Dramaturgy Ⅰ
都市の輪郭を焼き尽くさんばかりの、暴力的なまでの熱線が天頂から降り注いでいる。
アスファルトの表面は熱を孕んで不気味な陽炎を立ち昇らせ、行き交う人々の色彩を曖昧に歪めていた。誰もが額に汗を滲ませ、不快指数に耐えかねた険しい表情で足早に日陰を求めて移動していく。分厚いコンクリートの照り返しが靴底を通して足の裏を焼き、大気そのものが粘り気を持って皮膚に纏わりつくような、圧倒的な真夏の昼下がり。
そんな狂気的とも言える外界の環境から分厚いガラス一枚で隔てられたこの空間は、およそ別の星にでも不時着したかのような絶対的な冷気と静寂に支配されている。
都心の一角にひっそりと佇む、旧き良き時代の名残を留める純喫茶。色褪せたベルベットの椅子と、飴色に変化したマホガニーのテーブルが規則正しく並ぶ店内。
天井の四隅に設置された空調設備は低い稼働音を立てて冷気を吐き出し、店内に心地よい肌寒さを提供し続けている。磨き上げられた窓ガラスは外界の熱を完全に遮断し、視覚的な情報だけを無機質に内側へと届けていた。
その窓際に設けられた二人掛けの席に、私――真加理冴矢は腰を下ろしている。
三十代という区切りも目前に迫った年頃。かつて肩の辺りまで無造作に伸ばしていた黒髪は、今や耳の高さで鋭く切り揃えられ、顔の輪郭を冷たく際立たせている。首筋に触れる髪の感触はない。装飾品の類は一切身につけておらず、化粧も最低限の身嗜み程度に留めていた。
私の体躯を包み込んでいるのは、この真夏日にはあまりにも不釣り合いな、分厚い漆黒のチェスターコート。
上質なウールで仕立てられたその外套は、冷房の効いた室内であっても明らかな過剰装備であり、周囲の客から好奇と不審の入り混じった視線を度々集めている。
そんな他者の無遠慮な観察などに、私が意識を割くことはない。この黒い装束の重みと手触りこそ、今の私を正常な位置に固定するための必要不可欠な鎧なのだから。
テーブルの上には、純白の磁器でできたコーヒーカップが一つ。縁の欠けもない完璧な円形を保つ器の中には、深淵を思わせる漆黒の液体が満たされている。
私はゆっくりと右手を伸ばし、その取っ手を指先で掴み上げた。立ち昇る湯気と共に、深く焙煎された珈琲豆の濃厚な香りが鼻腔を打つ。覚醒を促すその鋭い香りを肺の奥まで吸い込み、カップの縁を唇に当てて、黒い液体を静かに口内へと迎え入れた。
舌の根を激しく焼くような、暴力的なまでの苦味が口腔内に広がる。砂糖もミルクも一切介在しない、純粋な抽出液の刺すような刺激。かつての私であれば、この一口だけで顔をしかめ、砂糖壺に手を伸ばしていたに違いない。
しかし今の私は、眉一つ動かすことなく、その熱く苦い液体を喉の奥へと流し込む。食道を熱が通り過ぎていく感覚を冷徹に味わい、カップを音もなくソーサーの上へと戻した。
味覚の成長というよりは、痛覚の麻痺に近いのかもしれない。この突き刺さるような苦味が、己の輪郭を明確に縁取り、弛緩しそうになる意識を鋭利に研ぎ澄ませてくれる。
窓の外を行き交う人々の群れを、感情を排した眼差しで観察する。彼らは自分たちの頭上に視えない刃がぶら下がっているこの狂った世界でさえ、日々の些末な悩みに翻弄されながら消費社会を生きている。その脆弱な日常を守ることこそが、我々空想犯罪対応局、S.W.O.R.Dに課せられた使命である。
入隊から六年の歳月が流れた。数え切れないほどの現場を経験し、血の臭いと狂気に塗れたホルダーたちの精神に直接触れ続けてきた。己の心から抜き放たれるイマジナリ・ブレイド『アンサラー』は、今や私の一部として完全に制御下にある。かつて力に振り回され、恐怖に怯えていた少女の面影は、もはやこの身のどこを探しても見当たらない。
