Beyond the Rain Ⅴ
鉛色の雲が空を覆い尽くし、世界から色彩を奪い去った蒸し暑い日の午後。アスファルトを叩きつける雨音は徐々にその勢いを増し、ワイパーの往復運動すら追い付かないほどの激しさでフロントガラスに降り注いでいた。
車内に響くのは容赦なく車体を打つ雨の音と、時折遠くで不気味に低く唸る雷鳴、そして私たち自身のどこか張り詰めた呼吸の音だけ。
弦木と私は、数名の選抜されたS.W.O.R.Dの隊員たちと共に、発行されたばかりの逮捕状をその手に井狩森司が潜む自宅へと向かっていた。装甲仕様の特殊車両の中は、外の荒れ狂う天候とは裏腹に奇妙なほどの静寂に包まれていたが、それは決して安らぎをもたらすものではなく、むしろ嵐の前の静けさにも似た重苦しい緊張感を孕んでいた。
やがて郊外の古びた住宅街。その一角、緩やかな坂道を登り切った先にひっそりと佇む一軒家に辿り着く。降りしきる雨に煙り、その輪郭すら曖昧に見える家屋は、巨大な墓石のようにも、深い眠りについている獣のようにも見えた。
私たちの乗る装甲車両は、井狩の自宅から少し離れた人目につきにくい路地の隅に停車した。完全武装したS.W.O.R.Dの隊員たちが音もなく車両から降り立ち、井狩の自宅周辺を包囲していく。玄関の前に最終的に残されたのは、弦木と私の二人だけ。対決の時が、すぐそこまで迫っていた。
弦木はその細く長い指で、インターホンの呼び出しボタンを躊躇うことなく押した。ややあって、扉の僅かな隙間から井狩森司の、血の気のない顔が覗く。その表情には極度の緊張と、隠しきれない猜疑心、そして追い詰められた獣のような敵意がありありと浮かんでいた。
「井狩森司さん。貴方には空想法違反の容疑で、正式な逮捕状が出ています」
有無を言わさぬ口調で、弦木は単刀直入に切り出す。その冷徹な響きに、井狩の顔から血の気がさっと引いていくのが、雨に濡れた薄暗がりの中でもはっきりと分かった。
「……は? な……何を、言っているんですか? 訳が……分からない……」
井狩は明らかに狼狽しながらも、最後の虚勢を張ろうとしているのが見て取れる。そこに、弦木の後ろに控えていた私が、一歩前に進み出る。私の心臓もまた、緊張で張り裂けんばかりに激しく鼓動していたが、それを悟られぬよう、努めて平静を装って。
「井狩さん。あなたにはイマジナリ・ブレイドの能力について、虚偽申告の疑いがあります」
私は、井狩の目を真っ直ぐに捉え、周囲の激しい雨音に掻き消されないよう、大きく、芯の通った声で告げた。
「斬った対象に、不可視の傷を刻印する能力。その刻印自体は、痛みも物理的な変化も伴いません。しかし、あなたは任意のタイミングで、その刻印を本物の傷として実体化させることができる。恐らく、対象の半径数メートル以内にいることが能力発動の条件。それが、あなたのブレイドの本当の能力であり――この連続殺人事件の真相です」
私の目の前で、井狩の表情が瞬く間に歪んでいく。額には脂汗が滲み出し、呼吸は浅く、不規則に乱れている。
「……証拠は? 証拠はあるんですか? そこまで言うなら、今すぐ証拠を出してくださいよッ! ねえ!? ほら、早くッ!!」
証拠なんて出てこないと思っているのだろう。井狩は高圧的に言い返してきた。その血走った視線が、私と弦木の間を何度も往復する。
「確かに。今のところ、あなたの犯行を直接的に示す物理的証拠はありません。ですが……」
そこで一度言葉を区切り、私は深く息を吸い込んだ。胸の奥で、あの白銀に輝く直剣の形が力強く脈動し、輝きを増していくのを感じる。
「私には、あなたの『心の声』が聴こえます」
その言葉と共に私は一切の躊躇なく、自らの右手を胸元へと伸ばした。そんな私の意志に応えて、胸の奥深くから淡い白銀の光の粒子が溢れ出し、収束していく。
空想の柄を握り締め、身体から抜き放った心の剣――アンサラーが、この薄暗い現実世界に顕現する。白銀の刀身は、降りしきる雨の中でも、清浄な輝きを放っていた。
