Beginning Night Ⅴ
重い気持ちのまま迎えた、土曜日の午後。スマートフォンが短い着信音を鳴らす。画面に表示されたのは――あれから名前の漢字を教えてもらって、登録し直した――弦木真琴の名前。私は溜息を漏らしながら、通話の応答ボタンをタップする。
「……もしもし」
意識して平静を装った声は、それでも微かに震えていた。
『私だ。今から迎えに行く。準備しろ』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、端的に用件のみを伝える、相変わらずの低い声。感情の起伏が一切感じられない独特の響き。
私が「分かりました」と一言伝えると、電話は一方的に切られた。暗転した画面に通話終了の表示だけが残される。私はしばらくの間、それを黙って見つめていた。
適当な時間を見計らって、私は軽く身支度を済ませてから部屋を出る。コンクリートが剥き出しの無骨な階段を四階から一階まで駆け下りると、アパートの玄関前にセダンタイプの黒い車が一台停まっているのが見えた。黒みがかったガラスの向こう側によく目を凝らすと、運転席に深々と腰掛けている弦木の姿が確認できる。
彼女はアパートから出てきた私の存在に気がつくと、助手席の扉を静かに開けた。促されるがまま、私は恐る恐るそこに乗り込む。
滑るように走り出した車内は静かで、外界の喧騒が嘘のように遠ざかっていった。それに比べ、早鐘のように打ち続ける私の心臓は酷く耳障りで、落ち着く気配がまるでない。手のひらにはじっとりと汗が滲み、呼吸が浅くなるのを感じる。
大丈夫。私はもう、あの頃の私じゃない――そう何度も自分に言い聞かせるけれど、身体の奥底から湧き上がってくる恐怖にも似た震えは、なかなか収まってはくれなかった。
窓の外の景色が目まぐるしく移り変わっていく。見慣れた街並みが、今日はどこかよそよそしく、不穏な雰囲気を纏っているように見えた。ハンドルを握る弦木は一言も発しない。ただ前方の道路を鋭い視線で見据えているだけ。その横顔からは何の感情も読み取ることはできない。
やがて車は目的地の近くで速度を落とし、路肩に静かに停車した。そこは閑静な住宅街の一角にある、ごく普通の二階建ての一軒家。四人目の被害者――遠藤の自宅である。
親御さんには既に弦木から連絡済みで、訪問の了承は得ているらしい。弦木は淀みない足取りで玄関の前までやってきて、そのまま躊躇なくインターホンのボタンを押す。電子的なチャイムの音が家の中から微かに響き渡った。
「……はい」
扉の向こうから若い女の、明らかに不機嫌そうな声が聞こえてくる。やがて扉の隙間から顔を出したのは、ゆったりとしたスウェット姿の女子生徒。肩まで伸びた髪は明るく染められ、化粧気のない顔には睡眠不足を示すような深い隈が刻まれていた。
遠藤だ。その右腕には痛々しいギプスが巻かれ、アームホルダーで肩から吊るされている。
「…………」
彼女はまず弦木の姿を認め、訝しげな表情を浮かべてみせた。そして、その視線が私の方へと移った瞬間――彼女はその表情を、明確な敵意の色にたちまち歪ませていく。
「ま、真加理……!? なんでッ……あんたが、ここに……!?」
彼女の甲高い声が辺りに響く。その目は血走り、怒りとも恐怖ともつかない感情で、私を激しく睨みつけていた。
「そうか……やっぱりそうなんだ……! 真加理……あんたたち……グルだったんでしょ! 最初から……!」
瞬間、彼女の口からは弾けるように、要領を得ない不可解な言葉が飛び出してくる。
「こんなことして何が楽しいわけ!? ホルダーのくせにッ! そもそも全部あんたが悪いんじゃない! 今更なんのつもりだよッ!」
半ばパニック状態に陥っているのか、彼女の金切り声は周囲に響き渡るほどで、罵詈雑言は湯水のごとく溢れ出していた。その剥き出しの敵意に、私の心臓は鷲掴みにされたように鈍く痛む。
「遠藤さん」
その時、弦木は私を庇うように、遠藤の前に立ち塞がった。彼女の鋭い視線が遠藤を真っ直ぐ射抜く。
「空想犯罪対応局の弦木です。事件の捜査に協力していただけますか」
