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IMAGINARY BLADE  作者: あかなす
Beyond the Rain
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Beyond the Rain Ⅰ

 耳をつんざく電子音が耳朶を打ち、強烈な日差しがアスファルトを焦がす。初夏の太陽は容赦なく照りつけ、高層ビル群のガラス窓に反射した光が幾条もの矢となって地上に降り注ぎ、陽炎を立ち昇らせている。

 そこは都市という巨大な生命体の心臓部、スクランブル交差点。人の波が絶え間なく押し寄せ、複雑に交錯しては離散していく場所。そこで夥しい数の人間が停止線の前に並び立ち、信号が変わるその瞬間を今か今かと待ち構えていた。

 やがて歩行者用の信号機が緑色に明滅すると、膨大な数の群衆が一斉に、それぞれの目的地へと向かって動き出す。四方八方から押し寄せる人の波は、意思を持った巨大な生き物のうねりとなり、誰もがその流れに否応なく飲み込まれ、ただ流されていく。


 そんな雑踏の只中に、彼は今日もまた、その流れの一部として存在していた。年齢は三十代半ばといったところであろうか。長身とは言えないまでも、程よく引き締まった体躯。一見して清潔感は漂っているが、細部を見ると襟元や袖口に僅かな擦り切れが見られる、どこか着慣れた印象を与える濃紺のスーツに包んでいる。その手には、長年の使用によって独特の艶を帯びた革製のビジネスバッグを、どこか投げやりに提げていた。

 その風貌はこの都市に掃いて捨てるほどいる会社員という記号の一つであり、特に個性を感じさせる要素は見当たらない。まさにどこにでもいそうな、ごく普通の男性会社員。その典型であった。

 彼の表情には週末を間近に控えた金曜日特有の、わずかな高揚感と蓄積された疲労の色とが混在して浮かんでいた。額には薄っすらと汗が滲み、几帳面に整えられた髪の一部が湿気によってわずかに額に張り付いている。ワイシャツの襟元も汗で僅かに湿り、首筋には熱がこもっていた。

 周囲の喧騒など意に介さない様子で、彼は正確な足取りで交差点の中央へと進んでいく。その規則正しさはまさしく歯車のようで、自分の意思とは関係ない見えない力によって動かされているようだった。

 太陽の熱線に晒されながら、彼は表情一つ変えることなく、ただ前だけを見据えている。彼だけではない。周囲の行き交う人々も、その表情はどこまでも無機質なものばかり。互いの存在を希薄に感じながら、ただひたすらに移動を続ける群衆。それがこの場所の、ありふれた日常の風景。


 ――その作り物めいた日常は、これより呆気もなく崩壊する。


 それは彼が交差点の中央、四方からの人の流れが最も激しく交錯する、雑踏の渦の中心に差し掛かった瞬間に起きた出来事。

 突然だった。まるで熟しすぎた果実が、内側から破裂するように。彼は何の前触れもなく、その全身から噴き出した大量の血よって、瞬く間に赤黒く染まっていったのである。

 頭、胸元、腹部、両腕、両脚、背中、首筋。体中の至るところを一斉に切り刻まれたような。そんな無数の切り傷が突如、彼の表面に現れる。全ての傷口から止めどなく血が流れ出し、周囲のアスファルトを濡らしていった。

 血だまりは徐々にその範囲を広げ、周囲の乾燥したアスファルトとの境界線を曖昧にしていく。それは質の悪い悪夢の一場面のような、強烈な現実味のなさを伴う光景だった。


「……え……?」


 何が起きたのか全く理解が追いついていない様子で、彼はただ小さく、掠れた声を漏らす。助けを求める余裕もなく、彼はただ咄嗟に、周囲を見渡していた。

 そんな彼の異変に気がつき、手を差し伸べようとする者は、どこにもいない。誰もが歩みを止めることなく、彼の横を通り過ぎていく。その無関心な群衆の中で、彼はとうとう膝から崩れ落ちていた。

 瞳孔が収縮し、光が失われていく。周囲の風景は色褪せ、世界から音が遠のいていく。その抗いがたい絶望的な感覚と共に、彼の意識はそこで途絶えた。その命の灯火は、白昼の衆人環視の真っ只中、あまりにも呆気なく消え去ったのだ。


