Beginning Night Ⅵ
弦木が特定した次の犯行予測地点は、古びたアーケードが続く商店街を抜けた先に広がる小さな公園だった。夜の帳が完全に下りた今、そこは深い静寂と闇に包まれている。
公園の入口付近、街灯の光が届かない鬱蒼とした茂みの奥深くに、私たちは身を潜めていた。肌を撫でる夜風はひんやりとしていたが、私の身体は緊張で強張り、寒さを感じる余裕すらない。そのすぐ隣で弦木もまた同じように息を殺している。彼女の気配は闇に溶け込み、その鋭い視線だけが公園全体を油断なく監視していた。
次の標的と目されるのは、加藤という名の男子生徒。弦木が調べた情報によると、彼は帰宅途中、日常的にこの公園を通り抜けているという。
やがて商店街の方向から、制服姿の男が一人姿を現す。彼は慣れた足取りで公園を横切るように歩いてきた。見覚えのある顔――加藤だ。間違いない。
そして彼が公園の中ほどまで差し掛かった、その瞬間。公園の最も奥まった場所、滑り台の裏手の深い暗がりから――それは音もなく現れた。
真っ赤なレインコートを纏う人影。その右手には、あの禍々しい日本刀のイマジナリ・ブレイドが、確かに握られている。
ネームドホルダー、ムラサメ。彼女は地を滑るような異様な俊敏さで、一直線に加藤へと迫っていく。加藤はまだそのことに気づいていない。その無防備な横顔に目掛けて、ムラサメの凶刃が容赦なく振り下ろされる――
刹那、弦木真琴は動き出していた。私が反応するよりも遥かに速く、茂みから飛び出し地を蹴った彼女の脚力は、突風をすら巻き起こして――瞬く間、ムラサメと加藤の間に割って入ったのである。
「……動くな。私はS.W.O.R.Dだ」
迫りくるその凶刃を、弦木真琴は真正面から受け止めていた。その手に握り締める、イマジナリ・ブレイドによって。
弦木の手に握られていたのは、全体が深い黒色に染まり、その刀身は蛇のように歪に湾曲している、異形の曲剣。その黒剣が、ムラサメのブレイドと激しく鍔迫り合い、火花のような光の粒子を散らす。
「村田澪、貴様には逮捕状が出ている。これ以上、抵抗を続けるのなら――こちらも実力を行使する」
弦木は低い声で告げると、そのまま黒剣を力強く押し込みムラサメの体勢を崩して、後方へと弾き飛ばした。その衝撃に巻き込まれる形で、弦木の背後に立っていた加藤も軽く吹き飛ばされ、その場で尻もちをつく。彼は状況を全く理解できていない様子で、呆然と弦木のことを見上げていた。
「に、逃げてください! 早く!」
遅れて私も茂みから飛び出し、呆然とする加藤に向かって大きく声を張り上げる。彼はそれでようやく我に返ったのか、恐怖に引き攣った顔で頷くと、もつれる足で立ち上がり商店街の方へと走り去っていった。
「…………」
弾き飛ばされたムラサメは、やはり異様な反射神経で即座に体勢を立て直すと、そのフードの奥から憎悪の視線を弦木へと向けている。黒剣と白刃の対峙は、張り詰めた空気の中で暫し続いた。街灯の乏しい光は、辛うじて二人の輪郭を朧げに照らし出すのみで、その表情の細部までは窺い知れない。
弦木は黒く歪んだそのブレイドを、まさしく身体の一部として自然に構えている。対するムラサメは、襲撃を阻まれた怒りと予期せぬ伏兵の出現に対する動揺を隠しきれない様子で、その肩が小刻みに震えているのが見て取れた。
「……邪魔、するな……!」
緊迫する空気の中、先に沈黙を破ったのはムラサメだった。フードの奥から漏れ聞こえる、追い詰められた獣の如き唸り声と共に大地を蹴る。常人離れしたその瞬発力は、一瞬のうちに弦木との間合いを詰める。
「抵抗を確認。これより制圧を開始する」
迎え撃つ弦木は冷静だった。迫りくる凶刃に対し、彼女は最小限の動きで的確に対応する。後退ではなく、むしろ半歩踏み込み身を僅かに捻ることで、切っ先を紙一重で回避してみせた。
