遠足
その昔、まだ玲威が九歳の少年だった頃のことであった。
当時小学校に通っていた彼は、とある話し合いに参加していた。その内容自体は、決して不穏なものではない。遠足で山に行くか、それとも海に行くか――ただそれを決めるだけの、ありふれた話し合いであった。生徒の多くは、山を好んでいる。
「山がいいよ! 山なら色んな昆虫が採れるじゃん!」
「クワガタ捕まえたい!」
「標本なんかも作りたいね」
そう――彼らの間では昆虫が流行っており、それゆえに山がより好まれているのだ。しかし玲威の考えは違う。
「先生、海にしよう」
その一言に、周りの生徒たちは耳を疑った。当然、彼は周囲の反感を買う。
「なんだよ、玲威! お前、空気読めよ!」
「お前だって虫とか好きだろ!」
「いつも図鑑を読んでるじゃねぇか!」
事実、玲威は海よりも山を好んでいた。それでもなお、彼が海を選んだことには、当然ながら事情がある。彼は一人のうつむいた生徒の方に目を遣り、それから再び教師の方を見た。
「秀太は体が弱いから、何かあった時に山奥にいたらまずいだろ。海の方が、何かあっても対処できるんじゃないの?」
この当時、玲威は今より真っ当な感性を持っていたようだ。それでもなお、生徒たちは反論を繰り返す。
「秀太だけ休めばいいじゃん!」
「なんで秀太のせいでオレたちが山に行けねぇんだよ!」
「秀太のこと好きなのか? どうなんだ?」
無論、玲威は別段、秀太に特別な感情を抱いていたわけではない。彼は半ば呆れつつも、冷静に切り返す。
「好きじゃなかったら、庇っちゃいけないのか? 遠足は皆が楽しむものだろ。誰も欠けちゃダメだろ。秀太だってクラスメイトだし、仲間だろ!」
その言い分に反論できる者は、その場には一人もいなかった。これで秀太も、無事に遠足を楽しめるだろう――玲威はそう確信した。さりとて、ここに集まる者たちは小学生だ。まだ幼い彼らには、己の欲求以上に正しさを優先する意思などない。
多数決の結果、彼らは山に行くこととなった。
その結果に対し、玲威は不平を言う。
「先生! なんで皆、秀太のことを考えないんだよ! 山奥は海辺と違って、ライフセーバーはいないし、治療室だってないだろ!」
確かに、体の弱い生徒を山に連れて行くわけにはいかないだろう。しかし、多数決では圧倒的に山を選んだ生徒が多かった。その上、教師もそれを問題視していない。
「玲威、これは多数決で決まったことです。とりあえず、これで話し合いと投票は以上になります」
当然ながら、玲威は納得していない。そんな彼をなだめるのは、秀太本人である。
「もういいよ、玲威。ありがとう。ボクのことは、気にしなくていいからさ」
「だ、だけど……」
「ボク一人のために、皆の行きたいところを諦めるわけにもいかないよ」
そう語った秀太は、まるで自分自身を納得させようとしているかのようだった。
*
遠足当日――生徒たちが山道を進んでいった道中で、秀太はおぼつかない足取りになり始めた。彼の火照った体からは、不健康な汗が流れている。
「先生、体調が悪くなってきました」
秀太は言った。無論、これは玲威が予測していた通りの出来事であった。
「だから言ったじゃん! 先生、なんで海にしなかったんだよ!」
玲威が憤るのも当然だった。しかし、教師はそれを深刻には受け止めない。
「遠足に来ることを選んだのは秀太くんでしょう?」
その言い分に、生徒たちは同調する。
「そうだよ! なんでアイツ来たんだよ!」
「せっかくの遠足なのに!」
「先生、コイツ置いていこうよ!」
相も変わらず、彼らは身勝手であった。その光景を前に、玲威は素朴な疑問を口にする。
「皆が言うことなら、正しいの?」
教師は答える。
「そうですよ。玲威くん一人の意見も大事ですが、皆の意見はもっと大事にしないといけません」