 アスファルトの焼けるような熱が流れ出たばかりの温かい血液を不気味に蒸発させ、どこか甘ったるさすら感じさせる死の臭気が、途端に周囲へ漂い始める。その濃厚な臭いは文明の薄皮を剥ぎ取り、人々の心の奥底に眠る原始的な恐怖を呼び覚ますには充分すぎる力を持っていた。

 ようやく周囲の人々が本格的に、この異常事態に気づき始める。誰かが甲高い悲鳴を上げたのを皮切りに、その場は一瞬にして制御不能なパニック状態へと陥った。

 悲鳴、怒号、恐怖に泣き叫ぶ声。それらが混ざり合い、交差点全体を覆い尽くす。人々は我先にと逃げ惑い、互いを押し退け、将棋倒しになりかける者もいる。無関心に満ちた日常の風景は剥ぎ取られ、そこには阿鼻叫喚の地獄絵図が唐突に現出していた。

 スマートフォンのカメラを向ける者、恐怖に顔を引き攣らせて立ち尽くす者、何が起きたのか理解できずに呆然とする者、ただ無我夢中でその場から走り去ろうとする者。極限状態における様々な人間模様が一瞬にして露わとなる。その混乱は悪質な伝染病のように、瞬く間に交差点全体へと波及していった。


 やがてパトカーや救急車が次々と現場に到着し、その回転灯の赤い光が、混乱した現場を不気味に照らし出した。すぐに広範囲にわたって黄色い規制線が張られ、一般人の立ち入りが厳しく制限される。野次馬たちが規制線の外から遠巻きに集まり、不安と好奇の入り混じる眼差しを現場に向けている。

 駆けつけた警察官たちが必死で状況を把握しようと努めるが、情報は錯綜していた。目撃者からはまともな証言が得られない。現場には凶器らしきものも何も見当たらない。そもそも犯人と思しき人物の姿すら、誰一人として明確に目撃してはいなかった。

 交差点に設置された監視カメラの映像に記録されていたのは、被害者の男性が雑踏の中で何の前触れもなく全身から血を噴き出し、その場に倒れて出血多量で絶命するまでの光景。そこには、被害者に刃物を向ける不審な人物の姿はどこにもなかった。

 被害者の衣服や散乱した所持品にも、特に不審な点は見受けられない。財布や腕時計、携帯電話にも触られた形跡はなく、そのまま残されていた。


 まさに「見えざる手」による犯行。呪いか祟りか、常識では説明のつかない超常的な現象。その異様な光景を目の当たりにした警察の一人が、苦渋に満ちた表情で、どこか諦めたように口を開いた。


「……『空想犯罪』だ。『S.W.O.R.D』に連絡しろ……!」


 その一言が、この事件の捜査権限を常の警察組織の手から離れさせ――『空想犯罪対応局』へと正式に移管させる、決定的な打電となったのである。


 ◆


 空想犯罪対応局、通称『S.W.O.R.D』。その中枢である総合作戦司令部の一室は、窓の外に広がる夕暮れの摩天楼が巨大な墓標のように見える時間帯になっても、重く張り詰めた空気に支配されていた。

 そこには長方形の大きな会議テーブルを囲むように、数名のS.W.O.R.D隊員たちが既に着席している。皆一様に厳しい表情で、テーブル中央に展開された事件現場のホログラム映像、あるいは手元の資料に視線を落としている。

 テーブルの上には、冷却ファンの微かな音を立てるラップトップコンピューターや、走り書きのメモがびっしりと書き込まれた書類が無造作に置かれている。部屋の隅に設置された大型の空気清浄機が低い作動音を立てて空気を循環させているが、それがかえってこの部屋の重苦しい静寂を際立たせていた。


 私――『真加理冴矢まかりさや』もその一人として、会議テーブルの末席に近い場所に腰を下ろし、息を殺して上官の報告の続きを待っていた。

 S.W.O.R.Dの正式な隊員となってから、はや数ヶ月。入隊当時は短かった私の黒髪も、今や肩に触れるほど長く伸びた。変わったのは見た目だけではない。その内面も、この数カ月間で鍛えられてきた。業務にも慣れてきたつもりだ。残酷な事件現場を目の当たりにした経験だって、まだ少ないがゼロではない。

 しかし、今回の事件の異常性と残忍性は――これまでに私が経験してきた中では、群を抜いていた。現場を目の当たりにしたその日から、私の心には言いようのない緊張感が絶えずもたらされている。