そしてすれ違いざま、空手の貫手にも似た鋭い掌底を、がら空きになったムラサメの脇腹へと叩き込む。鈍い打撃音と共にムラサメの身体がくの字に折れ曲がり、苦悶の呻きが漏れた。
しかしムラサメの動きは止まらない。どうやら弦木の分析通り、ムラサメのブレイドがもたらす身体強化の能力は常識を超えた耐久力を使い手に与えているらしい。ムラサメは体勢を崩しながらも空中で無理やりに身体を捻り、今度は下から掬い上げるような変則的な斬撃を繰り出す。
予想外の追撃。しかしそれにも即座に反応して、弦木は黒剣を逆手に持ち替え振りかざし、向かってくる白刃を弾き返す。刃を防がれたムラサメは、そのまま後方に倒立回転しながら弦木と距離を取る。
ムラサメの戦闘スタイルは洗練された武術とは程遠い。しかしそれ故に、動きが読みづらい。野生的ともいえる直感と異常なまでの身体能力が、経験不足を補って余りある脅威となっていた。
そもそもムラサメ――村田澪は擬刃化してから日も浅く、体系だった戦闘訓練もろくに受けていないはず。ブレイドの能力だとしても、単純な身体強化では説明がつかない気がする。あるいは肉体そのものがブレイドによって操られている、と見るべきだろうか。
距離を取った両者、互いに剣を構え直すと、間も置かずに再度激突する。弦木の黒剣が描く流麗な円弧と、ムラサメの日本刀が放つ直線的な閃光が、夜の公園で幾度となく交錯した。光の粒子が火花のように飛び散り、周囲の闇を一瞬、幻惑的に照らし出す。
弦木の攻撃は常に的確で無駄がない。蹴りは急所を狙い、掌底は呼吸を止め、黒剣は敵の刃を確実に防ぐ。
対してムラサメは、その圧倒的な身体能力を頼りに、力任せに刃を振り回す。何度打撃を受けても意に介さず、ひたすらに前へと突進してくる。
ムラサメのアクロバティックな動きも相俟って、一見すると両者の攻防は一進一退のように映る。だが実際のところ、ブレイドを振るうたび、その精神を激しく消耗させているのは明らかにムラサメのほうだった。
フードの奥から溢れる息に強い苛立ちが乗っている。その奥に控える瞳の輝きには、深い絶望の色が複雑に渦巻いているようだった。
やはり能力による強制的な身体能力の向上は、彼女の精神に無理をきたしているのかもしれない。形勢は徐々に弦木へと傾きつつあるようだった。
「(どうしよう……私に、何かできることは……っ)」
私はその様子を茂みの影から固唾を飲んで見守りながら、焦燥感に駆られていた。弦木が優勢に進めているように見えるが油断はできない。戦況は常に予期せぬ事態を引き起こす可能性を秘めている。
私に何かできることはないか。弦木の助けになるような、私にしかできないことは、何か――思考が空回りする中、戦況が動き出す。
弦木の黒剣による鋭い突きを、ムラサメは身体を異様に捻じ曲げて無理矢理に回避した。攻撃直後の弦木に一瞬の隙が生まれる。しかしそれも恐らくは弦木の罠。ムラサメの攻撃を誘い、反撃のチャンスを窺っているのだ。ムラサメの気性の荒さならば、隙を見せた途端、飛びかかるに違いない――
「…………ッ!!」
――しかし、その刹那。ムラサメは異常な瞬発力は、反撃ではなく後方への跳躍を選択した。彼女は着地と同時に身を翻し、公園の出口、商店街とは逆方向の路地へ猛然と駆け出したのである。逃走。この状況で、彼女はまだ逃げ延びることを諦めてはいなかった。
「逃がすか……!」
弦木も即座に追跡を開始する。しかしムラサメの逃げ足は、やはり尋常ではなかった。弦木の反応速度をもってしても、その差をすぐに詰めることは難しい。
私には一瞥もくれずその横を通り過ぎていったムラサメは、暗い路地裏へと駆け込んでいく。このまま道なき道を、あの身体能力で縦横無尽に移動されたら追跡は困難を極めるだろう。