「ちょっと待ってよ……! その女も一緒なんて聴いてないんだけど!?」
遠藤は尚も悪態をつきながら私を指差した。その指先が小刻みに震えている。彼女は怒鳴り散らしてはいるけれど、同時に何かに怯えているようにも見えた。
「彼女は我々の協力者です。何か問題でも?」
彼女の動揺など意に介さず、弦木は冷ややかに言い放つ。
「な、なによそれ……!?」
遠藤は納得がいかない様子で喚き散らすが、しかし弦木の揺るぎない態度に、次第に気圧されていくのが分かった。
「犯人に心当たりは? 貴方を襲った人物について、何か覚えていることはありませんか?」
弦木は淡々と、核心に迫る質問を続ける。
「知らないって何度も言ってんでしょ!? 覚えてないんだよッ、何も!」
対して遠藤は、叫ぶように答えた。その瞬間、弦木から視線で合図が送られてくる。私は震える指先を叱咤するように抑えながら、意識を集中し始めた。
右手に淡い白銀の光を纏った心の刃を出現させる。そして遠藤の言葉が終わるのとほぼ同時、その輝く切っ先を彼女の胸元にほんの一瞬だけ触れて、掠り傷を与える――
『――嘘』
脳内に直接響く心の声。やはり彼女もまた、犯人を知っている。少なくとも自分が狙われる理由について、何らかの心当たりがあるのだ。
「……そうですか。分かりました」
私の微かな頷きから真偽判定が成功したことを悟った弦木は、それ以上は遠藤に何も追及することなく、ただ短く呟いた。そうして弦木は私に目配せし、さっさと踵を返す。
「はぁ……!? なんなんだよ……! おいッ……聴いてんのか! 真加理ッ!」
弦木はもはや一瞥もくれることなく、背後から浴びせられる彼女の言葉を無視して、足早に車へと戻っていく。私も黙ってその後を追った。
玄関の扉が乱暴に閉められるその直前まで、遠藤の甲高い声が、呪詛のように延々と背中に突き刺さってきたが、私たちがそれに振り返ることはなかった。
◆
再び密室となった車の中に戻り、重たい扉が閉まると、先ほどまでの喧騒が嘘のような静寂が訪れた。しかしその静寂は安らぎとは程遠く、むしろ息が詰まるような重苦しさを伴っていた。
弦木はすぐにエンジンをかけることはせず、静かに私の方へと向き直る。その黒い宝石のような瞳は、先ほどまでの任務遂行中の冷徹さとは少し異なり、どこか探るような色を帯びていた。
「話せる範囲でいい。説明しろ」
彼女のことだから、きっと何もかも、既に勘づいていることだろう。それでも彼女は念入りに、私の口からそれを求める。もはやこの状況で何かを誤魔化したり、隠し通したりすることは不可能だろう。私自身、これ以上一人で抱え続けることには限界を感じていた。
一度ぎゅっと固く目を瞑り、乱れそうになる呼吸をゆっくりと整える。そして意を決し、私は重たい口を無理矢理に動かし始めた。
「……私、中学の時、いじめられてたんです。クラスのほとんど全員から、無視されたり、悪口を言われたり。さっきの彼女……遠藤さんは、そのいじめグループの中心にいるような人でした」
あの頃の絶望感が生々しく蘇ってきて、胸の奥が締め付けられるように酷く痛む。
「ここまでに会った、他の被害者たち……相澤さん、井上さん、宇川さんも……当時のクラスメイトです。彼らのいじめは、日に日にエスカレートしていって……私、耐えきれなくなって……その時に、自分のイマジナリ・ブレイドを、暴走させてしまって……」
私は俯いたまま、途切れ途切れに説明した。涙は辛うじて出てこなかったけれど、声はどうしても震えてしまう。あの日のトラウマは、思い出すだけでも呼吸が詰まりそうになる。
そんな私の告白を、弦木はただ黙って聞いていた。表情は相変わらず石のように硬く、感情がまるで読めない。同情しているのか、それとも軽蔑しているのか。あるいは単なる情報として、冷静に処理しているだけなのか。彼女が何を考えているのか、私には全く分からなかった。
ただその沈黙は肯定でも否定でもなく、事実として粛々と受け止めているような、そんな不思議な静けさを伴っている。
「……そうか」
ややあって、彼女は短く呟いた。その声色はやはり、何の感情も籠っていないように聞こえる。