「――以上が、現在判明している全ての情報です。現時点では、被害者の身元、死亡推定時刻、そして死因が出血多量によるショック死であること以外、確たる事実は掴めておりません」


 報告を終えた隊員――眼鏡をかけた、やや神経質そうな印象を与える若い女性捜査官――が、緊張した面持ちで上官の指示を仰いだ。

 その視線の先に座っていたのは、しなやかな銀糸のような長い白髪を背中まで伸ばし、寸分の隙もなく仕立てられた上質な黒いスーツに身を包んだ一人の女性――『弦木真琴つるぎまこと』。

 彼女は、私の直属の上司であり、現場の総指揮を務める捜査官、そして、私がこの道を志すきっかけとなった恩人でもある。

 女性の平均身長を遥かに上回る長身と、鋭利な刃物を思わせる鋭い三白眼。そして仮面のように張り付いた冷静沈着なその表情は、周囲に独特の威圧感を与え、時には近寄りがたいほどの冷徹さを感じさせる。しかしその仮面の下には、誰よりも強い正義感を秘めていることを、私はよく知っていた。


 弦木は暫し黙ったまま、被害者の遺体の写真、その身体に刻まれた無数の傷口を、微動だにせず見つめていた。その細く長い指先がテーブルの表面を、神経質なまでに規則的なリズムで叩いている。

 彼女の眼差すホログラム映像には、先日、都心部の巨大スクランブル交差点で発生した事件の現場写真、被害者の詳細な検死結果、そして混乱する目撃者たちの断片的な証言などが無機質に映し出されている。


 被害者の死因は、刃物による傷が原因の出血多量。その検死結果自体には、法医学的な見地から見て、特に矛盾する点はない。

 異様だったのは、その傷の多さ。被害者はその全身の至るところに、五十箇所以上の切り傷や刺し傷が刻まれていた。そして法医学班による詳細な検死の結果、その傷口一つ一つが同じ種類の刃物によって、しかもほぼ同時に付けられたものであることが明らかとなっている。

 そして事件の発生当時の状況も、およそ不可解極まりないものだった。犯人は白昼堂々、人々が行き交う巨大交差点の真っ只中で、誰にも気づかれることなく、一瞬にして被害者の全身を切り刻んでいる。そんなことは通常の物理法則の下、到底あり得ない現象だ。常識という枠組みを容易く超越している。


「……被害者は、あの衆人環視の中、全身に無数の傷を受けて死亡している。周囲にいた誰もがその犯行の瞬間、凶器、そして犯人らしき人物の姿すら目撃していない。通常の物理法則下でこのような現象は起こり得ない。間違いなく、ホルダーによる空想犯罪と考えて間違いないだろう」


 空想犯罪。事件をそう断言した弦木の声に、室内にいる私を含めた他の隊員たちは改めて息を呑んでいた。内心では皆同じ結論に至ってはいたものの、現場の総指揮を務める者の口から改めて伝えられると、より一層現実味を帯びて迫ってくるようだった。


 人間の精神が刀剣の形をとって具現化した不可視の刃――『イマジナリ・ブレイド』。心の『擬刃化』とも呼ばれる、その特殊な能力を発現した者――『ホルダー』によって引き起こされる事件は、時に物理法則すら捻じ曲げ、人間の理解を超えた現象を引き起こすことで実現した不可能犯罪――すなわち空想犯罪として定義される。

 私たちS.W.O.R.Dは、そんな空想犯罪の捜査と、それに関わるホルダーの確保、そして時にはその無力化を専門に担う、国家公安委員会直属の、超法規的な権限を与えられた特殊機関である。


 イマジナリ・ブレイド。それは文字通り、不可視の刃。外部からの物理的な干渉を一切受け付けず、一般人にはその存在を認識することすらできない。まさに完全犯罪のために存在するような恐るべき力。だからこそS.W.O.R.Dの隊員は、そのほぼ全員が自らもイマジナリ・ブレイドを発現させたホルダーによって構成されている。

 ホルダーであればイマジナリ・ブレイドを視認することができる。私も、その一人。ホルダーがホルダーを取り締まる。それはどこか歪んだ、皮肉な構図かもしれないけれど――この世界の確かな現実だった。