「っ……! く……!」
このままでは、逃がしてしまう――そう思った次の瞬間。私の身体はまたしても、恐怖や躊躇といった理性の判断を飛び越えて、思考よりも先に動いていた。もはや無意識のうちに、私の胸元から銀の粒子が溢れ出す。
私の心の形。淡い白銀の光を放つ直剣。掴み取ったそれを、逃走するムラサメの背中に狙いを定めて――
「う、お、りゃあああああああああああああああッッ!!」
心の奥底から湧き上がる衝動のままに、腹の底から思いっ切り雄叫びを上げながら――私は力一杯、投擲したのだった。
白銀の軌跡は、物理的な法則を完全に無視して一直線、夜空を切り裂くように翔ける。私の意志を乗せた刃は、正確な軌道を描いて――ムラサメの背中、そのど真ん中に深々と命中したのだった。
『――真加理さん……どうしてまた、こんな所に……! いや、今はそれより逃げないと……! くそっ……あの女、しつこい……!』
背中に刃が突き刺さった、その確かな手応えが『心の声』として私の脳内に直接フィードバックされる。思考が、感情が、濁流のように流れ込んでくる――
『でも……どうせ私の速さには、誰も追いつけない……! このまま、いつもみたいに……追手を撒きつつ、北上して……展望台の近く、山奥で見つけた空き家……あそこまで逃げ切れば……――!』
心の声は周囲に漏れることなく、私にだけ聞こえていた。ムラサメは自分の背中に私のブレイドが刺さっていることにすら気がつけていない。能力制御が上手くいっている。特訓の成果が出ている――!
「弦木さんっ!! ここから北に真っ直ぐ、郊外の山岳地帯!! 展望台近く、山奥の空き家!! そこがムラサメの隠れ家です!!」
私は聞こえてきた情報を、そのまま弦木に向かって力の限り叫んで伝えた。弦木は私の声に一瞬、驚きで目を見開かせていたが、すぐにいつもの鋭い目つきに戻り、状況を即座に理解したようだった。
彼女は追跡の足を緩めることなく走りながら、コートのポケットから携帯端末を素早く取り出した。その動きには一秒の無駄もない。
「……弦木だ。ムラサメの潜伏場所について新たな情報を得た。今から座標を送る。至急、応援部隊の派遣を要請する……!」
弦木は電話口にそう伝えながら、その足を真っ直ぐ、公園から少し離れた位置に駐車してある黒いセダンへと向かっていた。追いかけるつもりだ――言葉を交わさずとも彼女の意図を察知した私は、急いで弦木の後に続く。
私たちがそれぞれ運転席と助手席に乗り込んだのは、ほとんど同時だった。シートベルトを締める間も惜しいとばかりに、弦木は既にエンジンを始動させる。夜の静寂に響き渡る低いエンジン音が、追走劇の幕開けを告げた。
◆
ムラサメはその驚異的な脚力で、住宅街の屋根から屋根へ軽々と飛び越えていく。追手を撒くために、あえて迂回しながら移動していたムラサメだったが、弦木の追跡を完全に振り切ったと確信するとその足取りを迷わず北へと向かわせる。そうして彼女は、目的地の郊外まで辿り着いていた。
そこに広がっているのは、港湾地区の夜景を遠くに見下ろす小高い丘陵地帯。その一部は深い木々に覆われた山岳地帯にもなっていた。夜間は野生動物が出現することもあるため、地元住民でさえ滅多に立ち入らない場所だという。
その山中に設けられた展望台の近く、さらに山奥へと分け入った場所に打ち捨てられたように放置されている古い空き家を、ムラサメは隠れ家として不法占拠していた。
「そこまでだ」
しかし、安息の地に辿り着いた彼女を待ち受けていたものは――複数台の装甲車両から展開し、既に包囲網を完成させている完全武装したS.W.O.R.Dの隊員たち。