「最後の被害者の自宅に向かうぞ」
感傷に浸る間も与えず、弦木はすぐに車のエンジンをかけた。サイドミラーを確認し、滑らかに車を発進させる。車窓から見える夕暮れ間近の空は、重く垂れ込めた雲に覆われ、まるで私の心象風景を映し出す鏡のようだった。
◆
最後の被害者の自宅は、先ほど遠藤の家があった住宅街から車で数十分ほどの距離にあった。そこは比較的新しい、近代的な外観の一軒家。近くの駐車場に車を停め、私たちは足早にそこへと向かう。
五人目の被害者、岡崎。私の記憶が正しければ、彼はあのクラスの担任教師だったはず。被害者の中では唯一の成人であり、教育者という立場にある人物だ。
いつものように、弦木がインターホンのボタンを押す。すぐに「はい」と、少し掠れた返事が聞こえてきて、扉が開かれた。
出てきたのは、やはり見覚えのある中年の男。白髪混じりの髪を無造作に伸ばし、度の強そうな眼鏡をかけている。顔色は悪く、目の下には深い隈が刻まれていた。
私たちの姿を認めると――予想通り――彼はあからさまに狼狽えたような表情を見せた。特に私の顔を見た瞬間、その視線は気まずそうに泳いで定まらない。その反応だけで彼が何を恐れているのか、私には嫌というほど伝わってきた。
彼に無言で促され、私たちはリビングへと通された。生活感の漂う、ごく普通の家庭のリビング。普段そこで食事をしているのであろう、年季の入った木製のダイニングテーブル、その前に置かれた椅子に岡崎が神経質そうに腰を下ろし、私たちはその対面に並んで腰かけた。
「ええと……ど、どうして真加理さんが……?」
引き攣ったような、ぎこちない笑みを浮かべながら、彼はまず最初にそれを尋ねてきた。声は上擦り、視線は私と弦木の間を行ったり来たりしている。
「彼女には我々の捜査に協力していただいてます」
「な、なるほど……」
弦木が一切の感情を排した平坦な声で答える。その答えに岡崎は頷いてこそしてみせたが、明らかに納得がいっていない様子で、静かに眉をひそめていた。
「例の通り魔事件について、改めてお伺いしたいことがあります」
弦木が本題を切り出す。その有無を言わせぬ態度に、岡崎の表情はさらに狼狽の色を深めていく。
「犯人について、心当たりはありませんか?」
「そ、それについては……以前にも、お伝えしたはずですが……」
「どんな些細なことでも構いません。何か思い出したことは?」
弦木の射抜くような鋭い視線が、岡崎を捉えて離さない。
「……な、何もありませんよ。あの日のことは、よく覚えてないんです。何しろ突然、背後から襲われたものですから……顔も、暗くてよく見えなかったですし……それに、気も動転していて――」
彼は言葉を濁し、視線を彷徨わせる。その態度だけで答えは明白だったが――例によって、私は静かに心の刃を抜刀した。テーブルの下、彼の膝あたりに、その白銀の切っ先を触れさせる。
『――嘘』
結果は、予想通り。これで被害者全員、嘘をついていることが確定した。私が視線だけで弦木に結果を伝えると、彼女は私の報告を認めるように、横目に私の方を一瞬だけ確認する。
いつもなら、これで尋問は終了。弦木は早々に会話を切り上げて、この場から立ち去る――はずだった。
「三年前。貴方が担任していたクラスでは、いじめがありましたね?」
しかし――私が内心で尋問の終わりを予期していた、まさにその次の瞬間。弦木は尋問を継続し、全く予想外の角度から、鋭利な刃物で切り込むように、核心に迫る質問を続けたのだ。その唐突な追求に、岡崎だけでなく隣に座っていた私も、驚愕に目を見開かせる。
「……は? きゅ、急に何の話ですか……?」
特に岡崎にとっては、完全に不意打ちだったのだろう。彼の狼狽えようは、もはや私が真偽判定をするまでもなく、誰の目にも明らかだった。顔からは血の気が失せ、額には玉のような脂汗が滲み出ている。
「真加理冴矢。彼女は三年前、つまり中学二年生の当時、貴方の担当していたクラスに在籍していた。そこで彼女は、陰湿ないじめの被害に遭っていました。それが大きな精神的負荷となり、結果として、彼女はイマジナリ・ブレイドを発現させるに至った」
