観察日記
この当時、玲威は蟻の観察を好んでいた。多くの人間と分かり合えない彼からしてみれば、規則正しく活動している蟻は「理解できる」がゆえに興味の対象であった。そんな彼は、自主的に観察日記までつけていた。多くのコミュニティに溶け込めない玲威にとって、それは安寧を感じられる数少ない瞬間であった。
ある日、彼の母親が防虫剤を買ってきた。彼女が厭うのは、もちろん蟻の群れだ。一方で、その群れに興味を抱いている玲威からすれば、その楽しみを奪われることは決して面白くはない。しかし彼は、違う理由で母親に反対する。
「命はむやみに奪っちゃダメだよ」
それが彼の言い分だった。まだ幼くて純粋な彼は、命の価値が平等であることを愚直に信じていたのだ。無論、そんなナイーブな考えでは母親を説き伏せることなどままならない。
母親は言う。
「家に蟻が入ってくるのよ。確かに命は大切かも知れないけど、殺生であっても時には仕方ないことだってあるの。こうして防虫剤が売られているってことは、皆そうやって蟻を殺しているんだよ」
この時、玲威は彼女に対し、強い反感を覚えた。もちろん、彼が蟻の観察を好んでいたこともまた一因ではあった。それ以上に、彼には納得できないことがあった。
「皆がやっていたら、正しいの?」
そう――当時の彼は、多数決による取り決めに否定的な考えをしていたのだ。一方で、母親は至ってありふれた感性をしている。
「皆がやっているからっていうよりは、蟻が湧くと清潔じゃないというか……」
「蟻が清潔じゃないっていうのは、誰が決めたの?」
「そ、それは……皆が決めたことよ」
彼女自身には、蟻を不潔だと考える合理的な理由などなかった。ただ大勢がそう主張しているがゆえに、彼女も同じことを主張しただけの話なのだ。無論、そんな彼女の姿勢は、玲威にとっては許せないことである。
「皆がそう決めれば、殺してもいいの? 命なんだよ。蟻は生きているんだよ」
「だけど、玲威は牛や豚、鶏や魚を食べているでしょ?」
「それじゃ納得できないよ。蟻を殺しても、腹は膨れないじゃないか」
食べるための殺生と、そうでない殺生は違う――少なくとも、彼にとってはそうだった。そんな彼を納得させることができず、母親は少し言葉に詰まる。蟻を駆除する意思自体は極めて自然なものだが、それを合理的に説明することが容易であるとは限らない。そこで彼女は、更に玲威の神経を逆撫でする。
「だったら、お小遣いをなくしてもいい? 命を守るためなら、お金なんて安いものでしょ?」
当然、それは玲威を納得させられる言葉ではなかった。
「それとこれとは、話が違う! そんなの、身代金とどう違うというんだ!」
「元々はお母さんのお金でしょ? 身代金とは全然違うよ」
「も、貰えて当然のお小遣いとまでは思わないけど、俺を納得させる手段にお金を利用するのは違うじゃないか!」
この時、彼は必死だった。己の正義を信じる彼にとって、母親の言葉を無条件に信じることはあまり好ましくなかった。一方で、彼は衣食住を提供されている身でもある。少なくとも成人しない限り、玲威は自らの肉親には逆らえないのだ。
「玲威! 言うことを聞きなさい!」
怒号をあげた母親は、彼の頬を引っ叩いた。平手打ちを食らった頬をさすりながら、玲威は目を丸くする。
この後、防虫剤が用いられ、蟻の群れは全滅した。
玲威のつけていた観察日記も、いよいよ終わりを迎える時だ。募る不満を押し殺しつつ、彼はこう綴る。
「お母さんがアリを殺しました。みんながアリをきらいなので、これはしかたのないことです」
またしても、彼は「多数派の意見」に敗北したのだ。
やがて小学校を卒業した玲威は中学校に上がったが、そこからも彼は、多数決に負ける経験を積んでいくこととなる。




