―7
――休日。
未織は早朝のまだ薄暗い駐車場で、ジムニーのリアシートに今日の装備品を載せた。
さきほど部屋を出る前に、となりの壁際に掛けてあるえみのザックを見つめた。右手でそっと触れて布地の感触を掌に残す。
行ってくるね。――目を閉じて胸の奥でつぶやいた。
彼女はドライバーズシートに乗り込み、エンジンをかけた。ルームミラーに映る自分を見て、両手で頬をぺしぺしと叩く。未織は気を引き締めると、サイドブレーキを解除して車をスタートさせた。
えみと初めて八ヶ岳に登ったのは高校二年の夏。ワンフォー(ワンダーフォーゲル)部の合宿で、汗だくになりながら山頂でみんなで達成感に包まれ、和気藹々と笑い合った。あのときのえみの横顔が今も脳裏に鮮やかに残っている。
先日、涙腺が崩壊して、からからに枯れるまで泣いたあと、次の休みに現実の八ヶ岳へ挑む決意を固めた。きっと、パスワードを解くヒントがそこにあるはずだと信じて。
車を走らせ、八ヶ岳の登山口駐車場に着くと冷たい空気が肌を刺した。装備品を今一度チェックして、山アプリを起動する。登山靴の紐を固く結びザックを背負うと、その重みが全身にずしりと伝わる。ひとりきりの山行。胸の奥にかすかな緊張が走った。だが未織は、えいっ、とお腹にチカラを込めた。
歩きはじめると踏みしめるたびに土と石が混ざる道が重くのしかかる。息が早く上がり、太ももが焼けつくように痛む。汗が額をつたう。ゲームの中ならクリックひとつで山頂に立てた。呼吸も汗もいらなかった。けれど現実はどこまでも続く急坂。自然は容赦なく、足を止めればたちまち心が折れそうになる。未織は無心でただ前へと進んだ。
山の中腹にさしかかる頃、小休止でその場で足を止め呼吸を整えていると、ポケットの中のケータイに入れてあるラジコがなんとか放送をつづけていた。まだ電波が届いているらしい。軽快なDJのトークのあとリスナーのリクエスト曲が始まる。未織は息を整えながら聴き流していた。
♪――いつでも微笑みを――
その一節に、踏み出そうとした足がふと止まる。笑み。えみ……。
すぅーっと、深呼吸をひとつして再び歩き出すと、間もなくラジコはぷつりと切れた。
長い道のりと難度がどんどん上がる登りを経て、未織はついに山頂に立った。吹き抜ける風に髪をなびかせながら、眼下に広がる山並みを見つめる。胸いっぱいに空気を吸い込むと、いつかえみと登った記憶がよみがえる。
――山頂までは晴天だったあの日。
えみとふたり、山頂に立ち、両手を広げて深呼吸した。
「最っ高だね、未織」
「うん、この瞬間がやっぱりたまらない」
「よいね、その笑顔。あなたはそのえくぼがキュートだから、ずっとなくさないでね。あたしはその表情がいちばん好き」
未織は棒読みで「やだー、あたしも君が好きになっちゃいそー」と返し、ふたりは顔を見合わせて大笑いした。
えみ。あなたはあたしの知らないところで何を思って、何を考えてたの?
未織は目を閉じて風に吹かれるままだったが、どうしても思考はその先に進まず、脳裏によぎるのは下山時のあのシーンだった。
わからない。どうしてえみは、ワールド・クライマー内に自分のアバターを作ったのか。滑落の少し前まで、幸せそうにしてた彼女がまるで自分の死を予見するかのように残したもの。そして、なぜ入山規制のロックをしているのか。えみのPC内の開けないフォルダー……。未織の思考はループするばかりで、ひとつの収束をみることはないようだった。
彼女は空を見上げた。雲がちらほらと浮かんでいるが晴天そのものだった。山アプリもそれを裏打ちするような予測を表示している。だが彼女は腰かけた岩から立ち上がると、大きく伸びをしてザックを背負った。
山を下りはじめても天気の崩れはなく、無事に登山口まで辿りついた。
荷をジムニーに積んで一息つくと、未織は帰宅するべく車を走らせた。
カーラジオが流れている。未織にとってラジオは世間と自分をつなぐ架け橋だ。人付き合いもなく、テレビも観ず、SNSもしない。ユーチューブはたまに観るが、ノンかフィクションかわからないものに夢中になることはない。えみがいて、山があり、ゲームを創作する。これが彼女のすべてだ。その内の九割を占めるえみが不在になったことで、歯車が大きく狂ってきている。
空想に耽りながらハンドルを握っていると、ラジオのパーソナリティの声が急に耳に入った。
――それでは、リクエストにお応えします。ミスターチルドレン、”いつでも微笑みを”。
・・・急な不幸がその家にあったという……
・・・決して満たされない……
・・・いつでも微笑みを……
・・・悲劇の真ん中じゃ……
・・・君の中で僕は生き続けるだろう……
・・・そう、だからいつも……
歌のワードが未織にリンクして、枯れたはずのものがまた頬を伝った。我に返ると中央線を割りそうになって慌てて未織はハンドルを握りなおした。
えみ。笑み……。彼女の頭の中で例のフォルダーを解除する根拠のない確信めいたものが構成されつつあった。




