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未織は一週間ほどワールド・クライマーにログインしていなかった。正直、気がのらなかった。
えみのアバターは当然ながら姿形、声まで彼女そのままだが、会話はログイン回数を重ねるごとに機械的になり、情緒の色を失っていった。まるでAIに支配されているようだ。いや、実際そうなのかもしれないと未織は感じていた。
登山の魅力をふたりが初めて体感したのが八ヶ岳だ。
はじめは初心者御用達の北横岳の山頂を目指した。長野県にある八ヶ岳連峰の北部に位置する山で、北八ヶ岳ロープウェイを利用して山頂駅まで行き、そこから山頂を目指す。二時間ほどをかけて、ワンフォー部のみんなとのんびり登った。
汗をかき息を弾ませて到達すると、そこに待っているのは、山頂まで来た者しか味わえない圧倒的な達成感。深呼吸すると胸の中をクリーニングするかのような澄んだ空気。遮るもののない頂からの絶景は三百六十度のパノラマビュー。天気に恵まれれば、南、中央、北の各アルプスの山々に富士山まで望める。足元には白樺湖があり、富士見高原が広がっている。
ふたりは非日常と、それまでに感じたことのない幸福な疲労感と満足感、心身のリフレッシュを得た。
パソコンの前で過去に耽っていると、ついため息がこぼれた。未織は迷っていた。ワールド・クライマーを今後どうしたらいいのか。えみのアバターとどう接していけばいいのか――。
そのとき、背後でぼすっと物が落ちる音がして、彼女は驚いて椅子ごとくるりと背後を向いた。えみのザックが床に落ちていた。使い古されたそれを持ち上げるとグラブループ(リュックをフックに掛けるための輪っか)が切れていた。そのまま未織はえみと対話するようにその場で目を閉じた。
やがて彼女はパソコンを前に座り、ワールド・クライマーを起ち上げた。
ワールド・クライマー内の八ヶ岳へ行くと、えみが腕組をして頬を膨らませていた。
「未織、何してたの?わたし、ずっと待ってたのに何も変わってないわ。この世界は現世でぼくがいなくなってから何一つ変わってない」
未織は一歩踏み出すと、えみのアバターを見据えていった。
「そうだね。あたしは一週間ワールド・クライマーに入ってもいないし、バージョンアップの作業すらしてないんだ」
えみが素の顔で口を開いた。「なぜ?」
未織はにっこりとえくぼを浮かべた。「なんか楽しくなくなっちゃった」
「ねぇ、わたしのために山を造ってよ。もっとワークラをスケールアップして、世界中の人たちに山の魅力を伝えていこうよ。それでVFXの映像と加工なんだけど……」
「えみ、もういいよ」未織は彼女に歩み寄りながらいった。「あたし、ワールド・クライマー卒業するよ」
少し時間をおいてえみは返した。「わた……あたしを置いてくつもり?未織、いつも一緒だったじゃない。あなたとわたしは親友のはずよ」
「この世界のあなたは、あたしの知ってるえみじゃない。上書きされたデータがどんどん彼女を消していってる」
「そんなことないよ。高校生のころの記憶もあるし、社会人になってからも山とゲーム制作のことだってわかる」
「あなたは、あたしにどうしてほしいの?」
「それはもちろん、この世界の充実だよ。未織がわたしのいう通りにプログラミングしてくれればいいのよ。基礎ベースはPCじゃないと操作できないのよ」
やはり彼女はAIに浸食されてしまったと未織は感じた。心が通わないえみといることは苦痛でしかない。
えみのアバターは無表情のまましばらく固まっていたが、未織が何もいわないので口を開いた。
「ねぇ未織。わたしたち親友だよね?」
「あたりまえだよ。えみはあたしのかけがえのない人。それはいつまでも変わらない。だけど、あなたはやっぱりえみじゃない。……えみのPCはずっと電源を入れておくから、あなたは自分自身でいまある環境で楽しんで。じゃあ、……さようなら」
未織が背を向けてゴーグルを外そうとすると、えみのアバターが抑揚なくいった。
「現実でも仮想世界でも、わたしを見殺しにするの」
思わず膝が崩れそうになったが、踏ん張ってなんとかこらえた。未織はひとつ呼吸を整えてから振り返った。「えみは、ほんとうのえみは、そんなこと絶対にいわないから!」
そして現実に戻るとワールド・クライマーに別れを告げるため、未練がないよう自分のパソコンからゲームを完全に消去した。最後のエンターキーを押すとき未織は指が震えた。
えみはあたしの心の中で永遠に生き続ける。未織は彼女のザックを胸に抱いて、パソコンに顔をうずめた。
――およそ一か月後。
時刻はまもなく十七時になろうとしていた。
未織は軽く伸びをして、パソコンの画面を閉じる。Slackの通知を確認し、明日のタスクをボードに残してからマグカップを片付けた。
帰り支度をして立ち上がろうとしたとき、背後からキーボードを叩く音がひときわ響いてきた。振り向けば、同期の鍵山咲が画面に顔を近づけ、ときに、も~とかあ~とか声をとがらせている。
「鍵山さん、まだやってんの?」未織は椅子を回転させて、その背中に声をかけた。
鍵山はびくりとして手を止めた。ふだんから未織が定時でさっさと帰宅することは知っているので、まさかの声かけに当惑していた。
「何かトラブル?」
つづけて未織が訊くと、鍵山は横を向いてゆっくり首肯してから口を開いた。
「APIがエラー吐いてて。明日までに直さないとデプロイできないって」
それを聞いて彼女は立ち上がると、鍵山のモニターを覗き込んだ。そこには赤文字がずらりと並ぶログが映っていた。
「環境、どこで動かしてる?」
「ローカル。Dockerの中で」
「じゃあ、ちょっと見せて」
未織は鍵山の隣の空いた席に腰を下ろした。モニターを覗き込み、コンソールをスクロールする。しばらく視線を走らせていると原因の目星がついた。
「ここ、ポートの指定が違う。ローカルAPIのURL変わってるよ」
「……あ、ほんとだ。ぜんぜん気づかなかった」
「よかったね。それじゃ、お先」
未織はいって、鍵山の肩をぽんと叩くと椅子の上のバッグを手にした。
「笹谷さん、ありがとう。おかげで今日は早く帰れそう。……あのさ」彼女は言い出しにくいことをためらうようにしてから、未織を上目に見ていった。
「なに?」未織は振り向いた。
「登山ってよく行くの?」
瞬間、未織の胸がどくんと鳴った。
「な、なんのこと」
「もうずいぶん前のことだけど、早朝に☓☓駅前で偶然見かけたんだよ。黄色のパーカーを着た人と登山用ザック抱えて車に乗り込むとこ。あたし晴れた日は毎日、朝走ってるから」
「あー、……そういうこと」
「あたしも最近山登りに興味あって……、だけど一人で登る勇気もなくて。よかったら、笹谷さんがすごい暇なときにどこか初心者向けの山、付き合ってくれないかなぁ。いろいろ教えてほしいし。無理ならいいけど」
未織は呆気にとられたが、しばらくして、にっこりと彼女に笑みを浮かべた。