「今の私には、正式な抜刀許可が降りています。井狩さん。もしもあなたが、本当に何も偽っていないというのなら……私のブレイドに触れても何の問題もないはずです。……ご協力、いただけますね?」
相手に逃げ場を与えないよう、有無を言わせぬ力強さを込めてそう告げると――瞬間、井狩の顔からはとうとう、全ての理性が完全に剥がれ落ちた。その瞳は禍々しく充血し、呼吸は壊れた鞴のように激しくなる。
「く……そ……ッ……があああああああああああああああ!!」
獣じみた絶叫。そして次の瞬間、井狩は自身のイマジナリ・ブレイドを、鞘走る音もなく抜き放っていた。
以前に見た時は白い刀身だった片刃の短剣は、彼の精神状態に影響されたのか、その刀身をどす黒く染め上げていた。その黒い表面には血管のような赤い紋様が脈動している。
これが井狩森司の本性、ネームド:イペタム――その切っ先が、狂気に駆られた井狩の意志に従い、私の喉元を目掛けて、雨粒を切り裂きながら突き出される。
私の命運を左右するであろう、その凶刃が私の喉に到達しかけた、その刹那。後ろに控えていた弦木真琴が、咄嗟に私の首根っこを引っ掴み、私の身体を引き寄せる。私は突然の出来事に驚きで声も出ないまま、そのまま彼女の腕の中に、すっぽりと抱き留められる形となった。そのおかげで、井狩の刺突は私の喉を掠めることもなく、虚空を切る。
「ちィ……ッ!」
井狩は忌々しげに舌打ちをしていたが、即座に私たちの脇をすり抜け、一目散に外へと飛び出す。こうなる事をある程度見越してはいたのか、彼は既にスニーカーを履いていた。土砂降りの中、なだらかな坂の上を前のめりに、半ば転がるような勢いのまま、彼は泥を跳ね上げながら駆け下りていく。
「追うぞ」
「あっ……は、はいっ!」
弦木は、その腕の中に未だ抱き留めている私の身の安全を、その鋭い一瞥で確認すると、即座に井狩の後を追い、自らも雨の中へと駆け出していた。私は一瞬遅れて、その背中を必死に追いかける。
気づけば外は、私たちが到着した時よりもさらに激しい、叩きつけるような豪雨となっていた。視界は悪く、足元は滑りやすい。そんな最悪の悪条件の中、逃げる者と追う者、決死の追跡劇が始まったのである。
井狩は、もはや理性の欠片も見られない獣のような形相で、雨の中を疾走する。彼は家の前の坂を完全に降りきると、そのまま国道沿いの、交通量の多い大通りに、傘をさす歩行者たちを掻き分けるようにして滑り込んでいく。
「きゃあああっ!」
井狩の背中を追いかけ、私たちも大通りへと駆け込んだ、まさにその瞬間。歩行者の一人が、金切り声のような悲鳴を上げる。
あろうことか、井狩は逃走しながら、その手に握るイマジナリ・ブレイドで、一般市民を通り過ぎざま、次々と切り裂いていったのだ。
勿論、イペタムに斬られた瞬間は、肉体に何の影響も与えない。しかし、井狩が念じた次の瞬間、彼らに刻まれた不可視の刻印は、次々と実体化していき、鮮血の花を咲かせていく。井狩はイペタムの能力を、無差別に周囲へとばら撒き始めたのである。
「ぐあっ……!? え……なんだ、これ……!? う、腕が……!」
「い、痛い……! 助けてくれ……!」
突如として身体から切り傷が現れ、鮮血を流しながら苦痛に呻き、倒れ込む人々。まさに地獄絵図としか言いようがない、そのあまりに悲惨な光景に、私は思わず足を止めそうになった。
「立ち止まるな! 奴の思う壺だ……!」
しかし、そんな私の一瞬の躊躇を察したのか、依然として前を走っていた弦木が僅かに振り返り、その声を鋭く張り上げる。私はそこで、ようやく我に返ることができた。
そうだ、足を止めるわけにはいかない。ここで私が立ち止まってしまえば、それこそ井狩の思う壺。彼を止めなければ、被害はさらに拡大してしまう。
「……弦木より、総合作戦司令部、及び、現在展開中の全部隊へ通達。被疑者、井狩森司が逃走。現在、市街地を北東方向へ移動中。奴は逃走しながら、イペタムの能力を無差別に周囲へ展開している。通行人に多数の負傷者発生。各隊は、負傷した一般市民の保護と救護を最優先事項とせよ。井狩の追跡は、私と真加理が継続する……!」
