Beginning Night Ⅳ
弦木真琴が指導の下、私の能力制御の特訓は数日間に渡り及んだ。
場所はいつも同じ、横浜港の一角に存在する古びた倉庫群の一画。錆びたトタン屋根が連なり、壁には煤けた落書きが点在するそのエリアは、いつ訪れても人影はほとんど見当たらず、どこか打ち捨てられたような雰囲気を漂わせていた。海から吹き付ける風は絶えず、潮の香りと錆びた鉄の臭いが鼻をつく。
そのがらんどうとした埃っぽい倉庫の内部は、高い天井から吊り下げられた裸電球の頼りない光だけがコンクリート打ちっぱなしの床をぼんやりと照らしている。壁際には用途不明の木箱や錆びついた機械部品が無造作に積み上げられ、その影が異形の怪物のように伸びていた。
そんな殺風景な空間に、私は来る日も来る日も通っている。休日だけではなく、平日の放課後すらも捧げて、自分自身の内側から湧き上がる衝動――己の心の刃と向き合い続けていた。
「集中しろ」
刃を構える私の目の前で、彼女は低い声で告げる。その瞳はいつ見ても変わらず、私の心の奥底まで見透かすような鋭さを光らせていた。私は反射的に背筋を伸ばし、唇をきつく噛み締めた。乱れそうになる呼吸を必死で整えようと試みる。
「もう一度だ。発言の真偽のみを捉えろ。ブレイドの接触は一瞬、皮膚に触れるか触れないか。その僅かな『心の掠り傷』から、必要な情報だけを引き出せ」
そう端的に告げて、弦木は隙だらけの無防備を晒す。彼女の全身には既に、特訓で私の刃に何度も貫かれて生じた『心の傷』の名残、光の粒子の破片が僅かに煌めいている。
私の刃で付けられた心の傷は、物理的には影響がないものの、精神的な疲労としてその心身に少なからず影響を与えているはず。それを思うと、私の心は罪悪感で縮こまりそうになる。
「遠慮は不要だ。やれ」
「っ……はい……!」
私は振り絞るように返事をし、再び固く目を閉じた。雑念を払い、意識を自分の内側の深淵へと沈めていく。意識の底に眠るのは、捉えどころのないエネルギーの奔流。その荒れ狂う激情を、理性と意志の力で押さえつけ、精密な道具としてコントロールしなければならない。
心の目で視る。この右手に、淡い白銀の光を帯びた直剣の形が現れる瞬間を捉える。それは物理的な実体を持たない、心の影。一般人には決して認識できず、私たちのようなホルダーにしか視認できない、精神エネルギーの結晶――
私は握り締めたそれをゆっくりと持ち上げ、その輝く切っ先を慎重に近づけていく。彼女の胸元へ、呼気が触れそうなほど近く。
「私は犬が好きだ」
その切っ先を前にして、彼女は抑揚の欠いた声で呟く。彼女が言い終わる瀬戸際、まさにその瞬間を狙って――皮膚の上、その薄皮一枚だけを切り裂くイメージで。切っ先をほんの一瞬、滑らせた。
『――私は犬が好きだ。従順で扱いやすい。……このガキも、もう少し従順であればな。やはり躾が必要か……』
瞬間、私の脳内に直接響く弦木真琴の表層意識。その心の声は、周囲に漏れていない。切っ先を通して、私にだけ聴こえているようだった。
上手くいった――が、些か余計なノイズまで拾ってしまった。しかも、その内容は……何というか……
「……弦木さん」
「なんだ」
私は思わず咎めるような声が出てしまったが、それを受けて尚も弦木は表情一つ変えずに応じる。
「……どうせ聞かれるからって開き直ってません? 躾ってなんですか!?」
「必要な情報だけを引き出せと言ったはずだ。それで、真偽は?」
私の抗議をあっさりと無視し、弦木は結果だけを求める。その冷徹さに、私はぐっと言葉を詰まらせた。むしろここまで明け透けだと、こちらも気を遣わずに済んでいいのかもしれない。
「……真実です。弦木さんは犬が好きです……」
「正解だ。心の声の『周囲への消音』も、今回は上手くできていた。この程度の真偽判定ならば、貴様も安定して制御できるようになったか」
彼女の評価は厳しいが、それでも僅かな進歩を認めてもらえたことに、私は少しだけ安堵の息をついた。
「では次だ。今度は実践形式でいくぞ」