「現場の目撃者からの事情聴取では、やはり有力な情報は得られなかったか」


 弦木の問いかけに対し、先ほど報告をしていた若い女性隊員が小さく首を横に振る。


「はい……有力な目撃情報は残念ながら皆無です。現場にいた人々は被害者のことを、突然血を噴き出して倒れた、としか認識できていませんでした」


「パニック状態にあったとはいえ、誰一人として不審な点に気づかなかったというのは解せないな」


「交差点周辺に設置された全ての監視カメラの映像も徹底的に解析しましたが……被害者が倒れる直前、その周囲で不審な動きをする人物は確認できませんでした」


「そうか」


 弦木は短く応じると、事件の映像から視線を外した。そして流れるように、今度は私の方へとその目を移す。


「真加理。何か気づいたことはあるか」


 彼女からの唐突な問いかけ。私はそれに対し、一瞬言葉を詰まらせていた。事件現場の光景は、今も私の脳裏に強烈な印象として焼き付いている。鼻をつく濃厚な血の臭い。人々の恐怖と混乱に満ちた視線。何よりも、かけがえのない命が失われたという、揺るぎない事実。そのどうしようもない無力感――

 それら渦巻く感情をどうにか胸の奥底に押し殺して、私はやっと口を開く。声が緊張で震えてしまわないよう、細心の注意を払いながら。


「……今回の事件に関わっているイマジナリ・ブレイドには、恐らく『ネームド』級の、極めて特異な能力が備わっているものと推測できます。いくら不可視の刃だと言っても、この数の傷を一瞬のうちに、しかも周囲の誰にも気づかれることなく発生させるなんて、それこそ不可能ですから」


 私の言葉に、弦木は静かに頷いた。その氷のように冷たい表情は依然として変わらないけれど、いつもの皮肉めいた言葉は飛んでこない。私の着眼点を、彼女なりに素直に評価してくれているのだろうか。そう思うと、少しだけ胸の奥が温かくなるような気がした。


「ここ数日間の被害者の足取りを徹底的に調査しろ。ただし被疑者と思しき人物に接触を図る場合には、相手がネームド級のホルダーである可能性を常に考慮し細心の注意を払え。それと同時にS.W.O.R.Dが保有する過去の事件データベースを照会し、今回の事件の特徴に合致しそうな能力を持つホルダーの情報を可能な限り洗い出せ」


 弦木は会議室にいる他の隊員たちに、次々と的確かつ簡潔な指示を飛ばしていく。彼女の指示は常に無駄がなく、一切の迷いも感じられない。それがS.W.O.R.Dの現場指揮官としての、彼女の卓越した資質だった。

 私も、いつか彼女のようになれるだろうか。そんなことを、ふと考えてしまう。その道のりは、果てしなく遠いように感じられた。


「真加理。貴様には私と共に行動してもらう。『アンサラー』の抜刀許可を司令部に申請しておけ」


 そして最後に、彼女は私に向かってそう告げる。その言葉には、私の持つイマジナリ・ブレイド――『アンサラー』の能力に対する信頼と期待が込められているのを、私ははっきりと感じ取った。


「行くぞ」


 弦木が会議室の椅子から素早く立ち上がる。その一挙手一投足は研ぎ澄まされた刃のような、近寄りがたいほどの鋭さを放っている。


「はいっ!」


 そんな彼女の背中を追って、私もすぐに席を立った。これ以上の被害を出さないために。自分にできることを尽くそうと、改めて心に誓いながら。


 ◆


 弦木の運転する黒いセダン、その助手席に座る私。向かう先は、今回の事件の被害者が住んでいたという、都心に程近い閑静な住宅街の一角に建つ瀟洒なマンションだった。夕暮れの空は、不吉なまでに深い茜色に染まり、街全体がどこか物悲しい雰囲気に包まれているように感じられた。

 被害者はそこで愛する妻と、まだ幼い子供の三人で、ごく普通の幸せな家庭を築いて暮らしていたらしい。これから私たちが会うのは、その被害者の妻。既に弦木が電話でアポイントメントを取っており、夫の無念を晴らすためならば我々の捜査にも全面的に協力してくれるとのことだった。その健気さを想うと、胸が締め付けられる。