不意に、喫茶店の入り口に取り付けられた真鍮のベルが、高く澄んだ音色を響かせた。
外界から一瞬だけ侵入してきた生暖かい熱風と共に、一人の小柄な女性が店内に駆け込んでくる。彼女は周囲の静寂にそぐわない荒い息を吐きながら、慌てた様子で店内を見渡し、窓際の席に座る私の姿を認めるなり、弾かれたようにこちらへと小走りで向かってきた。
「はぁっ……はぁっ……も、申し訳ありません! 遅れてしまって……!」
私の対面の席に立ち止まり、深く頭を下げる彼女。橘立花。先日S.W.O.R.Dに配属されたばかりの、絵に描いたような新人隊員である。
支給されたばかりの真新しい規定のスーツは、彼女の華奢な体格にはまだ馴染んでおらず、少しだけ着せられている感が否めない。真夏の太陽に焼かれたのか、それとも極度の緊張によるものか、彼女の額には大粒の汗が幾筋も浮かび、頬は林檎のように赤く火照っていた。
「すみません……本部でのブリーフィングが長引いてしまって。その、資料の読み込みにも手間取ってしまって……」
「言い訳は不要です。間に合ったという事実だけが重要ですから」
私は声のトーンを一切変えることなく、平坦な響きでそう告げた。責める意図も、慰める意図も含まない、ただの事実の伝達。
橘は私の反応に少しだけ怯んだような顔を見せた後、恐縮しきった様子で対面の椅子に浅く腰を下ろした。お冷を持ってきた店員に対し、橘は小さな声で礼を言い、震える手でグラスを掴むと、氷の浮かぶ冷水を喉の奥へと流し込んだ。それでも彼女の呼吸はまだ乱れており、膝の上に置かれた両手は、行き場を探すように落ち着きなく指を絡ませている。
その動作の端々から、彼女の内面を支配する巨大なプレッシャーが手に取るように伝わってくる。彼女の瞳の奥に宿る、強い正義感の裏側に張り付いた、失敗に対する恐れ。未知の狂気と対峙することへの、生物としての根源的な恐怖。
それはかつて、私が通ってきた道そのものでもあった。自分の内に宿るイマジナリ・ブレイドの力に怯え、その力を他者に向けることに罪悪感を抱き、それでも正しさを証明しようと足掻いていたあの頃の私。橘の姿は、数年前の私の写し鏡のように危うく、そして脆い。
「あの……真加理先輩」
橘が決意を固めたように顔を上げる。彼女の大きな瞳が、私の視線を真っ直ぐに捉えようと試みる。
「今回の任務、対象は既にネームドホルダーの可能性が高いと聞いています。私、現場は初めてで……足手まといにならないでしょうか」
彼女の声は、語尾に向かうにつれて微かに震えを帯びていた。隠しきれない不安が、言葉の隙間から溢れ出している。彼女の精神が、極限の緊張状態によって削り取られつつある証拠だった。
「足手まといになるかどうかは、貴女の行動次第です」
私は再びコーヒーカップを手に取りながら、一切の感情を排して答える。
「S.W.O.R.Dの現場において、未熟であることは死に直結します。あるいは、周囲の人間を死に追いやる。貴女自身の抱える恐れや不安など、現場で暴走するホルダーの前では何の言い訳にもなりません」
厳しい言葉であることを承知の上で、私はあえて容赦なく現実を突きつける。ここで中途半端な慰めを与えれば、彼女はそれに依存し、現場での判断を誤るだろう。冷徹な事実だけが、揺るがない生存の指針となる。
「……はい。分かっています。私の持つ力は……凶器にもなり得る。だからこそ、絶対に間違えたくないんです。誰も傷つけたくない。でも、もし制御を失ってしまったらと思うと……怖くて」
橘は膝の上で両手を強く握り締め、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。その葛藤は痛いほど理解できる。ホルダーである以上、誰しもが通らねばならない精神の関門。己の心の暗部と直面し、それを飼い慣らすための果てしない闘争。