だが、その安堵も束の間。彼女の口から、不穏なワードが飛び出してくる。
「実践形式……ですか?」
私は訝しげに聞き返す。これまでの訓練と、何が違うのだろうか。
「貴様の能力の精度は、対象者の精神状態に大きく左右される。平常心を保っている相手ならば、今の貴様でも真偽の判別は可能だろう。だが、例えば酷く動揺していたり、強い感情を抱いている相手に対しては、心の声に多くのノイズが介在し、制御も難しくなるはずだ」
「……なるほど」
この人はもしかすると、私以上に私の能力を理解しているのではないだろうか。思わず感嘆の息を漏らしてしまうほど、彼女の分析には納得させられてしまった。
「貴様はこれまでに、空想犯罪者の心の声を聴いたことがあるか」
「いえ、ありませんけど……」
「空想犯罪者の精神状態は、通常の人間のそれとは大きく乖離している。もしも奴らの心の声を聴いた時、貴様は冷静にその真偽を見極められる自信があるか?」
「……分かりません」
私は言葉を曖昧に濁したが、実際のところは自信がなかった。他人の思考や感情が流れ込んでくる感覚は不快で、精神的な消耗が激しい。ましてや、悪意や憎悪に満ちた相手の心に触れたら、どうなってしまうのか。想像するだけで背筋が凍る思いだった。
私の能力は、使い方を誤れば私自身をも破滅させかねない。文字通り、諸刃の剣なのである。
「そこでだ。これから私が、空想犯罪者の精神状態を再現する。貴様は、その状態の私から発言の真偽を判定しろ」
「へ……?」
彼女が何を言っているのか、正直すぐには理解できなかった。空想犯罪者の精神状態を……再現? そんな芸当が可能なのだろうか。
「えっと……分かりました……?」
「……始めるぞ」
気の抜けた私の返事に、弦木は少し呆れたように溜息を吐いていたが――やがて、ゆっくりと目を閉じた。数秒間の、僅かな沈黙が訪れる。
そして――彼女が再び目を開けた時。その瞳に宿る光、そして全身から発せられる空気は明らかに、先ほどまでのそれとは全く異質なものに変わっていた。それを前にした瞬間、ぞくりとした嫌な予感が、背筋を冷たく這い上がってくる。
空想犯罪者の精神状態を再現――その言葉の意味を、私はようやく理解し始めていた。目の前にいるのは、もはや弦木真琴ではない――何か別の、得体の知れない存在のように感じられる。
「私は、人を殺したことがある」
――そんな彼女が、不意に。心の奥底から絞り出すような、重々しい響きを伴った声で、確かにそう言ったのだ。
「えっ」
私の思考は一瞬、完全に停止していた。全身の血の気が、さっと引いていくのを感じる。心臓は嫌な音を立てて跳ね上がっていた。
これは特訓。だから嘘に決まっている。頭ではそう理解していても――でも、もし本当だったら? そう思わずにはいられないほど、彼女のそれは真に迫っていた。
「どうした。早くやれ」
「っ……わ、わかりました……」
私は腹を括り、再び意識を集中させる。震える右手に、心の刃を現出させる。白銀の輝きが、いつもより不安定に揺らめいている気がした。
それでも、私だってここまで無駄な時間を過ごしてきたわけではない。特訓の成果を見せる時だ。落ち着いて、切っ先だけをほんの一瞬、彼女の胸元に掠めるだけでいい――
『――許せない』
そうして白銀の切っ先が彼女に触れた、次の瞬間。強烈な感情の波が、防波堤を決壊させる津波のように。私の精神の奥深くへと、凄まじい勢いで流れ込んできた。
『許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。あいつだけは……私がこの手で、必ず……殺してやる……!!』
「くっ……う……!?」
脳を直接殴られたような衝撃。弦木の意識の深層に渦巻く、激しい憎悪と殺意の断片が、汚泥の濁流のように心の傷口から放流される。それに耳を傾けるほど、頭が割れるように痛む。視界がぐらぐらと揺れ、もはや立っているのがやっとだった。
『――……私は、人を殺したことはない。今はまだ。今はまだ……』