弦木は一切の感情を込めず、ただ淡々と事実だけを述べていく。その言葉の一つ一つが重い楔のように、岡崎の心臓に打ち込まれているようだった。
「……そ、そうだったんですか。へぇ……いや、まさか……いじめがあったなんて。気づかなかったな……」
「気づかなかった。そうですね。貴方はそう仰るでしょう」
岡崎は必死に白を切ろうとしているが、弦木の冷たい視線と口調は依然として揺るがない。
「精神への過負荷は、心の擬刃化を引き起こす最も大きな要因の一つです。我々S.W.O.R.Dは、一般市民の無差別な擬刃化を防止するため、精神的過負荷に繋がるあらゆる行為――特に、いじめのような悪質な行為を、潜在的な犯罪誘発要因として捉え、その根絶に向けて関係各所と連携しています。教職にある貴方が、そのことを知らないはずがない」
弦木の言葉は単なる事実の羅列でありながら、法廷での告発のように、岡崎を確実に追い詰めていく。彼の顔から瞬く間に血の気が引いていくのが見て取れた。
「もしもいじめの事実が公式に露見した場合、S.W.O.R.Dは学校側の管理責任を厳しく追求することになります。特に担任教師である貴方の責任は大きく問われることになるでしょう。だから貴方は知らないふりをした。そのほうが、都合が良いから」
もはや反論する気力も失ったのか、岡崎はただ黙って俯くだけだった。その指先は小刻みに震えている。
「ですが、もう見て見ぬふりはできませんよ。なぜなら今回の連続通り魔事件は、貴方のクラスで起きたいじめが事の発端となっているのですから」
弦木はそこで一度言葉を切り、わずかな間を置いた後、さらに核心へと踏み込む。
「単刀直入に申し上げます。貴方のクラスでは当時、真加理冴矢に対するものだけでなく、複数の生徒に対するいじめが横行していた。そして今回の通り魔事件の犯人は、かつてそのいじめの被害者だった人物。私はそう推測しています」
推測と言いながらも、弦木はどこか確信をもって断じているようだった。そして確かに、彼女の推理は的を射ている。
「岡崎さん。もう一度だけお訊きします。犯人に、心当たりは?」
冷たく、全てを見透かすような視線が岡崎を射抜く。長く息が詰まるほどの重い沈黙がリビングに流れだした。
岡崎は何かを言い出そうとしては口をつぐみ、また言いかけては躊躇う、という動作を苦しげに何度も繰り返して――
「……ち、違う。僕は、悪くない。そうだ……悪いのは……!」
だが、次の瞬間。絶妙な言い訳をたった今思い付いたと言わんばかりに、岡崎は勢いよく顔を上げる。その目は異様な光を宿しているようだった。
「弦木さん、でしたか。貴女さっき、心の擬刃化を引き起こす要因は精神への過負荷だって……そう仰ってましたよね……? だったら……!」
そうして彼は、震える指で――私のことを、真っ直ぐ指差したのである。
「真加理冴矢……君のせいだ……! 『あの子』がホルダーになったのは……! 通り魔事件を起こしたのも、全て……君が三年前に起こした、あの事件のせいじゃあないかッ!」
飛び出した彼の言葉に、私は思わず耳を疑った。心の堰を切った彼は、とうとう何の恥も外聞もなく、責任転嫁に乗り出したのだ。
「あの子は必要な犠牲だった……! 彼女を不満の捌け口にすることで、クラスの統率は取れていたんだよ……! それを、君が……! 余計な正義感を振りかざして、庇ったりなんかするから……!」
信じられない言葉が、次々と紡がれていく。それは教師以前に一人の人間として、決して口にしてはならない、聞くに耐えない暴論でしかなかった。
「君があんなことをしなければ、僕のクラスは平和だったんだ……! 君がクラスの輪をめちゃくちゃにしたんじゃないかッ! そうだ……君が全部悪い……! 君さえいなければ、いじめが明るみに出ることもなかったのに……! ああ、これだからホルダーってやつは、本当に……! 余計なことばかりして、他人を不幸にすることしか能のない……社会のゴミ……異常者め……ッ!!」
込み上げてくる強烈な吐き気で、私の全身はわなわなと震えだす。その残酷で身勝手な言葉の数々は、言い返す気力すら湧かせないほど、私の心を深く抉るには充分な切れ味だった。