「怖いのは当然です」
私は静かにそう口にし、カップの黒い液体を再び飲み干した。暴力的な苦味が、口内から過去の感傷を洗い流していく。
「恐怖を捨てる必要はありません。恐怖を抱いたまま、その震える足で前へ進みなさい。それができないのであれば、今すぐ本部に引き返し、バッジを返納して一般社会に戻ることです。誰も貴女を責めはしない」
私の視線は橘の瞳を貫き、その奥底にある本質を値踏みする。彼女は私の冷たい宣告を受け止め、僅かに肩を震わせた。しかしその瞳の光は消えることなく、むしろ恐怖を燃料にして静かに燃え上がろうとしているように映る。
「……戻りません。私は、ここで戦います。先輩のように……立派な捜査官に、絶対になってみせますから」
橘の宣言には、微かな決意の強さが宿っていた。立派な捜査官。その言葉の響きが、私の心の静水面に小さな波紋を投じる。
立派な捜査官とは何だろうか。感情を殺し、ただ任務を遂行する機械になることか。他者の心を踏みにじってでも、真実という名の正義を執行することか。
私は自らの過去を、そして自らを導いてくれた存在を脳裏に描く。あの人のように、決して揺らぐことのない絶対的な強さ。他者を遠ざけながらも、その実誰よりも深く他者の本質を見抜いていた、あの孤高の背中。
私は今、その背中にどれだけ近づけているのだろうか。
「言葉は必要ありません。結果で証明しなさい」
私は思考を断ち切り、ソーサーの上に空になったカップを音を立てずに置いた。伝票を手に取り、漆黒のチェスターコートの裾を整えながら、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
窓の外の陽炎は、さらにその激しさを増していた。ガラスの向こう側に広がる熱地獄が、我々の出陣を待ち構えている。
「時間です。行きますよ」
感情の起伏を完全に削ぎ落とした、平坦で冷たい声。かつて私が何度も耳にし、その背中を追いかけ続けた恩師の声音を、私は完璧に己の喉元で再現してみせる。
「はいっ!」
橘は弾かれたように立ち上がり、深々と一礼をして私の後を追う。私は振り返ることなく、重たいチェスターコートを翻し、冷気で満たされた喫茶店の扉を静かに押し開けた。
◆
白昼の繁華街を支配する喧騒から一本の裏路地へと足を踏み入れた途端、周囲の空間を満たす大気の性質が劇的に変質するのを感じ取る。
陽光を完全に拒絶した狭隘な隙間の世界は、両脇に聳え立つ雑居ビルのコンクリート壁に強固に挟まれ、真夏日である事実を忘れさせるほどの底冷えのする陰惨な暗がりを形成していた。室外機から吐き出される淀んだ熱風が局所的に滞留し、湿気を帯びた空気は呼吸をするたびに肺の奥底へと重く纏わりついてくる。
その最奥部、不法投棄された廃棄物の山に寄りかかるような不自然な姿勢で、ひとつの肉塊が横たわっていた。
もはや生命活動を完全に停止した被害者の遺体である。アスファルトの表面には夥しい量の血液が流れ出し、既に赤黒く変色しながら周囲の土埃と混ざり合って、おぞましい模様を描き出している。咽せ返るような鉄錆の臭気と、腐敗した生ゴミの悪臭が化学反応を起こしたかのように鼻腔を激しく突き刺し、人間の持つ根源的な忌避感を容赦なく煽り立てていた。
「うっ……く……」
凄惨な現場を目の当たりにした橘立花は、咄嗟に口元をハンカチで覆い、胃の腑から込み上げてくる強烈な吐き気を必死に堪えようと肩を震わせている。
彼女の反応は、正常な人間性が機能している証左に他ならない。しかし、我々が対峙しなければならない空想犯罪の現場においては、その人間性こそが最も不要な足枷となる。私は橘の苦悶に満ちた横顔に一瞥をくれたのみで、直ちに現場の状況分析へと意識を切り替えた。
