主語
それは玲威が十七歳の頃のことだった。彼の自宅ではテレビが点いており、リモコンを手に持つ父親がソファに横たわっていた。何やら父親は、機嫌を損ねている様子だ。
「また移民かよ。日本人にはろくに金を流さないくせに、政府は何をやっているんだ!」
どうやら彼は、移民を憎んでいる様子だった。そんな彼の思想は、玲威の賛同するものではない。
「何故、父さんは移民が嫌いなの? 移民だって同じ人間で、血の通った命じゃないか。移民にだって、生活はあるはずなのに」
蟻を観察していた頃と比べて、この少年の感性はまだ変わっていない。どんな命も命であり、そして同じ価値を持っている――彼はそう信じて疑わなかった。一方で、父親が移民を嫌っていることにも理由はある。
「日本は日本人のものなんだから、先ずは日本人を支えないとダメだろ。テレビもネットも、父さんの友達も皆そう言ってるぞ」
またしても、玲威の嫌いな言葉が使われた。玲威はしばしうつむき、それから深いため息をつく。そして握り拳を震わせつつ、彼は静かな怒りを見せる。
「皆。また皆……」
「ん?」
「皆って、誰なの? 皆が認めていたら、おかしいことも正しいの?」
それは彼自身が昔から抱いてきた――素朴な疑問だった。そんな彼の問いに、父親は一切のためらいもなく答える。
「当然だ。この世に正しいことがあるとすれば、それは民意だ。民意に応えることが、人間という生き物に遂げられる最大の正義だ」
この父親もまた、多数派を正しいと考える人物であった。玲威の周りの人間は、いつだってそうだった。あらゆる取り決めを投票で行い、そして彼らは少数派の声を蔑ろにする。それが当時の玲威には、あまりにも耐えがたいことであった。
「……わかったよ、父さん」
そう呟いた彼は、どこか憂いを帯びた目をしていた。
現実世界に疲れた玲威は、無心で匿名掲示板やSNSを漁ってみた。様々な意見が飛び交うインターネットでは、少数派の声も大きかった。されどインターネットでお目にかかれる少数派は、その多くが主語を拡大している。
「少年法は廃止した方がいい。本当は皆そう思っている」
「アニメが大衆向けのエンタメになってから、当たり障りのないつまらない作品が増えた。本来の消費者が求めているものは、もっと尖ったものなのに」
「我々のような善良な市民であれば、死刑に反対する人権屋に反感を覚えるのは当然だ」
皆、消費者、そして我々――いずれも「私」という主語に置き換えるべきものであろう。実際、玲威もそう感じていた。同時に、人々がインターネットを介して発信する言葉の数々を前に、彼は何かを理解する。
「そうか。皆が言えば正しいから、自分のことを皆ってことにする人が多いんだな」
結局、現実とインターネットは地続きだった。彼がどこに赴こうと、その単語は遍在する。
――皆。
概ね、それは個人の主張を正当化する際に用いられる単語であった。実際の正義がどうであれ、多くの人々が「皆の思うことが正しい」と認識しているのが実情である。玲威の中で、何かが狂い始めようとしていた。同時に、彼は湧き上がる感情を振り切ろうともしていた。
「違う。違う! 違う! 皆の意見であれば正しいだなんて、そんな前提は、おかしいんだ!」
この時、彼は酷く取り乱していたであろう。実際、玲威の中では二つの想いが拮抗している。彼の本来の考えでは、正義は多数決によって取り決めるものではない。一方で、彼が見てきた現実は、ことごとくその考えを否定してきたのだ。
玲威は独り言を続ける。
「皆が正しいと言えば、それは正しいこと。そう考えるのが、最も楽なんだろうな。だけど、だけど……」
彼を本格的に狂わせる出来事が起きたのは、その一年後のことである。




