Beginning Night Ⅲ
数日が過ぎた。あの夜の出来事は、まるで現実味のない悪夢のようだったけれど――電話帳に刻まれた「ツルギマコト」の名前を目にするたび、あれが紛れもない現実であったことを痛感させられる。
そんな弦木から連絡があったのは、週末を控えた金曜日の放課後。その短いテキストメッセージには、場所と時間だけが簡潔に書かれていた。端的で感情の読めない文面は、もはや脅迫文に近い。
弦木真琴。本当にあの『S.W.O.R.D』の一員なのだろうか。……いや、彼女の『心の声』を聴いて、それが事実であることは分かっているのだが……それでも、にわかには信じられない。信じたくない。
正直不信感しかないが、しかし今更従わないわけにもいかない。私は重い足取りで学校を出て、そのまま指定された喫茶店へと向かった。
レトロな雰囲気漂う喫茶店、その窓際の席に彼女は既に座っていた。黒一色のシンプルなビジネススーツ姿。表情は硬く、その雪のように白い長髪も相まって、周囲の雰囲気からは明らかに浮いている。テーブルの上には、湯気の立ち込めるコーヒーカップが一つだけ、彼女の手前に置かれていた。
……寒がり、なのだろうか。思えばあの時も、夜だったとは言えこの季節にチェスターコートを羽織っていた。今もホットコーヒーを注文している。彼女の季節感はどうなっているのだろう。
私が恐る恐る近づくと、弦木はちらりと視線を向けただけで特に挨拶もなく、向かいの席を顎で示し着席を促してくる。
「……どうも」
私は俯きがちに会釈しながら、彼女の向かいの席に腰を下ろした。心臓が嫌な具合に高鳴っている。
私の存在に気がついた店員がメニューを持ってきたが、何かを注文する気にはなれず、断ろうと顔を上げる。
「オレンジジュースを」
そんな私の意思に反して、弦木は先回りするように口を挟んできた。オレンジジュース。まあ、コーヒーよりはマシだけど。注文を受けた店員は私たちに軽く会釈をして、キッチンへと帰っていった。
……しかし、周りから私たちのことはどう映っているのだろう。知り合いという雰囲気でもないし、まさか親子だとは思われていないだろう。よくてバイトの面接か。それもあながち間違ってはいないけど。
「本題に入る。我々『S.W.O.R.D』が現在追っている、一連の通り魔事件についてだ」
無駄な前置きもなく、弦木は早々に切り出した。
「これまでに確認されている被害者は五名。いずれも学生、もしくは学校関係者だ。犯行は夜間、人気のない場所で行われ、鋭利な刃物による傷害事件として処理されているが、現場には通常の刃物では説明のつかない痕跡が残されている」
彼女は事件の概要を淡々と述べていく。その口調には感情の起伏がほとんどない。
「極めつけは、監視カメラの映像だ。そこには犯人が被害者を襲っている姿が映っていたが、凶器となる刃物は影も形もなかった。だというのに、被害者は皆一様、視えない何かに斬りつけられていた。以上をもって、今回の事件はホルダーによる犯行の可能性が極めて高いとし、捜査権限が我々S.W.O.R.Dに移ったというわけだ」
「っ……あの、いいですか?」
弦木が説明を中断し、コーヒーカップを手に取って一口飲む。その隙を見計らって、私は慌てて口を挟んだ。
「S.W.O.R.Dってどんな組織なんですか? 一応、警察と同じ権限を持つ組織だってことくらいなら、私でも知ってますけど……でも詳しいことは学校でも教えてくれないし、ネットにもあまり情報が載っていなくて」
「機密事項だ」
「……約束しましたよね? 全部教えてください。それが協力の条件です。あなたは何者なんですか? ネームドホルダーとかムラサメとか、一体なんのことですか?」
あの夜、彼女の心の声から断片的に知った情報。その意味するところを、私は理解できていない。どうせ協力関係が終わったら逮捕されるかもしれないのだ。だったら悔いのないように、首を突っ込めるだけ突っ込んでおこう。
「……協力させる以上、最低限の知識は共有しておくべきか」
