学問
暇があれば、学生時代の玲威は本ばかり読んでいた。彼が読んでいたものは、フィクションや画集などではない。彼が好き好んでいたものは、学問である。難解な本を読み進めつつ、玲威は要点をノートにまとめていた。その学習意欲の高さは、校内の様々な教師が感心するほどであった。
担任教員は言う。
「君は本当に勉強熱心だな、御神」
日々勉学に励む学生自体は決して珍しくはないだろう。しかし知的好奇心の高さにおいて、玲威に及ぶ学生はいなかった。玲威は無邪気な微笑みを浮かべ、受け答える。
「学問は、真実を追究するから好きなんだ。ただ皆が正しいと言うことじゃなくて、識者たちの研究や見解から導き出されたことが正しいと言われる分野だからね」
そう――多数決に負け続けてきた彼にとって、学問ほど心の支えになるものなどなかったのだ。ますます感心した教師は、彼を褒める。
「君は成績も良い。授業にも集中している。きっと、君は大物になるだろうな」
奇しくも、その予想は的中している。今この教師の目の前にいる少年は、いずれ世界に影響を与える人間だ。無論、当時の玲威に、そのような野心などない。
「買いかぶりすぎだよ、先生。それに、俺にはまだ、将来設計もできていないからね」
まだ若すぎる彼からしてみれば、将来のことなど想像に難かった。
様々な学問を学んでいく中で、玲威はあることを思い知らされた。それは、学問でさえも正義を見失うということだ。
その昔、ミルグラム実験というものが行われた。これは記憶に関するものと偽られた実験であり、実際には被験者の「権威への隷属」を可視化するためのものであった。この実験では、被験者は「電気ショックを与えるスイッチ」と称された機械を渡され、それを別室の人物がクイズで誤答するたびに起動するよう強いられた。途中で白衣を着た男が現れ、実験における全ての責任を背負うことを主張し、その上で被験者にスイッチの使用を続行させた。実際には別室の回答者には電気など流されておらず、被験者がスイッチを押した時にはただあらかじめ録音された悲鳴が流れるだけであった。さりとて、被験者からしてみれば、自分がスイッチを押したことで他者が苦しんだと認識せざるを得ない状況であった。ゆえにこの実験は、一部被験者にトラウマを植え付けたものとして知られている。
他にも、玲威が学問に闇を見いだした一因となる事例がある。その昔、医療ミスにより下腹部を損傷した男児が、女として育てられることとなった。その原因は、性科学者が彼の両親に助言したことであった。その性科学者の支持する学説に、性自認は後天的に培われるというものがあった。つまるところ、男はその説の証明のために利用されたという見方もできるのだ。しかし、男は自らの生まれ持った性を知らないまま、女として生きることに疑問を抱き続けてきた。やがて真相を知った後、その男は再び性転換手術を受けた。それでも心の傷が癒えなかった彼は、自らの命を絶ったのだ。これもまた、学問を志すものが犯した罪である。
やがて玲威は、学問の疑わしさも知った。
学問には理論が伴う。しかし理論は人間が生み出すものであり、それを実証するには統計が要る。そして人の手で物事が集計されている以上、統計はデータを選ぶことができるのだ。例えば国の幸福度を調べる際、富裕層だけを集めて統計を取ることもできる。このように、数字が示す物事にさえ、罠が潜んでいるのだ。科学においては、別々の生物の遺伝子構造の相似性を証明する際に、構造の一致した部分だけを切り取って発表されることがある。学問とは、突き詰めてみれば曖昧なものなのだ。
もはや玲威に、心の支えとなるものはなくなった。