思わず零れそうになった涙が視界を滲ませ、目の前の光景を歪ませていく――
「黙れ」
――その時。凛とした、氷のように冷たい声が、重く淀んだリビングの空気を一閃する。
「貴様は教育者としての最低限の義務、人間として必要な倫理観すらも放棄した。生徒間で発生した深刻な問題を認識しながら、それの解決に努力するどころか見て見ぬふりを決め込み、結果的に事態を悪化させた張本人だ」
一息に、淀みなく、冷徹な言葉が紡がれていく。それは単なる非難というよりも、絶対的な真理の宣告。まさに断罪という響きに相応しい、正義の鉄槌だった。
「挙げ句にその全責任を、被害者である生徒の一人に臆面もなく押し付ける。自身の卑小な保身のために、都合の悪い事実は隠蔽し、忘却しようと努める。貴様のような腐敗した人間が教育現場に存在していること自体が、社会にとっての害悪だ」
岡崎はその顔面を蒼白にさせるばかりで、一言も反論することができない。完全に打ちのめされ、がくがくと顎を震わせていた。
完全に沈黙した岡崎を尻目に、弦木はその場に冷ややかな視線だけを残して、その場から勢いよく立ち上がる。
「帰るぞ」
そしていつものように、短い言葉をぶっきらぼうに私へ投げかけた。その低い声は、私のささくれだった心に、すとんと落ちてくるようで――もはや岡崎の方には目もくれず、リビングの出口に向かい始めていた彼女の背中を、私は慌てて追いかけた。
その背中は相変わらず冷たく、近寄りがたい雰囲気を放っていたけれど――今の私には、それがどこまでも頼もしく、どこか人間的な温かさを伴っているように感じられたのだった。
◆
車を停めた駐車場へと戻りながら、弦木はコートのポケットから携帯端末を取り出し、何やら複雑な操作を始めていた。指先が目まぐるしく画面上を動いている。
「……どうして、分かったんですか? いじめられていた生徒が、私の他にも複数いたって……」
その道中、私は疑問を口にした。確かに私は、自分自身のいじめられていた過去について彼女に打ち明けたが、他にその被害者がいたという事実までは明かしていない。
今にして思えば、もっと早くに打ち明けるべきだった。ここまで捜査が長引いてしまったのも、全て私の心の弱さが原因なのだ――
「貴様の手柄だ」
「……えっ?」
弦木は端末から目を離さないまま、唐突にそんなことを口走る。予想外の返答に、私は思わず間抜けな声を上げてしまっていた。
「貴様の能力によって、被害者全員の共通点を特定することができた。それは必然的に、犯人が被害者全員と面識のある人物であることを確定させたんだ。そして三年前、被害者たちが在籍していたクラスで陰湿ないじめが横行していたという事実。これらの情報を組み合わせれば、犯人が当時いじめの対象になっていた人物である可能性は、限りなく高いと断定できる」
彼女は端末を操作しながら、言い淀むこともなく淡々と推理を明かす。その思考の速さと深さには、改めて舌を巻く思いだった。彼女の頭の中では、既に事件の全貌が見えているのかもしれない。
「通常、人間の証言というものは――記憶違いや思い込み、あるいは意図的な嘘によって、その信用性が常に疑われる。単独では確実な証拠として採用されにくい場合が多い。だが、貴様の能力を使えば話は別だ。発言の真偽がその場で即座に判別できるというのは、捜査において大きなアドバンテージになる」
彼女はそこで一度言葉を区切り、静かに溜息を漏らしていた。その視線はやはり私に一瞥もくれないが――僅かに揺れるその瞳は、どこか私のために言葉を選んでいるような、そんな不器用さを感じさせる。
「……私が求めているものは常に一つ、揺るぎない真実のみ。貴様はそれに応えてみせた。……胸を張れ」
そうして、少しの間の後に紡がれたその言葉は――私の胸の中を、爽やかな風となって吹き抜けていくようだった。
今なら少しだけ、赦せるかもしれない。イマジナリ・ブレイド。ただ忌まわしいだけの力だと思っていた、私の心の一部。それも使い方次第で、こんな風に誰かの役に立てるのかもしれない。自分自身という存在を、肯定できるかもしれない――そう思った。