その憎悪と殺意に満ちた感情の激流の中から、辛うじて――私は真実を捕捉する。人を殺したという発言自体は、やはり嘘だった。それ自体は良かったが……しかし。この激情が偽物の演技だとも、私には到底思えなかった。
「っ……! ……はぁっ……!」
発言が嘘だったことへの僅かな安堵感と、それ以上に――何か触れてはいけないものを垣間見てしまったような、言い表せない不安感。それらが一気に押し寄せてきて、私はその場に膝から崩れ落ちそうになる。
「……こうなるか」
よろめきかける私を支えるでもなく、弦木はやはり顔色の一つも変えずに言い放った。その瞳からは先ほどまでの激しい感情の揺らめきは嘘のように消え失せ、いつもの氷のような冷静さが戻っている。
「消音は失敗。だだ漏れだったな。引き出した情報にもノイズが混じりすぎている。予想はできていたが……やはり、実際の空想犯罪者を相手取った細かな制御はまだ難しいか」
彼女は淡々と分析結果を述べる。その言葉の一つ一つが、私の未熟さを突きつけてくるようだった。
「……だが、真偽判定には成功していたな。今はそれで充分だ」
そんな中、さりげなく紛れ込んでいた僅かな肯定の言葉。しかし今の私には、それが慰めには聞こえなかった。
悔しい。確かに完璧にやれる自信はなかったけれど、もう少し上手くやれると思っていた。だが結局、私にはまだ覚悟が足りていないと、そういうことなのだろうか。
「どうすれば、もっと上手く……この力を、制御できるようになれますかね……」
少し自信を失いかけていた私は、ついそんなことを尋ねていた。床に膝をつきそうになるのを必死で堪えながら。
「貴様はまだ、恐れているな」
そしてやはり、彼女の指摘は的確だった。不意に核心を突かれた私は、思わず顔を上げる。倉庫の薄暗がりの中で、彼女の目が鋭く光ったように見えた。彼女は一体、どこまで私のことを見抜いているのだろう。
「心の刃を振るうこと、それ自体の罪悪感が太刀筋を鈍らせている。それが貴様にとって、能力制御を妨げる要因の一つになっているのかもしれん」
「……っ」
図星だ。私はこの力が怖い。かつて私は、この力で多くの人を傷つけ、孤立した。あの時の記憶は今も鮮明なトラウマとして、私の心に深く刻まれている。
あの時、教室に響き渡った、聞きたくもない心の声。歪んだクラスメイトたちの顔。そして、私に向けられた憎悪と恐怖の視線――できることならもう二度と、こんな力は使いたくない。それが、正直な私の本音だった。
分かっている。今がそうも言っていられない状況であることは。弦木との取引。通り魔事件の解決。そして、自分自身の未来のためにも。
「……怖い、です。でも……乗り越えなきゃいけないってことも、ちゃんと分かってるつもりなんです」
私は震える声で、正直な気持ちを吐露した。彼女の前で弱音を見せるのは少し癪だったけれど、もう隠し通せるものでもなかった。
「力に主導権を握らせるな。恐怖を飼い慣らせ。弱い自分をねじ伏せろ。この特訓が終わった後も日々の鍛錬は怠るな。このまま一生、その力に振り回されたくなければな」
彼女の言葉は厳しく、容赦がない。けれどその言葉には、いつも奇妙な説得力がある。彼女自身もまた、こうして自分のブレイドと向き合い、その制御に苦心した過去があるのだろうか。
「……まあ、ひとまずは上出来だ。能力制御の基礎は、概ね身についたと判断しよう」
一瞬の沈黙の後、弦木は再び口を開いた。
「明日から事件の捜査を始めるぞ」
「え?」
彼女の言葉に、私の心臓が大きく跳ねる。まだ完璧に能力を制御できている自信はない。私が能力の扱いを誤れば、取り返しのつかないことになるかもしれない――
「あの……もう、大丈夫なんですか? 私……」
「問題ない」
――けれど、この人が。弦木真琴が、そう判断したのならば。私に異論を唱える権利はない。短い期間だが共に過ごした時間の中で、私はそれを思い知っていた。
あるいは、これも彼女の思惑通りなのかもしれない。最初から私の弱さにつけこんで、従順な犬として飼い慣らすつもりだったのかも……
「被害者が入院している病院へ聞き込みに向かう。異論はないな?」