耳に装着した小型の通信機に向かって、弦木は的確な指示を飛ばしていく。それでいて、自らは決して追撃の足を緩めない。極限状況下における、その冷静な状況判断能力は、現場の総指揮を務める彼女の能力の高さを、改めて物語っていた。
井狩は土地勘があるのか、路地裏の複雑な地形や点在する遮蔽物を巧みに利用し、必死で逃走を続けている。しかし最初に不意を突かれて開いてしまっていた距離も、私たちは徐々に追いつき始めていた。容赦なく降り注ぐ雨水が体温を、そして気力までも執拗に奪っていく中、私は自分の体に鞭打って、前を往く弦木の背中を必死に食らいついていった。
そんな長い追跡劇の果てに。私たちはとうとう、市の中心部から大きく離れた古びた埠頭近くの寂れた一角、その路地裏の奥深くへと井狩を追い詰めることに成功したのだった。
周囲には他に人の気配はなく、取り壊しの日を待つばかりの廃ビル群が墓標のように林立している。応援に駆けつけたS.W.O.R.Dの武装隊員たちが、廃墟と化したこの一帯を既に幾重にも包囲し全ての逃走経路を封鎖していた。もはや逃げ場はどこにもない。
「……終わりだ。大人しく投降しろ」
これが最後通牒であることを明確に理解させる、弦木の冷徹な言葉が響き渡る。行き止まりに追い詰められた井狩は、雨に濡れた黒い短髪を振り乱し。憎悪に満ちた目で周囲を見渡していた。その手に握られたイペタムは絶えず禍々しい輝きを放っている。
「……終わり……? ふっ……ふふふ……!」
そんな井狩が突如、口角を不気味に吊り上げた――次の瞬間。イペタムの刀身が、負の感情を凝縮させた黒い光を一層強く放ち始める。
「そうだな……俺も、お前らも……ここで終わりだ……!!」
その時。井狩の背後に聳え立っていた、一際大きな廃ビルが――突如、ゆっくりと揺れ始めて――その巨体が私たちの方に、大きく傾き始めたのである。
「え……っ……まさか……!?」
今目の前で何が起きているのか悟った瞬間、私の口からは、ほとんど悲鳴にも近い声が、思わず漏れ出ていた。
「井狩の能力は……人間だけではなく、無機物にも……傷の刻印を付けることができる……!? こいつ……まさか私たちを、ここまで誘導して……ッ!」
こうなることを見越して準備していたのか。あるいは、能力の実験場として利用していたこの場所の存在を、逃走中に思い出したのか――いずれにせよ、彼はこの廃ビルに長期間にわたって蓄積してきたであろう全ての刻印を今、一斉に解放したのだ。
「馬鹿どもが……気づくのが遅いんだよ……! 全員……ここで死ね……!!」
それはまさに捨て身の、狂気じみた最後の抵抗。巨大な廃ビルが私たちを押し潰そうと、その巨体を傾けながら倒れてくる。轟音と共にコンクリートの破片や窓ガラスの欠片が降り注ぎ、地面が激しく揺れる。
逃げる場所も、その時間もない。絶望的な状況。もはや死を覚悟する他ない、そんな極限の状況下で――
「…………」
しかし、それを目前にして、弦木真琴は。微塵の動揺も見せず、むしろどこか冷ややかに、向かってくる圧倒的な脅威を真っ直ぐ見据えていた。
そうして彼女は、自身の右肩にそっと、祈るように左手を重ねる。その瞬間、黒く、昏く、闇よりも深い光の粒子が、彼女の体から激しく溢れ出て、収束し、形を成す。
弦木真琴のイマジナリ・ブレイド――全体が闇夜のような黒色に染まり、その刀身は生きた蛇のように、有機的に蠢き歪曲している、異形の曲剣――『ダインスレイヴ』が、抜き放たれる。
そうして彼女は、己の心の刃を深く構え、自身もその場で地を這うほど低く、極限まで沈み込ませたのだ。
――居合だ。倒れかかってくる鉄筋コンクリートの塊を前にして、居合抜刀の構え。彼女がこれから何をしようとしているのか、私はその常軌を逸した意図を察したけれど――それでも尚、にわかには信じられなかった。
「…………――――ッ!!!!」
刹那。雷鳴が轟くよりも速く、彼女は地を蹴り、閃光の如く踏み込んだ。音を置き去りにする疾さで抜き放たれたダインスレイヴ、その黒い軌跡が天を薙ぐ。
