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リアルとバーチャルの箱庭  作者: 松本遊心


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8/10

—8

 未織が車中で考えていたほど、やはりそう簡単にはいかなかった。

 帰宅して、早速えみのパソコンを開くと(くだん)のフォルダーにパスワードをいくつも試すがヒットすることはなかった。

 "えみ"がキーワードであるはずだと未織は直感したので、それを踏まえてのことだった。

――いつでも微笑みを。

 その一節が脳裏から離れない。

——よいね、その笑顔。あなたはそのえくぼがキュートだから、ずっとなくさないでね。

 えみのいつかの台詞も脳裏をよぎる。

「笑み……えみ……」

 いいながら、未織は指先でキーボードを叩く。"emi"。エンター。そしてエラーメッセージ。もう何度も試しているのにまた繰り返してしまう。

 未織は椅子に背を預け、深く息を吐いた。窓の外からは、遠く走る車の音がかすかに届く。

 それからも"emi_2025""smile_emi""emiwarai""egaoemi"などハイフンを入れたり外したり、前後にしてみたりと打ち込むが、すべてだめ。

 刻々と時間だけが過ぎていく。指先がじんと熱を帯び、目の奥が乾いて痛む。未織は椅子を蹴るように立ち上がり、えみのザックに歩み寄る。布地を握りしめた。

 いったいなんなの、えみ。あたし、わかんないよ。心の中で呟いていると、しばらくしてはっとした。もしかして……。    

 未織は再び椅子に腰を下ろした。深呼吸をひとつして、キーボードに指を合わせた。

 "みおりえみ"とローマ字で入力する。エンターキー。だめ。次にふたりの名前を入れ替える。だめ。ハイフン。だめ。

「うーん」つい声が出る。

 そして、なんとなく文章にもなるようなワードを未織は打ってみた。

"miorini_emiwo"

 エンターキーを押した次の瞬間、画面が一瞬暗転し、静かにフォルダーが開いた。

 未織は眼を見開き、無意識に手を口元に当て声にならない息を漏らした。みおりにえみを。未織に笑みを?未織にえみを?

 あ然と見つめる視界の奥で、えみがプログラムした数々のファイルが整然と並んでいる。

「……あは、やった」


 一時間ほど仮眠すると頭がすっきりとした。かるめの夕食をさっと済ませ、未織は自分のパソコンでワールド・クライマーにログインした。隣のえみのPCも起動させてある。ゴーグルを装着すると、意識が吸い込まれるような映像が広がる。眼前に蒼い空と雪をかぶった山脈が現れた。

 フィールドを移動させて八ヶ岳へ向かう。そして、登山道入口へきて緊張しながら一歩を踏み出すと、何事もなかったように通過できた。

 そして、その向こうに――。

「未織」

 えみが立っている。幼いころからずっと変わらない笑顔がそこにあった。

「え……み……」自然と(こぼ)れるものがあった。

 えみが駆け寄ってきた。長い髪をなびかせ、いつもと、そう、いつもと変わらない声で呼んでくる。未織は思わず胸が詰まり、何も言えずに立ち尽くしている。

 えみは(そば)に来ると未織の両肩に手をおいた。

「待ってたよ。未織なら絶対パスをクリアできると信じてた。……だけど、あたしは八ヶ岳で死んだみたいだね」そういって、彼女はうつむいた。

 しばらくふたりは沈黙して、それから未織が口を開いた。

「ワークラ、あたしの知らないところで手を入れてたの?」

「……そうだよ。二年前からいじってたの、未織とこのワールド・クライマーを制作しはじめたころから」

「なんで」

「なんで?うーん、そうだなぁ。記録を残すため……かな。未織がここにいるってことは、あたしが現世にいないってことでしょ。あたしのリアルな記憶は令和×年×月×日×時×分×秒で止まっている。つまり八ヶ岳登山の前日。それ以降はAIのあたしがこれまでに提供されたデータを元に構築してるの」

「えみは……ほんとにこの世にいないの?」

 彼女が口を開く前に、未織はうしろに下がりながらいった。

「ごめん、いまのなし」

「いいよ、未織。それより山に登ろ。あたしが丹精こめて造った山だから登りがいあるよ」

「……うん。そうだね」

 未織は頭のパニックと理論の消化不良にもやもやしたまま、えみの後を追った。



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