「……それで、だ。ほぼ確信しているが、念のため貴様にも訊いておく。いじめを受けていた生徒は、貴様の他にもいた。間違いないな?」
私が黙っていると、弦木は気を取り直すように、すぐ別の話題を切り出した。
「……はい。村田さん、という名前の……女子生徒でした」
その名前を口にした瞬間、私の心臓はどくりと嫌な音を立てて軋む。
村田澪。いつも教室の隅で、静かに本を読んでいた、目立たない女の子。彼女もまた、クラスの中で孤立していて、陰湿ないじめの標的になっていた時期があった。
私は、そんな彼女を助けようとして――
「気がついていたんだろう。通り魔の正体を、最初から」
「……っ!」
通り魔と初めて対峙した、あの時。確かに、どこかで聞き覚えのある声だとは思った。だけどそんな気がしたというだけで、確証はどこにもなかった。
けれど、だからこそ確かめたかったのだ。もしも本当に、通り魔の正体が村田澪だったら――彼女がホルダーになるきっかけとなった精神的瑕疵を、私が与えてしまっていたのなら――そう思うと、怖くて。認めたくなくて。
「……ごめんなさい。村田さんのこと、言い出せなくて。もっと早く、打ち明けるべきでした……」
「構わん。そもそも私一人では、手に入れることすらできなかった情報だ」
再び罪悪感に苛まれそうになっていた私を、思考の海を引きずり上げるように、弦木はあっさり言い放つ。そんな会話の最中にも、彼女の指は端末の画面上を目まぐるしく動いていた。どうやらデータベースのようなシステムで、何らかの情報を照会しているようである。
「村田澪。こいつが通り魔事件の犯人――ムラサメである可能性が高い。被害者に対し、あえて致命傷を避けているのは……奴の目的が被害者に恐怖を植え付け、精神的に追い詰めることにあるからだろう」
弦木はそう言って、操作していた端末の画面を私の方へと向ける。そこに表示されていたのは、私にとっては忌まわしくも懐かしい、当時のクラス名簿だった。
そこには生徒の名前と顔写真がセットでずらりと並んでいる。村田さんの名前は勿論、私の名前もあった。
「これで空想犯罪における逮捕状の請求に最低限必要な情報、被疑者の身元は判明した。まだ法的根拠は薄いが、既に被害者は五人も出ている。空想犯罪の特異性も考慮され、問題なく請求できるはずだ。これで私の抜刀許可も降りる。……次は逃さん」
抜刀許可――初めて彼女の心の声を聴いた時にも、確かそんなことを言っていた。S.W.O.R.Dの捜査官だからといって、自由に抜刀が許されているわけではないらしい。
「先回りするぞ。奴が次に狙うターゲットは、恐らく――名字の頭文字に『か』が入る生徒だ」
「えっ……? 『か』、ですか……?」
私は思わず聞き返していた。
「恐らくムラサメは、このクラス名簿を元にターゲットを五十音順で選定している」
相澤、井上、宇川、遠藤――言われてみれば確かに、その単純な法則性が浮かび上がってくる。あまりにも単純すぎて、逆に気づかなかった。
「実に稚拙で単純な法則性だが、これがターゲットに向けた一種の犯行予告として機能しているとすれば、むしろ効果的とも言える」
「……あっ、なるほど。岡崎先生は生徒じゃないのに、どうして狙われたのか不思議だったけど……そういえばこのクラス、『お』から始まる名字の生徒が一人もいないですね」
「ムラサメはあの教師のことを、他の生徒同様に恨んでいたはずだ。むしろ都合が良かったのだろう。そしてこの法則通りなら、次に狙われる可能性が最も高いのは……この『加藤』という生徒だ。住所は……」
弦木は言いながら、再び端末を操作し始める。端末上で加藤の個人情報を素早く確認した彼女は、その眉を僅かにひそめていた。
「……真加理冴矢。貴様の住むアパートの、すぐ近くだ」
「えっ、そうなんですか……?」
私は少し背伸びをして、彼女の隣から端末の画面を覗き込む。そこに書かれていた住所は、確かに私が住んでいるアパートから、歩いて数分の距離にある地域を示していた。私の通学路とも被っている――
