黒の街 小説版 7話「古株の勘」
ややあって事態は収束し、避難の完了を見届けたエルザは一人、屋上の鉄柵にもたれて束の間の休息を取っていた。
そこへ、風で帽子が飛ばされないよう押さえながら姿を現したマルコシアスが、声を掛ける。
「よぉ。レディ・ブラン。災難だったな」
「あぁマルコシアス。悪いね。救援に応じてくれて感謝するよ」
マルコシアスがエルザの隣にもたれ、葉巻を咥える。
「なぁに、暇してたとこでな。丁度飛行船でも飛ばして遊ぼうかと思ってたんだ」
「おや、随分助けに来るのが早かったと思えば。それでかい」
エルザが黒の街の空を振り返り、仰ぐ。
上空では、温室の研究員たちを乗せた飛空船が、サーチライトで漆黒の空に幾本もの光の筋を浮かび上がらせる様子がぼんやりと浮かび上がっていた。
マルコシアスが葉巻に火を点ける。
「たまにはああやって飛ばしとかないとな。ドックで腐らせといたんじゃ税金の無駄だ」
「そうかい。ま、何はともあれ貸しはこれでチャラだね」
マルコシアスが紫煙を燻らせる。
「おいおい。何がチャラだって?俺は義務を果たしただけだ。むしろ知らせてくれて助かったぜ」
「ったく。貸し借りなしにしてやろうってんだから素直に受け取っときな」
「へっ。冗談」
と、2人が談笑しているところへローランがやってくる。
「エルザ様」
「あぁ、戻ったね。ご苦労」
少し疲れた様子のローランを見て、マルコシアスが声を掛ける。
「よぉ、坊主。大活躍だったみたいだな。ドロテアの嬢ちゃんを守りきったんだって?」
ローランが、少し気落ちした様子で答えた。
「私は、私の任務を全うしただけです」
マルコシアスが、ちらりとエルザを一瞥する。
「あぁ……。エルザに付いててやれなかったのが歯痒いか。しょぼくれやがって。そんなの気にすんな。お前さんはエルザの命令をちゃんと守っただけだろ?よくやってるぜ」
「……はい。ありがとうございます」
そのどこか不満げな様子にエルザがため息をつく。マルコシアスは気にしていない様子でニヒルに笑った。
「命令を無視してでも自分の信念をつき通したかったか?ハハハ。10年早えよ坊主。悔しいだろうが、それが立場ってもんだ。嫌だったらエルザの近侍なんてやめちまえ」
「いえ、ただ、私は……」
ローランがエルザの方を見やる。エルザは、僅かに眉を持ち上げた。
ローランは俯く。
「私は、私の使命はエルザ様をお守りすることです」
エルザがローランに歩み寄り、肩に手を置く。
「……そうだね。でも、お前がドロテアを守ってくれて本当に助かった。私が、心置きなく自分のやるべきことに専念できたのはお前のお陰だよ。お前がいてくれて助かった」
「……勿体ないお言葉です」
マルコシアスが葉巻をふかす。
「ったく、しゃんとしろ。自分のワガママが通らなかったぐらいでへこたれるんじゃねえよ。とっとと割り切って、てめぇのやることをやれ。主人の前で情けねえとこ見せるな」
マルコシアスの発破に、ローランが多少、意気を取り戻す。
「……分かりました。申し訳ございません、エルザ様」
「いいさ。報告をしとくれ」
ローランの表情がいつもの調子に戻る。
「御意。まず温室の職員についてですが、死傷者はゼロ。避難時の混乱で軽微な傷を負った者はいましたが、それを除けば負傷者もおりませんでした。既に全職員の確認が取れており、避難も完了しております」
「重畳だね。続けな」
「はっ。また、温室の各施設、収容者、収容者の状態についても問題なく安全が確認出来ております。……そして、次に警備にあたっていた白薔薇の団の団員ですが、重傷者が2名、軽傷者が17名、そして行方不明者が2名です」
エルザが眉をひそめる。
「行方不明者?」
「はい。確認が取れず、通信も繋がりません。温室の通用口の警備を担当していた者たちなのですが」
マルコシアスが顎髭をしごきながら口を挟む。
「臭えな。報告もなしに持ち場を離れるはずがねぇ。エルザ。これは何かあったぞ」
「みたいだね。捜索は?」
「開始しておりますが、痕跡を残さず消えたようで。今のところ敷地内では発見できていないようです」
エルザが顎に指をあてて考え込む。
「ふむ……。フィガロとかいうやつの来客もあったことだしね。何かされたのは確かだ。ただ、何をされたのか……」
「やられたな。レディ・ブラン。この件に関しちゃ、完全に後手だ」
「言われなくても分かってるよ。クソ」
ローランが続ける。
