黒の街 小説版 6話「フィガロ」
サイレンがけたたましく鳴り響き、緊急事態を告げるアナウンスが流れ続ける温室館内。職員たちが慌てて避難を開始し、建物全体が騒然とする中、散歩でもするかのように悠然と歩みを進める2つの人影があった。
大柄な方の人影が、痩身の人影に声を掛ける。
「おかげさまで目的の物は手に入ったよ。それにしても、ハハッ。本気かい?このままトンズラすればいいのに。ボクの用事に付き合ってくれたうえにエルザ君の相手まで買って出てくれるとは。ありがたいけど理解しかねるね」
大柄な人影、スマイルの人を食ったような態度も意に介さず、痩身の人影は丁寧に答える。
「誤解なさっているようですが、私がこの場所を訪れ、エルザ氏と相対するのは私の意志によって、私の都合で為される事です。貴方に感謝される謂れも、理解して頂く必要もありません」
「そうかい?ハハッ。まあいいさ。結果オーライ、ボクは大助かりだ。助かりついでにキミに耳寄りな情報をプレゼントしちゃおうかな。件のエルザ君だけどね。すぐそこのカフェテリアにいるらしいよ。じゃ、ま、そういうことで。頑張ってね。ハハッ!」
踵を返したスマイルは、警報灯で赤く不気味に染まった廊下の奥へと消えていった。
残された痩身の男は、彼の身長ほどもある大鎌の形をした魔具を振り上げる。
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カフェテリアではエルザとローランが抜剣し、周囲を警戒していた。
エルザが口を開く。
「ローラン、携帯用の通信機は持ってきたかい?」
「はい、ここに!」
「マルコシアスに救援を要請しな。すぐにドロテアを連れて他の避難者と合流、その後は屋上までの避難誘導を行うよ。ただし、最重要目標はドロテアだ。い……」
エルザが言い終わらない内に、カフェテリアの壁が轟音とともに破壊される。
ドロテアを背に庇いつつ、すぐさまそちらを振り向いたエルザ達の目に映ったのは、大鎌を携えた痩身の男だった。
司祭服に身を包んだその男の眼の中では、ただならぬ意志を感じさせる炎が燃えている。
「お初にお目にかかります。この温室の管理責任者エルザ・シュヴァリエ氏、そして、主任研究員のドロテア・ヘミングウェイ氏ですね?私はフィガロ。フィガロ・ガルヴァーニと申します」
男を目の当たりにしたドロテアの顔は引きつっていた。
「エルザぁ、ヤバいよこれ」
「ローラン。今すぐ行きな。救援要請は走りながらやるんだ」
「エルザ様は?!」
「私は残る」
「そんな!残るというのなら私が!」
「いいから行きな!命令だよ!」
唇を噛み、ほんの一瞬逡巡したものの、ローランはエルザの命令に従うべく、ドロテアを抱き上げる。
「エルザ様!ご無事で……!!」
「きゃっ!ちょっと!……怪我しないでよエルザぁ!!」
ドロテアを抱き上げたまま、ローランはカフェテリアの出口へと走る。
フィガロがそれを止める様子は無かった。エルザがフィガロの方へ向き直る。
「いいのかい?行かせて」
「構いません。早いか遅いかの違いでしかありませんから。それに、私はまず貴女に話があります」
「そうかい。聞かせな」
フィガロが居住まいを正した。
「エルザ・シュヴァリエ。貴女は病に苦しむ同胞たちを囚え、弾圧し、人間ではなく怪物として、研究対象として扱っている。即刻同胞たち全員を解放し、罪を贖うのです」
「罪を贖うのはそっちだろ。人の敷地に無断で侵入したうえ、建物を破壊してくれて。人権団体かなんかかい?随分過激じゃないのさ」
「私は人権団体の人間ではありません。ただ、同じ神の子である同胞たちを、兄妹たちを救いたいだけです。貴女も含めて」
「あぁ。宗教家か。ありがたいけど間に合ってるよ。私は無神論者だしね」
「……神を信じていないにも関わらずロザリオを身に着けているのですか?」
フィガロの目がエルザの胸元のロザリオに留まる。エルザは指先でロザリオに触れた。
「これかい。これは大切な人がくれた物でね。その人は神を信じてたんだ。まぁ私も昔は信じてたけどね。裏切られたよ」
「……悲しいことです。貴女が受けた苦痛が少しでも和らぐよう、祈りましょう。ですが、貴女が苦しんだからと言って、他者を苦しめていい理由にはなりません。兄妹たちを解放しなさい」
「解放、か」
エルザが手の中でサーベルを握り直した。
「ドライフラワー病罹患者を解放すれば、手当たり次第に人を襲うだろう。……新たな苦しみを増やすのが目的かい?」