「……あれ。ちょっと待ってください。それじゃあ、もしかして……」
その瞬間。私の背筋に、ぞくりと冷たい汗が流れるのを感じた。あの夜の恐怖が、悪寒と共に鮮明に蘇ってくる。
「あの夜、私が路地裏で襲われたのって……本当は加藤さんを狙っていたところに、私が偶然通りかかったから……?」
思えばあの時、私と対峙した通り魔の様子が少し妙だったのも、予定にない私との接触に動揺していたからだろう。そして彼女は衝動的に、私に襲いかかってきた。私は意図せずターゲットの身代わりとなり、危うく被害に遭うところだったのだ。
「そういう事だ。運が良いな、貴様は」
「ど、どこがですか……」
私は弱々しく抗議の声を上げたが、彼女は気にする素振りも見せず、気遣う言葉の一つもない。……この人、私以外の前でもこんな感じなんだろうか。職場の人たちと上手くやっていけているのだろうか。そのうちパワハラとかで問題になるんじゃないか。
そんなことを考えているうちに、やがて駐車場まで辿り着いた私たちは、音もなく車に乗り込む。重厚な扉が閉まると、外の喧騒が遠ざかり、車内は静寂に包まれた。弦木はすぐに発車させず、手元で淡く光るデバイスの画面に、しばらく視線を落としていた。
「村田澪には捜索願が出ているな」
「……えっ? そうなんですか?」
「一ヶ月前から行方不明になっている。学校にも姿を現していないし、実家にも帰っていない。心の擬刃化も未申告のようだ。国の監視から逃れるためだろう。現在の住居は不明。次の犯行を予測できるようになった今、犯行現場で待ち伏せたほうが確実だな」
弦木は最後にそれだけ確認すると、ようやくデバイスの電源を落として、ポケットの中に仕舞い込む。彼女はそのまま慣れた手つきでシートベルトを締め、車のエンジンをかけた。滑らかなエンジン音が静かに響く。
「私は今夜から現場の張り込みを開始する。貴様の役割はここまでだ」
彼女は前方の闇を見据えたまま、淡々と告げた。私の役割は、発言の真偽を見極めること。これ以上、私にできることは何もない。
つまり私たちの協力関係にも、終わりの時が訪れたのだ。長いようで短かった非日常は幕を閉じ、また元の平凡な日常に戻るのだ――
「あ、あの!」
けれど私の口は、その事実を認めてしまうよりも早く、衝動的に動いていた。
「私も、ついていっていいですか!? 行かせてください!」
自分でも驚くほどに、はっきりと。私は素直な気持ちを、そのまま声に出していた。きっと反対されるだろう。彼女のことだから、きっと足手まといだとか言って、冷たく突き放してくるはずだ。
それでも、私は諦めない。諦めたくない。ここまで来たら、最後まで見届けたい。絶対に――
「当然だ。貴様もついてこい」
しかし、そんな私の覚悟は裏腹に。弦木の返事は一瞬の躊躇すらなく即答だった。私の方を一瞥すらしない。
「……え? 本当に、いいんですか……?」
予想外の、あまりにもあっさりとした返答に、私は戸惑いながら聞き返す。
「なんだ。貴様が言い出したんだろう」
「いや、まあ……そうなんですけど……。でも絶対、止められると思ってたので……どう説得しようか、必死に考えてたんですけど……」
唖然とする私に対し、弦木は僅かに間を置いてから静かに続けた。
「貴様はもう無関係ではない。事の顛末を、その目で見届ける権利はある」
その声色はいつもの冷たさの中に、ほんの僅かだが人間的な響きが混じっているような気がした。
「……はい。きっと、この事件は……私にも、責任があるはずなんです。だから、私が訊かなくちゃ……彼女の口から、真実を……」
そう、責任。弦木は私にそんなものはないと、岡崎の前で否定してくれたが――もしも本当に、私の存在が今回の事件を引き起こす一因になっていたとしたら。私は今度こそ、向き合わなければならない。その可能性から目を背けることはできなかった。腹はもうとっくに括っている。
「安心しろ。貴様の身の安全は、私が保証してやる。決着をつけに行くぞ」
「はい!」
私たちを乗せた車は、夜の闇の中を真っ直ぐに突き進む。街灯の白い光は私たちの行く先を照らして、どこまでも長く続いていた。