遺体に刻まれた裂傷は、通常の物理的な刃物によって生じた痕跡とは明らかに異なる。肉体の表面から内部に向かって切り裂かれたのではなく、空間そのものを断ち切るような不可視の刃が、直接的に細胞を分断したかのような極めて特異な切断面。この規模の切断面を残す凶器をただの人間が携帯できるはずもなく、現場に遺留されていない事実と照らし合わせても、これがイマジナリ・ブレイドを行使したホルダーによる凶行であることは疑いようのない事実であった。
しかし、犯行の痕跡は極めて新しいにも関わらず、現場には加害者と思われるホルダーの姿はどこにも存在しない。
唯一、遺体の第一発見者であり、我々S.W.O.R.Dへの通報を行ったという中年男性だけが、規制線の内側で腰を抜かしたように座り込み、恐怖に顔を引き攣らせていた。
「お……お怪我は、ありませんか? 発見時の状況を……もう少し詳しく、教えていただけますでしょうか……?」
橘は自身の動揺を懸命に押し殺し、震える声を無理に張り上げながら、通報者である男への事情聴取を開始した。
捜査官としての職務を全うしようとするその姿勢自体は評価に値する。彼女は男の目線に合わせて身を屈め、相手の恐怖を和らげようと努めて穏やかな声色を作っていた。
「分からないんです……! 私がここを通った時には、もう……この人が血まみれで倒れていて……! 怖くて、すぐに連絡を……!」
男は両手で自身の頭を抱え込みながら、怯えきった声で証言を反芻する。その瞳は恐怖に大きく見開かれ、全身の筋肉は小刻みに痙攣しているように見えた。
凄惨な殺人現場に偶然居合わせてしまった一般市民の反応として、一見すれば何の不自然さも存在しない完璧な演技。橘は男の言葉を完全に信じ込み、手元の端末に証言を記録しようと指を動かしている。
だが、私の眼は男の纏う微細な違和感を決して見逃さない。
極度の恐怖状態にある人間の肉体は、自律神経の異常な昂りによって特有の生理反応を示す。顔面からは急速に血の気が失せ、呼吸は浅く不規則になり、冷や汗が全身を覆うのが自然な摂理である。
しかし目の前の男は、声を震わせ、過剰に身体を動かして怯えを表現しているにも関わらず、その顔色は健康的な赤みを保っており、呼吸の乱れも意図的に統制されたものであることが明白。
何よりも、男の視線の動きが致命的だった。恐怖で周囲を警戒しているように装いながらも、その実、私や橘の反応を値踏みするように、極めて冷静な計算に基づいて動いている――
「橘。聴取を中止しなさい」
私は手元の端末を操作していた橘の肩を軽く叩き、低く冷徹な声で制止した。唐突な私の介入に、橘は不可解そうな表情を浮かべて振り返る。男もまた、微かな警戒の色を瞳の奥に潜ませながら、私を見上げてきた。
「ど、どうしたんですか? 真加理先輩。まだ状況の確認が……」
「これ以上の問答は無意味です」
私は橘の言葉を冷酷に遮ると、一切の感情を排した眼差しで男を真っ直ぐに見下ろした。
息を吸い込む必要すらない。私は自らの胸元へと右手を滑らせ、そこに眠る精神の深淵へと意識を接続する。かつては引き出すことすら恐れていた己の心の形を、今は呼吸をするのと同じほど自然に、外界へと顕現させることができる。
私の胸部から、物理法則を無視して引き抜かれた一振りの直剣。かつてそれは、私の未熟で不安定な精神状態を反映し、淡く儚い白銀の光を放っていた。
しかし、今の私の手に握られている『アンサラー』は、過去の面影を全く残していない。その刀身は光を反射するのではなく、周囲の光量そのものを吸い尽くすかのような闇色へと変貌を遂げている。研ぎ澄まされた鋭い黒光りは、もはや迷いや恐れを微塵も介在させない、純粋な執行の意思そのものである。
「な、何をするつもりですか……! 私はただの通報者で……!」