放たれた瞬間、その黒く歪んだ刀身は、形状を一瞬にして変化させていた。より大きく、より長く、そしてどこまでも、禍々しく。まるで巨大な蛇の顎を模した異形の刃は、倒れ来る廃ビルに喰らいつき、文字通りに一刀両断したのである。
断末魔のような轟音と共に、真っ二つに引き裂かれた廃ビル。その巨体は私たちのいる場所を避け、左右に分かれて倒壊していく。振動する大地。粉塵が舞い上がり、雨と混じり合って視界を白く染める。その光景はあまりにも現実離れしていて、神話の一場面を目の当たりにしているようだった。
「なっ……あ……あ……!?」
常人の理解を遥かに超えた光景に、井狩もまた呆然と立ち尽くしていた。半開きの口からは意味のなさない驚愕の音だけが漏れ出ており、瞳孔は大きく見開かれている。彼の最後の抵抗は、それをさらに上回る圧倒的な力によって、完全に打ち砕かれたのだ。
――そして、その千載一遇の好機を、私は見逃さなかった。
「これで、終わりだ……ッ!!」
弦木の後に続いて、私はもはや反射的にアンサラーを抜き放っていた。そのまま私は、右手に強く握り締めた白銀の直剣を、井狩に目掛けて振り被り、力の限りに投擲したのである。
白銀の軌跡が、降りしきる雨粒を切り裂く。それは流星のような一条の閃光となって、井狩の胸元へ、吸い込まれるように突き穿たれた。
私のアンサラーに殺傷能力はない。斬っても刺しても、物理的に傷つけることはない。ただしその刃は、相手の精神に直接作用する――
『――許せない……幸せそうな奴らが許せない……! だから殺した……! それの何が悪い……ッ!』
その瞬間、アンサラーが穿った『心の傷』から、井狩の『心の声』が、濁流となって溢れ出した。それは私の脳内だけに留まらず、周囲の空間全体に響き渡り、誰の耳にも聞こえるものとして発現する。
『――だって不公平だろ……! どうして俺ばかり、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……! どうして、誰も……俺の気持ちを、理解してくれないんだ……! 助けてくれ……誰か俺のことを助けてくれよ……!』
罪の告白。社会への絶望。恵まれた者に対する嫉妬。長年にわたって澱のように溜まり続けてきた負の感情、その全てが白日の下に晒される。それは聞いているだけでこちらの精神まで汚染されそうな、彼の魂の叫びだった。
『――な……なんだ……これは……!? 止まらない……怒りが、悲しみが、憎しみが……とめどなく、溢れてきて……! 胸が、苦しい……! 息が、できない……! 思い出が……次から次へと、蘇ってくる……! やめろ……! もう、やめてくれ……! もう……いやだ……いやだああああっ……!』
限定解除されたアンサラーの能力は、それだけでは収まらない。心の奥底に錨を下ろしたアンサラーは、その深層心理に眠る致命傷、トラウマまでも掘り起こし、対象の脳内に直接響かせることもできる。
本人の意思とは無関係に流れ込んでくる、自らの心の奔流に、井狩は為す術もなく飲み込まれていく。もはや抵抗する気力も失い、膝から崩れ落ちていた。
彼の手からイペタムが力なく滑り落ち、アスファルトに触れるか触れないかの瞬間、陽炎のように儚く揺らめき、音もなく霧散していく。呆然と天を仰ぐ彼は、そのまま意識を失ったようだった。
「……井狩森司。空想法違反及び連続傷害、並びに殺人容疑で現行犯逮捕する」
私がアンサラーを遠隔で消滅させ、胸の奥に収めたのを見届けた後、弦木は崩れ落ちる井狩の傍にゆっくりと近づいていく。そうして彼女は、どこまでも冷徹に彼の命運を宣告した。その両腕に、冷たい手錠をかけながら。
事件は終わった。これでもう被害者が出ることはない。本来であれば諸手を挙げて喜ぶべき、待ち望んだ瞬間が訪れたのだ。
……だと言うのに。アスファルトの上に転がる井狩の姿を、私は達成感とは程遠い、どこか割り切れない想いのまま、ただじっと見つめることしかできなかった。