そして――もう二度と、絶対に同乗したくはないと心の底から激しく思うほど、弦木の常軌を逸した荒々しいドライブテクニックによって――ここまで先回りして辿り着いた私たちが、ムラサメの背後に立ち塞がる。
『嘘ッ……隠れ家が、バレた……!? どうして……ッ!?』
ムラサメは無言を貫きながらも、その内心では酷く動揺していた。未だ刺さったままの私のブレイドから、彼女の心の声は筒抜けになっている。
そんな彼女が、弦木の隣に立つ私の姿を見た瞬間、大きく息を呑むのが分かった。レインコートのフードの奥で、彼女の目が大きく見開かれていく。
『――まさか。そんな……まさか……まさか、まさかッ……!?』
そこでようやく思い至ったように、ムラサメは慌てて自分の身体をあちこち確かめ始めた。そうして、自分の背中に淡い白銀の光を放つ直剣が深々と突き刺さっている事実を、ようやく認識して――途端にその全身を激しく震えさせる。
「く……ッ……! う……わああああああああああッ!!」
今度は心の声ではなく、彼女自身の甲高い絶叫が響き渡った。完全に我を忘れた様子で、ムラサメは一直線に私の方へと猛然に向かってくる。抜き放たれた日本刀のブレイドがただ一点、私の眉間に真っ直ぐ狙いを定め、恐ろしいほどの速度で突進してくる。
その常人離れした速度に、私は当然反応すらできずに硬直していた。思考も、反応も、追いつかない。避けられない。逃げることもできない。このままでは、僅か数秒にも満たない次の瞬間。私の命は無慈悲に奪われるだろう――
『安心しろ。貴様の身の安全は、私が保証してやる』
――だけど、私は信じていた。あの時の、彼女の言葉を。
弦木真琴は嘘を吐かない。その絶対的な真実を――
そんな私の期待に応えるように――刹那、弦木はもはや常人では捉えることすら不可能なほどの反応速度で、自らの黒く歪んだ曲剣を天を衝くように鋭く薙ぎ上げた。
その居合抜刀の黒い一閃は、ムラサメの繰り出す速度すらも完全に凌駕して――ムラサメが握り締めるブレイドを、その手元から弾き、空中へと吹き飛ばす。
それでも構わず突進してくるムラサメの、フードに隠れたその顔面に目掛けて――クロスカウンターを合わせるように。弦木の右の拳が鋭く放たれた。
拳によるその強烈な一撃を顔面に受けたムラサメは、後方へと吹き飛ばされ、そのまま地面に激しく転がり落ちる。彼女の手元から離れたブレイドは地面に落ちる直前、陽炎のように儚く揺らめき、音もなく霧散していった。
「……終わりだ」
弦木の声が冷たく響く。地面に叩きつけられ、倒れたムラサメは、もはや起き上がる余力も、イマジナリ・ブレイドを再生成する気力さえも残っていないようだった。仰向けのまま、ただ苦痛に満ちた呻き声をか細く上げている。
ムラサメの頭部、その正体を隠すように深く覆っていた不気味なレインコートのフードは、その倒れた衝撃によって完全にずり落ちていて――周囲を取り囲むサーチライトに照らされ、顕となった彼女の素顔に、私は思わず息を呑んだ。
黒い髪を散らし、そこに横たわっていたのは、やはり――私の記憶の中に微かに残っていた、あの少女の面影を色濃く残す顔だった。数年ぶりに間近で見る彼女の顔は、記憶の中よりも少しだけ大人びていて――何よりも、そこには全てに絶望したような疲弊の影が、痛々しいほど色濃く浮かんでいた。
「村田……さん……」
私はただ呆然と、彼女の名前を呟くことしかできなかった。そんな私の声に反応したのか、彼女は仰向けのまま力なく視線だけを動かして、私を見上げる。そうして彼女は、そのやつれた唇の端を歪めて、弱々しく笑ってみせた。
そんな彼女の顔を見た瞬間。私の意識は抗うことのできない激流に飲み込まれ、遥か彼方へと連れ去られる。
忘れたくても忘れられない、忌まわしいあの日の光景が。色鮮やかに、私の脳裏に蘇ってくる――