写真
そして現在、官邸の休憩室にて、玲威はソファに腰を下ろしていた。足を組んで座っている彼は、不当な死を迎えたあの祖父の写真を見つめている。その眼差しは哀愁を帯びており、彼のやり場のない感情を物語っていた。親戚一同による遺産目当ての安楽死の決定や、それに伴う相続争いは、確かに玲威の心の傷となったのだ。
「爺さんは……要らなかったのかな」
彼は独り言を呟いた。この時の彼は、少年期と変わらない表情をしていた。楽園主義に傾倒した彼にも、当時のような迷いはかろうじて残っているようだ。しかし今の彼を構築しているものは、彼自身の「過去」だ。過去を変えることができない以上、今の彼を変えることは難しいだろう。
休憩室の扉が開かれ、弓狩が現れる。咄嗟の判断により、玲威は写真をポケットに隠した。彼にとって、自身の過去はあまり触れられたくないものらしい。
しかし弓狩は臆さない。
「何を見つめていたのですか? 首相」
そう訊ねた彼女は、眼前の楽園主義者を哀れんでいるような顔をしていた。無論、そう容易く他者に心を許すほど、玲威も無警戒ではない。
「君には関係のないことだ。これは、私のプライベートにまつわることだからな」
それが彼の受け答えであった。もっとも、玲威が心を閉ざしているのも無理はないことだ。彼自身の主体性による正義は、軒並み否定されてきた。彼が何を訴えても、「皆の声」が優先されてきた。内心、彼は自らの意見を持つことを恐れている可能性さえあり得るだろう。
一方で、弓狩は彼の事情を何も知らない。ゆえに、彼女は多くを知りたがる。
「……どんなことでも良いです。私が力になれることがあれば、何なりとお申し付けください」
当然、彼女には相手の不可侵領域を脅かしている自覚などなかった。自らの過去を思い返し、玲威は声を荒げる。
「君には関係がないと言っているだろう!」
彼が取り乱していることは、火を見るより明らかだ。
「首相……?」
弓狩は困惑した。いつも楽園主義に確固たる自信を持つ男が、少し素性を詮索されただけで取り乱したのだ。押し寄せる感情に抗いつつ、玲威は平静を装おうとする。
「皆が正しいと思うことが正しい。世界は、そうやって回ってきた。今までも、これからも」
「私は、賛同しかねます」
「君が反対したところで、正しさの条件が変わるわけではない。より多くの人間を満たし、より多くの人間を納得させ、より多くの人間のためを尽くす。それが正義だ。その理は、誰にも変えることはできない」
それはまるで、彼が自らに言い聞かせているかのようだった。依然として、弓狩には彼の置かれている境遇などわからない。そんなことは、彼女からすれば知る由もない。それでも彼女は、理解を試み続ける。
「首相は……一体、何を抱えて生きているのですか?」
少なからず、相手が何かを背負っていることだけは、弓狩も察していた。されど、玲威の口からは、過去の出来事は語られない。
「……すまない、しばらく一人にさせて欲しい」
今の彼には、普段のような余裕などなかった。
「わかりました。それでは、失礼しました」
弓狩は軽く会釈し、休憩室を後にした。
静寂を極めた部屋の中で、玲威はおもむろに立ち上がる。それから彼は、一切の目的もなく室内を歩き回り始めた。この時、彼は己の心臓の鼓動が加速するのを感じていた。それでも楽園主義に対する疑念を振り払い、玲威は独り言を言う。
「そうだ。全部、正しかったのだ。私が見てきたことも、私がしていることも」
そして彼は、再びあの写真を取り出した。それを虚ろな目で睨みつつ、彼は問う。
「なぁ、爺さん。爺さんは、私を間違っていると思うか?」
当然、その問いに答える者はいない。彼の心を縛り付けているのは、故人なのだ。