弦木は少しだけ眉をひそめていたが、やがて諦めたように息をつくと、説明を再開する。
「イマジナリ・ブレイド。『心の擬刃化』とも呼ばれるそれは、人間の心が刀剣の形を成し、現実に具現化される超常現象。有史以来、この現象は世界各地で確認されているが、そのメカニズムや構成物質は未だ解明されていない。その発生原因も完全に解明されていないが、昨今の研究結果によって、精神への過度な負荷が原因であるとする説が最も有力だ」
説明の途中、店員が私のオレンジジュースを持ってきて、静かにテーブルの上に置いた。テーブル端のバインダーに追加の注文票が挟まれる。そんな店員の仕草には一瞥もくれず、弦木は淡々と説明を続けた。
「発現した心の刃の形状や能力は、所有者である人間の精神性を反映しているため、指紋のように一人一人異なっている。同じブレイドは二つと存在しない」
自分の右手に視線を落とす。私の心は直剣の形をしている。そして、他人の心の声を無理やり引きずり出すという能力。それら全てが、私自身の精神性の現れだということらしい。
「イマジナリ・ブレイドを発現した人間を、我々は『ホルダー』と呼ぶ。そして、ホルダーによる犯罪行為を『空想犯罪』と定義し、取り締まるのが『S.W.O.R.D』の役割であり、捜査官である私の任務だ」
空想犯罪。その言葉の響きに、私は背筋が寒くなるのを感じた。
「心の擬刃化を自覚したホルダーは、法律によって申告が義務付けられ、一部の行動は政府の監視下に置かれるようになる。政府がホルダーを管理したがる理由は様々だが、大きな目的は犯罪抑止のためだ。統計的に見ても、ホルダーは自らのイマジナリ・ブレイドを犯罪に利用する傾向が極めて高い。事実、空想犯罪は年々増加の一途を辿っている」
それは私が日々感じている社会からの視線、偏見の根源だった。犯罪者予備軍。そのレッテルは、否定することが難しい。
「イマジナリ・ブレイドは一般人の目には見えず、物理的な干渉も受け付けない。まさに完全犯罪ツールだ。法律でいくら規制しようとも、その全てを取り締まることなど不可能に近い」
そこまで言い切って、弦木の声は僅かに低くなった。
「――しかし、そんなイマジナリ・ブレイドにも弱点が存在した」
そうして彼女は、私の瞳の奥をじっと見つめる。明るい場所で間近に見る彼女の顔は、まるで人形のように精巧な造りをしていて。どこか芸術品めいたその黒い瞳に見据えられると、思わずたじろぎそうになる。
「イマジナリ・ブレイドは、同じイマジナリ・ブレイドを持つ者の目には視え、触れることができる。触れられるということは、破壊できるということだ。そして、一度破壊されたブレイド――心が折られたホルダーは、二度とその刃を発現することはない。多くの場合、精神的な廃人となる」
心が折られる。その言葉の持つ意味の重さに、私は静かに息を呑んだ。それが単なる比喩でないことはよく知っている。
「この特性を利用し、警備部に新たに設立された組織、それがS.W.O.R.D――ホルダーのみで構成された特殊部隊――空想犯罪対応局(Soul Weapon Offenses Response Department)。我々は、ホルダーをもってホルダーを制す。一般の警察官では対処できない空想犯罪者を、イマジナリ・ブレイドをもって処理する。それが我々に与えられた権限だ」
「ホルダーをもって、ホルダーを制す……」
まさしく、目には目を――『刃』には『刃』を、と言ったところだろうか。
「空想法に基き、ホルダーは心の刃を公共の場で発現してはならない。これを取り締まるのが我々の任務にあたる訳だが……実際のところ、ホルダーは突発的に能力を暴走させ、そこで初めて自覚するケースがほとんどだ。初犯の場合はホルダーとして国に登録された後、体内にチップを埋め込まれ、行動を監視されるに留まる。心の破壊が実施されるのは、凶悪な空想犯罪者だけだ」
チップ――その単語を耳にした瞬間、私は無意識に首の後ろに手をやっていた。私自身、これを埋め込まれて三年間、定期的に検査を受けさせられている。その上、行動まで監視されているのだ。正直、良い気分はしない。