……まあ、別にいいや。それならそれで。
「はい……!」
私はまだ震えの残る声で、けれどはっきりそう答えた。ここまできたらもう、腹を括るしかない。逃げることは、もうできないのだから。
夕暮れの光が倉庫の窓から斜めに差し込み、埃っぽい空気を黄金色に染めていた。その光の中で――弦木のシルエットが、いつもよりも少しだけ、大きく見えた気がした。
◆
翌日の放課後。私は弦木に伴われて、被害者が入院しているという総合病院の前に立っていた。じりじりと照りつける午後の日差しがアスファルトに反射し、陽炎のように視界を歪ませている。病院の自動扉が開閉するたびに、冷房の効いた空気と共に、消毒液の独特な匂いが微かに鼻腔をくすぐった。
人の往来は思ったよりも多く、見舞客らしき人々や白衣を着た医療従事者たちが、せわしなく行き交っている。その日常的な喧騒が、これから私たちが足を踏み入れようとしている非日常との対比をより一層際立たせているようで――私の掌には、じっとりと嫌な汗が滲んでいた。
隣に立つ弦木は、そんな私の緊張など意に介さない様子で、ただ無表情に病院の入り口を見据えている。白いワイシャツに黒いジャケット、その上からさらにチェスターコートを羽織る彼女の姿は、この季節には場違いなほど暑苦しく見えるのに、彼女自身からは汗一つ流れている気配がない。その超然とした態度が今はむしろ頼もしく映った。
「行くぞ」
感情の抑揚を欠いた声が隣から聞こえる。私は静かに頷き、彼女に続く形で病院の中へと入った。ひんやりとした空気が肌を撫で、外部の熱気から解放される。しかしそれは物理的な温度変化に過ぎず、私の内心の緊張が和らぐことはなかった。むしろ静かで清潔な空間は、これから行われるであろう尋問という行為の異質さをより強く意識させた。
私たちは受付で簡単な手続きを済ませ、エレベーターで目的の階へと向かう。上昇していく箱の中で、弦木は低い声で念を押すように、打ち合わせの最終確認を始める。
「私が合図を送るまで、決して能力は使うな。許可なく使えば、その時点で貴様を即刻拘束する。分かっているな」
「わ、分かってます……」
有無を言わせぬ冷たい響き。壁に反射して映る私の顔は、自分でも呆れるほど強張っている。
「対象の発言の真偽判定、その一点だけに集中しろ。余計な感情や情報は読み取るな。特訓の成果を見せろ。できるな?」
「り、了解です……!」
震えそうになる声を、なんとか押し殺して答える。できるか、ではない。やるしかないのだ。
「貴様の役割は、あくまで私の補助だ。私が主導で尋問を進める。貴様が口を出す必要はない。むしろ能力行使を気取られないよう、気配を消しておけ」
まるで出来の悪い部下に言い聞かせるような口調。今の極度に緊張している私にとっては、むしろその方がありがたかった。自分で考えて的確に行動する余裕など、今の私には到底ないのだから。彼女の指示通りに動くことだけを考えよう――私はそう自分に言い聞かせた。
エレベーターが目的の階に到着し、扉が開く。静かな廊下を歩きながら、私は必死で平静を装った。すれ違う看護師や患者たちの視線が全て私たちに向けられているような錯覚を、気のせいだと言い聞かせて――
……いや、きっと錯覚じゃないな。この夏場に厚着のコート姿の女が、真っ白に染まった長髪をなびかせて、高い身長と鋭い目つきで周囲を威圧するように練り歩いているのだ。しかもその隣には制服姿の女子高生。これで目立つなというほうが無理な話だろう。
周囲からの好奇の視線に晒されつつ、最初に案内されたのは、四階にある個室だった。磨かれたプレートには、やや達筆な字体で「相澤」と記されている。
弦木の説明によれば、今回の連続通り魔事件の最初の被害者であり、襲われた際に背中に裂傷を負い、さらに倒れた拍子で左腕を骨折し、現在入院している男子生徒だという。
弦木が無言で扉を二度、軽くノックする。その硬質な音が静かな廊下にやけに大きく響いた。ややあって、中から「どうぞ」と、覇気のない返事が聞こえてくる。弦木は音もなく扉を開け、境界の中に一歩足を踏み入れる。