「捜索を続行しますか?」
「そうしな。……一応鴉にも確認を取るか」
「手配しておきます」
「頼んだよ」
ローランがエルザから離れ、各方面へ向けてあれやこれやと通信を始めた。
マルコシアスが、エルザに向き直る。
「なぁ、ところでそのフィガロってのは何だ。お前さんが交戦したっていう侵入者か」
「そうだ。大体はローランから聞いてるだろうが、見たことのない魔具を使っててね。ドライフラワー病罹患者から咲く花を相手に植え付けることの出来る魔具だよ。ただの人権活動家かとも思ったが」
「温室に殴り込んでくるような相手だ。それはないだろうな」
「そうだね」
マルコシアスが葉巻の灰を落とす。
「捕まえられなかったんだろう?」
「悔しいことにね。足取りも掴めてない」
「お前さんが取り逃すとはな。油断ならねえやつだ」
「危険な相手だよ。あんたも気を付けな」
返事代わりに、マルコシアスが葉巻をふかした。
エルザが続ける。
「はぁ~あ。にしてもやってらんないね。頭が痛いよ」
「ハッハッハ。お疲れさんだなレディ・ブラン。当分休めそうにねえぞ?ハッハッハ」
「ったく。ここのところ問題が起こるその度に後手に回ってばっか。癪に障って仕方がないね。どいつもこいつも気軽に揉め事起こしてくれてまぁ」
「同情するぜ。正義の味方も気軽にゃ出来ねーなぁ」
「全くだね」
ローランが通信を終え、エルザのもとへ戻る。
「手配を完了しました。報告は以上です」
「ご苦労だったね」
「おう。じゃ、俺も迎えが来たようだ。一足先に帰らせてもらうぜ」
見ると、マルコシアスを迎えに来たマルコシアス・ファミリーの一人マウリツィオが、筋骨隆々の肉体を出入り口に半ばつっかえさせながら通り抜けようとしているところだった。
マルコシアスがそれを見て葉巻を消し、一歩踏み出す。と、そこでエルザの方を振り返った
「なぁ、レディ・ブラン」
「なんだい」
「俺は、お前さんの爺さんが白薔薇の団を率いてた頃からこの街に居座ってる。言わば古株だ」
マウリツィオが、マルコシアスの側までやってくる。
マルコシアスが消した葉巻をマウリツィオに差し出すと、マウリツィオはそれを携帯灰皿に収めた。
マルコシアスは続ける。
「でもな。温室が襲われたなんてのは今まで一度も無かった。ただの一度もだ。レディ・ブラン、気を付けろ。俺のカンが何かが変だと言ってる。この街で何かが起きてるとな。俺のカンは外れたことがない」
「……」
エルザが表情を真剣なものへと変える。
マルコシアスは、エルザに訴えかける。
「何かあったらすぐに俺に言え。どんな些細なことでもだ。間違っても一人で突っ走るなよ」
「……余計なお世話だよ。そっちは自分の心配だけしてな」
「エルザ。真面目に言ってるんだ。すぐに言え。分かったな?」
今までになく真剣なマルコシアスの様子を見て、エルザは答える。
「分かったよ。シュヴァリエ家の当主として約束するさ」
「……まぁ、それでいい。お前のことは、お前がおしめしてた頃から知ってるんだからな。俺より先に死なれちゃ困るんだ。約束は守れよ」
「くどいね。大丈夫だから、とっとと帰んな」
「へっ。年寄りの親切は素直に聞いとけ。じゃあな」
マルコシアスはそう言って踵を返すと、今度こそ、マウリツィオと共に屋上を後にする。
その姿を見送るエルザとローラン。
不意に、ローランがエルザに声を掛ける。
「あの、エルザ様。宜しいでしょうか」
「なんだい」
「報告事項ではないのですが、避難誘導中に、温室職員たちが気になる話をしていました」
「言ってみな」
ローランが、エルザに向き直る。
「それが、収容違反が起こったセクターについてなのですが、どうやら、ドライフラワー病罹患者が隔離室のドアを操作して開けたのが収容違反の原因だとか何とか。しかも、そのドライフラワー病罹患者は通気口から突然出現したと。職員が混乱しているだけかと思っていましたが……」
エルザの表情が怪訝なものになる。
「何だって?ドライフラワー病罹患者が?複雑な機器を操作できる知性は喪失しているはずだが……。通気口から現れたと言ったね。その場にいた職員は襲われなかったのかい?」
「そのようです。……一応、現場の職員に確認を取ってみますか?」
「そうだね。頼むよ」
「御意」
ローランが再び通信を始める。
エルザは黒の街の空を見上げると、一人呟く。
「マルコシアスの勘が当たったか……」
こころなしか、空の黒さが濃さを増したようだった。