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リアルとバーチャルの箱庭  作者: 松本遊心


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3/10

—3

「思ったより涼しいね」

 えみが息を弾ませながら、軽快な足取りで前を歩く。背中のザックが小刻みに揺れるたびに、鈴のようにカラビナが鳴った。

 未織は時折アプリの地図を開いて標高とルートを確認する。それを見ながらいった。

「ここから最初の分岐まで一時間くらいだって。そこでいったん休憩しようよ」

「おっけ」えみが半身振り返って、親指を立てた。


 最初の分岐に着いたときには、木々の切れ間から視界が開けていた。眼下に広がる谷川の流れが、陽光を受けて白く光っている。

「おー、いいねー。未織、なかなかの見晴らしだよ」

 えみがザックを下ろして、汗で張りついた前髪をかきあげた。「ね、あそこ、町が見えるよ。ちっちゃい箱庭みたい」

 未織も隣に腰を下ろして、ボトルの水を口に含む。たしかに、遠くに点々と並ぶ屋根が、模型のように整って見えた。

「箱庭か……」未織は無意識に呟いた。

「うん。あたしたち、ワークラでも箱庭作ってるじゃない。山の中に洞窟(どうくつ)造ったり、動物園置いたり。なんか現実と重なって見えるんだよね」

 そういって、えみはジオラマのような小さな町並みを見渡しながら、靴を脱いで足を伸ばした。

 そのとき、遠くの山肌を見て未織は眉をひそめた。

「……雲、ちょっと出てきてない?」

「ほんとだ。さっきまで真っ青だったのに」

 えみも視線を上げる。稜線の向こうに灰色の雲が少しずつ広がり始めていた。まだ不安を覚えるほどではないが、確かに空気が変わりつつある。

「午後から崩れるって予報だったっけ?」

「ううん、晴れのはずなんだけど……」

 未織はケータイを取り出し、アプリで現在地の天候を確認した。だが予報は依然として晴れマークを示している。

「大丈夫でしょ、あれくらいなら」えみがお尻を軽くはたきながら立ち上がった。

 未織もザックを抱えながら小さく息を吐き、つづいた。

 山の天気が急変しやすいことくらい、当然ふたりの頭には常識として入っている。それほど雲の流れはこの時点では穏やかなものだった。

 ふたりは再び歩き出した。


 これまでよりも急な坂が次々に待ち受けている。やがて、木々の背丈が次第に低くなり、岩場が増えてきた。風が頬をなで、冷たさの中に高揚感が混じる。もうすぐだ。未織は心臓の鼓動を聴きながら、えみの後につづいて最後の岩をつかむと身を引き上げた。

 眼前にひらけるのは、どこまでも広がる山並み。双耳峰(そうじほう)が青空を背に並び立ち、雲は下方に流れていく。

「やったーっ。ゲームクリアーだー」

 声が風に流されるまま、えみが両腕を大きく広げて未織に笑顔を向けた。

「ちょっと、クリアじゃないでしょ」未織は苦笑しながらえみの隣に並んで目配せした。

 ふたりは両手を広げると、ゆっくりと大きく深呼吸した。

「最っ高だね、未織」

「うん、この瞬間がやっぱりたまらない」

「よいね、その笑顔。あなたはそのえくぼがキュートだから、ずっとなくさないでね。あたしはその表情がいちばん好き」

「やだー、あたしも君が好きになっちゃいそー」

 未織が棒読みでいうと、ふたりは顔を見合わせて大笑いした。


 その後ふたりは束の間、ケータイカメラでいくつかの()のシャッターを切った。レンズ越しにえみの笑顔も写り込む。

 落ち着くと岩の上に腰を下ろし、行動食のチョコバーをかじった。汗で湿ったシャツが風に冷やされ、体温がじわりと奪われていくが、不快ではなかった。

「ねぇ、これだよね。リアルでしか味わえないやつ」えみが空を見上げていった。「ゲームじゃ絶対再現できない澄んだ空気と、ここからの眺め」

 未織はうなずいたが、心の中で思った。――でも、ワークラの中なら、あたしたちはいつだって山を造れる。えみと一緒に、どんな山だって。


 ふたりはしばらくワークラのことを中心にたわいない話をしていた。すると、不意に冷たい風が強く吹き抜けた。雲が足元から湧き上がるように押し寄せ、さっきまでの青が一気に白と灰色に塗り替えられる。

「まずいね……。ちょっと、下り急いだほうがいいかも」

 未織の声に、えみも真顔になる。「うん、そうしよ」

 達成感の余韻に浸る間もなく、ふたりは慌ただしく荷をまとめ靴紐を結び直した。

 下りはじめてまもなく、白く薄い雲が谷底から這い上がってきた。気づけば視界はあっという間に閉ざされ、ぽつりと雨粒が頬を叩く。

「天気崩れるの早くない?急がなきゃ」えみが焦った声を上げた。

「だめだよ、こんなときこそ慎重になんなきゃ。岩場は濡れると危ないし」未織は前を急ぐえみを(いさ)める。

 だが、雨脚はみるみる強まり、足もとから伝わる冷気にふたりの判断は次第に鈍っていった。

 ポケットの中でスマホが震え、取り出すとアプリが”この先のルート”を示していた。画面を一瞬覗いただけで、未織は再びえみの後を追った。


 ――ほんの一歩。

 ふだんなら目に留めていたはずの(こけ)に覆われて濡れた岩を、えみは見落とした。

 彼女の靴底がずるりと滑る。えみが短い悲鳴をあげた次の瞬間、身体が傾き、未織の伸ばした手をするりと抜けていった。

 未織は岩に手をつき、下を覗き込む。雨で霞む谷間の中、えみの姿はもうどこにも見えなかった。

「えみぃーーーっ!」

 声は雨にかき消され、岩肌に反響するだけだった。

 視界の限り、霧と雨と岩しかない。足元は滑りやすく、下に降りれば自分も危険だ。未織は必死に呼び続けたが、激しい雨が岩を打ちつける音しかしない。

 やがて冷たい風が頬を打ち、震えが体を貫いた。息も荒くなる。ここで何かできるのか――迷いと焦燥だけが胸に押し寄せる。

 未織はポケットからケータイを取り出し、緊急連絡先に手をかけた。消防に通報するためだ。だがその指先も震えてうまく操作できない。雨が液晶ににじみ、画面の文字はぼやけて見えた。

 そして思考が停止した。



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