病室の中は思ったよりも明るく清潔な印象だった。窓から差し込む午後の柔らかな光が白いシーツや壁を照らし、部屋全体に穏やかな雰囲気を与えている。
そして窓際のベッドの上には、薄いブルーのパジャマ姿の男子生徒が上半身を起こして座っていた。年の頃は、私と同じくらいに見える。色素の薄い、やや癖のある髪。少しつり上がった、気の強そうな目元。普遍的で、どことなく既視感を覚える顔立ち――
「……っ!?」
彼は部屋に入ってきた私たちの姿を見た途端、明らかに戸惑い狼狽えていた。アポイントメントは恐らく弦木が既に取っているはずだ。今更そこまで驚く理由はないはずだが――どういうわけか、ここにきて彼は酷く動揺している様子だった。青ざめたその表情は隠し切れてすらいない。
「(ん……?)」
特に奇妙だったのは――彼が私に対して密かに向けた、その視線。勘違いでなければ、私の顔を見たその瞬間。彼はまるで信じられないとでも言いたげに、その目を大きく見開かせていたのだ。
その奇妙な反応は、既視感となって私の脳裏を微かに掠める。……もしかすると、私はどこかで彼と会ったことがあるのかもしれない。しかしそれがいつ、どこでのことなのか、すぐには思い出せなかった。
その様子に気づいているのかいないのか、弦木は早々に懐から携帯端末を取り出し、以前私にした時と同じように、スマートフォンの画面に映る身分証明書を相澤に向かって提示してみせる。
「空想犯罪対応局の弦木と申します。先日お話しした連続通り魔事件について。いくつか追加でお伺いしたいことがあり、本日参りました」
……敬語使えたんだ、この人。
「貴方を襲った犯人について、心当たりはありませんでしたか?」
弦木は冷静に、相手に有無を言わせぬ独特の圧力をもって、単刀直入に切り出す。その声は静かでありながら、部屋の空気を支配するような響きを持っていた。
「……ないですよ、心当たりなんて。以前にも、お話したと思いますけど」
質問に対し、相澤はどこか投げやりに答える。その声色には隠しきれない警戒心が滲んでいた。
「どんな些細な情報でも構いません。何か思い出したことはありませんか?」
「いや、本当に……何も覚えてないんですって……」
そんな会話の最中。隣に立つ弦木が不意に、私にだけ分かるよう合図を出した。私は打ち合わせ通りにさりげなく、相澤の視界から外れるように移動する。
静かに、全身の神経を右手に集中させて――腰のあたりから後ろ手に、私はイマジナリ・ブレイドを抜刀した。
「では、犯人に心当たりはないと。間違いないですね?」
「だ、だから……何度もそう言ってるじゃないですか……! そ、そんなことより……あの通り魔、ホルダーなんでしょ!? そんなヤバい奴、さっさと捕まえてくださいよ……!」
弦木が相澤の気を引いている隙に、居合い切りの要領で、私は白銀の刃を素早く振るう。その太刀筋は相澤の身体を袈裟斬りしたが、肉体を傷つけることはなく、血の一滴もこぼれ落ちることはない。
『――嘘』
血の代わりに、彼から溢れ出したのは――たった一言、小さな心の囁き声。それは私の頭の中にだけ響き、周囲に漏れることはなかった。
成功だ。余計な感情のノイズも全くない。私は安堵の息が思わず口から漏れそうになるのを必死に堪えて、私は弦木に視線を送る。
「……そうですか。分かりました」
私の目を見て、真偽判定が上手くいったことを静かに悟った弦木は、唐突に会話を切り上げる。
「ご協力感謝します。では」
「はっ……? え、もう終わり……?」
それだけ告げると、彼女は早々に踵を返し病室の扉へと向かった。その変わり身の早さに、相澤は呆然と声にならない声を上げる。私も軽く頭を下げ、彼女に後に続く。
「…………」
病室を出る間際、ちらりと相澤の方を見ると――彼は依然として怪訝そうに、それでいて何かに怯えているような目で、私の後ろ姿をただ黙って見つめていた。
◆
「……嘘、でした。彼は、犯人に心当たりがあります」