 マンションは築年数も浅く洗練されたデザインの、いわゆる高級マンションと呼ばれる部類のものだった。エントランスにはコンシェルジュが常駐し、セキュリティも厳重である。被害者が、社会的に見てもそれなりに成功し、裕福な生活を送っていたことが窺えた。

 インターホンを鳴らす弦木。ややあって、内側からオートロックの解錠音が静かに響き、私たちは大理石で飾られたエントランスを通過した。エレベーターで被害者の部屋がある階へと上がり、重厚な木製の扉の前に立つ。

 弦木は何も臆することなく、扉の表面を軽くノックした。すぐに扉は開かれ、中からやつれた表情の若い女性が姿を現す。

 彼女の目は、幾晩も泣き続けたのだろう、痛々しいほどに赤く腫れ上がり、その下には深い隈が刻まれている。その憔悴しきった生気のない姿に、私は思わず言葉を失い、かけるべき慰めの言葉すら咄嗟に見つけられずにいた。彼女の存在そのものがこの事件の悲劇性を、あまりにも雄弁に物語っている。


 今回の事情聴取は、弦木の指示により、私が主体となって行うことになっていた。私が一人前の捜査官として独り立ちできるよう、敢えて私に主導権を委ね、後ろで見守るというスタンスを取ってくれているのだろう。その意図を理解しているからこそ、私は失敗できないというプレッシャーを強く感じていた。


「こんにちは。S.W.O.R.Dの真加理と申します。本日は、大変お辛い中、我々の捜査のためにお時間をいただき、誠にありがとうございます。……この度は、心よりお悔やみ申し上げます」


 型通りの言葉ではあるけれど、そこに偽りのない弔意を込めることだけは忘れないように。私はできる限り丁寧な言葉遣いを心がけ、深く頭を下げる。


「はい……どうぞ、お入りください。散らかっておりますが……」


 彼女は消え入りそうな声を漏らすと、そのまま私たちをリビングへと促した。リビングは広く、高価な家具で統一されている。しかしそこには、かつてあったであろう生活の温もりはなく、埋めようのない喪失感の影が色濃く漂っているように感じられた。


「あの日、旦那様に何か変わった様子があったとか……あるいは、最近誰かとトラブルを抱えているような素振りはございませんでしたか? 例えば、仕事、人間関係、金銭的な問題……どんな些細なことでも構いませんので、何かお気づきの点があれば教えていただけますでしょうか」


 彼女の心情を最大限に慮りながらも、核心に触れる質問を投げかける。その問いかけは、彼女の心の傷を再び抉る行為であるかもしれない。そのことに私の胸は痛んだが、それでも、事件の真相に辿り着くためには避けては通れない道だった。


「何も……思い当たることは、ありません。本当に……何も……」


 彼女は涙で潤んだ瞳を伏せ、ただ力なく首を横に振る。その震える左手の薬指には、プラチナ製のシンプルなデザインの結婚指輪が痛々しいほどに光っていた。

 私はそこで意を決し、背後に立つ弦木のほうに振り返ってアイコンタクトを送る。弦木は私の背中をそっと押すように、静かに頷いてみせた。その無言の激励が、私の揺らぎかけた覚悟を再び奮い立たせてくれる。


「……奥様。ご存知の通り、私たちS.W.O.R.Dはイマジナリ・ブレイドを持つホルダーによって構成された特殊な捜査機関です。そして、私もまたホルダーであり……特殊な能力を備えたブレイドを所持しております」


 急に何の説明が始まったのかと、彼女は不思議そうに首を傾げている。その潤んだ瞳には明らかに困惑の色が浮かんでいた。


「事件の早期解決のため、もしお許しいただけるのであれば……私のブレイドの能力を使い、あなたの発言が真実であるかどうかを直接見極めさせていただきたいのです」


「真実を、見極める……? 嘘か本当か分かる、ということですか……?」


「はい。私の能力は……分かりやすく言ってしまえば、嘘発見器のようなものとご理解いただければと思います。決してあなたを疑っているわけではありません。今はただ、揺るぎない確実な証言、確実な情報だけが必要なのです。旦那様の無念を晴らすためにも、どうかご協力いただけませんでしょうか」


 私の申し出に、彼女はしばらくの間、戸惑ったように黙り込んでいた。その瞳は不安と疑念に激しく揺れ動いている。当然の反応だ。例えやましいことが無くても、自らの発言の真偽を判定されるなど受け入れ難いことに違いない。そもそも彼女はホルダーですらない一般人。素性の知れない不可視の刃を突きつけられる恐怖もあるだろう。


