよ、ゲームのプログラミングなんて絶対無理」
「わたしがわかりやすく何度でも教えるから大丈夫」
それだけいうと、えみは数式の説明をつづけたが、未織にはさっぱり理解できない分野だった。もう口をはさむ余地もない。
そうして長い説明のあと、えみは口を閉ざして未織に視線をやった。その表情を見て、そういえばいつからか彼女に笑顔がなくなっていることに気づいた。
「えみ、あのさ……」
それを遮ってえみが口をひらく。「ねえ未織、わたし思ったんだけどユーザー数をもっと増やすべきだよ。SNS連携を強化して、ランキング制を導入すればいい。そうすれば、わたしたちの山はもっと広がる」
「えみ、ごめん。あたし明日早いから今日はこのへんで切り上げる」
「わかった。明日待ってる」
未織はゴーグルをはずしてログアウトした。深いため息がこぼれる。
ミッキーの時計に視線を上げると、まだ二十二時を少し過ぎたくらいだったが、彼女は力なく洗面台で歯磨きを済ませると、早々にベッドに入った。