音を立てて病室の扉が閉まり、廊下の静寂が戻る。人気のないことを確認してから、私は周囲を気にしつつ、小声で弦木に話しかけた。
「そうか。次に行くぞ」
弦木は特に驚いた様子も見せず、むしろ予想通りだったとでも言わんばかりの様子で短く応じると、次の被害者がいるという別の病棟へ迷いなく歩き出す。その淀みない足取りに私は戸惑いながらも、その背中を必死に追いかける。
二人目の被害者は「井上」という女子生徒だった。彼女も背中に受けた裂傷と、右足の骨にヒビが入っているとのことで、一ヶ月ほど前から入院している。
六人部屋の一番奥、窓際のベッド。カーテンで仕切られたその空間に入ると、彼女――井上は上半身を起こし、ベッドの上でやや退屈そうに、分厚いファッション雑誌を眺めていた。
年の頃は、やはり私と同じくらい。緩くウェーブのかかった茶色い髪を、サイドで一つにまとめている。
「え……っ」
私たちがカーテンを開けて顔を見せると、井上は途端にその目を大きく見開かせ、息を呑んでいた。明らかにバツの悪そうな表情を浮かべていた彼女は、慌てて取り繕うように視線を逸らす。
そんな彼女に対しても弦木は先ほどと全く同じように、丁寧な口調で身分を明かし、事件についての質問を始めた。
「な、何も覚えていません。犯人に心当たりなんて、まったく……――」
井上は俯いたまま、消え入りそうな声で呟く。そして彼女が言い終わるよりも早く、弦木が再び私に合図を送る。私は頷き返し、再び心の刃を抜刀した。
『――嘘』
掠り傷から、彼女の心の声が短く漏れ出す。彼女もまた、何かを隠していることは間違いないようだった。
「も、もういいですか……? 今日は、ちょっと……朝から体調が優れないので……」
どこか後ろめたそうな、強張ったその表情。それは被害者というより、どこか加害者側のそれだった。そして時折向けてくる、私を忌避するような視線。先ほどの相澤と酷似した反応。加えて私自身の、奇妙な既視感……それらの違和感は私の中で点と点を繋げ、一つの可能性を形にしつつあった。
真偽判定を終えると、今回も弦木は早々に会話を切り上げ、すぐにその場を立ち去ろうとする。その後に続く私。そんな私たちの後ろ姿を、井上は最後まで俯いたまま、見送ることはなかった。
◆
「この病院で会う被害者は、次で最後だ。気を抜くな」
三人目の被害者は、さらに別の階の個室に入院していた。「宇川」という男子生徒。腕と肩を負傷しているらしい。私たちが部屋に入ってくるなり、彼はあからさまな警戒心を露わにしていた。
「……は? え、なんで……」
そんな彼が、私の姿を認めた瞬間――その表情を、たちまちに驚愕の色へと染め上げていく。先の二人と全く同じ反応。私もまた、それに対して強烈な既視感を覚えていた。加えて心の傷を無理やりこじ開けられたような痛みが胸に走り、心臓が嫌な音を立てて軋む。
「私は空想犯罪対応局の弦木と申します。先日お話しした、連続通り魔事件についてですが――」
「え、ちょっ……待ってください! そ、そっちの人は? なんでS.W.O.R.Dと一緒に?」
弦木がいつものように尋問を始めようとすると、それを遮ってまで、宇川は私のことを指差した。その声色にはどこか、嫌悪すら込められているように感じる。
「彼女には、我々の捜査に協力していただいています」
「い、いやでも……その人……ホルダーっすよ……!?」
宇川は明らかに私のことを知ったような口振りで、ホルダーと。確かにそう言った。
「…………!」
――そうだ。彼は私を知っているし、私も彼のことを知っている。
この時、私は思い出していた。彼だけじゃない。相澤も、井上も――私は、彼らのことを知っていたのだ。
「ええ。私もです。何か問題でも?」
一方で弦木は、そんな彼の反応にも全く動じることなく、冷静に対応する。その鋭い視線に射抜かれた宇川は、思わず言葉を詰まらせる。
「……べ、別に……」
宇川はそう口ごもりながら、私から露骨に視線を逸らす。その様子を弦木は一瞬、じっと観察するように見つめていたが、すぐに気を取り直して尋問を始めた。