「……分かりました。それが、夫の……あの人の無念を晴らすことに、少しでも繋がるのなら……」


 それでも彼女は、自分自身を奮い立たせるように、私に向かって力強く頷いてみせるのだった。彼女の勇気に私もまた、深い感謝を込めて頷き返す。


「ありがとうございます。それでは……始めますね」


 能力使用の同意は得た。私は早速、自分の左胸に右手を押し当て、意識を集中させる。そうして、自身の内側に眠る第六感に身を委ねた、次の瞬間――私の胸元から、淡い白銀の光が溢れ出した。やがてそれは収束し、確かな形を成していく。

 具現化されたのは、一振りの直剣。私の心の擬刃化、イマジナリ・ブレイド――コードネーム『アンサラー』。その柄を私は掴み取り、自分の身体から抜き放つ。


 その握り締めた白銀の刃を、大きく振りかぶって――目の前に座る彼女の胸元を、私は撫でるように切り裂いた。

 私のブレイドに確かに斬られたはずの彼女の身体には、しかし傷の一つも付いておらず、血の一滴も流れてはいない。当然痛みも感じていないし、そもそもホルダーではない彼女は、自分がたった今斬られたことすら認識できていないはずだ。

 これでいい。私のブレイドは肉体を傷付けない。武器としては全く役に立たないが、その代わり、ある特殊な能力が備わっている。


「もう一度、お伺いします。あなたは今回の事件について、旦那様が何かを抱えていたり、誰かに恨まれているような心当たりについて、本当に何もご存じない。そのことに、間違いはありませんね?」


「……はい。間違いありません。夫は……誰からも好かれる、優しい人でした。誰かから恨まれるだなんて……そんなの、考えられません……」


 彼女がそう答えた、まさにその瞬間――アンサラーによって斬られたことで生まれた彼女の『心の傷』から、彼女の『心の声』が堰を切ったように溢れ出す。


『――本当です。私は何も知らない。どうして、あの人が……どうして、夫がこんな酷い目に遭わなければならなかったの……。信じられない……信じたくない……。あんなに優しくて、誰からも好かれていた人が……神様……どうして……』


 心の声は私の脳内に直接流れ込んでくる。彼女は自分の心の声が今、私に筒抜けになっていることに全く気がついていない。

 これが私のイマジナリ・ブレイド――『アンサラー』の力。斬った対象の『心の声』を強制的に暴き出す能力。


 私はS.W.O.R.Dの総合作戦司令部から、事件捜査における特別な許可を得て、ごく限定的な状況下においてのみ、この能力の使用を許されていた。ただし逮捕状の出ていない一般市民への使用には極めて厳格な制約があり、あくまで相手の明確な同意を得た上で、その発言の真偽判定にのみ用いることが絶対的な条件として課せられている。


「(……嘘、ではない。彼女は本当に何も知らない……)」


 彼女の心の声は、現状に対するどうしようもない混乱と絶望だけが、濁流のように渦巻いていた。事件解決に直接繋がるような情報は含まれてはいない。

 私は弦木のほうにもう一度振り返り、首を横に振ってみせる。それで意図を察したのか、弦木は僅かに警戒を緩めるように瞼を閉じていた。


「お願いします……信じてください……」


 今度は心の声ではない、彼女自身の震える肉声が、私の耳に伝わってくる。彼女の濡れた瞳は不安げに揺れていた。


「信じます」


 その不安を少しでも晴らせるように、私は努めて力強く言葉を発する。


「ご協力、本当にありがとうございました。私たちはこれからも捜査を続けていきます。そして一日でも早い事件の解決、犯人の逮捕を目指して全力を尽くします。旦那様の無念を晴らすためにも、必ず……!」


「はい……よろしくお願いします……っ」


 その瞬間、とうとう決壊したように彼女の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていった。私はそれ以上何も言うことができず、ただ彼女の震える肩にそっと触れ、しばらく一緒に居ることしかできなかった。


 私にはアンサラーという、普通の人にはない特殊な能力がある。だけど、そんなものがあったところで、誰かの心を癒したり絶望から救い出すことはできない。そのどうしようもない無力さを、私はまたしても痛感させられたのだった。

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