「ホルダーの中には、ブレイドが超常的な能力を備えて発現する、突然変異個体が存在する。その能力の特殊性や危険性によって、S.W.O.R.Dは対象に特別な『ネームド』を与え、極秘の要監視対象としてデータベースに登録する。今回の通り魔にも、その危険性から『ムラサメ』というネームドが発行された」
そして話題はムラサメ――今回の本題へと戻る。
「通り魔事件が発生したのは、今からおよそ六週間前。ここまでに出た被害者の数は五人。全員命に別状はない。被害者は、最初の事件発生から毎週一人ずつ出ていたが、今週はまだ出ていない。出せなかったというべきか」
その説明に、私は密かに身震いした。あの日、彼女が助けてくれなかったら、私がその六人目の被害者になっていたのだろう。
「私はこれまで、現場に残された血の臭いを辿り、ムラサメの足取りを追ってきた」
「血の臭い……?」
「私のブレイドの能力だ。奴の身体に付着した被害者の返り血を辿ることで、ある程度の活動範囲を絞ることはできた。だが、所詮は返り血。臭いも薄い。私の能力の有効範囲も限られている。奴自身の血を直接辿らない限り、完全な追跡と身元の特定は難しい」
彼女は自身のブレイドの能力について詳らかに、あっさりと明かしてしまった。ホルダーにとってブレイドの能力を明かすということは、自分の心を曝け出すということにも等しい。それを彼女は、こともなげにやってのける。
非常識な大人だとは思っていたが……人間としても、ホルダーとしても、彼女はやはりどこか異質なのかもしれない。少なくとも、私の中の常識的な大人の姿とは良くも悪くも乖離している。
「しかし奴はここまで、身元特定に繋がる決定的な証拠を残していない。監視カメラにも顔は映っていなかった。交戦に至るも、流血に繋がる負傷は与えられず。現状、常に後手に回らざるを得ない状況にある」
オレンジジュースに満たされたコップの中で、氷の塊が音を立てて揺れる。しかし私は、目の前のそれに口をつける気にはなれなかった。
「そこで、貴様の力が必要になる」
弦木の射抜くような視線が、再び私に注がれる。
「貴様のブレイドの能力で、関係者の心の声を暴く。犯人に繋がる新たな手掛かりを得るために」
「なっ……!?」
私は反射的に、勢いよく首を横に振っていた。
「で、できません……! そんなこと、私には……!」
心の奥底で、あの時の光景が蘇る。制御できなかった力。傷つけてしまった人々。彼らの苦痛に歪んだ顔。そして、私に向けられた憎悪と恐怖の視線――
「協力すると言っただろう」
「でも……何の罪もない他人に、刃を向けるなんて……! そういう協力なら、私にはできません!」
「……だがあの夜、貴様は躊躇なく、私の背中に刃を突き立てた。あれはどういうことだ?」
「っ……そ、それは……」
ぐうの音も出ない。確かに、あの日の自分の行いは、浅はかだったとしか言いようがなかった。
しかし、だからこそなのだ。もうこれ以上、同じ過ちは繰り返したくない。何の罪もない他人に刃を突き立てて、その心の声を暴く。そんなこと、できるはずがない。
「安心しろ。一般人にブレイドは視認できない。能力を使ったところで、貴様の仕業だとは思わないだろう。しかも貴様のブレイドは物理的な殺傷能力すら持たない。肉体を傷つけない特殊な刃だ。だから問題はない。私が許可してやる」
「そ、そういう問題じゃない……! 人の心を、傷つけてしまうんです!」
「そうだ。他人の心を傷つけてでも、真実を暴きたい。それが貴様の本質だ」
「……なんと言われようと、できません。もうこれ以上、誰かを傷つけるのは……」
断固とした拒否。この場で逮捕されるかもしれないという恐怖を押してでも、私の口から出たのはやはり、頑なな言葉だった。協力すると言っておきながら、土壇場でそれを拒否。もはや何がしたいのか、自分でも訳が分からない。恐怖と信念の狭間で、私の心は引き裂かれそうだった。
そんな私の様子をしばし眺めていた弦木は、自身の顎に手を当て、考え込むような素振りを見せた。そして――