私が不可視の黒刃を抜き放った瞬間、男は事態の急変を察知し、慌てて後退しようと地面を這いずった。私は言葉を返す労力すら惜しみ、漆黒の切っ先を男の身体の輪郭に沿って、空気の膜を切り裂くようにして一閃する。
肉体的な苦痛は一切存在しない。しかし私の放った黒刃は、男の強固な精神の防壁を容易く貫通し、その内側に隠蔽されていた醜悪な真実の扉を強制的にこじ開けた。
『――くそっ、なんだこの女は! 俺が殺したってバレたのか!? いや、証拠なんてどこにもないはずだ。適当に誤魔化して、隙を見て逃げ切ってやる……!』
刃の接触によって生じた精神の裂け目から、男の狂気に満ちた本音が、周囲の空間全体を震わせる音声となって暴露される。
それは紛れもない、殺害を実行した者の明確な自白。橘は突如として虚空から響き渡った男の悪意に満ちた本音を耳にし、信じられないものを見るような目で男を凝視し、その場に完全に硬直してしまった。
「貴方を、空想犯罪の現行犯で拘束します」
イマジナリ・ブレイド。完全犯罪ツールとも揶揄されるそれを利用すれば、科学の発達したこの現代社会においてでさえ、殺人を犯してなお無罪を勝ち取るなど造作もない。
だが何事にも例外はある。目には目を、刃には刃を。科学では証明できない、人間の本性。心の声。それを私は聴くことができる。私の前で嘘は通用しない。だからこそ私はこの部隊において――否、この社会において特別な権限が与えられている。
およそ完璧だと思われた偽装が一瞬にして粉砕された事実を悟り、男の顔から先ほどまでの安直な余裕が完全に剥がれ落ちる。地面を這いずったまま慌ててその場を離れようとする男に向かって、私は煽るように黒刃の切っ先を突きつけた。直後、恐怖は極限の怒りと狂気へと反転し、男の眼球が血走った赤色に染まる。
「ふ……ふざけるな……ッ!! こ、この俺を……虚仮にしやがって……!!」
男は獣のような咆哮を上げながら、自身の内側から醜悪なる本性、イマジナリ・ブレイドを具現化させる。
それは刃というよりも、巨大な鉄の塊を無理やりに削り出したような、無骨で赤黒い錆に覆われた鉈の形をしていた。男の持つ暴力的な支配欲と、他者を破壊することへの執着がそのまま形を成したような、吐き気を催すほどの殺意の結晶。
男は弾けるように立ち上がると同時、その赤黒い凶器を大上段に振り被り、最も近くに立っていた橘に向かって狂信的な勢いで突進した。
橘は咄嗟に自身の胸元に手を当て、自らのブレイドを具現化させようと試みる――が、しかし。
「うっ……!?」
初めて直面する剥き出しの殺意と、目前まで迫り来る狂気に完全に呑み込まれ、彼女の身体は微動だにしなくなっていた。
肉体の防衛本能が理性を凌駕し、恐怖によって神経伝達が完全に遮断された状態。彼女の瞳孔は極限まで拡大し、迫り来る死の予感にただ立ち竦むことしかできない。
その光景を視界の端に捉えながら、私は焦燥を感じることも、怒りを覚えることもなかった。ただ、肺の底に僅かに溜まっていた空気を、短い嘆息として静かに外へと吐き出す。
瞬間、私は漆黒のアンサラーを右手に下げたまま、一切の予備動作を介さずに大地を蹴った。関節の駆動音すら置き去りにするような、極限まで無駄を削ぎ落とした洗練された歩法。
それはまさに、私が見つめ続けた弦木真琴の体術そのもの。彼女の残した戦闘記録を幾千回と反芻し、自らの肉体が破壊されるほどの鍛錬の果てに獲得した、死角へと滑り込むための完璧な軌道。男が橘を両断しようと振り下ろした赤黒い鉈が空を切るよりも速く、私は男の懐の最も深い位置へと音もなく潜り込んでいた。
「なっ……!?」
男が私の不可解な移動に気づき、驚愕の声を漏らそうとしたその刹那。私は下段から跳ね上げるように、黒光りするアンサラーの刀身を真上に向かって鋭く突き出した。