「貴女方、力あるものが力なき者たちを苦しめている現状を変えることが目的です。病に苦しむ同胞たちが他の兄妹たちを苦しめてしまうであろうことは、神の子である私たちが力を合わせて乗り越えるべき試練。神が我々に与えたもう試練に他なりません」
「神を言い訳にすれば何でもまかり通ると思ってんじゃないよ。お前がしてることはただの犯罪行為。人によって裁かれるべき人の罪だ。それとも、カフェテリアの壁ぶっ壊した責任も神様が取ってくれんのかい?なら修繕費も神様に出して欲しいね」
フィガロが大鎌を僅かにもたげる。
「あれは私の意志表示。私はこの巨大な檻を壊し、力に訴えてでも兄妹たちを解放します。気に障ったのなら謝りましょう。壁を直せと仰るならば直します。修繕費を支払えと言うならば支払います。ですが、全ては兄妹たちが解放された後です」
「話になんないね。署名運動じゃダメだったのかい?」
「……今まで、貴方がたは貧しき者の声に耳を傾けようとはしなかった。弱き者からは目を逸らした。病に喘ぐ者に対して暴力を振るい、押し込めた。もはや時は満ちたのです」
フィガロがエルザに対して鎌を振り上げた。
だが、その瞬間エルザが一気に距離を詰め、フィガロを蹴りつける。
「ぐっ……!」
鎌の柄で蹴りを受け止めたフィガロだったが、勢いを殺しきれずに後退する。
距離を保ったままエルザがサーベルの切っ先を突き付けた。
「収容違反もお前の仕業かい?まあいい。取り調べでじっくり聞かせてもらうよ」
フィガロが再び鎌を振り上げ、エルザに向かって突進する。
エルザもサーベルで突きを放ち、それを迎え撃った。しかし、フィガロは突きを弾くと、鎌を短く持ち直して至近距離で切りつける。エルザがサーベルでそれを防ぎ、鍔迫り合いに持ち込んだ。
金属が擦れ火花が散る中、フィガロが問いかける。
「何故、貴女は力を持ちながらそれを貧しき者のために使わない……!苦しむ者を更に苦しめる……?!正義を掲げながら!悪を働く!!」
「正義と独善の区別がついてないんじゃないかい?誰かにとっての正義は誰かにとっての悪だ!誰かにとっての悪は誰かにとっての正義だ!立場が変われば正義も変わる!」
「では貴女の正義は誰にとっての正義なのです!!」
「大多数にとっての正義さ!少数派の人間を切り捨ててでも私は私の行うべき正義を行うよ!!」
2人はお互いに武器を弾きあい、距離を取った。
「……何ですかその答えは。一方を守るために一方を見捨てるなどと、そんなことがあって良いはずがない」
エルザがサーベルを払う。
「綺麗事だね。悔しいけど、この世の人間を一人残らず助けられる正義なんて綺麗事でしかない。そういうのが許されるのは平和な世の中だけだよ」
フィガロが食ってかかる。
「平和でないから病人を見捨てると?!暴力を働き、迫害すると?!」
「向こうが襲ってくるんだから仕方ないだろうが」
「己の身を守るためならば仕方のないことでしょう!ですが、閉じ込め研究の対象にすることは!!……それも仕方がないことと言うつもりですか!!」
エルザは冷ややかな態度を崩さなかった。
「その通りだよ。研究せずにどう治療しろってんだい。多数を救うためのやむを得ない犠牲だ。許してもらう必要なんてないね」
フィガロが静かに怒りの行相を浮かべる。
「……主はそれでも貴女をお許しになるでしょう。しかし私は許せない。主の御心に背いてでも私は貴女を止める」
「自分で犯した罪をどこぞの神に許してもらおうだなんてお笑い種だよ。やることやった後にきちんと自分で償うさ」
お互いに武器を構える。そして激突。
目にも止まらぬ剣戟が、相手を確実に殺すために飛び交う。
フィガロはエルザの顔を執拗に狙って間合いに寄せ付けず、エルザはフィガロの首元を狙って連続で突きを繰り出す。
何合か打ち合いが続くと、焦れたフィガロが大鎌に魔力を込める。
「同じ苦しみを味わうがいい……!『暴食の枝』よ!!」
「っ……!!」
大鎌が妖しく、紅い輝きを放つ。
フィガロはそれをエルザ目掛けて渾身の力で振り下ろした。
エルザは剣で受けようとしたが、エルザの中で何かが警鐘を鳴らし、とっさに身を躱す。
エルザが飛び退いた直後、鎌は破砕音とともにカフェテリアの床をえぐり、砕く。
そして鎌が振り下ろされた場所には、瓦礫ではなくドライフラワー患者の身体から咲く物と同じ花が咲いていた。
エルザの顔から僅かに血の気が引く。
「……なんだと?」
「よくご存知でしょう。これが何か。そしてこれが何をもたらすか。……貴女にも、貴女の悪事に加担した研究者たちにも。やがては、弱く貧しき者たちを迫害し弾圧した全ての者たちにも。この花を植え付け、同じ苦しみを味わわせます。さぁ。受け入れなさい。悔い改める時間が必要ならば与えましょう」