「ならば、使い方を限定すればいい」
――これまたあっさりと。彼女は新たな提案を持ち出す。
「心の声全てを暴露させる必要はない。対象の発言が、嘘か真実か。それだけを見極めろ」
「嘘か、本当か……だけ?」
「そうだ。能力を制御しろ。必要最低限の情報だけを引き出せ。それならば、問題はあるまい」
それは、これまで考えたこともない可能性だった。私のブレイドは、その刃で斬ったり刺したりした他人の心の声を、僅かな時間だが強制的に周囲へ漏らしてしまう。その能力を使うこと自体、私はこれまで避けて生きてきた。だから、分からない。能力の制御、本当にそんなことが可能なのだろうか。私に、そんな器用な真似ができるのだろうか。
「……で、でも。そんなこと、やったことありません。能力の制御なんて、どうすればできるのか……」
「なら特訓だ」
次々と飛び出してくる予想外の言葉に反応が追いつかない。その一方的で断定的な物言いには目眩すら覚える。
「貴様が能力を制御できるようになるまで、私が手を貸してやる」
「手を貸すって……何をするつもりですか……?」
嫌な予感がした。
「私が実験台になる」
「――え?」
言い淀むことすらなく彼女の口から飛び出したその言葉は、私の予感を的中させながらも、その予想を遥かに超えてくるものだった。
「私の身体を使って試せばいい。どの程度の深さで、どのくらいの時間接触すれば、どの程度の情報が漏れるのか。あるいは、全く漏らさずに、真偽の判別だけが可能になるのか」
それはまさしく人体実験。実際、能力を試すというのならそれしか方法はない。しかし予想外だったのは、その実験台に彼女自ら志願したこと。弦木真琴。彼女は自分の心を、その胸の内を曝け出しても良いと、確かにそう言っているのだ。
「……本気、ですか?」
ありえない。普通の人間なら、絶対に受け入れられない提案のはずだ。自分の内面を他人に晒すなんて、考えたくもないだろう。私は信じられない気持ちで問い返す。
「目的のためなら、私は手段を選ばない」
それはきっと本心からの言葉だった。心の声なんて聴くまでもなく。彼女の瞳には恐怖も、好奇も、羞恥すら微塵も感じられない。ただ言葉の通り、任務を遂行するためという絶対的な目的意識だけが存在している。
私は言葉を失った。何なんだろう、この人は。どこまでも冷たく、どこまでも強く、どこまでも正しい――こんな人間、今まで出会ったことがない。
正直、恐ろしいとすら思った。けれど、その揺るぎない姿勢。その強い覚悟は、私が持ち得ないもので――惹きつけられる。この時の私は不覚にも、彼女を格好良いと思ってしまった。
「貴様にとっても良い機会だろう。ブレイドの能力など、所詮は自分の身体の一部、心の一部に過ぎない。そんなものにいつまでも振り回されるな」
確かに、私がこの力を使いこなせるようになれば――もしかしたら、誰かの役に立てることができるのかもしれない。そんな淡い期待が、胸の中に芽生え始めていた。
……この女の思惑通りに事が進んでいるような気がして、それは些か気に食わないが。いずれにせよ、他に選択肢は残されていないように思える。
「……分かりました。やってみます。それが、通り魔を捕まえる手助けに繋がるなら……!」
はっきりと、自分の意思を表明してみせる。弦木はそんな私の返事を聞いても、やはり特別表情を変えることはなかった。ただ僅かに頷いて、コートの内ポケットから携帯端末を取り出す。
「明日は休日のはずだな」
「はい」
「特訓は明日から始める。詳しい時間と場所は今送った」
言っているそばから、私の携帯端末が微かに振動する。早速送られてきたようだ。
「今日はもう帰っていいぞ」
去り際にそれだけ告げて、弦木は立ち上がる。注文票の挟んだバインダーを手に持って、そのまま会計へと向かっていた。
彼女の背中を、私は少し呆然と見つめながら――すっかりぬるくなったオレンジジュース、そのコップに突き刺さったストローに、ようやく口をつけるのだった。