刃の目標は、男の急所を覆う肉体ではない。他者の心奥を強制的に開示する私のブレイドは、対象の最も脆弱な精神の結節点、すなわちトラウマの核を正確に穿つことによって、相手の意識そのものを直接的に破壊することができる。
黒い閃光が、男の顎下から脳天を貫くような軌道を描いて通過する。物理的な抵抗は皆無。しかし精神の奥深くで何かが致命的に破断する重たい感触が、柄を握る右手を通して確実に伝わってきた。
「ア……ガ……ァ……ッ」
男の口から漏れ出たのは、意味を成さない空気の漏れる音だけだった。精神の根幹を直接的に破壊されたことによる、中枢神経の完全な機能停止。男が具現化させていた赤黒い鉈は空中で霧散し、彼の巨体は糸の切れた操り人形のように、生気のない音を立てて冷たいアスファルトの上へと崩れ落ちた。
狂乱は僅か数秒の間に完全に鎮圧された。私は男が意識を完全に喪失していることを確認し、黒いブレイドを静かに自身の精神へと還元する。暗鬱な路地裏には、再び生ゴミの腐臭と、粘り気のある沈黙だけが残された。
◆
硬直したままの姿勢で立ち尽くしていた橘が、限界を迎えたように膝から崩れ落ちる。彼女は両手を地面につき、過呼吸に近い状態で荒い息を繰り返している。死の淵を覗き込んだ恐怖が遅れて身体を支配し、その華奢な肩は制御不能な震えに苛まれていた。
「ご、ごめんなさい……私……」
橘は地面に落ちた視線を上げることすらできず、嗚咽の混じった声で絞り出すように懺悔を口にする。
現場で直面する己の無力さ。純粋な悪意を前にして、訓練で培った技術が何の役にも立たないという絶望感。私は彼女を見下ろし、その細く震える背中に、かつての自分自身の姿を重ね合わせずにはいられなかった。
「その反応は正常です。相手が何者であれ、躊躇無く力を振るえるほうがどうかしている。ただし、それは貴女が一般人であればの話。我々には責任があります。躊躇してはいけません。その一瞬の迷いが、この仕事では命取りになる」
私の口から紡がれたのは、慰めの言葉ではなく、淡々とした事実の羅列。同情を示すことは容易いが、それは彼女を真の死地から救うことには繋がらない。過酷な現実の中で生き残るためには、己の弱さを直視し、それを克服する強靭な意志を構築するしかないのだ。
橘は私の厳しい言葉に打たれたように身体を強張らせ、強く唇を噛み締めていた。その瞳には涙が滲んでいたが、決して泣き崩れまいとする意地が微かに見え隠れしている。
「この仕事に必要なのは覚悟です。力に主導権を握らせないで。恐怖を飼い慣らしてください」
静寂に包まれた裏路地に、私の声だけが淡々と響き渡る。感情を交えない言葉の連続。それは新人に対する指導であると同時に、私自身が過去の記憶と対峙し、己の在り方を再確認するための儀式でもあった。
「……私、外されますか。この部隊から……」
橘が顔を上げ、不安と恐怖に満ちた目で私を見つめ返した。彼女の声は細く、今にも消え入ってしまいそうだった。
私はその弱々しい問いかけに対し、即答を避けて僅かな間を置く。脳裏にフラッシュバックするのは、私が初めてあの人と対峙した夜の光景。冷たい夜風の中、背を向けて立ち去ろうとする漆黒のコート姿。そして、私を絶望から引き上げ、同時にこの地獄へと引きずり込んだ、あの不器用で残酷な言葉。
私は自らが纏う分厚いチェスターコートの重みを改めて認識し、深く静かな呼吸を一つ繰り返した。感情の起伏を一切見せず、ただ冷徹に、そしてどこまでも突き放すような口調で、私はあの言葉を口にする。
「……そうなりたくなければ、精々励んでください」
私はこれ以上橘の顔を見ることはせず、昏倒している犯人の身柄を拘束するために、無言のまま冷たいアスファルトの上へと歩みを進めた。