「犯人の特徴について、何か覚えていることはありませんか? どんな些細なことでも構いません」
「……さ、さあ? よく覚えてませんけど……」
その返答を聞きながら、弦木が無言で私に合図を送る。私は、震える指を叱咤し、彼の肉体に心の刃でそっと触れた。
『――嘘』
やはり、嘘。これで三人目。被害者は全員、犯人に心当たりがある。それなのに、なぜかそのことを隠している――
『……どうして、真加理がここに……。そもそも、俺がこうなったのは……真加理、お前のせいじゃないか……。お前が、あんなことをしなければ……。俺は悪くない……。俺はただ、見てただけだ……。なのに、なんで俺が……』
――しかし今、それ以上に問題だったのは。彼の心の中から濁流のように流れ込んできた、思考のノイズだった。
「……っ!?」
失敗した。動揺のせいで、手元が僅かに狂った。それによって、必要ではない情報、ノイズまでもが心の声として、切っ先から伝わってくる。
それは私個人に対する、焼け付くような、強い嫌悪感。独りよがりで粘着質な、歪んだ自己正当化による言い訳の羅列――彼の思考はヘドロのように、私の精神にまとわりつき吐き気を催させた。
私は思わず息を呑み、反射的に数歩後ずさりしそうになる。全身の血の気が引いていくのを感じる。目の前が暗くなり、ぐらりと視界が揺れた。
「(やっぱり……そうだ……っ)」
疑惑が確信へと変わる。まさかと思った。けれど、流石にもう、見て見ぬふりはできない。だって気づいてしまったのだ。思い出してしまったのだ。被害者たちの共通点に。その残酷な真実を突きつけるように――瞬間、私の脳裏には『あの日』の光景が蘇ってくる。
教室のあちこちから向けられる冷たい視線。ひそひそと交わされる悪意に満ちた囁き声。その輪の中にいた、彼らの顔。
気の弱そうな、しかし長いものには巻かれる相澤。いつもお洒落をして、グループの中心にいた井上。そして今目の前にいる、眼鏡の奥からいつも冷たい眼差しを向けてきていた宇川――
三年前。彼らは皆、私と同じ中学の同級生。クラスメイトだった。髪型や化粧の雰囲気が変わっていたから、すぐには気づかなかったが――あるいは、気づきたくなかったのか――でも、間違いない。
それを確信した瞬間、私の思考は完全に麻痺していた。そして心の奥底から、形容しがたい感情が湧き上がり、私の中で渦を巻き始める――
「……そうですか。では、失礼します」
私の尋常でない様子に気づいたのか。弦木はそこで会話を切り上げると、病室の扉へと向かう。すれ違いざまに「行くぞ」と、彼女の囁きが耳元に聞こえた。それでようやく私も我に返り、その後を追いかける――
「おい……真加理……」
その時。背後から宇川が、低く、私に声をかけてきた。
「お前……何のつもりだよ……」
警戒心を剥き出した、どこか怯えたような問いかけ。その刃のように鋭い言葉が、私の心の傷をさらに深く抉ってくる。私は何も答えられず、ただ彼に背を向け、病室から逃げるように出ていった。
◆
「今日はここまでだ。明日また連絡する」
三人から聴取を終えた私たちは、病院の外へ出た。残り二人の被害者は明日、別の病院弦木は去り際、私に声をかける。その声色には、ほんの僅かながら、気遣うような響きが含まれているように私は感じた。
彼女のことだ、私の些細な変化も見抜いているのだろう。深追いされないのは有り難かった。今は一人で、考える時間が欲しかったから。
私は呆然としながら、まるで夢遊病者のような覚束ない足取りで、駅までゆっくり歩いて向かった。西の空は既に燃えるような茜色に染まっている。その強烈な夕暮れの光景がやけに目に染みて、涙が滲みそうになった。
被害者たちは皆、私の中学時代の同級生だった。偶然のはずがない。この事件は間違いなく、私の忌まわしい過去と繋がっている。頭の中で様々な可能性が、万華鏡のように目まぐるしく渦巻く。
まだ全てに確証を持てたわけではない。ただ一つだけ確かなことがある。私はもう、この事件から。自分の過去から、逃れることはできない――それだけはきっと、間違いなかった。