ゆらりと、フィガロが振り下ろした鎌を床から持ち上げる。
エルザもサーベルを構え、フィガロを睨め付ける。
「洒落にならない魔具だね。おまけに未登録だろ。市民の所持、使用は禁止だよ」
フィガロは真っ直ぐにエルザを見据える。
「この暴食の枝は、私を助けるため、主が私にお与えになった物。貴女に使用を禁ぜられることはありません」
「なら神様とやらに直談判するから今すぐ私の目の前に連れてきな」
「そう乱暴な事をせずとも、主はすべてをお聞き届けになります」
「……はっ。聞くだけで何もしないんだろうけどね」
エルザがサーベルを胸の前で立てた。
魔具の力を発動するつもりだと予感したフィガロは、機先を制さんと踊りかかる。
「何もさせません!」
「遅いよ。『咲き誇る戦乙女』」
エルザが手に持つサーベル、ジャンヌ・ダルクに魔力を込める。するとエルザを包むように、花開く薔薇を模した障壁が展開された。
フィガロは構わず斬りつけるが、甲高い音を立てて暴食の枝が弾かれる。障壁には傷一つつかなかった。
「暴食の枝の能力が、発動しない?!」
手の中の大鎌を焦った様子で見つめるフィガロを、エルザは障壁の内側から眺めている。
「その暴食の枝とやら、斬りつけた場所や物を変質させる魔具か何かかい?それとも置き換え?単に花を生成するだけ?何にせよ、私には効かないよ。大人しくそいつを床に捨てて投降しな」
フィガロが目を細める。
「それは出来ません。それに、その障壁が魔具の能力である以上、魔力切れを待てば良いだけです」
「私が魔力切れまで大人しくしてると思うかい?」
「どうなさると言うのですか?」
エルザが、ジャンヌ・ダルクの切っ先をフィガロに向けると、これが答えだと言わんばかりに障壁を展開したままフィガロに突っ込む。
フィガロはそれを避けられずに障壁に押され、とてつもない勢いでガラスパネルに押し付けられる。
強化ガラスの表面に白くヒビが入った。
「ッぐ……!!」
「もう一度言うよ。投降しな」
ガラスパネルと障壁に挟み込まれたフィガロは、暴食の枝を振るおうとするも身動きが取れず、エルザを睨み付けるばかりだった。
睨みつけられたエルザは動じず、口を開く。
「避難が完了して、応援が来るまでこうしていても良いんだけど、生憎忙しい身の上でね。とっとと終わらせたいんだよ」
フィガロが苦しげに呻く。
「貴女が皆を解放し、己の所業を悔い改めるまでは終わりません……!」
「……私は、ドライフラワー病罹患者の研究を進め、彼らを治療することが彼らを助けることに繋がると信じてる。何と言われようが自分の信念を曲げたりはしない」
「貴女は……!ドライフラワー病に苦しむ者たちが、理性や意思を持たず、ただ暴れまわるだけの怪物だと考えているのかもしれませんが、それは違う……!」
フィガロの眼に力が篭もる。
「彼らにも心はある……!彼女らにも思考があり、悲痛があり、救いを求める声だって持っている……!貴女はそれに耳を塞いでいるのです……!!」
「違う。耳を傾けて私なりに考えた結果、今に行き着いただけだ」
エルザとフィガロが互いに相容れない意志の宿る瞳を向け合う。
フィガロが言い放つ。
「相手が、カトレア・ル・シャトリエでも同じことをしましたか?」
「ッ……!?」
エルザの眼が驚きで見開かれ、動揺でジャンヌ・ダルクを持つ手が僅かに弱まる。
フィガロは一瞬の隙を突き、身体に力を込め、障壁を全力で押しやると、背後のガラスパネルに向かって暴食の枝を振るった。
ガラスパネルが崩れ落ち、中の草花が飛び散る。
「貴女にそのロザリオを送った女性、カトレア・ル・シャトリエのように、ドライフラワー病に苦しむ兄妹たちもまた、誰かの大切な人であり、大切な人がいるのです」
「……どこで、誰から、何を聞いたんだい」
フィガロが顕わになったガラスパネルの中へ飛び乗った。
フィガロの足下で花が潰れる。
「主は全てをご存知です。エルザ・シュヴァリエ。貴女に機会を与えましょう。今日、私は貴女に自らの訴えを伝え、貴女の過ちを告げました。過ちを正すのです。全てのドライフラワー病に苦しむ者たちを解放しなさい。時が経ってもそれが成されない場合は……」
「待ちな!!」
フィガロが自分の周囲の草花を、暴食の枝を振るって金属に変えた。
エルザはフィガロを止めようとするも障壁が邪魔になり、動きが妨げられる。すぐに障壁を解除するが、フィガロは通路に通じる壁を破壊し、脱出口を開け終えた後だった。
「貴女が自らを救うよう努めることを、願っています」
フィガロは、赤く明滅する廊下の奥へと消えていった。