◆
天頂を支配していた暴力的な熱線は時間経過と共にその威力を失い、都市の輪郭は濃密な茜色と紫暗の境界線へと沈み込みつつあった。
無惨な空想犯罪の爪痕が残された裏路地での事後処理は、遅れて到着したバックアップ部隊の手によって迅速かつ機械的に遂行されていく。昏倒した犯人の身柄は厳重な拘束具を施された上で専用の移送車両へと収容され、現場に遺された血液や痕跡の数々も、特殊な清掃班の介入によって次々と日常の風景へと偽装されていった。
すべての引き継ぎ事項を完了させた後、私は橘立花をそのまま帰路に就かせた。足取りの覚束ない彼女の背中が繁華街の雑踏へと吸い込まれ、完全に視界から消失するのを見届けた瞬間。私の肉体を覆っていた現場指揮官としての張り詰めた外殻が、ごく僅かに弛緩の兆しを見せる。肺の奥底に滞留していた空気の残滓を深く吐き出し、私は西の空を焼き尽くす夕暮れの残照に背を向けて、ただ一人での歩行を開始した。
向かうべき場所は一つに限定されている。都市の中枢に位置するS.W.O.R.D本部庁舎。その威容を誇る超高層ビルのエントランスを通過し、一般の職員が立ち入ることのできない厳重なセキュリティゲートを幾重にも突破する。網膜認証と静脈認証の冷たい電子音が短い承認の合図を鳴らし、分厚い装甲扉が左右に分割して私の行く手を開放した。
その先にあるのは、地下最下層へと直結する専用の下降用エレベーターである。無機質な金属の箱に足を踏み入れ、行き先を示す単一のボタンを押下する。
重力に逆らうことなく垂直に落下していく物理的な感覚が、内臓を微かに持ち上げる。階層を示す電子表示の数字が高速で減少し続けるにつれて、箱を満たす空気の温度は明らかな低下を記録し始めた。
地上の狂乱じみた真夏の熱気は完全に遮断され、代わりに霊廟を思わせる無菌状態の絶対的な冷気が、私の着用する漆黒のチェスターコートの表面を撫でていく。分厚いウールの生地がこの地下空間においてのみ、その本来の防寒機能を発揮するという事実は、ある種の皮肉を含んでいた。
エレベーターの駆動が停止し、厚い鋼鉄の扉が左右に開く。そこに広がっているのは、本部庁舎の地下深くに建造された巨大な空間。外部の光が一切届かないこの空間は、床面に埋め込まれた間接照明の淡い光線のみが、規則正しく整列する石碑の群れを青白く照らし出していた。足音を吸収する特殊な材質で覆われた床を歩むたび、完全な静寂が私の聴覚を圧迫してくる。
私は迷うことなく、その薄暗い部屋の最奥に位置する区画へと直進した。数多の名前が刻まれた石碑を通り過ぎ、私が最終的に歩みを止めたのは、ひと際新しい切り口を見せる黒御影石の墓標の前である。
磨き上げられた石の表面には、照明の微かな光を反射して、ひとつの名前が鋭く刻み込まれていた。
――弦木真琴。
その四文字の羅列を視界に収めた瞬間、私の心臓の中心部が鈍い痛みを伴って収縮する。
墓標の上に供花や供物の類は一切存在しない。ただひとつ、その冷たい石の頂部に安置されているのは、彼女が生前に愛煙していた銘柄の、未開封の煙草の箱であった。
透明なフィルムで厳重に包装されているにも関わらず、乾燥した空間の性質が作用しているのか、深く焙煎された煙草の葉の匂いが幻覚を伴って鼻腔を微かにくすぐる。その芳香は、彼女の纏っていた特有の気配を脳内に強制的にフラッシュバックさせる力を持っていた。
「ただいま。センパイ」
私は墓標に向かって、誰に聞かせるわけでもない独白を静かに空間へと落とす。
その声の響きは、先ほどまで新人の橘に向けていた冷徹なものとは異なり、微細な震えと温度を含んでいる。漆黒のコートのポケットから両手を抜き出し、私は自らの胸の前で両腕を交差させ、自分自身の身体を抱き締める仕草をとった。
三年前、弦木真琴が殉職したあの日。彼女の命が奪われたという現実を、当時の私には直視できなかった。
そんな私が自己の精神構造を保護するために選択した最後の生存戦略。それは自らの内側に『弦木真琴』という存在そのものを降ろし、彼女の概念を模倣すること。
味覚を破壊するほどに苦いブラックコーヒーを顔色一つ変えずに飲み込むようになったのも。真夏の暴力的な日差しの下で熱を吸収する黒い外套を決して脱ごうとしないのも。他者の感情を切り捨てるような、氷点下の冷徹な口調を維持し続けているのも。その全ては私自身の成長の証などではなく、むしろあの日から私の時間は止まったまま。
珈琲の苦味で自らの脆弱な味覚を麻痺させ、外套の重みで震える肉体を強制的に押さえつけ、冷徹な声色で泣き叫びたい衝動を喉の奥へと封じ込める。その仮初の鎧を纏うことでしか、私はS.W.O.R.Dという狂気の最前線に立ち続けることができなかった。私は彼女の影法師となり、彼女の残した軌跡をなぞることで、辛うじて真加理冴矢という個体の形を保っているに過ぎない。
S.W.O.R.Dに入隊してから、六年。あの未熟だった私が、今やかつての弦木真琴と全く同じポストに収まり、部隊の指揮権を任される立場へと昇格を果たしている。周囲の人間は私の指揮能力を高く評価し、彼女の後継者として相応しい存在であると賞賛の言葉を向けてくる。
しかし、彼らは誰も理解していない。私の内側に構築されたこの仮初の強さが、どれほど深い泥濘の上に成り立っている砂上の楼閣であるかを。
私はゆっくりと右手をコートの内ポケットへと滑り込ませ、そこに保管していた一束の分厚い紙の束を取り出した。
それは電子データ化をあえて拒絶し、物理的な質量として手元に置き続けている極秘の捜査資料。三年前、私の全てであった恩師を惨殺し、未だにその正体すら掴ませないネームドホルダーに関する、あらゆる断片的な情報の集積。ざらついた紙の質感が指先を擦り、そこに印字された不鮮明な文字の羅列が、私の網膜を焼き付ける。
この三年間、私はただの一秒たりともあの日の記憶を忘却したことはない。彼女の身体が崩れ落ちた瞬間の光景。空気を切り裂いた異形の刃の軌跡。私の無力さが招いた、取り返しのつかない終焉。
その全てを細胞の隅々にまで刻み込み、私は今日まで復讐の刃だけを研ぎ澄ませてきた。部隊の指揮を執るのも、空想犯罪を鎮圧し続けるのも、あの女をいつかこの手で屠るため。その準備期間に他ならない。
捜査資料を握り締める右手に、関節の鳴る音が響く。直後、殆ど無意識に私の胸の奥底から渦巻く殺意と憎悪の奔流が溢れ出し、刃となって具現化する。
アンサラー。それは本来、私の未熟な正義感が生み出した白銀の直剣であった。しかし今、私の手の中に握られたその剣は、過去の面影など全く無い程に異様な変質を遂げている。
「大丈夫ですよ。心配しないで」
私の精神の奥深くに巣食う、煮えたぎるような憎悪。敵の血肉を喰らい尽くし、その存在を根絶やしにしたいという極限の渇望。それらの負の感情をすべて吸い上げた刃は、暗闇の中で脈動を始め、次第にその色を毒々しい赤色へと変えていく。
まるで新鮮な血液を欲して自ら発光しているかのような、鈍く赤黒い禍々しい輝き。それはかつて彼女の振るっていた闇色の曲剣の概念を、自らの精神の奥底へと強迫的に取り込んだ結果であった。
「任せてください。あの女は必ず、私が殺してみせますから」
私はその赤黒い光を放つ剣を静かに構え、弦木真琴の墓標を真っ直ぐに見据えた。
この命が尽きるその瞬間まで、私は彼女の影を纏い、彼女の戦いを継続する。あの視えない敵の心臓を、この刃で必ず貫き通すために。
冷たい地下室の静寂の中、赤黒い光だけが私の決意を肯定するように、不気味な明滅を繰り返していた。




